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【 10月12日 06:59:42 】
朝七時のほんの少し前。そのときだけ、世界はまだ壊れていないように見える。
澪はベッドで目を覚ました。薄い朝日がカーテン越しに差し込んでいる。まだ光に慣れていない目には、それすら眩しくて、思わず顔を背けた。
七時ちょうど。天井のスピーカーが鳴った。
『生徒の皆さん、おはようございます。本日は、十月十二日、火曜日です。天候は晴れ。西風、風速十一メートル――』
平板な女性の声が、今日も変わらず起床を告げている。
「小夜、朝だよ。起きて」
向かいのベッドで、白い塊がもぞもぞと動く。
「……わかってる」
柔らかい声だった。毛布の中から細い腕が二本飛び出る。それから、小夜は、ん~、と高い声で伸びをした。
「さすが声楽専攻だね。寝起きでもいい声」
そう言われて、小夜は大きく息を吐いて顔を上げた。
「澪って朝からそんなところまで聴いてるの?」
「まぁね」
「さすがだなぁ……」
寝ぐせで跳ねた黒髪をいじる小夜を尻目に、澪がカーテンを開けると朝日が白く寮室を照らした。
天井から、声が降ってくる。
『澪さん、タスク管理のリマインドです。作曲専攻二年次、二学期の中間課題。歌曲一曲、提出まであと三日です。現在の進捗はどうですか?』
「後で報告します……」
「まだできてないんだ」
「うるさいなぁ……。ちょっと構成に悩んでるだけ」
澪はカーテンの端を握りしめた。
『小夜さん。起床時刻を過ぎています』
「ほら。言われてるよ」
小夜は、布団を押しのけて上半身を起こした。
「この声、朝から聞くといらいらするね」
「前は先生が起こしに来てたもんね」
「そっちの方がまだよかった」
「人間の先生、もういないけどね」
言葉が冷たく床へ落ちた気がした。
*
あの日のことを、澪は鮮明に覚えている。
夜中に聞いたことのない警報が鳴った。先生たちは慌ただしく廊下を走り、生徒を寮へ戻した。窓の外が一瞬、真昼みたいに明るくなった。少し遅れて、遠くの方で、地面の底を叩くような鈍い音がした。
澪の端末には、そのとき母から届いたメッセージが残っている。
《そっちは大丈夫?》
その下には、送信できなかった返信。
《大丈夫。たぶん》
夜が明けると、先生はいなくなっていた。職員室には鞄が残っていたし、駐車場には車もあった。
ただ、大人だけがいなくなった。
正門は固く閉ざされ、外部との通信回線は沈黙していた。
高校は、海へ突き出した岩山の上に建っていて、西と南はほとんど垂直の絶壁。東にある崖沿いの一本の道だけが内陸へとつながっているが、アスファルトは大きく崩れ、街へ向かうのは無理そうだった。
それでも、朝の食堂にはパンとスープが並んだ。大人がいなくなり、校外との通信が途絶えても、校内ネットワークとサーバー、AIによる学校運営システムは動き続けていた。
八時半になると教室のモニターに仮想教師が映し出され、何事もなかったように告げた。
『それでは授業を始めます』
初日は誰も席につかなかった。泣く生徒、怒鳴る生徒、正門を叩く生徒がいた。それでも仮想教師は一人ずつ名前を呼んだ。
二日目から、生徒会長で打楽器専攻の恵麻が寮を回った。
「朝と夜は、食堂に集まってください。誰がいるか、確認したいから」
恵麻は食事に来ない生徒を見に行き、三日目からは授業にも出るよう声をかけた。
一週間後には何人かが、一か月後には大半が授業に出た。二か月後には、遅刻する生徒まで現れた。
そのまま三か月が過ぎた。
*
ふたりが揃って向かった朝の食堂は、寮生十八人の色鮮やかな話し声で満ちていた。
少し離れた席で、クラリネット専攻の菜摘が何か冗談を言って、周りを笑わせていた。
「おはよ、菜摘」
「おは、澪、小夜。今日も、ふたり仲いいねぇ~」
菜摘の声は、明るくて、よく通った。
澪と小夜は、東側にある窓際のいつもの席に座る。高い波が岩壁に砕ける音が近くに聞こえるお気に入りの席だった。
食堂では、自動調理設備が備蓄の保存食や冷凍食材を少しずつ使い、食事を提供していた。
朝食はパン、豆のスープ、スクランブルエッグ。質素なものだった。以前なら牛乳や、旬の果物が毎日出たが、最近は出ない日が続いている。
スクランブルエッグをフォークで突きながら、小夜が言った。
「駅前のクレープ屋、まだあるかな」
「さあ……」
「私、チョコバナナ食べたい」
「三か月も放置されてたら、腐ってるよ」
「そうじゃなくて、また行きたいってこと」
澪は窓の向こう、海へ目をやった。
「きっといつか行けるよ」
自分でも、それが慰めなのか、本当に信じているのか分からなかった。
小夜はしばらく澪を見てから、「うん」とだけ答えた。
二時限目。
校内にいくつもある小さな音楽室のひとつで、澪と小夜はふたりだけのアンサンブル授業を受けていた。
澪がピアノの前に座り、小夜はその傍らに立っている。
壁のモニターに映る仮想教師が開始を告げた。
『それでは演奏を始めてください』
小夜が息を吸う。ほんの一瞬、肩が上がる。
その呼吸を待って、澪が最初の和音を置くと、歌が始まった。
小夜の歌声は、ガラスのようには澄んでいない。高い音の縁にはときどき息が混じり、長く伸ばした音にはおおらかなビブラートがかかる。澪は、その声音が好きだった。そこに小夜の身体がある気がしたから。
終止の和音を置いて、曲が終わる。
『全体として良好です。ただし、一部の伴奏処理が〇・二秒遅れています』
「さすがに細かすぎない?」
澪が鍵盤から顔を上げる。
『アンサンブルにおいて〇・二秒は無視できない差です』
唇を尖らせて横を向く澪を見て、小夜は笑った。
『本日の授業は以上です。なお、澪さん。作曲実習の課題について、進捗の報告がありません。歌曲は完成しましたか』
「まだです……」
澪はため息をついた。
小夜が横から顔を覗き込む。
「ねえ、一年生のときに澪が作った曲、参考にしてみたら?」
「いや、同じような曲を作ってもしょうがないよ」
「私、好きだったけど」
「あれ、今聴くと恥ずかしいんだよ」
「そう? 私はまた歌いたいけどな」
澪は返事をせず、譜面台の楽譜を閉じた。
「じゃあ、今度の曲が完成したら、最初に歌わせてね」
「……うん」
放課後。
作曲室の机には、六小節しか書かれていない五線紙があった。
澪は、一時間考えたが、七小節目は浮かばなかった。色々考えて、書いては消した。
何も進まないまま二時間が経つ頃には、すっかり日が落ちていた。
結局、時間をかけて五線紙を汚しただけだった。いじくり回された紙は毛羽立ち、あちこちに黒い鉛の跡が残っている。
提出期限は、三日後だ。
澪は鉛筆を放って、鞄から銀色の小型タブレット端末を取り出した。
校外との通信が途絶える前、作曲の参考になるかもしれないと思って、AI作曲アプリをインストールしてあった。端末だけで曲を生成できるが、これまで一度も使ったことはない。
電源を入れて、アプリのアイコンをタップする。
《AIによる楽曲生成を開始しますか》
【はい】に触れかけて一瞬、躊躇した。
これを使ったら、自分で作ったとは言えなくなる……。
いや、ちょっとアイデアを貰うだけ。ダメだったら閉じればいい。
【はい】をタップする。
即座に、プロンプト入力画面が現れた。
両手の指を、急いで動かす。
『十七歳女子、メゾソプラノ向けの歌曲。少し息の混じった声。歌詞の題材は海。イ長調。四分の四拍子。テンポ八十。長さは五分程|』▼ 【確定】
顔を上げて、周りを見渡す。誰もいなかった。
端末を両手で抱えて胸元に寄せて待っていると、しばらくしてピコンッと短い音が鳴った。
さっと見下ろすと、【生成時間、九秒】の表示。たったそれだけだった。
作られたばかりの譜面へ目を走らせる。
一見すると単純だった。けれど、次はこの和音だろうと思ったところで、ほんの少しだけ足場を外される。最初は奇妙に思えるメロディーも、小節を追っていけば、これ以外にないと言えるほど完璧なものになった。
歌詞も同じだった。気取った言葉はひとつもないのに、言葉の組み合わせのせいか、虹色みたいな海が浮かんでくる。
澪は音量を小さくしてから【再生】に触れた。
AIによる演奏が始まった。
息継ぎも、母音のつながりも自然だった。画面を見ずに聴けば、人間が歌っていると思ったかもしれない。
それを聴きながら、頭の中で小夜が歌っているところを想像する。
ここで少し息を混ぜる。ここで顎を引く。この高音の前で、小さく息を吸う。
この曲は小夜の声に合っている気がしてきた。
でも作曲したのは自分ではない。
――ちょっとだけ手を入れれば……自分の曲になるんじゃないか?
