「そこ、私の席なんだけど」
声がして、椅子ごと飛び上がりそうになった。
目の前に汐海凪沙さんが立っていた。
「ごめんなさい。すぐにどきます!」
「鶯さん、なんでここに座ってたの?」
「えっと、あのその……汐海さんのこと考えたくて。それで座ってみたら、汐海さんの気持ちがよく分かるんじゃないかと……」
言ってしまってから、急に顔が熱くなった。
まだ話したことのないクラスメイトに向かって、何を言ってしまってるんだろう。頭がどうかしてる。
「なにそれ、意味分かんない」
「ですよね」
「私のこと、知りたいってこと?」
凪沙さんのまるくて大きな目が急接近する。やっぱり、私の好きな小説の主人公、ののかに似ている。ののかは、ハナさんが書いてるヒロインで、明るくて、少し強引で、自分の人生をいっぽいっぽ丁寧に生きる、とびきりかわいい女の子だ。汐海さんが誰かに手を振ったり、笑いながら輪の外の子を呼んだりするたび、読み慣れた場面が浮かぶようだった。ののかが同じクラスにいたら、きっと、こんな感じだろう。
「ねえ、鶯さん」
「は、はい。なんでしょうか……」
「このあと時間ある?」
「え? 時間、ですか?」
「タピオカ飲みに行かない? 駅前にできたところ、行ってみたいの」
汐海さんを見てから、クラス中を見回した。教室には、私たちしか残っていなかった。
「私で、いいんですか?」
「もちろん!」
そう言って、汐海さんは笑った。やっぱり似ている。ののかも、相手が遠慮していると、こんなふうに真っすぐに誘う。遠回りなんてしないのだ。揺れる艶のある長い髪もそっくりだ。何度も読んだ小説の中に、迷い込んでしまった気さえしてくる。
「……行きたいです」
「よかった。名前、凪沙でいいよ」
「……凪沙、さん」
勇気を出して小さく呼ぶと、凪沙さんの長い髪がふわりと揺れた。
「菜乃葉さんか、いい名前だね!」
自分の名前が、知らない響きになって返ってきた。呼ばれ慣れているはずの名前なのに、もう一度聞きたくなる。同時に、ハナさんが書いた物語の続きを、今も見ているような気がした。
「今度、私も菜乃葉さんの席に座ってみようかな」
「私の席ですか?」
「うん。ちょっと興味あるかな」
「それって、私にですか?」
「うーん、景色かな」
「ああ……そうですよね。桜の木が、よく見えますよ」
「じゃあ、散る前に、座らせて」
学校を出て、電車で数駅。何度も来たことのある新宿なのに、今日は少し違って見えた。隣には、あの凪沙さんがいる。そう思うだけで、つい頬が緩みそうになる。人混みではぐれないように、鞄についたパンダのヌイグルミを目印にして歩いた。
時々、揺れる長い髪に目が行ってしまう。
お店の列に並ぶと、凪沙さんが子どものように目を輝かせた。
「菜乃葉さんは、どれにする?」
メニューには、写真と長い名前が並んでいた。
迷わずに、私は普通のミルクティーを指さした。
「私はこれ」
「決めるの早いね」
「ていうか、毎回同じのばかり飲むんです。安心なので」
「ああ、それ分かる。でも、こっちも美味しそう」
意外にも凪沙さんは、まだ迷っていた。何でもすぐに決める人だと思っていた。
……でも、私、どうしてそう思ったのだろう。ああ、そうだ。ののかは、いつも抹茶牛乳タピオカを迷わずに頼むからだ。勝手に小説の主人公と凪沙さんを結びつけている自分が、少しおかしくなった。
列が一人分進んでも、凪沙さんはメニューを見ていた。
小説と現実は違う。そのことに、少しほっとしている。それなのに、何を頼むのかが気になって、私もメニューから目を離せなかった。
「凪沙さんでも、迷うんですね」
「でも、って何?」
「ぱっと決める人かと思ってました」
「あはは、半分は当たってるかもね。でも、もう決めたよ」
店員さんに声をかけられ、抹茶牛乳タピオカを頼む凪沙さんを見た瞬間、息がつまりそうになった。
「うん? どうかした?」
「いや、なにもないです」
ごまかしたけれど、次の場面まで思い出してしまった。ののかなら、このあと、隣の子のタピオカをひとくち飲みたがる。私は受け取ったばかりのカップにささるストローを見ながら、そんなことを想像していた。
凪沙さんは自分の分をごくごく飲んでいる。
やっぱり……考えすぎだろう。
「菜乃葉さん、ちょっとあっち向いてて」
「え?」
「いいから、いいから。いいよって言うまでね」
言われたとおりに横を向いた。ののかも、こう言って隣の子のタピオカをこっそり飲むのだ。まさか、凪沙さんも同じことをするつもりだろうか。
すぐそばで、凪沙さんが私のカップに顔を近づける気配がした。
「もう、いいよ」
振り返ると、凪沙さんと目が合った。
「ひとくちもらっちゃった」
悪びれる様子もなく、凪沙さんは子犬みたいな目でこちらを見ていた。まったく、そんな顔をされたら怒れない。いや、怒るつもりなんて最初からないのだけれど。
「あの……小説とか読みます?」
「うん、たまにね。菜乃葉さんは?」
「好きです。ネット小説が主にですけど。でね、その……」
そこまで言いかけて、タピオカを飲んだ。凪沙さんに似ている主人公が好きで、と本当は言いそうになった。けれど、どういうわけかそれを言ってしまうと、凪沙さんとの関係まで崩れていくような気がしてしまった。
帰りのホームで友達申請を送ってもらったところで、電車が来たので慌てて飛び乗った。
凪沙さんのスマホは、ののかと同じ白色だった。ケースまで透明でののかと同じだった。ここまでくると、いよいよ凪沙さんが小説の世界から飛び出してきたんじゃないか、という妄想に引っ張られてしまう。そんなことを考えていると、間違えて友達申請を拒否してしまった。
唖然として、拒否の文字が消えた画面を見つめていると、スマホが鳴った。
【トリさん。今日も一日お疲れさま。どんな日でしたか?】
小説を書いているハナさんからだった。小説の感想を書いているうちに、直接メッセージをやりとりしたくなり、最初はファンレターを送り、今ではこうしてメッセージのやりとりまでさせてもらっている。多くのファンがいるのに、私だけ特別扱いされているようで、メッセージが届くたびに、胸が高鳴った。
家に帰って、ベッドの上でハナさんへの返事を書いた。
【聞いてください! 今日は超ビッグイベントが発生しました。クラスの超かわいい女の子と、新宿でタピオカを飲みました!】
【すごいすごい、おめでとう! もしかして、前に話してた、仲良くなりたい子?】
【そうです。覚えててくれたんですね!】
【トリさん、前はその子の横を通るだけで足が震えるって言ってましたよね】
私の名前の鶯が鳥だから、ここではトリと名乗っている。
お互いに、本名も顔も知らない。けれど、ハナさんの書いた小説は全部読んでいるし、公園のベンチが好きなこと、紅茶が好きなこと、夜に星を見るのが好きなことも知っている。
【それで、楽しかった?】
【楽しかったです。私、全然うまく話せなかったけど。その子は、笑ってくれました】
【よかったね】
続けて、もう一つ届いた。
【私も今日、実は新宿にいたよ。タピオカ飲んだ】
【ええ! ハナさんも東京ですか!】
【そう。新宿は近いよ】
【嘘みたい。どこかですれ違ったかもしれませんね】
ハナさんと会ったら、どんな感じだろう。会って話してみたいと思った。でも会おうとは書かなかった。顔が分からないことで話せる内容が、きっとある。この距離じゃなくなったら、何を話していいのか分からなくなる。あいまいは、あいまいなまま。きっと、これはちょうどいい距離感なのだと思う。
私は友達申請を拒否した失敗を打ち明けた。
【明日、謝りたいです。でも、あの子に話しかけるのって、すごく勇気がいるんです】
【うまく話そうとしなくても、そのまま言えば分かってくれると思う】
ハナさんとのメッセージは本当に楽しく、時間があっという間に流れていった。
窓から入る少しひんやりとした夜の風が頬を撫でて、思わず星空を見上げた。きっと、ハナさんも同じ空を見上げている。
……凪沙さんも、見ているのかな。
翌朝、下駄箱で凪沙さんを待ち伏せ、呼び止めていた。
「ごめんなさい。申請を押し間違えて。拒否するつもりじゃなかったんです」
凪沙さんは一瞬黙った。それからほっとしたように息を吐いた。
「よかった。もう一回、送ってもいい?」
「お願いします」
今度はその場で承認すると、凪沙さんが確認するように画面を覗いた。肩が触れる。その近さにドギマギしていると、チャイムが鳴った。