澪は悩む。
そのとき、前方の扉が開いた。反射的に端末を伏せる。
小夜だった。
「いた。澪。夕食だよ」
「あ……うん。片付けてから行くから」
急いで端末を鞄に押し込んだと同時に、小夜がこちらへ寄ってきた。
「もしかして曲できた?」
「まだ」
「じゃあ明日にはできるかな?」
小夜はそれだけ言って、軽い足取りで扉へ向かって行った。
鞄を持ち上げ、開いた口から手を入れる。中で、こっそり端末の画面を点けると、表示が出ていた。
《生成楽曲を保存しますか》
澪は、出ていく小夜の背中を目で追ったあと、【保存】を押した。
《歌曲 01》
それが最初の嘘だった。
翌日、自動販売機が一台、暗くなっていた。ディスプレイには《省電力運用に伴い、本設備を停止しています》と表示されている。
「死んでる」
澪がつぶやいた。
「機械に死んでるって言わないでよ」
隣にいた小夜が、肘で澪の腕を小突く。
「痛っ。ごめんって」
「じゃあ物騒なこと言った罰として、紅茶買ってくれる?」
小夜が隣の一台を指差す。
「なんか理不尽じゃない?」
「いーの」
「はいはい……」
いつもの癖で、端末をかざしかけた。通信が切れてから、電子決済は使えないのに。
小銭を入れてボタンを押す。いつもの電子音は鳴らず、商品が転がる音だけが響いた。
ペットボトルを渡すと、小夜が一口飲んで眉をしかめた。
「ぬるいんだけど……」
「節電してるからじゃない?」
「紅茶は熱いのが好きなのっ」
「いちいち文句言わないの」
最近は、昨日まで動いていたものが少しずつ動かなくなっていた。
昼食の時間。
「作った曲、今日は聴ける?」
向かいに座る澪は、肩まで伸びた黒髪を耳にかけながら、スープに目を落としていた。
「……放課後にね」
「やったぁ。すごく楽しみ。澪の曲、久しぶりだし。去年の曲、好きだったから」
「どこが?」
「最後。終わりそうになったところで、もう一度メロディーが戻ってくるところ」
「そんなの覚えてるの」
「澪っぽいから」
「何それ」
「言いたいことあるのに、一回引っ込めて、やっぱり言う感じ」
「そんなつもりで書いてないんだけど」
「じゃあ私の勘違い」
勘違いでも、別にかまわなかった。
澪は普段、あまり自分のことを話さない。でも、澪の曲を歌っていると、何を考えているのかときどき分かるような気がする。だから小夜は、澪の曲を歌うのが好きだった。
昼食を終えて食堂を出ると、廊下の向こうから菜摘が楽器ケースを抱えて歩いてきた。
「澪、今度の実技、伴奏お願いしていい?」
「クラリネットの?」
「そう。今度は速い曲を吹きたいんだよね。曲は、まだ決めてないけど」
「決めてから頼んでよ」
「先に予約しとくの。澪、すぐ小夜に取られるから」
「澪を物みたいに言わないの」
小夜が横から口を挟む。
「じゃあ小夜も一緒にやる? 三人で」
「クラリネットと声楽って、そういう編成の曲あるの?」
「そこは澪が考える。作曲専攻でしょ」
当然みたいに言って、菜摘はケースを抱え直した。
「ま、曲決めたら譜面持ってくね」
「忘れなかったら」
「澪が?」
「菜摘が」
「ひどっ」
菜摘は笑いながら手を振り、第一音楽室の方へ歩いていった。
放課後。
第二音楽室で、小夜は新しい曲を見せてもらうのを待っていたが、澪は端末を膝に置いたまま、なかなか顔を上げなかった。
「まだ?」
「ちょっと待って……もう一回、譜面を確認してる」
曲を見せる前の澪は、いつも少し機嫌が悪くなる。だから今回も同じだと思った。
「……じゃあ、これ」
ようやく澪が、端末を差し出した。
「なんか、いい曲そう」
「まだ鳴らしてないのに?」
「譜面がなんかキレイなんだもん」
「じゃあ、ちょっと弾いてみようか」
澪の細い指が鍵盤に触れ、前奏が始まった。そのあと、ピアノで歌の旋律をなぞり始める。
最初の数小節で、小夜はいいな、と思った。
上がりそうで上がらない旋律。息を吸いたくなる少し前に、伴奏が薄くなる感じ。自分が歌うところを、すぐに想像できた。
「……めっちゃいい」
小夜の言葉が漏れると、鍵盤を弾いていた指が止まった。
「ほんと?」
「うん。これ、すごく好き」
澪は嬉しそうにも、困っているようにも見えた。
「歌ってもいい?」
「いいよ」
小夜は譜面台の前に立った。
「それじゃあ、最初からお願い」
澪が前奏を弾く。小夜が息を吸って歌い出す。
数小節歌ったところで気づいた。
――歌いやすい。
息を吸う場所にも、高音へ移るところにも無理がない。声を出すたびに、旋律が自然につながっていく。
途中、一か所だけ音を外した。
「あ、ごめん」
「いいから続けて」
伴奏は止まらなかった。小夜もそのまま続けた。外した一音は、すぐに流れていく旋律の後ろへ消えていった。
歌の最終音に、ピアノの和音が重なる。
小夜の声が先に消え、少し遅れてピアノの余韻も消えた。
――澪って、こんな曲も書くんだ。
今までの曲とは少し違う。それなのに、不思議なくらい自分の声に馴染んだ。
「私、この曲、今までで一番好きかも」
「大げさじゃない?」
「ほんとだよ。すごく歌いやすくて、気持ちよかった」
澪が変な顔をした。
「適当言ってない?」
「言ってないよ。好きな曲は好き。聴いて好きかどうかじゃない?」
澪は答えなかった。
小夜は、澪が照れているのだと思った。
夕食のあと、澪は端末に表示された楽譜を五線紙に書き写した。書き終えると、楽譜を写真に撮り、校内サーバーへ送信した。
《課題の提出を受け付けました》
その表示を見て、澪はすぐに端末の画面を消した。
一週間後の中間評価で、仮想教師は澪の提出した曲に高い数値をつけた。
歌曲
《構成 96》
《旋律 99》
《和声 94》
《歌唱適性 98》
《独創性 87》
『澪さんの前回課題作品と比較し、総合評価は約二十一パーセント向上しています』
教室から驚きの声と拍手が上がる。
「澪、やったじゃん」
小夜が声をかける。自分のことではないけど、誇らしくて胸が躍った。
澪は仮想教師をじっと見つめたままだった。
『澪さん、今のお気持ちはいかがですか?』
「先生……この曲……」
澪は唾を呑み込んだ。
「……すいません。なんでもないです」
授業終了のチャイムが鳴った。
「私、次の実技の曲、澪の曲にしようかな」
「やめてよ、あれ適当に作ったんだから」
「じゃあ私のために新しいの書いて」
「え?」
「だって澪の曲、もっと歌いたい」
澪は口を一文字に結んだまま答えなかった。
その夜、小夜は毛布の中で、澪の曲を何度も口ずさんでいた。
しばらくして小夜が眠ったあと、澪は毛布の中でAI作曲アプリを開いた。
『前回の曲と同じ歌手を想定。名前は小夜。
高音の前では呼吸に余裕が必要。終わりかけたところで旋律が戻ってくるようにする。より親密な印象。聴いた人が、作曲者自身の感情だと感じる曲|』▼
そこまで打って止まる。
作曲者はAIで、依頼しているのは澪。
それでも小夜は、澪の曲だと思って歌うだろう。
最後に一文を加えた。
『小夜が好きになる曲|』▼ 【確定】
約十二秒後、ピコンッと短い音が鳴った。
《生成しました》
澪は、ファイルを開かなかった。
図書室の東半分が消灯された日。
ヴァイオリン専攻の梨絵が永年書庫で古い管理記録を見つけた。資料閲覧室に集まった澪たちに、端末を見せる。
《外部通信回線 一部切断》
《迂回経路へ切替》
《再接続不可》
空調や電源設備も、自動修復と部品交換を繰り返していた。
「この学校、ずっと壊れながら動いてたみたい」
最近は《交換部品 在庫なし》という記録が増えている。
生徒会長の恵麻がため息をついた。
「梨絵、AIに外のこと聞いた?」
「うん。でも、『周辺状況は確認できません』だって。まぁ、外部通信は切れてるからね」
端末を見ていた小夜が不安そうに眉を下げた。
梨絵は、端末の画面を消すと、
「私、街まで行く」と言った。
恵麻が顔を上げる。
「無理だよ。道路、崩れてるし」
「でも本当に通れないか確認してないでしょ」
「危険だって。まわりは崖ばっかりなんだから」
「じゃあ、ここは安全なの?」
誰も答えられなかった。
「三か月も待った……。誰も来ない。通信もつながらない。お父さんとお母さんだって、無事なのかどうかわからない。私、もう待ってるだけなんて、嫌だ」
恵麻は唇を噛んだ。
「もし、行った先で怪我しても、助けられないよ」
「ここにいたら、誰か助けてくれるの?」
「それは……」
梨絵は少しだけ声を柔らかくした。
「怖いのは私も同じ。それでも行くの」
澪は、梨絵の指が微かに震えていることに気づいた。
梨絵を含む三人が二週間後に学校を出ることになった。
その日の夕食は、いつもより話し声が多かった。
「街の中心まで二十キロくらいだっけ。それくらいなら道があれば歩けると思う」
「食料と飲み物は?」
「持ってくよ。必要な分だけ」
食堂が少し静かになった。
澪は、隣に座る小夜に聞いた。
「行きたい?」
「わかんない。澪は?」
「怖い」
「外が?」
「……外だけじゃない」
そこで言葉を切った。
小夜は、「他には?」とは聞かず、しばらく黙っていた。
それから、少し澪の方へ身を寄せた。
「私は残るね」
澪の指が、膝の上で少し動いた。
「無理して合わせなくていいよ」
「合わせてない。澪がいるから残るのは、合わせてることになる?」
何も言えなかった。
その夜、澪は二曲目を初めて再生した。前作より静かな曲だった。
大きくは盛り上がらない。上がりそうな旋律が途中で止まり、そこから別の方向へ歩き出す。終わりかけたところで、最初の旋律が戻ってきた。
歌い方や曲の好みを少しAIに教えただけで、こんな曲ができてるなんて……。
曲を聴き終えて、澪は生成物のプロパティを開いた。
《指定条件一致度:97.2%》
小夜がこの曲を好きになる確率ではないのに、なんだか胸の奥がむかついた。
「何してるの?」
シャワーから戻った小夜が言う。
澪は端末を伏せた。
「……曲の構想、考えてた」
「新しいの?」
「……うん」
「できたら聴かせてね」
澪は返事をしなかった。
小夜が寝静まったあと、澪は端末に表示された二曲目の譜面を五線紙に書き写した。
出発の日の朝。
梨絵たち三人は水や保存食、防災用品を詰めたバッグを背負い、正門の前に立った。
『注意。校外への移動は推奨されません』
梨絵がスピーカーを見上げた。
「じゃあ聞くけど、ここにいれば死なない?」
数秒、返事がなかった。
『回答できません』
「だよね」
梨絵は警備室で見つけた管理用カードを、門脇の読み取り機にかざす。電子音が鳴り、錠が外れた。
重い門を押す。隙間から、乾いた土の匂いが入ってきた。
「それじゃ……行ってくる。絶対、戻ってくるからね」
歩き出した三人の背を、皆で見送る。
三人が道の先の曲がり角に差しかかったとき、今まで黙っていた恵麻が口元に両手を当て、
「危なそうだったら、無理せず戻ってきてね!」
と叫んだ。
梨絵は片手を振って応えた。やがて、その姿は見えなくなった。
午後の授業で、仮想教師は梨絵たち三人を『欠席』と記録し、昨日と同じ声で言った。
『それでは本日の授業を開始します』
澪は、もう授業を真面目に聞く気がしなかった。
机にかけた鞄に手をやる。
中の端末には、《指定条件一致度:97.2%》の曲がある。
小夜に渡したくない。
それでも、歌ってほしかった。
三日経っても、三人は戻らなかった。
それが予定通りなのか、何かあったのか分からない。
夕食時の食堂で、澪と小夜はいつもの席に座っていた。
空いた席を見て、小夜がつぶやく。
「梨絵たち、今ごろ街に着いてるかな」
「どうだろうね」
少し離れた席では、何人かが話し込み、ときおり笑い声が上がっていた。小夜はしばらく、そちらを眺めていた。
「街にも、人がいるといいな……」
澪は小夜の方へ目を向けた。
「小夜は、一緒に行けばよかったって思った?」
「澪は?」
「こっちが先に聞いてるの」
小夜は、目を伏せてパンをちぎった。
「……ちょっとだけ、思った」
澪の胸の奥が、わずかに縮んだ。
「だったら、今からでも行けるよ」
小夜が顔を上げる。
「澪は?」
「私は残る」
「じゃあ、私も残る」
「合わせなくていいよ」
小夜は、ちぎったパンを皿に置いた。
「私ね、あの日、警報が鳴ったときに……お母さんからメッセージ来てたんだ」
「なんて?」
「『何があっても学校から出ないで』って」
「うん」
「最初は、それだけでここに残ってた。だって、お母さんが迎えに来たとき、私がいなかったら困るでしょ」
小夜はひとつ息を吸った。
「澪も……親が来るのを、待ってる?」
母からの《そっちは大丈夫?》というメッセージを思い出した。
「うん」
「そっか……」
「でも」
小夜が何かを期待するように目を見開いた。
「でも、何?」
――それだけじゃない。
澪は口をつぐんだ。
「……ピアノあるし」
「は?」
「作曲室も」
「澪、そういうとこ」
小夜が呆れたように笑った。
翌日の午後、作曲室で澪は二曲目を小夜に渡した。
小夜は楽譜に目を通すと、「前の曲と、かなり違うね」と言った。
「そう?」
「うん。でも、こっちの方がもっと近い」
「何に?」
「私に」
――《97.2%》
無機質な数字を、澪は思い出してしまった。
「それはさすがに自意識過剰じゃない?」
「え、ひどい」
小夜が上目で澪を見る。
「歌ってみたらわかると思う。伴奏弾いてね」
ふたりで演奏する。
小夜の声のざらつきも、息を置く場所も、長く伸ばしたがる音も、曲に自然に馴染んでいた。
途中、小夜の息がいつもより少し遅れた。
澪は反射的に待った。