その時だった。
凪沙さんが私の手を引いて走りだした。手を繋いでくれた、というべきだろうか……。心臓がドクンドクン打って、どうにかなっちゃいそうだった。
「遅刻しちゃう! ほら、もたもたしない!」
教室まで一緒にダッシュ。ただそれだけのことなのに、私の人生史上初のビッグイベントであったことは間違いなかった。まだ、誰とも手を繋いだことがない私の手を、初めて繋いでくれたのが凪沙さんになったのだから。
その日は一日中、心臓が落ち着かなかった。そんな日は、決まって私は愛犬のキリと散歩に出かけることにしていた。キリは電柱のにおいを念入りに確かめ、今も、コンビニの前から動かないでいた。
リードを持ち直したところで、ベンチに座る見覚えのある長い髪の毛が目に入った。
――凪沙さんだ。隣にいるのは、ちょっと金色がかった髪の毛が特徴の女の子だった。よく見ると、桃ヶ崎甘奈さんだと分かった。隣のクラスで一番かわいい子で、読書感想文のコンクールで表彰されたこともある。
二人の間には、誰も寄せつけないどんよりとした空気が漂っている気がして、思わずキリの横にしゃがんだ。二人が美人ってだけでも近寄りがたい。
「分かってる。もう、言わない」
桃ヶ崎さんの声だった。
「甘奈、ごめん。もう終わり。決めたことだから」
「でも、好きだったことまで、なかったことにしないで」
リードを握りしめ、聞いてはいけないと思いながらも、二人の会話に意識を集中させた。
凪沙さんが何か答えたけれど、車が通って聞こえなかった。
桃ヶ崎さんが小さく頷くのが見えた。
それから凪沙さんの肩を、拳で軽く押した。
怒っているみたいにも、泣くのを我慢しているみたいにも見えた。
キリが、やっと歩き始めた。私は逃げるみたいにその場を後にした。
家に帰ると、真っ先にシャワーを浴びた。頭から勢いよくお湯をかぶってみたけれど、どうにもすっきりしなかった。
パジャマに着替えたところで、ハナさんからメッセージが届いた。
【申請のこと、謝れた?】
【謝れました! 無事につながりました】
【おめでとう!】
私はついさっきあった出来事を、ハナさんに書きかけた。でも画面に入力した文章を全部消した。知らない人に話すのは、違う気がしたからだ。
【ハナさんは、どんな日でしたか?】
返事が来るまで、いつもより時間がかかった。
【今日は、ちょっと疲れたかな】
【大丈夫ですか?】
【大丈夫。小説の主人公って、好きな人に、ちゃんと好きになってもらえるでしょ。現実は、違うなって思ったよ】
【ハナさん、好きな人がいるんですか?】
【いた。っていうほうが正しい】
困惑した。
どう返していいのか分からず、迷ったあげく、たわいのない話題を送ることにした。
【私、お母さんが買ってきたクッキー、半分ぐらい一人で食べちゃいました】
しばらくして、返事が来た。
【何味?】
【チョコとミルクです。ミルクを家族に残しました】
【私も、チョコが好き】
【残しておけばよかったです。ハナさんの分】
【そう思ってくれただけで、嬉しい!】
画面を見ながら、つい笑ってしまった。クッキーの話なんかでよかったのだろうか。でも、ハナさんが少しでも元気になったなら、それでよかった。
今度お母さんが買ってきたら、チョコ味を残しておこう。渡せるわけでもないのに、そんなことを考えた。
翌朝、春の妖精が魔法をかけたみたいに、校庭の桜は満開になっていた。
ハナさんから届いたメッセージを読みながら歩いていると、自然と足取りが弾んだ。
階段に差しかかったところで、横から駆けてきた女の子とぶつかった。二人のスマホが、音を立てて廊下に落ちた。
「あ、すみませんっ!」
しゃがみこんでスマホを拾い、慌てて一台を差し出した。そこで初めて、相手の顔を見た。
……えっ。
思わず手が止まった。桃ヶ崎甘奈さんだった。よりによって、昨日、凪沙さんと話していたあの人だ。
――好きだったことまで、なかったことにしないで。
あの声が耳によみがえった途端、目を合わせているのが気まずくなった。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。失礼します!」
相手の返事も待たずに、その場を離れた。桃ヶ崎さんは何も悪くないのに、昨日のことが思い出されて、まともに話せなかった。
教室の手前まで来て、ようやくスマホに目を落とした。ハナさんから返事が来ているだろうか。
画面を開いて、指が止まった。
……あれ?
さっきハナさんに送ったはずの文章が、そこにある。
けれど、吹き出しの位置が逆だった。
相手の名前のところに、見慣れた二文字があった。
――トリ。
その二文字を見て、息が止まった。にわかに信じがたいが、そういうことだろう。私は画面を伏せた。それ以上は見なくても、もう現実を理解するのには十分だった。つまり、ハナさんはあろうことか、隣のクラスのアイドル桃ヶ崎甘奈さんだ。大好きな小説を書くハナさん、私の心の支えになっているハナさんが、同じ学校にいた。しかも、隣のクラスに。
「あの……!」
ぎょっとして顔を上げると、桃ヶ崎さんが目の前に立っていた。私のスマホを、両手で持って、首をかしげている。いやおうなしに目が合う。透き通るほど美しい目だ。
「……トリさん?」
いきなりチャットネームで呼ばれて、くすぐったい。
「……ハナさん?」
まったく面識がなかった桃ヶ崎さんと、違う次元で繋がる。
「スマホ、ごめんなさい」
「私が間違えました。すみません」
端末を交換する指先が触れ合った。
「……本当に、トリさん?」
「はい。……本当に。トリです。あの、そっちも、本当にハナさんですか?」
桃ヶ崎さんが笑ったのと同時に、チャイムが鳴った。
「あとで、話せる?」
「はい」
返事は、思いのほかすぐに出ていた。その時には、もう桃ヶ崎さんというよりも、ハナさんに会えたことが嬉しくなっていた。ずっと話してきた人が、隣の教室にいた。それが嬉しい。確かに、凪沙さんの前で拳を握っていた桃ヶ崎さんも重なり複雑な心境ではあるのだが……。私の中では、ハナさんと桃ヶ崎さんが、まだ一人になっていなかった。
放課後、ハナさんから届いた校内の地図を頼りに、体育館の裏へ向かった。その先の小道を抜けるとぽつんとひとつの建物が現れた。
扉の横に、文芸部、と書いた看板が掛かっていた。
「トリです。……鶯菜乃葉です」
声が少し震えた。
それを悟られないように、平然とした顔をつくった。
「どうぞ。入って」
ドアを開けると、小さな部屋には本がぎっしり並んでいた。窓のそばに小さな丸テーブルがあって、ティーカップが二つ。木漏れ日が、部屋全体を優しく包んでいた。
「ハナです。桃ヶ崎甘奈です。ここは、文芸部。でもね、去年なくなっちゃって。今は先生に鍵を借りて、ひとりで書いてるの」
部屋の中を見回して、何度も読んだ物語が、ここから生まれたのかと思うと、神聖な場所のように思えた。
大きく息を吸って吐いた。なんだか、落ち着く場所だった。
「どうぞ、座って。紅茶も入ってます」
案内されるまま、腰を下ろして、紅茶をひと口飲んだ。
「何だか、変な気持ち。トリさんに、このことを報告したくなってる」
「分かります。私もハナさんに言いたいです」
二人で笑った。
頭の中で渦を巻いていた気持ちが、少しずつ落ち着いていった。
「あの……昨日、凪沙さんとコンビニの前のベンチで話しているところを、見ました。話している内容も少し聞こえました」
桃ヶ崎さんが口を尖らせて、それから口をぎゅっと結んだ。
「ごめんなさい、盗み聞きしたみたいで……」
「そっかあ」
桃ヶ崎さんは紅茶をひと口飲んだ。
「私、凪沙と付き合ってたの。振られちゃったけどね」
「え……そうでしたか」
「もう終わったことだから。あの、私もひとつ、聞いてみたいんだけど、トリさんが仲良くなりたかった子って、もしかして凪沙だったりする? なんとなくだけど」
ティーカップの縁に、私の指がひっかかった。答えられずにいると、
「やっぱり、そうか」
桃ヶ崎さんは息を長く吐いて、気持ちを整えているように見えた。
「……私、トリさんに、いつか会えたら、ここで紅茶を飲みたいと思ってた。今日は、その日になった。キセキみたい。今、すごく嬉しい」
雰囲気を変えるような桃ヶ崎さんの優しい声だった。
「好きなんです。ヒロインの、ののかさんが」
私も本心で答えた。
それから、何度も伝えた小説の感想を、改めて長々と伝えると桃ヶ崎さんは、薄く笑った。