小夜が歌い出す。澪のピアノがついていく。
曲が終わったあと、小夜は譜面ではなく澪を見ていた。
「やっぱり澪だ」
「何が?」
「さっき、待ってくれたでしょ。私が息吸ったところ」
「誰だって、合わせるよ」
「合わせないよ。一年生のとき、先生に何回怒られたと思ってるの」
澪は思い出した。
*
一年生の六月。
授業でたまたま小夜と組まされた。
その頃の小夜は、息が続かず、演奏を何度も止めていた。
休憩になったとき、小夜は「ごめん」と謝ってきた。
「伴奏、弾きにくいでしょ。私、息が続かなくて」
「じゃあ、待つよ」
「え?」
「小夜が息吸うまで」
「先生には楽譜通りのテンポでって言われた」
「でも、それじゃ歌えないんでしょ」
次に弾いたとき、澪は小夜の呼吸に合わせた。
教師には注意された。
それでも待った。
何回目かで、小夜は最後まで歌い切った。
「澪って変だね」
「どこが?」
「先生より私の息を信じるんだ」
「だって、歌うの小夜だから」
小夜はしばらく黙ってから、
「また伴奏してほしい」
と言った。
それから、ふたりで演奏することが増えた。
初めて自作曲を歌わせたとき、小夜は一音だけ間違えた。
譜面より、半音低かった。
澪は、違う、と言いかけた。
でも、その一音が妙にきれいだったから、あとで楽譜の方を書き直した。
教師には「この音は、最初から意図したものですか?」と聞かれ、「はい」と答えた。
あれも嘘だった。
でも、今の嘘とは違う。
小夜が間違えなければ、生まれなかった音だった。
たった一音で、自分の知らなかった場所へ行くことがある。
小夜と演奏するのが好きになったのは、たぶん、その頃からだった。
*
「私、あのときから澪の伴奏好き」
「なんで?」
「だって、息できるから」
小夜は、しばらく譜面台の楽譜を見ていた。
「……ねえ、一年生のときの曲も歌っていい?」
「今?」
「うん。久しぶりに」
澪は迷ってから楽譜を外した。
曲ははっきり覚えている。
小夜がピアノの脇に手を添えて立った。
ふたりで演奏する。
今なら使わない和音。長すぎる間奏。
「やっぱり好き」
歌い終わって、小夜が言った。
「どこが?」
「私が間違えたところ」
「あの音は、もう間違いじゃないよ」
梨絵たちは、戻らなかった。
翌日も。その次の日も。
それから一週間が過ぎても、何の知らせもなかった。
菜摘の様子が変わったのは、その頃だった。
いつもよく笑っていたのに、授業に出なくなった。食堂には来るが、食事はほとんど残す。
ある夕方、寮室へ戻る途中、澪と小夜は南側の廊下で菜摘に会った。
「菜摘、何してるの?」
小夜が聞いても返事はしない。ただ、ぼーっと遠くを眺めている。
「大丈夫?」
小夜が少し声を強めると、菜摘は、はっとして振り返った。
「ああ。海。見てるだけ……」
そう答えると、菜摘は窓の方へ向き直った。
崖の下では、高波が岩壁を何度も打ちつけている。
「波ってさ。ずっと同じことしてて、飽きないのかな」
いつもの明るい声とは違う、低く重い声だった。
小夜が菜摘に駆け寄って、手を取る。
「ねぇ、部屋戻ろ」
「いいって!」
菜摘は握られた手を振り払う。
小夜は、しばらく動かなかった。
「あぁ、ごめん。大丈夫。心配しないでいーよ」
そう言って菜摘が笑ったので、ふたりは先に戻った。
翌朝。
菜摘が、いなくなった。
ベッドは整えられていて、シーツには皺ひとつなかった。
午後、南側の崖へ続く通路で、生徒手帳だけが見つかった。
誰も崖の下を見ようとは言わなかった。
生徒手帳が見つかったあと、小夜は第二音楽室にいた。
窓際に立ち、ぼんやり海を見ている。
「小夜? 平気?」
声をかけると、小夜が振り返った。
「あのさ、昨日、私たち菜摘に会ったよね」
「うん」
小夜が目を伏せて、胸に手を当てた。
「……止めればよかった」
声が微かに震えていた。
澪は一度、息を呑んだ。
「何を?」
「わかんない……でも、大丈夫って言ったから。私、信じたの」
最後の「の」は、声になりきらず、息にほどけた。小夜が両手で顔を覆う。
――大丈夫。たぶん。
澪は母に、そう送ろうとした。
――絶対、戻ってくるからね。
梨絵は、そう言った。
澪は小夜の両手に触れ、顔が見えるまでゆっくり下ろした。
「……私たち、残ってていいのかな?」
「わからないよ」
「梨絵たちみたいに、出た方がよかったのかな」
「だから、わからないって」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「私は残る」
「……どうして?」
母を待っている。
ピアノがある。
外が怖い。
どれも本当だった。
「だって、小夜がいるから」
「私が?」
「うん。私一人なら、どっちが正しいか決められない。でも、小夜がいる方なら、一人じゃないから」
小夜は泣きながら、少し笑った。
「それ、理由になる?」
澪は、すぅっと息を吸う。
「なるよ」
「それなら私も、澪がいる方がいい」
小夜は、澪の手を握り返した。
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
菜摘がいなくなってから、食堂では海の見える窓際に空席が目立つようになった。食事は粥と煮豆が中心になり、一日二回に制限された。
『必要栄養量については、食料の備蓄量を考慮し、可能な範囲で維持します。また、不要不急の身体活動を避けてください』
AIの事務的な放送が、定期的に繰り返される。
「歌うって、不要不急かな」
小夜が言う。
「……たぶん」
「じゃあ、ピアノも弾くのやめる?」
澪は答えなかった。
午前。音楽史の仮想教師も起動しなくなり、音声のみの授業に変わった。
授業の内容は正しいが、生徒の質問には答えない。事前に録音されたものらしかった。
「先生、死んだみたい」
澪が囁いた。
「AIに死んだって言わないで」
「わかってる。でも、もう会えないんでしょ……」
午後、第二音楽室で、小夜が言った。
「二曲目のやつ、歌いたい」
澪は鍵盤に置きかけた手を止めた。
「今日はやめよう」
「どうして?」
「食事減ったし。歌うの疲れるでしょ」
「一曲くらい平気だよ」
小夜が譜面台の楽譜へ手を伸ばす。澪は反射的に、その手より先に楽譜を押さえた。
「澪? この曲、嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ、なんで弾きたくないの」
弾けば、小夜はまたこの曲を好きだと言うかもしれない。その言葉を聞いたら、きっと自分はまた嬉しくなる。
自分が作った曲でもないのに。
「飽きたんだよ」
「できたばかりなのに?」
澪の返事が、一拍遅れた。
「……そういうこともあるよ」
小夜はしばらく澪の顔を見ていた。
「じゃあ、一年生のときの曲は?」
「また?」
「うん」
「……まあ、それならいいけど」
「なんで?」
澪の口が、勝手に動いた。
「自分で作ったから」
言ってから、自分の言葉の意味に気づいた。
小夜の表情が止まる。
「今、なんて?」
「なんでもない」
澪は目を逸らした。
「……二曲目、自分で作ってないの?」
答えられなかった。
「もしかして、一曲目も?」
澪は膝の上で指を握った。
「……うん」
「誰が作ったの?」
窓の向こうで波が崖にぶつかった。低い音が、少し遅れて部屋まで届く。
「……AIだよ」
小夜はしばらく動かなかった。
「そう」
それだけ言って、譜面台の前から身体を起こした。
澪が恐る恐る顔を上げる。
小夜は後ろ手を組んだまま、楽譜を見ていた。
「怒らないの?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
小夜の声は静かだった。
「私、AIの曲は嫌だなんて、一回も言ったことないよね」
「うん」
「ただ……なんで、言ってくれなかったのかなって思った」
小夜が澪に視線を向ける。
「だって、喜んだから……小夜が」
「え?」
「一曲目。今までで一番好きって言ったでしょ」
「うん」
「私が褒められたわけじゃないのに、嬉しかった。それで、また言ってほしくなった」
小夜は何も言わない。
澪が「んっ」と小さく喉を鳴らして、続けた。
「二曲目は、そういうふうに頼んだの」
「どういうふうに?」
「好きになる曲を作ってって」
小夜の眉がわずかに動いた。
澪は目を伏せた。
「指定した条件に、九十七・二パーセント一致したって出た」
「どんな条件?」
短い声だった。いつもの柔らかさがなかった。
「小夜が高い音の前で息を吸うこととか、去年の曲で、どこが好きって言ってたかとか……」
「それ、澪が知ってたことだよね」
「……うん」
小夜は譜面台から楽譜を取り、紙の端を指でつまんだ。
「私ね、この曲、今も好きだよ」
澪が顔を上げた。小夜は楽譜から目を離さない。
「でも、私、曲だけ聴いてたんじゃない。ここ、澪が何考えて書いたのかなとか。私に歌ってほしくて、こうしたのかなとか」
小夜の指が、譜面の一か所をなぞる。
「澪って、言いたいことあるのに、すぐ引っ込めるでしょ」
「……そうかも」
「だから、曲なら、澪の言いたいことが少しわかるかもって思ってた」
小夜が顔を上げた。目元が赤くなっていた。
「でも、これ、澪が書いたんじゃなかった……。私、澪の気持ちだと思って歌ってたのに……」
「違う」
「何が違うの?」
「歌ってほしかったのは……本当だから」
小夜はじっと澪を見た。
「じゃあ、どこまでが澪だったの?」
答えられなかった。
けれど、小夜にその曲を渡したかったのは自分で、歌ってほしかったのも、好きだと言ってほしかったのも、自分だった。
「……好きって言ってもらいたかった」
小夜が眉を寄せる。
「曲を?」
一瞬だけ、逃げる時間があった。
いつものように、違う言葉へ隠れることもできた。
「……私を」
そのまま口に出た。言った自分が驚いた。
小夜の目も大きくなる。
心臓が急に速くなる。
「いや、あの……作曲家として才能があるって、小夜に思ってほしくて」
しばしの沈黙のあと、小夜は、静かに聞いた。
「それだけ?」
澪は口を開いた。何か言わなければと咄嗟に考えたが、何も思いつかなかった。
小夜は返事を待っていたが、やがて楽譜を胸の前に抱えた。
「今、この曲を澪と歌えない」
そう言って、扉へ向かう。
「小夜!」
呼び止めたが、小夜は振り返らなかった。
小夜は廊下へ出ても、すぐ寮へ戻れなかった。
階段の踊り場で立ち止まり、手に持っていた楽譜を開く。
上がりそうで上がらない旋律。
今までは、澪が何かを言いかけて、また呑み込んだみたいに見えていた。
澪が作った曲ではないと知った後でも、音符は何ひとつ変わっていない。
――好きな曲は好き。聴いて好きかどうかじゃない?
前に、澪にそう言った。
今だって、この曲は好きだった。
最初のフレーズを、小さく歌ってみる。
途中で息が切れた。
どうしてだろう?
もう一度、最初から歌う。
今度は高い音へ入る前に声が掠れた。
小夜は歌うのをやめ、喉に手を当てた。息を整えても、胸の奥がいつもより重い。
大丈夫。ちょっと調子が悪いだけ。少し休めば戻るはず。
そう思って、もう一度息を吸ってみた。
けれど、その息は、声にはならずにそのまま吐き出された。
――きっと、澪にひどいことを言ったせいだ……。
小夜は、そう思うことにした。
それから十日ほど、ふたりは必要なことしか話さなくなった。同じ部屋で眠ったが、食堂へ行っても、隣同士には座らなかった。
十二月十日の朝も、小夜は先に寮室を出た。食堂では、いつもの窓際とは別の席に座った。
昼過ぎ頃、全校放送が鳴った。
『外部主電源からの受電は、午前十一時四十二分をもって完全に停止しました』
教室が静まりかえる。
『現在、本校は蓄電設備および自家発電設備のみで稼働しています。主要機能は十二月二十六日頃まで維持可能と推定します』
教育機能も順次停止されることが伝えられ、残ったのは《音楽理論》と《専攻実技》だけだった。
「こんなときまで、音楽は続けるんだ」
誰かがそう言って笑ったが、誰も笑い返さなかった。
放課後、澪は作曲室でAIが生成した曲のファイルを開いていた。
《歌曲 01》
【削除しますか?】▼
削除。
《歌曲 02》
澪は、胸に手を当てて、深く息を吸った。
【削除しますか?】▼
削除。
端末の電源を切って、鞄にしまう。
代わりに、真っ白な五線紙を取り出す。
AIは、自分が入力したほんの少しの情報だけで、小夜が好きだと言う曲を作ってしまった。
だから、自分が書く意味なんてないかもしれない。
五線紙を机に置く。角に折れ目が付いていた。
どうせあと二週間くらいで、電気が消える。
こんなことしても、なんにもならない。
食べ物にも。命にも。
やめればいい。
作曲なんて。
――それでも。
鉛筆を手に持つ。
ひとつ音符を書いた。
消した。
また書く。
今度は消さなかった。
夜。
澪が寮室に戻ると、部屋の照明はまだ点いていたが、小夜は向かいのベッドで毛布にくるまっていた。目を閉じていて、寝ているように見える。
澪は、静かに机の前の椅子に座る。それから持ち帰った五線紙を広げて、鉛筆を持った。
「何してるの?」
背後から小夜の声がした。寝ていなかった。
「……作曲」
「AIにやってもらってるの?」
「違う」
長い沈黙が続いた。
澪は耳を澄まして、小夜の呼吸を聞いた。
ゆっくりとした吐息のリズム。ずっと一緒に過ごしているから、分かる。小夜は、もうほとんど眠りかけている。
「小夜。電気、消すね」
「うん」
部屋の明かりを消して、机のライトを灯した。
暖色の光が白い紙をぼんやりと照らす。