「ありがとう。実はね、あのヒロイン、凪沙がモデルなの。私が凪沙に一目ぼれして、告白したの。で、付き合ってからは、ずっと彼女のことを書いてたの」
何度も何度も読み返したののかが、凪沙さんとぴったり重なる。
「どうりで……似てるわけだ」
「そう思ったこと、あった?」
「はい。話してる時も。ののかみたいだってずっと思ってました。だから、かな。ののかと凪沙さんが一緒に見えてからは、ずっと視線がついつい凪沙さんを追いかけるようになったんです。それって、ハナさんの小説があったから、凪沙さんと仲良くなりたかったのかもしれません」
桃ヶ崎さんはしばらく黙って、机の上にあった万年筆を、指で転がしていた。
……あ。私、また余計なことを言っちゃったかもしれない。
沈黙にいたたまれなくなった。
「あの、また、来てもいいですか?」
「……書いてる時は、あまり話せないけど」
「静かにしてます」
「退屈かもしれないよ」
「大丈夫です。本、いっぱいありますし」
そう答えてから、少し考えた。
「……それに、ハナさんがいるので」
桃ヶ崎さんが顔を上げて、私を見た。
「私、書いてるだけだよ?」
「はい。それでも、いいんです」
自分でも驚くほど、正直な言葉だった。
でも、どうしてそれで十分だと思うのか、うまく説明できなかった。
視線の行き場に困っていると、桃ヶ崎さんは柔らかい微笑みを浮かべた。
私は、次にこの部屋へ来る日を、もう考えていた。
「明日、来ますね!」
次の日の朝、教室に入ると、満開の桜を背に、凪沙さんが私の席に座っていた。
「桜、全部見えた。満開で綺麗だね。私の席からは桜の木なんて見えないのに。時々、花びらは入ってくるけど」
「……凪沙さんの席より、黒板は遠いですけどね」
「一番後ろだもんね」
風が吹いて、凪沙さんの髪が揺れる。桜の香りと混ざって、キュンとなった。これも、ののかの香りと同じだろうか。
私は、ののかが好きだ。その気持ちと、凪沙さんを好きな気持ちを、同じものにしようとしていたのだと気づいていた。
もちろん、誰が見ても凪沙さんは魅力的でかわいい女の子であることに間違いはないけれど。
それから私は週に二、三回、部室へ行くようになった。
桃ヶ崎さんが遅れる日は、先に鍵を借りて入った。窓を開け、丸テーブルを拭いて、紅茶をいれて待つ。彼女が原稿用紙に物語を書いている間は、借りた本を読んだ。
万年筆が紙をこする音が好き。
でもいつもすらすら書けるわけではないらしい。
ある日、桃ヶ崎さんは机に伏せた。
「ダメだわ。全員、黙ってる」
「全員って、誰ですか?」
「登場人物」
「お腹がすいてるんじゃないですか」
「私が?」
「登場人物が」
桃ヶ崎さんは顔を横に向けて、私を見る。それから堪えていた何かを吹き出すように笑った。
「菜乃葉さんって、変なところで面白いよね」
「それ……褒めてます?」
「たぶん、すごく」
桃ヶ崎さんは笑いを収めようとしているのに、私と目が合うと、また口元が緩んでしまう。そんなにおかしなことを言っただろうか。つられて私まで笑ってしまった。
「ハナさんって、こんなふうに笑うんですね」
「え、どんなふう?」
「……秘密です」
「なにそれ。気になるんだけど」
ほっぺを膨らませ、桃ヶ崎さんは拗ねている。遠くから見ているだけの時は、近寄りがたいほど綺麗な人だと思っていた。それなのに、こうして話してみると、桃ヶ崎さんはころころと表情を変える。それを見ていると、ずっとここにいたいと思えた。
小説を書いている時はいつも真剣な顔をして、紅茶を飲む時は目をとろんとさせて、頬が溶けそうになっている。小説の話は、ほとんどしなくても、あっという間に帰る時間になるのが少し惜しかった。
また、何を話そうか。そんなことを考えるだけで、明日の放課後が楽しみになった。
桜も散り始めた土曜日のことだった。
デートに行こうと凪沙さんから誘いを受け、私は有頂天で当日を迎えていた。
ポニーテールで現れた凪沙さんに見とれ、ののかは、いつも髪を下ろしていたことを思い出す。いや、待てよ。一度だけポニーテールにしていた日があったような……。
「私、綺麗でしょ!」
どや顔を向ける凪沙さんは、ののかっぽくて愛嬌があった。
映画を観て、ファミレスでご飯を食べた。それからは、カラオケ。私にとっては豪遊した気分で、気がつくと陽は傾きかけていた。
「ねえ。甘奈の小説、読んでるんだよね?」
「……はい。どうして、知ってるんですか?」
「甘奈から聞いた。トリさんに会えたって、嬉しそうだったから。私も、ハナのファンだから。更新されるのが待ち遠しくて。甘奈と付き合う前から、ずっと読んでたの。で、私をヒロインにしたいって言われた。甘奈の書くののかって、私がモデルなんだけど、私よりずっとずっと私らしいんだけどね。なんていうか、私のいいところを、私よりよく知ってるっていうか。読んでると、私、こんなふうに笑えてるんだって気づかされたりして」
凪沙さんは、どこか照れくさそうに口元を緩めた。甘奈さんの小説を読んでいた時のことを、今も大切に覚えているのだろう。
「でも、違うのかもしれない。いつの間にか、私のほうが、ののかみたいになりたくなってたのかもって思うようになったの」
タピオカのお店で、私を覗き込んだ顔を思い出した。あの時、私は、小説の中の女の子に会えた気がしていた。凪沙さんも、あの子に会いたかったのだろうか。
凪沙さんは鞄についたパンダのヌイグルミを指でつまんだ。
「これね、ののかに合わせて買ったんだ。変でしょ……」
遠くを見るように、凪沙さんは続けた。
「私も、ののかみたいになりたかったんだと思う。でも、だんだん分からなくなった。甘奈が好きなのは、私なのか、それとも甘奈の書いた私なのか。それに、甘奈も次の小説が書けなくなってた。私と一緒にいるからなのかなって」
「……それで、別れたんですか?」
「うん。離れたほうが、甘奈はまた書けるんじゃないかと思った」
「甘奈さんには、そう言ったんですか?」
「言えなかった。好きだったのに、別れたいなんて。自分でも、どう説明したらいいか分からなかった」
凪沙さんの口元に、かすかな笑みが浮かんで、すぐに消えた。
「でも、甘奈が泣いてるのを見たら、私、何やってるんだろうって思った」
「……今も、好きなんですか?」
「うん。だから、すごく困ってる」
桃ヶ崎さんのためだと思って、別れを選んだ。でも、桃ヶ崎さんが泣くところを見て、初めて分かったこともあったのだろう。好きなのに別れるなんて、私にはまだ、よく分からない。
「甘奈さんの作品が好きなんですね」
「それがつらいのかも。大好きで、たまらないんだ。また、新しい物語を書いてくれたら嬉しいなあって願ってる」
凪沙さんはスマホを取り出した。でも、画面をつけずに、また鞄へ戻した。
「いつも更新されてないか見ちゃう。誰よりも最初に読みたくて」
私はコンビニの前の二人を思い出した。小さく頷いていた甘奈さんも、あの時の凪沙さんも。
「菜乃葉さん、甘奈と付き合ってあげてよ」
「……え?」
思わず声が出た。
「ごめん。今の、忘れて。私が言うことじゃないよね」
「私はまだ誰とも付き合ったことがなくて、そういうことは、よく分かりません……。けど、誰かを好きになるって、そんな簡単なことじゃなくて……」
言いたいことが、うまく言葉にならなかった。でも、誰かに頼まれて決めることではない気がした。
凪沙さんの顔を見ながら、ののかだったら、何と言うだろうと考え始めてしまった。けれども、すぐにやめた。私も、凪沙さんがののかと同じことをすると、嬉しいと思ってしまうことがいけないように感じた。
これまで無縁だった感情と少しずつ向き合いながら、私の週末は終わった。
週が明けても、気持ちは晴れなかった。授業を受けていても、ふとした拍子に凪沙さんの言葉がよみがえってくる。結局、何ひとつ答えが出ないまま一日をやり過ごし、放課後になると私の足は部室へ向かった。桃ヶ崎さんは掃除当番で、少し遅くなるらしい。
私は本を開いて待つことにした。
紅茶をいれるには、まだ早い。そう思いながら、ポットに熱いお湯を用意した。
「ごめん。待った?」
「少しだけ」
桃ヶ崎さんは鞄を椅子に置くと、二つのティーカップを見て笑った。
「準備万端だね」
栞を挟もうとして、さっきから一ページも進んでいないことに気づいた。
それから、映画の話をした。凪沙さんと行ったことも。
桃ヶ崎さんは案外楽しそうに話を聞いてくれた。そう装っているだけかもしれないけれど。