「澪?」
暗闇から、眠たげな声で呼ばれた。
「何?」
「二曲目のやつ、嫌いになったわけじゃないから」
澪の手が止まった。
「うん」
「それだけ、おやすみ」
「おやすみ」
少しして、小夜の寝息が聞こえ始める。
お腹が空いていた。
それから、眠たかった。
それでも澪は、曲を書き続けた。
二日後の夜。寮室で寝る前、澪が言った。
「小夜。この前、ごめん」
「何が?」
「嘘ついたこと。曲のことも、それ以外も」
小夜は毛布で口元を隠したあと、小さな声で、
「うん」と言った。
翌朝、小夜は先に支度を終えても、部屋を出なかった。
しばらく澪の着替えを待ってから、
「一緒に行こ」
と声をかけた。
朝食時、校内放送が告げた。
『蓄電設備の一部に異常を検出しました。中央制御系の維持可能期間は、現時点で残り十二日間程度と再推定します』
食堂には十一人しかいなかった。入口では、恵麻が今日も人数を数えている。
いない生徒は、梨絵たち三人、菜摘、病室から出られない生徒が二人。ほかにも部屋に籠ったままの子がいる。
朝食は、薄いお粥と半分に切った栄養補助食品だった。
「学校、止まっちゃったらどうする?」
澪が聞くと、小夜は少し考えた。
「……別に、何もしない」
「何もしないの?」
「だって、私にできること、ある?」
歌、と言いかけて、澪は口をつぐんだ。
「澪は、さ。曲、書いてるでしょ?」
小夜が首を傾げると、寝ぐせのついた髪が揺れた。最近、シャワーもほとんど浴びていなかった。
「うん」
「じゃあ、まだあるね。やらないといけないこと」
小夜が少しだけ笑った。痩せた頬に、以前はなかった影ができた。
午後、専攻実技の終了時刻が近づいた頃、仮想教師が突然止まった。
第二音楽室のモニターには、《教育モデルを起動できません》と表示されている。小夜はしばらく、その文字を見ていた。
「この前まで、先生いたのに……」
「AIだよ」
「知ってるって」
小夜はそれ以上言わず、モニターの前で頭を下げた。
「ありがとうございました」
澪も隣に立って頭を下げる。
黒いモニターには、ふたりの姿がぼんやり反射していた。
それから二日ほどで、残っていた授業も順次停止し、チャイムも鳴らなくなった。
翌朝も、恵麻はいつも通り、食堂に集まった生徒を数えた。
十人。
端末に記録しようとしたが、画面は点かなかった。恵麻はもう一度、自分の目で人数を確かめた。
皆は、それぞれいつもの席に座った。空いた椅子を詰める者はいなかった。
食べ終わっても、チャイムは鳴らない。しばらくして、誰かが廊下の時計を見上げた。それを合図にしたように、何人かが席を立った。
目を覚ませば朝が来ていて、朝食、授業、練習、夕食、消灯。外で何かが壊れていても、今までその順番だけは変わらなかった。その通りに一日をなぞるあいだは、まだここが学校で、自分たちは生徒なのだと思えた。
その形が崩れると、時計は動いているのに、次に何をすればいいのか誰にも分からない。時間が、進む先を見失ったみたいだった。
それでも、澪は毎日のように作曲室へ通い、曲を書き続けた。鉛筆を握る指にも力が入りにくくなり、ときどき机の上で手を開いて休ませた。お腹は減るし、暖房も動かなくなり、身体はすっかり冷えていた。
通常の照明が使えるのは夜間だけになっていた。
冷蔵設備が止まる前、食堂ではいつもより多めに食料が出された。その中に、保存用のチョコレートバーがいくつか混じっていた。
「チョコだ。やった」
小夜の声が、少しだけ明るくなる。
「最後だからね。二人で一本だって」
向かいのテーブルで誰かがそう言った。
小夜は包みを開け、チョコレートバーの両端を持った。半分に割ろうと力を入れる。けれど、冷え切ったチョコはびくともしなかった。
「固っ」
「貸して」
澪も試した。両手に力を込める。結果は同じだった。
「無理だこれ……石みたいだよ」
小夜が少し笑った。
「私いらないから、小夜が全部食べていいよ」
「ダメだよ。澪も食べなきゃ」
「チョコ好きでしょ」
「好きだけど」
小夜はチョコレートバーを受け取ると、顔の横で振った。
「チョコってね、栄養あるんだから」
「言われなくても知ってる。だから小夜が全部食べていいよ」
「澪も食べないと弱っちゃうって」
しばらく睨み合っていたが、そのうち小夜は諦めて、
「じゃあ、半分まで私が先に食べる」と言った。
小夜が端をかじる。
冷えたチョコは固く、一口目から眉間に皺が寄った。それでもなんとか噛み砕いて飲み込んだ。もう一度口へ運ぶ。小さくかじって、舌の上で転がした。
「……もういい。あげる」
小夜が何口か食べてから差し出したチョコは、まだ半分よりだいぶ長かった。
「半分まで食べるんじゃなかった?」
「いいから」
小夜が澪の手のひらにチョコを押しつける。包み紙には、小夜の熱が少し残っていた。
先端に残った歯形を見て、澪も一口かじった。
「……これ、結構甘いね」
「やっぱりチョコはそうじゃないと」
「でも虫歯になったらどうしよう」
「今、そんなこと心配する?」
小夜が吹き出した。途中でむせて、不自然に咳込んだ。
その日の夜には、寮の通常照明が消えた。
非常灯が数灯、廊下や室内を頼りなく照らしている。
寒さをしのぐため、生徒たちはひとつの部屋に集まった。毛布を持ち寄り、床に敷きつめていく。
暗闇の中、誰かが言った。
「ねえ、歌おうよ」
「何を?」
「なんでも」
誰かが校歌を歌い始める。
一人、また一人と加わる。小夜も、澪も。
音程は外れ、二番になると歌詞も怪しくなる。
それでも誰も気にせず、校歌が終われば別の歌が始まった。
一時間ほど、歌は続いた。
翌日の昼過ぎには、澪の曲は四十七小節目まで書き上がっていた。
作曲室に来た小夜が、机に広がった五線紙を見る。
澪は五線紙を伏せなかった。
小夜は譜面を目で追ってから顔を上げる。
「歌詞、ないの?」
「うん。ヴォカリーズにした」
「どうして?」
「言葉を追わなくていい分、少しは楽かなって」
小夜はもう一度、譜面に目を落とした。
「歌ってみていい?」
「まだ完成してないよ」
「できてるとこまで……いいでしょ?」
ふたりは第二音楽室へ移った。照明の落ちた室内は薄暗かったが、窓から差し込む光で楽譜は十分に読めた。
澪がピアノの椅子に座り、譜面台に楽譜を置く。小夜も同じ椅子に腰を下ろした。
前奏を弾き終えると、小夜が歌い出した。
AIが作った二曲より、ずっと不格好な曲だった。途中まで来たところで、小夜が急に歌うのを止めた。
「ここ、ちょっと苦しい……」
「音、低すぎる?」
「ううん、息が足りなくなる」
澪は鍵盤から手を離し、鉛筆を取った。
「じゃあ、ここは休符にする」
「待って。なんとか、つなげたい」
「でも苦しいんでしょ」
「何回かやれば」