「で、楽しかった?」
「はい」
「……そっか」
「もしかして、凪沙さんの話は、あまり聞きたくなかったですよね?」
「いいの。凪沙って、映画のあと、いっぱい感想話すでしょ」
「はい。ずっと話してました」
「昔からそうなんだよね。でね……菜乃葉さん」
桃ヶ崎さんの声が、少し低くなった。
その声を聞いて、急に不安になった。また、余計なことを言ってしまったのかもしれない。
凪沙さんと映画に行った話なんて、桃ヶ崎さんは聞きたくなかったんじゃないだろうか。楽しそうに聞いてくれたからって、私は調子に乗ってしゃべってしまった。別れたからといって、二人の思い出まで消えるわけじゃないのに。私は、まだ終わっていない気持ちに、土足で踏み込んでしまったのかもしれない。
急に申し訳なくなって、桃ヶ崎さんの顔を見られなくなった。
「私とも、今度、映画に行かない?」
「え? もちろん、嬉しいです」
「ああ、よかった」
桃ヶ崎さんの目元が、ふっと緩んだ。私は驚いていた。凪沙さんの話をして、嫌な思いをさせてしまったかもしれない。そんなことばかり考えていたから、まさか私を映画に誘ってくれるなんて、思いもしなかったのだ。
「……私も、菜乃葉さんと出かけてみたくなっちゃった」
「あの、無理してないですか?」
「気にしないで、無理もなにも、私は本当にトリさんと仲良くなりたいってずっと思ってたんだから。それが叶っただけ」
「ハナさん、ありがとうございます。私も嬉しいです」
私は、胸の奥がくすぐったくなった。
「どんな映画が好きですか?」
「菜乃葉さんが好きなやつ」
「そんな、私に合わせなくても」
「合わせたいんだけどな」
桃ヶ崎さんは、少し照れたように笑った。
そんなふうに言われると、今度は私のほうが照れてしまう。
「ねえ、菜乃葉さん」
「はい」
「今度は、菜乃葉さんを主人公にして書いてみてもいい?」
「え、ダメですよ。私なんて書いてもつまらないです。勉強もできない。スポーツも得意じゃない。極めつけは、恋愛経験もゼロですから」
「どうして、恋愛経験がゼロだとダメなの?」
「……小説って、華やかな人が主人公じゃないと、盛り上がらないんじゃないですか?」
「そうかな。私は、そうは思わないよ」
万年筆を置いた桃ヶ崎さんに真っすぐに見つめられ、思わず背筋が伸びた。
「私は、菜乃葉さんの話が、書きたい」
桃ヶ崎さんは少し考えてから、続けた。
「私が書けなくなると、いつも紅茶をいれてくれるでしょ」
「私……そんなこと、してました?」
「してるよ。しかも、私が飲み終わるころに、ちょうど二杯目が出てくるの」
私は、テーブルの上のティーポットを見た。
「菜乃葉さんって、自分では気づいてないこと、いっぱいあるよね」
「そうでしょうか」
「うん。だから、書きたい」
桃ヶ崎さんは、新しい原稿用紙を棚から取り出した。
「菜乃葉さんと一緒にいると、何も起こらない日も、ちゃんと楽しい。だから、この時間を、書いてみたい。書きたいのに、何を書けばいいか分からない時もある。でも今は、菜乃葉さんと向き合ってみたいの。だから、お願いします」
「え、えっと。困りました。でも……はい、私でよければ」
桃ヶ崎さんは、指先で万年筆をくるりと回した。
どこかで凪沙さんが、ガッツポーズをしているような気がした。
「小説のために、その子みたいにならなくていいからね。菜乃葉さんは、ずっと菜乃葉さんでいてね」
「はい、私は私以外にはなれませんから」
それから三週間ぐらいで、桃ヶ崎さんは原稿を見せてくれた。
待ちに待った原稿に手が震えた。
私は、一枚目から丁寧に読んだ。
その子は、自分を何もない人だと思っている。でも、笑ったり、怒ったり、友達のことで悩んだりする。
凪沙さんの席に座る場面では、私もこんな顔をしていたのかなと思った。
その子には、好きな人ができていた。
嬉しかったことも、うまくいかなかったことも、一番に話したい人だった。
でも、好きだということだけは、話せなかった。
物語は、そこで終わっていた。
「どう、だった? 面白かった?」
自信なさそうに桃ヶ崎さんが尋ねた。
「私、この子、好きです」
言ってから、恥ずかしくなった。だって、この子は私なのだ。
「……変ですね。自分のことなのに」
「変じゃないよ。私も、この子が好きだから」
「でも、私、こんなに優しくないですよ。もっと失敗するし、すぐ変なこと考えるし……」
「うん。そういうところも菜乃葉さんらしい。私は、そういうところが好き」
まさか、私のそんなところまで好きだと言ってもらえるなんて。自分では欠点だと思っていたことが、急にそれほど悪いものではないように思えてきた。
「この小説、菜乃葉さんに、もらってほしい」
「ネットで公開しなくていいんですか?」
「最初から、プレゼントするつもりで書いてたから」
両手で原稿を受け取り、抱きしめた。
私の話が、本当の小説になった。それが、とてつもなく嬉しかった。
「でも、ひとつだけ、いいですか?」
「なに?」
「どうして、作品は告白する手前で終わったんですか? その先を読んでみたかったです」
「実は、書けなくて……」
「ハナさんでも、書けないんですか?」
「気持ちを伝えたら、関係性が終わるかもしれないでしょ。それがとても怖かった」
「あの……もしかして、この子の好きな人って……」
言いかけて、思わず口を閉じていた。
……小説の中の女の子は、好きな人に気持ちを伝えられずにいた。それは、もしかして。
午後の爽やかな風が窓から入ってくると、頬を撫でながら、通り過ぎていった。
それを、確認するように、桃ヶ崎さんが続けた。
「菜乃葉さんが好きです。私と、付き合ってください」
初めての告白を受けて、頭が真っ白になった。次の瞬間、ドッと血が体中を駆け巡り、顔が一気に熱くなった。
同時に凪沙さんの「付き合ってあげてよ」が、頭に浮かんだ。凪沙さんに言われたから付き合うのだろうか。それとも、本当に恋なのだろうか。
桃ヶ崎さんとは、長い間ずっと話してきた。私を主人公にした小説も書いてくれた。でも、憧れていたから、嬉しかったからというだけで、恋だと決めてしまっていいのだろうか。
桃ヶ崎さんといると、嬉しい。何も話さなくても、落ち着く。にっこり微笑む顔を、また見たいと思う。
凪沙さんに手を引かれた時も、胸がいっぱいになった。あの気持ちまで、なかったことにはしたくない。
だからこそ、今ここで頷いたら、自分の気持ちが分からなくなってしまいそうだった。
「ちょっとだけ、考えてもいいですか」
「そうきたか。分かりました。また返事聞かせてください」
窓の外の葉っぱに、夕日が当たっていた。
「今日は、もう帰ろうか」
言われて、私は頷いた。
いつもより早く部室を閉めた。
木の葉をよけながら、細い道を抜ける。
校門を出ると、夕日が街を赤く染めていた。
歩くたび、手の甲がかすかに触れ合う。ほんの一瞬なのに、次に触れるのを待っている自分がいた。
明日も学校が始まれば、凪沙さんに会う。歩きながら、その時の挨拶を考えた。うまく笑えるかどうかは、分からなかった。
桃ヶ崎さんが、少し歩調を緩めた。
信号の前で止まった時、私は桃ヶ崎さんの手を見た。
何度も万年筆を握っているところを見た手。なぜだろう。その手を、繋いでみたいと思った。
「甘奈さん」
「うん? なに?」
「明日も、何も書けなくても、一緒にいたいです。……それが、私の返事です」
少しだけ、手を伸ばした。指先が、桃ヶ崎さんの手に触れた。
桃ヶ崎さんが私を見ると、手のひらを私のほうへ向けた。
桃ヶ崎さんの指が、私の指の間に入った。
温かかった。
向こう側の歩道から――凪沙さんが、歩いてきた。
……どういう顔をして笑ったらいいのかな。
私は繋いだ手を見た。離せば、今までと同じに笑える。そう考えた自分が、まだいた。
桃ヶ崎さんの指が、わずかに動いて、私は握り返した。
信号が青になった。
凪沙さんがスマホから顔を上げて、横断歩道へ踏み出した。
「あれ、二人とも一緒なんだ」
凪沙さんの目が、繋いだ手に止まった。
私は息を止めた。
「……うん」
凪沙さんは、繋いだ手から桃ヶ崎さんへ視線を戻した。
「小説も、新しいの出来たら読ませてね」
「うん。書ける気がする」
「楽しみにしてる。じゃ、また明日。学校でね」
「うん、じゃ」
すれ違ってからも、私たちは手を離さなかった。
横断歩道を渡りきったところで、桃ヶ崎さんが言った。
「新しい作品が書けそうな気がする! まだ誰も知らない、とってもキュンとする甘い恋愛小説!」
「すごいです! 内容、教えてください」
「まだ、ひ・み・つ」
一言一言、桃ヶ崎さんは区切るように言った。
「今度は、誰かじゃなくて、自分で主人公を生み出してみたいんだ」
桃ヶ崎さんは、繋いだ手を少し持ち上げた。
「やっと気づいたよ。凪沙との恋が終わって、いっぱい泣いた。泣いて泣いて、失ってから初めて分かった気持ちも、いっぱいあった。ありすぎて、また泣いた。けどね、今……私はすっごく嬉しいの。ちょっと怖い気持ちもあるけど……」
遠くに沈んでいく夕日を眺めながら、桃ヶ崎さんが何かをひらめいたようだった。
「あ……そっか! 感情が、物語になるんだ」
「感情がですか?」
「私が誰かを好きになって、嬉しくなったり、ドキドキしたり、怖くなったり、泣いたり。その気持ちが、物語になるんだ」
桃ヶ崎さんは本当にすごい。普通なら言葉にするのも恥ずかしくなりそうなことを、平気で言う。
「やっぱり、かっこいいです」
「今の私なら、何ページも書けちゃいそうだよ」
繋いだ手に、少し力がこもった。
見上げると、夕焼けと夜の色が綺麗に混ざり合っていた。
真っ白な原稿用紙に、桃ヶ崎さんがどんな物語を書いていくのか、楽しみだった。
でも、それ以上に楽しみなのは、明日も、甘奈さんに会えること。
もうすぐ、暑い夏が来る。
そのころも、こうして手を繋いでいたいと思った。
声がして、椅子ごと飛び上がりそうになった。
目の前に汐海凪沙さんが立っていた。
「ごめんなさい。すぐにどきます!」
「鶯さん、なんでここに座ってたの?」
「えっと、あのその……汐海さんのこと考えたくて。それで座ってみたら、汐海さんの気持ちがよく分かるんじゃないかと……」
言ってしまってから、急に顔が熱くなった。
まだ話したことのないクラスメイトに向かって、何を言ってしまってるんだろう。頭がどうかしてる。
「なにそれ、意味分かんない」
「ですよね」
「私のこと、知りたいってこと?」
凪沙さんのまるくて大きな目が急接近する。やっぱり、私の好きな小説の主人公、ののかに似ている。ののかは、ハナさんが書いてるヒロインで、明るくて、少し強引で、自分の人生をいっぽいっぽ丁寧に生きる、とびきりかわいい女の子だ。汐海さんが誰かに手を振ったり、笑いながら輪の外の子を呼んだりするたび、読み慣れた場面が浮かぶようだった。ののかが同じクラスにいたら、きっと、こんな感じだろう。
「ねえ、鶯さん」
「は、はい。なんでしょうか……」
「このあと時間ある?」
「え? 時間、ですか?」
「タピオカ飲みに行かない? 駅前にできたところ、行ってみたいの」
汐海さんを見てから、クラス中を見回した。教室には、私たちしか残っていなかった。
「私で、いいんですか?」
「もちろん!」
そう言って、汐海さんは笑った。やっぱり似ている。ののかも、相手が遠慮していると、こんなふうに真っすぐに誘う。遠回りなんてしないのだ。揺れる艶のある長い髪もそっくりだ。何度も読んだ小説の中に、迷い込んでしまった気さえしてくる。
「……行きたいです」
「よかった。名前、凪沙でいいよ」
「……凪沙、さん」
勇気を出して小さく呼ぶと、凪沙さんの長い髪がふわりと揺れた。
「菜乃葉さんか、いい名前だね!」
自分の名前が、知らない響きになって返ってきた。呼ばれ慣れているはずの名前なのに、もう一度聞きたくなる。同時に、ハナさんが書いた物語の続きを、今も見ているような気がした。
「今度、私も菜乃葉さんの席に座ってみようかな」
「私の席ですか?」
「うん。ちょっと興味あるかな」
「それって、私にですか?」
「うーん、景色かな」
「ああ……そうですよね。桜の木が、よく見えますよ」
「じゃあ、散る前に、座らせて」
学校を出て、電車で数駅。何度も来たことのある新宿なのに、今日は少し違って見えた。隣には、あの凪沙さんがいる。そう思うだけで、つい頬が緩みそうになる。人混みではぐれないように、鞄についたパンダのヌイグルミを目印にして歩いた。
時々、揺れる長い髪に目が行ってしまう。
お店の列に並ぶと、凪沙さんが子どものように目を輝かせた。
「菜乃葉さんは、どれにする?」
メニューには、写真と長い名前が並んでいた。
迷わずに、私は普通のミルクティーを指さした。
「私はこれ」
「決めるの早いね」
「ていうか、毎回同じのばかり飲むんです。安心なので」
「ああ、それ分かる。でも、こっちも美味しそう」
意外にも凪沙さんは、まだ迷っていた。何でもすぐに決める人だと思っていた。
……でも、私、どうしてそう思ったのだろう。ああ、そうだ。ののかは、いつも抹茶牛乳タピオカを迷わずに頼むからだ。勝手に小説の主人公と凪沙さんを結びつけている自分が、少しおかしくなった。
列が一人分進んでも、凪沙さんはメニューを見ていた。
小説と現実は違う。そのことに、少しほっとしている。それなのに、何を頼むのかが気になって、私もメニューから目を離せなかった。
「凪沙さんでも、迷うんですね」
「でも、って何?」
「ぱっと決める人かと思ってました」
「あはは、半分は当たってるかもね。でも、もう決めたよ」
店員さんに声をかけられ、抹茶牛乳タピオカを頼む凪沙さんを見た瞬間、息がつまりそうになった。
「うん? どうかした?」
「いや、なにもないです」
ごまかしたけれど、次の場面まで思い出してしまった。ののかなら、このあと、隣の子のタピオカをひとくち飲みたがる。私は受け取ったばかりのカップにささるストローを見ながら、そんなことを想像していた。
凪沙さんは自分の分をごくごく飲んでいる。
やっぱり……考えすぎだろう。
「菜乃葉さん、ちょっとあっち向いてて」
「え?」
「いいから、いいから。いいよって言うまでね」
言われたとおりに横を向いた。ののかも、こう言って隣の子のタピオカをこっそり飲むのだ。まさか、凪沙さんも同じことをするつもりだろうか。
すぐそばで、凪沙さんが私のカップに顔を近づける気配がした。
「もう、いいよ」
振り返ると、凪沙さんと目が合った。
「ひとくちもらっちゃった」
悪びれる様子もなく、凪沙さんは子犬みたいな目でこちらを見ていた。まったく、そんな顔をされたら怒れない。いや、怒るつもりなんて最初からないのだけれど。
「あの……小説とか読みます?」
「うん、たまにね。菜乃葉さんは?」
「好きです。ネット小説が主にですけど。でね、その……」
そこまで言いかけて、タピオカを飲んだ。凪沙さんに似ている主人公が好きで、と本当は言いそうになった。けれど、どういうわけかそれを言ってしまうと、凪沙さんとの関係まで崩れていくような気がしてしまった。
帰りのホームで友達申請を送ってもらったところで、電車が来たので慌てて飛び乗った。
凪沙さんのスマホは、ののかと同じ白色だった。ケースまで透明でののかと同じだった。ここまでくると、いよいよ凪沙さんが小説の世界から飛び出してきたんじゃないか、という妄想に引っ張られてしまう。そんなことを考えていると、間違えて友達申請を拒否してしまった。
唖然として、拒否の文字が消えた画面を見つめていると、スマホが鳴った。
【トリさん。今日も一日お疲れさま。どんな日でしたか?】
小説を書いているハナさんからだった。小説の感想を書いているうちに、直接メッセージをやりとりしたくなり、最初はファンレターを送り、今ではこうしてメッセージのやりとりまでさせてもらっている。多くのファンがいるのに、私だけ特別扱いされているようで、メッセージが届くたびに、胸が高鳴った。
家に帰って、ベッドの上でハナさんへの返事を書いた。
【聞いてください! 今日は超ビッグイベントが発生しました。クラスの超かわいい女の子と、新宿でタピオカを飲みました!】
【すごいすごい、おめでとう! もしかして、前に話してた、仲良くなりたい子?】
【そうです。覚えててくれたんですね!】
【トリさん、前はその子の横を通るだけで足が震えるって言ってましたよね】
私の名前の鶯が鳥だから、ここではトリと名乗っている。
お互いに、本名も顔も知らない。けれど、ハナさんの書いた小説は全部読んでいるし、公園のベンチが好きなこと、紅茶が好きなこと、夜に星を見るのが好きなことも知っている。
【それで、楽しかった?】
【楽しかったです。私、全然うまく話せなかったけど。その子は、笑ってくれました】
【よかったね】
続けて、もう一つ届いた。
【私も今日、実は新宿にいたよ。タピオカ飲んだ】