もう一度、同じところから弾いた。小夜の声は、やはり同じ場所で細くなった。
三度目は、椅子から立って歌ってみた。それでも、次の音に届く前に息が切れた。
「前なら、これくらい歌えたのに……」
澪は、眉を寄せた小夜に何も答えず、五線紙に休符を書いた。
「メロディー、変えちゃうの?」
「だって、小夜が歌う曲だもん」
小夜はしばらく、その休符を見ていた。
「……もう一回」
澪が弾き直す。
今度は、休符になったところで、小夜が息を吸った。
声は、その先へ細い糸のように伸びていった。
新しい休符は、そのまま残った。
四十七小節目まで通したあと、小夜が譜面を見ながら言った。
「AIなら、この続きから終わりまで、すぐ作れるのかな」
「頼めば、作ってくれるよ……」
「……また使いたい?」
「使いたくない」
はっきりそう答えると、小夜が澪の顔を覗き込んだ。
「どうして?」
「だって、自分で――」
言いかけて、澪は首を振った。
「違う。小夜と、一緒に終わらせたい」
「私と?」
「うん」
小夜は、パッと笑った。
夜、恵麻に頼まれて、澪と小夜は資料棟地下の防災倉庫へ毛布と乾電池を取りに行った。途中、小夜が廊下脇の扉を懐中電灯で照らした。
丸い光の中に、《音楽史資料室》と書かれた札が浮かんだ。
「こんな部屋、あったんだ」
小夜が扉に手をかける。
「ちょっと見てみようよ」
扉を開けると、古い紙と埃の匂いがした。
室内の壁際の棚には黒いレコードが大量に並び、その手前に古い蓄音機が置かれている。ターンテーブルには一枚、レコードが載ったままだった。
「何これ」
小夜が懐中電灯を近づけ、ラベルを読む。
《第三十四回 校内定期演奏会》
記された日付は、澪たちが生まれるずっと前だった。
「まだ鳴るのかな。やり方知ってる?」
「任せて」
澪は蓄音機の側面にあるハンドルをゆっくり回した。十分に巻いてから、そっと針を落とす。
ざあ、と雨のような雑音が鳴った。
ふたりとも蓄音機へ少し身を寄せる。
雑音の奥から、かすかなピアノの音が浮かんできた。音は揺れ、ときどき遠くなりながら、それでも旋律をつないでいく。
やがて、少女の歌声が聞こえてくる。
小夜は、動かずにじっと耳を澄ましていた。
何十年も前、この学校で歌った誰かの声だった。名前も顔も知らない。それでも、息を吸う音まで残っている。
曲が終わっても、澪はしばらく針を上げなかった。
「……すごいね」
「うん」
小夜が棚を見回した。
「みんな、もういないかもしれないのに」
「うん」
「音は、あるんだね」
澪は答えず、回転の遅くなっていくレコードを見た。
部屋の奥には、《ディスク録音機》と銘板のある箱型の機械が置かれていた。
「これ、まだ使えるの?」
そばに残っていた説明書を澪が開く。音を直接レコード盤に刻む機械らしい。
「電源が入れば動くかも」
棚の下には、録音用の未使用盤が残っていた。
澪は止まった蓄音機の方を振り返った。
「あの曲ができたら録ってみる?」
「録りたい……けど」
「小夜のために書いてる曲だから」
少し待ってから、小夜は俯いた。
「……嬉しいな」
資料室を出る前、ふたりは未使用のレコード盤が入った紙袋を一つだけ取り出し、録音装置の横へ置いた。
「これ、予約ね」
澪は胸ポケットから鉛筆を取り出し、紙袋の隅に波線を一本描いた。
「何そのマーク」
「私たちの目印」
小夜は、その線をしばらく眺めていた。
それから一週間ほど経った。
食事はさらに減り、非常灯も一灯ずつ消えた。
食堂と教室のモニターは止まり、中央制御の一部と非常系統だけが辛うじて動いている。
朝、澪は小夜のくしゃみで目を覚ました。
小夜は向かいのベッドで、資料棟から持ち出した毛布を重ねてくるまっていた。
「ごめん、起こしちゃった」
「いいよ。というか、寒いね」
「そっち行っていい?」
「えっ?」
「一緒の毛布に入る」
返事をする前に、小夜はもう自分のベッドから抜け出して、澪の毛布のなかに入り込んだ。
「たくさんの毛布より、人の方が温かい」
小夜の脚がふくらはぎに絡まる。さらに身を寄せてくると、寝ぐせのついた髪が頬に触れた。
「あの……狭いんですけど……」
「仕方ないでしょ」
しばらくすると、身体のあいだに少しずつ温度が溜まってきた。カーテンの隙間から、灰色の明かりが滲み始める。
「朝って来るんだね」
薄く開いた小夜の目に、日の光が微かに映った。
昼になると、澪は作曲室へ向かった。
残っているのは、最後の部分だけだった。
完全終止にしてみる。違う。余韻を残しても違う。
「まだ悩んでるの?」
声に振り返ると、小夜が扉のところに立っていた。
「うん」
小夜は隣まで来て、五線紙を覗き込んだ。
「終わり方が、うまくいかなくて」
「曲のはじめのメロディーを使ったら?」
「ありきたり」
「私は歌いやすいけど……」
小夜が指先で喉に触れた。
「私、前の声に戻ってから録りたいって、ちょっとだけ思ったの……ちゃんと食べて、ちゃんと寝たら、また伸びるようになるかなって」
「まだ……戻るかもしれないよ」
小夜はすぐには答えなかった。
「うん」
声が少し硬かった。
小夜は視線を譜面に戻した。
「今の私でも歌えるのがいいな……」
澪は鉛筆を持った。
最初に書いた四つの音を、終結部にもう一度書いた。ただし、完全に同じにはしなかった。途中の高い音だけを半音下げた。
「そこ、変えるんだ」
「うん。最後はテンポも少し落とそう」
小夜は書かれたメロディーをしばらく見つめ、それから納得したように頷いた。
澪は五線紙の最後に、細い線と太い線を引いた。
その線を見て、小夜が言った。
「もう直さないでね」
「絶対、直さない」
ふたりの目の前には、書き直した跡だらけの五線紙があった。
午後、ふたりは第二音楽室で曲を通した。暖房の止まった室内は、窓から陽が差していても指先がかじかむほど寒かった。
小夜の声は、一週間前よりさらに弱くなっていた。高い音に移るところでは、声が途切れかける。以前なら楽に伸びた声は途中で細くなり、いつものおおらかなビブラートが、小刻みな震えに変わっていた。
澪の身体も、以前のようには動かなかった。指が冷えて動かしにくいだけではない。何度か通しているうちに腕が重くなり、鍵盤を押す指から少しずつ力が抜けていく。弾き終えるたび、背もたれのない椅子に座ったまま、短く息を整えるようになっていた。
「小夜、一回休もう」
「まだ歌えるのに……」
小夜は不満そうな顔のまま椅子に座り、防寒用に持ってきた毛布を膝にかけた。唇は乾いて、皮が薄くめくれていた。
「ごめんね」
「謝らなくていい」
「前より全然、歌えない」
「うん」
「そこは否定してよ」
小夜が力なく微笑んだ。
少しの間があった。
「でも、この曲には、今の声も合ってる」
小夜は黙った。ただ、指先で、目の前にある休符をなぞった。