【ええ! ハナさんも東京ですか!】
【そう。新宿は近いよ】
【嘘みたい。どこかですれ違ったかもしれませんね】
ハナさんと会ったら、どんな感じだろう。会って話してみたいと思った。でも会おうとは書かなかった。顔が分からないことで話せる内容が、きっとある。この距離じゃなくなったら、何を話していいのか分からなくなる。あいまいは、あいまいなまま。きっと、これはちょうどいい距離感なのだと思う。
私は友達申請を拒否した失敗を打ち明けた。
【明日、謝りたいです。でも、あの子に話しかけるのって、すごく勇気がいるんです】
【うまく話そうとしなくても、そのまま言えば分かってくれると思う】
ハナさんとのメッセージは本当に楽しく、時間があっという間に流れていった。
窓から入る少しひんやりとした夜の風が頬を撫でて、思わず星空を見上げた。きっと、ハナさんも同じ空を見上げている。
……凪沙さんも、見ているのかな。
翌朝、下駄箱で凪沙さんを待ち伏せ、呼び止めていた。
「ごめんなさい。申請を押し間違えて。拒否するつもりじゃなかったんです」
凪沙さんは一瞬黙った。それからほっとしたように息を吐いた。
「よかった。もう一回、送ってもいい?」
「お願いします」
今度はその場で承認すると、凪沙さんが確認するように画面を覗いた。肩が触れる。その近さにドギマギしていると、チャイムが鳴った。
その時だった。
凪沙さんが私の手を引いて走りだした。手を繋いでくれた、というべきだろうか……。心臓がドクンドクン打って、どうにかなっちゃいそうだった。
「遅刻しちゃう! ほら、もたもたしない!」
教室まで一緒にダッシュ。ただそれだけのことなのに、私の人生史上初のビッグイベントであったことは間違いなかった。まだ、誰とも手を繋いだことがない私の手を、初めて繋いでくれたのが凪沙さんになったのだから。
その日は一日中、心臓が落ち着かなかった。そんな日は、決まって私は愛犬のキリと散歩に出かけることにしていた。キリは電柱のにおいを念入りに確かめ、今も、コンビニの前から動かないでいた。
リードを持ち直したところで、ベンチに座る見覚えのある長い髪の毛が目に入った。
――凪沙さんだ。隣にいるのは、ちょっと金色がかった髪の毛が特徴の女の子だった。よく見ると、桃ヶ崎甘奈さんだと分かった。隣のクラスで一番かわいい子で、読書感想文のコンクールで表彰されたこともある。
二人の間には、誰も寄せつけないどんよりとした空気が漂っている気がして、思わずキリの横にしゃがんだ。二人が美人ってだけでも近寄りがたい。
「分かってる。もう、言わない」
桃ヶ崎さんの声だった。
「甘奈、ごめん。もう終わり。決めたことだから」
「でも、好きだったことまで、なかったことにしないで」
リードを握りしめ、聞いてはいけないと思いながらも、二人の会話に意識を集中させた。
凪沙さんが何か答えたけれど、車が通って聞こえなかった。
桃ヶ崎さんが小さく頷くのが見えた。
それから凪沙さんの肩を、拳で軽く押した。
怒っているみたいにも、泣くのを我慢しているみたいにも見えた。
キリが、やっと歩き始めた。私は逃げるみたいにその場を後にした。
家に帰ると、真っ先にシャワーを浴びた。頭から勢いよくお湯をかぶってみたけれど、どうにもすっきりしなかった。
パジャマに着替えたところで、ハナさんからメッセージが届いた。
【申請のこと、謝れた?】
【謝れました! 無事につながりました】
【おめでとう!】
私はついさっきあった出来事を、ハナさんに書きかけた。でも画面に入力した文章を全部消した。知らない人に話すのは、違う気がしたからだ。
【ハナさんは、どんな日でしたか?】
返事が来るまで、いつもより時間がかかった。
【今日は、ちょっと疲れたかな】
【大丈夫ですか?】
【大丈夫。小説の主人公って、好きな人に、ちゃんと好きになってもらえるでしょ。現実は、違うなって思ったよ】
【ハナさん、好きな人がいるんですか?】
【いた。っていうほうが正しい】
困惑した。
どう返していいのか分からず、迷ったあげく、たわいのない話題を送ることにした。
【私、お母さんが買ってきたクッキー、半分ぐらい一人で食べちゃいました】
しばらくして、返事が来た。
【何味?】
【チョコとミルクです。ミルクを家族に残しました】
【私も、チョコが好き】
【残しておけばよかったです。ハナさんの分】
【そう思ってくれただけで、嬉しい!】
画面を見ながら、つい笑ってしまった。クッキーの話なんかでよかったのだろうか。でも、ハナさんが少しでも元気になったなら、それでよかった。
今度お母さんが買ってきたら、チョコ味を残しておこう。渡せるわけでもないのに、そんなことを考えた。
翌朝、春の妖精が魔法をかけたみたいに、校庭の桜は満開になっていた。
ハナさんから届いたメッセージを読みながら歩いていると、自然と足取りが弾んだ。
階段に差しかかったところで、横から駆けてきた女の子とぶつかった。二人のスマホが、音を立てて廊下に落ちた。
「あ、すみませんっ!」
しゃがみこんでスマホを拾い、慌てて一台を差し出した。そこで初めて、相手の顔を見た。
……えっ。
思わず手が止まった。桃ヶ崎甘奈さんだった。よりによって、昨日、凪沙さんと話していたあの人だ。
――好きだったことまで、なかったことにしないで。
あの声が耳によみがえった途端、目を合わせているのが気まずくなった。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。失礼します!」
相手の返事も待たずに、その場を離れた。桃ヶ崎さんは何も悪くないのに、昨日のことが思い出されて、まともに話せなかった。
教室の手前まで来て、ようやくスマホに目を落とした。ハナさんから返事が来ているだろうか。
画面を開いて、指が止まった。
……あれ?
さっきハナさんに送ったはずの文章が、そこにある。
けれど、吹き出しの位置が逆だった。
相手の名前のところに、見慣れた二文字があった。
――トリ。
その二文字を見て、息が止まった。にわかに信じがたいが、そういうことだろう。私は画面を伏せた。それ以上は見なくても、もう現実を理解するのには十分だった。つまり、ハナさんはあろうことか、隣のクラスのアイドル桃ヶ崎甘奈さんだ。大好きな小説を書くハナさん、私の心の支えになっているハナさんが、同じ学校にいた。しかも、隣のクラスに。
「あの……!」
ぎょっとして顔を上げると、桃ヶ崎さんが目の前に立っていた。私のスマホを、両手で持って、首をかしげている。いやおうなしに目が合う。透き通るほど美しい目だ。
「……トリさん?」
いきなりチャットネームで呼ばれて、くすぐったい。
「……ハナさん?」
まったく面識がなかった桃ヶ崎さんと、違う次元で繋がる。
「スマホ、ごめんなさい」
「私が間違えました。すみません」
端末を交換する指先が触れ合った。
「……本当に、トリさん?」
「はい。……本当に。トリです。あの、そっちも、本当にハナさんですか?」
桃ヶ崎さんが笑ったのと同時に、チャイムが鳴った。
「あとで、話せる?」
「はい」
返事は、思いのほかすぐに出ていた。その時には、もう桃ヶ崎さんというよりも、ハナさんに会えたことが嬉しくなっていた。ずっと話してきた人が、隣の教室にいた。それが嬉しい。確かに、凪沙さんの前で拳を握っていた桃ヶ崎さんも重なり複雑な心境ではあるのだが……。私の中では、ハナさんと桃ヶ崎さんが、まだ一人になっていなかった。
放課後、ハナさんから届いた校内の地図を頼りに、体育館の裏へ向かった。その先の小道を抜けるとぽつんとひとつの建物が現れた。
扉の横に、文芸部、と書いた看板が掛かっていた。
「トリです。……鶯菜乃葉です」
声が少し震えた。
それを悟られないように、平然とした顔をつくった。
「どうぞ。入って」
ドアを開けると、小さな部屋には本がぎっしり並んでいた。窓のそばに小さな丸テーブルがあって、ティーカップが二つ。木漏れ日が、部屋全体を優しく包んでいた。
「ハナです。桃ヶ崎甘奈です。ここは、文芸部。でもね、去年なくなっちゃって。今は先生に鍵を借りて、ひとりで書いてるの」
部屋の中を見回して、何度も読んだ物語が、ここから生まれたのかと思うと、神聖な場所のように思えた。
大きく息を吸って吐いた。なんだか、落ち着く場所だった。
「どうぞ、座って。紅茶も入ってます」
案内されるまま、腰を下ろして、紅茶をひと口飲んだ。