「澪」
「何?」
「今日、録ろうよ」
資料室に置いてきた盤が頭に浮かんだ。
「今日?」
小夜は細い指でそっと喉に触れた。
「明日、もっと歌えなくなるかも」
そう口にしたあと、静かに唇を結ぶ。
澪は窓の外へ視線を向けた。夕方の光が、海の上に細く伸びている。
「うん。録ろう」
澪は椅子から立ち上がった。
録音装置を資料棟から第二音楽室まで運ぶだけで、ふたりは何度も休まなければならなかった。
装置の上には、レコード盤の入った紙袋が載っている。非常系統のコンセントにつなぐと、机に置いた装置の電源ランプが点いた。
「生きてる……」
「機械に生きてるって言わないで」
ふたりで笑った。
第二音楽室のピアノは、いくつかの音がわずかに狂っていた。澪が鍵盤をひとつずつ押して確かめる。
「ちょっと低くなってるね」
「別のピアノにする?」
「もう、重い物を運ぶ気力がないよ」
小夜も鍵盤をひとつ鳴らした。
「澪。このピアノで録ろうよ」
「ズレててもいい?」
「今の音が、これだから」
「そういうこと言うようになったね」
「誰のせいだと思う?」
ふたりは準備を始めた。
外はすっかり暗くなっていたが、非常灯の明かりは譜面台まで届いていた。
小夜は付属のマイクを一本つなぎ、ピアノと自分のあいだに立てた。そのあと、紙袋からレコード盤を取り出し、録音装置に載せる。
澪は、譜面台の楽譜を整え、脇に鉛筆を置く。
「じゃあ、始めよう」
そう言って、澪は急に不安になってきた。
――もう以前のようなふたりの演奏はできない。
今の自分たちの音が、そのまま残る。
誰かが聴くかもしれない。あるいは誰も聴かないかもしれない。
「大丈夫」
聞こえた声の方に目を向けると、いつの間にか小夜が毛布を羽織ってマイクの前に立っていた。痩せた身体を包む布は床に向かって垂れ、その裾はドレスのような襞をなしている。
――舞台の上。
澪は背筋を伸ばす。
それが合図となった。
小夜が録音ボタンを押す。
盤がそろそろと回り始める。しばらくして、針が降りた。
前奏が始まる。冷え切った指の動きはぎこちない。
小夜が息を吸って、歌い始める。
次の小節で、伴奏の一音を外した。鍵盤を這う指がもつれて、止まりそうになる。
けれど、小夜は止まらなかった。
歌声には、以前よりずっと苦しそうな息が混じっている。揺らめく糸のように脆い声が、澪の手を引いて進んでいった。
旋律はゆるやかに流れていく。やがて、その先に澪の書いた休符が見えてくる。
小夜が息を吸う。
澪は待つ。
小夜は、俯いて両手を胸に置いた。肩が小刻みに震えている。
もう一度、吸う。
書かれた休符の長さを通り過ぎていく。
――まだ。吸っている。
小夜が顔を上げ、ふたりの視線が交差する。
呼吸は、楽譜より一拍長い二拍分の休符になった。
小夜の開いた口から白い息がこぼれ出し、その先に掠れた声が伸び広がる。
澪のピアノが声を追い、そのほどけそうな旋律に手を添える。
刻まれる一定の拍動。
重なる音の向こうに、一年生の頃のふたりが見えてくる。
音の景色の中を、ふたりは歩いている。
どこかで、菜摘の笑い声がする。梨絵の名前を呼ぶ恵麻の声も。
進む先は、ただ白一色。どこへ辿り着くのか、まったくわからない。
それでも、歩いていく。
共鳴の波が寄せて、引く。
やがて、はじまりの旋律が戻ってくる。
四つの音。ただ一音だけ、違う。
その音を小夜の喉が捉える。
歌声は、波のように震えて、窓の向こうの夜空へと流れた。
終止の和音。
澪は鍵盤から指を離し、かすかに残る弦の響きに耳を澄ます。
ダンパーペダルから足を離す。響きがふっと消え、足元で、こっ、と小さく音が鳴る。
音楽の消えた部屋では、レコード盤だけが回り続けていた。
「……終わった」
「うん」
小夜が装置を止めると、針が上がり、盤の回転が止まった。
部屋は急に静かになり、窓の外からは、波の音がするだけだった。
「澪、ちょっと間違えたよね」
「気づいた?」
「気づくよ」
「じゃあ……録り直す?」
小夜は少し考えた。
「澪は、どう思う?」
盤を替えれば、録り直せる。
ミスタッチも、掠れた声も、長くなった休符も。
澪は盤を見た。
「これでいい……」
小夜が笑った。
「私も、それでいいよ」
レコード盤を装置から外して、紙袋に納める。
澪は鉛筆を取り、紙袋の記入欄に文字を書き込んだ。
小夜が横から覗き込む。
「そこには、書かなくていいの?」
「うん。もう必要ないから」
鉛筆を小夜に差し出す。
「小夜も、この下に書いてくれる?」
「いいよ」
小夜が鉛筆を取って、澪の書いた字の下に書き込む。
書き終えると、鉛筆を置き、袋を見つめながら、
「完成させたね」
と言った。
「なんにもならないけど……」
澪がそう呟く。
小夜が、袋をピアノの上に置く。
「それじゃあ、何になった?」
澪は五線紙を見る。
たくさんの消し跡。途中に書いた休符。最後に連なる四つの音符。
「曲になった」
小夜は「そうだね」と掠れた声で応えて、それから澪の隣に座った。
肩が触れ、膝がぶつかった。
「ちょっと、小夜。狭いんだけど」
「朝も言ってた」
「ベッドより狭いよ」
「じゃあ、ちょっと詰めて」
澪が少し横へずれる。
小夜は空いた分だけ近づき、毛布の片端を澪にかける。それから、そのまま肩に頭を乗せた。
「これ、重い?」
「……別に」
澪が息を吐く。小夜も少し遅れて息を吐いた。
二つの白い息は混じり合って、どちらのものか分からなくなる。ふたりは、それをしばらく見つめていた。
「小夜」
澪が口を開いた。
言いたい言葉は、もう分かっている。
――小夜のことが、好き。
たぶん、今なら伝えられる。
それでも澪は、一度だけ息を吸って、その言葉を引っ込めた。
「……明日も、何かする?」
「する」
小夜はすぐに答えた。
「何する?」
「クラッカーをちょっと食べて、水を飲む」
「それから?」
「澪に、ピアノを弾いてもらう」
天井の非常灯が明滅した。
「小夜は?」
「ずっと、聴いてるだけ……」
「そっか。……じゃあ、明日ね」
「うん。明日」
肩にはまだ、小夜の頭の重みがあった。
澪も少しだけ頭を寄せた。
「そういえば、今日って何日だっけ?」
「もうわかんない」
ふたりが笑う。
【 12月24日 19:12:01/最終同期 映像信号消失 】
■
後年、海沿いの旧校舎で回収された記憶装置から、映像記録が断片的に復旧された。
最後の映像は、第二音楽室の暗転で終わっている。
第二音楽室の床には、書き直した跡のある五線紙が落ちていた。
ピアノの上には、一枚のレコード盤が紙袋に収められたまま置かれている。
袋の隅に、鉛筆で描かれた波線。記入欄には、ふたつの筆跡で、こう書かれている。
『ピアノ 水城 澪
声 楽 朝倉 小夜
作 曲 澪・小夜』
題名欄だけが、空白だった。