「何だか、変な気持ち。トリさんに、このことを報告したくなってる」
「分かります。私もハナさんに言いたいです」
二人で笑った。
頭の中で渦を巻いていた気持ちが、少しずつ落ち着いていった。
「あの……昨日、凪沙さんとコンビニの前のベンチで話しているところを、見ました。話している内容も少し聞こえました」
桃ヶ崎さんが口を尖らせて、それから口をぎゅっと結んだ。
「ごめんなさい、盗み聞きしたみたいで……」
「そっかあ」
桃ヶ崎さんは紅茶をひと口飲んだ。
「私、凪沙と付き合ってたの。振られちゃったけどね」
「え……そうでしたか」
「もう終わったことだから。あの、私もひとつ、聞いてみたいんだけど、トリさんが仲良くなりたかった子って、もしかして凪沙だったりする? なんとなくだけど」
ティーカップの縁に、私の指がひっかかった。答えられずにいると、
「やっぱり、そうか」
桃ヶ崎さんは息を長く吐いて、気持ちを整えているように見えた。
「……私、トリさんに、いつか会えたら、ここで紅茶を飲みたいと思ってた。今日は、その日になった。キセキみたい。今、すごく嬉しい」
雰囲気を変えるような桃ヶ崎さんの優しい声だった。
「好きなんです。ヒロインの、ののかさんが」
私も本心で答えた。
それから、何度も伝えた小説の感想を、改めて長々と伝えると桃ヶ崎さんは、薄く笑った。
「ありがとう。実はね、あのヒロイン、凪沙がモデルなの。私が凪沙に一目ぼれして、告白したの。で、付き合ってからは、ずっと彼女のことを書いてたの」
何度も何度も読み返したののかが、凪沙さんとぴったり重なる。
「どうりで……似てるわけだ」
「そう思ったこと、あった?」
「はい。話してる時も。ののかみたいだってずっと思ってました。だから、かな。ののかと凪沙さんが一緒に見えてからは、ずっと視線がついつい凪沙さんを追いかけるようになったんです。それって、ハナさんの小説があったから、凪沙さんと仲良くなりたかったのかもしれません」
桃ヶ崎さんはしばらく黙って、机の上にあった万年筆を、指で転がしていた。
……あ。私、また余計なことを言っちゃったかもしれない。
沈黙にいたたまれなくなった。
「あの、また、来てもいいですか?」
「……書いてる時は、あまり話せないけど」
「静かにしてます」
「退屈かもしれないよ」
「大丈夫です。本、いっぱいありますし」
そう答えてから、少し考えた。
「……それに、ハナさんがいるので」
桃ヶ崎さんが顔を上げて、私を見た。
「私、書いてるだけだよ?」
「はい。それでも、いいんです」
自分でも驚くほど、正直な言葉だった。
でも、どうしてそれで十分だと思うのか、うまく説明できなかった。
視線の行き場に困っていると、桃ヶ崎さんは柔らかい微笑みを浮かべた。
私は、次にこの部屋へ来る日を、もう考えていた。
「明日、来ますね!」
次の日の朝、教室に入ると、満開の桜を背に、凪沙さんが私の席に座っていた。
「桜、全部見えた。満開で綺麗だね。私の席からは桜の木なんて見えないのに。時々、花びらは入ってくるけど」
「……凪沙さんの席より、黒板は遠いですけどね」
「一番後ろだもんね」
風が吹いて、凪沙さんの髪が揺れる。桜の香りと混ざって、キュンとなった。これも、ののかの香りと同じだろうか。
私は、ののかが好きだ。その気持ちと、凪沙さんを好きな気持ちを、同じものにしようとしていたのだと気づいていた。
もちろん、誰が見ても凪沙さんは魅力的でかわいい女の子であることに間違いはないけれど。
それから私は週に二、三回、部室へ行くようになった。
桃ヶ崎さんが遅れる日は、先に鍵を借りて入った。窓を開け、丸テーブルを拭いて、紅茶をいれて待つ。彼女が原稿用紙に物語を書いている間は、借りた本を読んだ。
万年筆が紙をこする音が好き。
でもいつもすらすら書けるわけではないらしい。
ある日、桃ヶ崎さんは机に伏せた。
「ダメだわ。全員、黙ってる」
「全員って、誰ですか?」
「登場人物」
「お腹がすいてるんじゃないですか」
「私が?」
「登場人物が」
桃ヶ崎さんは顔を横に向けて、私を見る。それから堪えていた何かを吹き出すように笑った。
「菜乃葉さんって、変なところで面白いよね」
「それ……褒めてます?」
「たぶん、すごく」
桃ヶ崎さんは笑いを収めようとしているのに、私と目が合うと、また口元が緩んでしまう。そんなにおかしなことを言っただろうか。つられて私まで笑ってしまった。
「ハナさんって、こんなふうに笑うんですね」
「え、どんなふう?」
「……秘密です」
「なにそれ。気になるんだけど」
ほっぺを膨らませ、桃ヶ崎さんは拗ねている。遠くから見ているだけの時は、近寄りがたいほど綺麗な人だと思っていた。それなのに、こうして話してみると、桃ヶ崎さんはころころと表情を変える。それを見ていると、ずっとここにいたいと思えた。
小説を書いている時はいつも真剣な顔をして、紅茶を飲む時は目をとろんとさせて、頬が溶けそうになっている。小説の話は、ほとんどしなくても、あっという間に帰る時間になるのが少し惜しかった。
また、何を話そうか。そんなことを考えるだけで、明日の放課後が楽しみになった。
桜も散り始めた土曜日のことだった。
デートに行こうと凪沙さんから誘いを受け、私は有頂天で当日を迎えていた。
ポニーテールで現れた凪沙さんに見とれ、ののかは、いつも髪を下ろしていたことを思い出す。いや、待てよ。一度だけポニーテールにしていた日があったような……。
「私、綺麗でしょ!」
どや顔を向ける凪沙さんは、ののかっぽくて愛嬌があった。
映画を観て、ファミレスでご飯を食べた。それからは、カラオケ。私にとっては豪遊した気分で、気がつくと陽は傾きかけていた。
「ねえ。甘奈の小説、読んでるんだよね?」
「……はい。どうして、知ってるんですか?」
「甘奈から聞いた。トリさんに会えたって、嬉しそうだったから。私も、ハナのファンだから。更新されるのが待ち遠しくて。甘奈と付き合う前から、ずっと読んでたの。で、私をヒロインにしたいって言われた。甘奈の書くののかって、私がモデルなんだけど、私よりずっとずっと私らしいんだけどね。なんていうか、私のいいところを、私よりよく知ってるっていうか。読んでると、私、こんなふうに笑えてるんだって気づかされたりして」
凪沙さんは、どこか照れくさそうに口元を緩めた。甘奈さんの小説を読んでいた時のことを、今も大切に覚えているのだろう。
「でも、違うのかもしれない。いつの間にか、私のほうが、ののかみたいになりたくなってたのかもって思うようになったの」
タピオカのお店で、私を覗き込んだ顔を思い出した。あの時、私は、小説の中の女の子に会えた気がしていた。凪沙さんも、あの子に会いたかったのだろうか。
凪沙さんは鞄についたパンダのヌイグルミを指でつまんだ。
「これね、ののかに合わせて買ったんだ。変でしょ……」
遠くを見るように、凪沙さんは続けた。
「私も、ののかみたいになりたかったんだと思う。でも、だんだん分からなくなった。甘奈が好きなのは、私なのか、それとも甘奈の書いた私なのか。それに、甘奈も次の小説が書けなくなってた。私と一緒にいるからなのかなって」
「……それで、別れたんですか?」
「うん。離れたほうが、甘奈はまた書けるんじゃないかと思った」
「甘奈さんには、そう言ったんですか?」
「言えなかった。好きだったのに、別れたいなんて。自分でも、どう説明したらいいか分からなかった」
凪沙さんの口元に、かすかな笑みが浮かんで、すぐに消えた。
「でも、甘奈が泣いてるのを見たら、私、何やってるんだろうって思った」
「……今も、好きなんですか?」
「うん。だから、すごく困ってる」
桃ヶ崎さんのためだと思って、別れを選んだ。でも、桃ヶ崎さんが泣くところを見て、初めて分かったこともあったのだろう。好きなのに別れるなんて、私にはまだ、よく分からない。
「甘奈さんの作品が好きなんですね」
「それがつらいのかも。大好きで、たまらないんだ。また、新しい物語を書いてくれたら嬉しいなあって願ってる」
凪沙さんはスマホを取り出した。でも、画面をつけずに、また鞄へ戻した。
「いつも更新されてないか見ちゃう。誰よりも最初に読みたくて」
私はコンビニの前の二人を思い出した。小さく頷いていた甘奈さんも、あの時の凪沙さんも。
「菜乃葉さん、甘奈と付き合ってあげてよ」
「……え?」
思わず声が出た。
「ごめん。今の、忘れて。私が言うことじゃないよね」
「私はまだ誰とも付き合ったことがなくて、そういうことは、よく分かりません……。けど、誰かを好きになるって、そんな簡単なことじゃなくて……」
言いたいことが、うまく言葉にならなかった。でも、誰かに頼まれて決めることではない気がした。
凪沙さんの顔を見ながら、ののかだったら、何と言うだろうと考え始めてしまった。けれども、すぐにやめた。私も、凪沙さんがののかと同じことをすると、嬉しいと思ってしまうことがいけないように感じた。
これまで無縁だった感情と少しずつ向き合いながら、私の週末は終わった。
週が明けても、気持ちは晴れなかった。授業を受けていても、ふとした拍子に凪沙さんの言葉がよみがえってくる。結局、何ひとつ答えが出ないまま一日をやり過ごし、放課後になると私の足は部室へ向かった。桃ヶ崎さんは掃除当番で、少し遅くなるらしい。
私は本を開いて待つことにした。
紅茶をいれるには、まだ早い。そう思いながら、ポットに熱いお湯を用意した。
「ごめん。待った?」
「少しだけ」
桃ヶ崎さんは鞄を椅子に置くと、二つのティーカップを見て笑った。
「準備万端だね」
栞を挟もうとして、さっきから一ページも進んでいないことに気づいた。
それから、映画の話をした。凪沙さんと行ったことも。
桃ヶ崎さんは案外楽しそうに話を聞いてくれた。そう装っているだけかもしれないけれど。
「で、楽しかった?」
「はい」
「……そっか」
「もしかして、凪沙さんの話は、あまり聞きたくなかったですよね?」
「いいの。凪沙って、映画のあと、いっぱい感想話すでしょ」
「はい。ずっと話してました」
「昔からそうなんだよね。でね……菜乃葉さん」
桃ヶ崎さんの声が、少し低くなった。
その声を聞いて、急に不安になった。また、余計なことを言ってしまったのかもしれない。
凪沙さんと映画に行った話なんて、桃ヶ崎さんは聞きたくなかったんじゃないだろうか。楽しそうに聞いてくれたからって、私は調子に乗ってしゃべってしまった。別れたからといって、二人の思い出まで消えるわけじゃないのに。私は、まだ終わっていない気持ちに、土足で踏み込んでしまったのかもしれない。
急に申し訳なくなって、桃ヶ崎さんの顔を見られなくなった。
「私とも、今度、映画に行かない?」
「え? もちろん、嬉しいです」
「ああ、よかった」
桃ヶ崎さんの目元が、ふっと緩んだ。私は驚いていた。凪沙さんの話をして、嫌な思いをさせてしまったかもしれない。そんなことばかり考えていたから、まさか私を映画に誘ってくれるなんて、思いもしなかったのだ。
「……私も、菜乃葉さんと出かけてみたくなっちゃった」
「あの、無理してないですか?」
「気にしないで、無理もなにも、私は本当にトリさんと仲良くなりたいってずっと思ってたんだから。それが叶っただけ」
「ハナさん、ありがとうございます。私も嬉しいです」
私は、胸の奥がくすぐったくなった。
「どんな映画が好きですか?」
「菜乃葉さんが好きなやつ」
「そんな、私に合わせなくても」
「合わせたいんだけどな」
桃ヶ崎さんは、少し照れたように笑った。
そんなふうに言われると、今度は私のほうが照れてしまう。
「ねえ、菜乃葉さん」
「はい」
「今度は、菜乃葉さんを主人公にして書いてみてもいい?」
「え、ダメですよ。私なんて書いてもつまらないです。勉強もできない。スポーツも得意じゃない。極めつけは、恋愛経験もゼロですから」
「どうして、恋愛経験がゼロだとダメなの?」
「……小説って、華やかな人が主人公じゃないと、盛り上がらないんじゃないですか?」
「そうかな。私は、そうは思わないよ」
万年筆を置いた桃ヶ崎さんに真っすぐに見つめられ、思わず背筋が伸びた。
「私は、菜乃葉さんの話が、書きたい」
桃ヶ崎さんは少し考えてから、続けた。
「私が書けなくなると、いつも紅茶をいれてくれるでしょ」
「私……そんなこと、してました?」
「してるよ。しかも、私が飲み終わるころに、ちょうど二杯目が出てくるの」
私は、テーブルの上のティーポットを見た。
「菜乃葉さんって、自分では気づいてないこと、いっぱいあるよね」
「そうでしょうか」
「うん。だから、書きたい」
桃ヶ崎さんは、新しい原稿用紙を棚から取り出した。
「菜乃葉さんと一緒にいると、何も起こらない日も、ちゃんと楽しい。だから、この時間を、書いてみたい。書きたいのに、何を書けばいいか分からない時もある。でも今は、菜乃葉さんと向き合ってみたいの。だから、お願いします」
「え、えっと。困りました。でも……はい、私でよければ」
桃ヶ崎さんは、指先で万年筆をくるりと回した。
どこかで凪沙さんが、ガッツポーズをしているような気がした。
「小説のために、その子みたいにならなくていいからね。菜乃葉さんは、ずっと菜乃葉さんでいてね」
「はい、私は私以外にはなれませんから」
それから三週間ぐらいで、桃ヶ崎さんは原稿を見せてくれた。
待ちに待った原稿に手が震えた。
私は、一枚目から丁寧に読んだ。
その子は、自分を何もない人だと思っている。でも、笑ったり、怒ったり、友達のことで悩んだりする。
凪沙さんの席に座る場面では、私もこんな顔をしていたのかなと思った。
その子には、好きな人ができていた。
嬉しかったことも、うまくいかなかったことも、一番に話したい人だった。
でも、好きだということだけは、話せなかった。
物語は、そこで終わっていた。
「どう、だった? 面白かった?」
自信なさそうに桃ヶ崎さんが尋ねた。
「私、この子、好きです」
言ってから、恥ずかしくなった。だって、この子は私なのだ。
「……変ですね。自分のことなのに」
「変じゃないよ。私も、この子が好きだから」
「でも、私、こんなに優しくないですよ。もっと失敗するし、すぐ変なこと考えるし……」
「うん。そういうところも菜乃葉さんらしい。私は、そういうところが好き」
まさか、私のそんなところまで好きだと言ってもらえるなんて。自分では欠点だと思っていたことが、急にそれほど悪いものではないように思えてきた。
「この小説、菜乃葉さんに、もらってほしい」
「ネットで公開しなくていいんですか?」
「最初から、プレゼントするつもりで書いてたから」
両手で原稿を受け取り、抱きしめた。
私の話が、本当の小説になった。それが、とてつもなく嬉しかった。
「でも、ひとつだけ、いいですか?」
「なに?」
「どうして、作品は告白する手前で終わったんですか? その先を読んでみたかったです」
「実は、書けなくて……」
「ハナさんでも、書けないんですか?」
「気持ちを伝えたら、関係性が終わるかもしれないでしょ。それがとても怖かった」
「あの……もしかして、この子の好きな人って……」
言いかけて、思わず口を閉じていた。
……小説の中の女の子は、好きな人に気持ちを伝えられずにいた。それは、もしかして。
午後の爽やかな風が窓から入ってくると、頬を撫でながら、通り過ぎていった。
それを、確認するように、桃ヶ崎さんが続けた。
「菜乃葉さんが好きです。私と、付き合ってください」
初めての告白を受けて、頭が真っ白になった。次の瞬間、ドッと血が体中を駆け巡り、顔が一気に熱くなった。
同時に凪沙さんの「付き合ってあげてよ」が、頭に浮かんだ。凪沙さんに言われたから付き合うのだろうか。それとも、本当に恋なのだろうか。
桃ヶ崎さんとは、長い間ずっと話してきた。私を主人公にした小説も書いてくれた。でも、憧れていたから、嬉しかったからというだけで、恋だと決めてしまっていいのだろうか。
桃ヶ崎さんといると、嬉しい。何も話さなくても、落ち着く。にっこり微笑む顔を、また見たいと思う。
凪沙さんに手を引かれた時も、胸がいっぱいになった。あの気持ちまで、なかったことにはしたくない。
だからこそ、今ここで頷いたら、自分の気持ちが分からなくなってしまいそうだった。
「ちょっとだけ、考えてもいいですか」
「そうきたか。分かりました。また返事聞かせてください」
窓の外の葉っぱに、夕日が当たっていた。
「今日は、もう帰ろうか」
言われて、私は頷いた。
いつもより早く部室を閉めた。
木の葉をよけながら、細い道を抜ける。
校門を出ると、夕日が街を赤く染めていた。
歩くたび、手の甲がかすかに触れ合う。ほんの一瞬なのに、次に触れるのを待っている自分がいた。
明日も学校が始まれば、凪沙さんに会う。歩きながら、その時の挨拶を考えた。うまく笑えるかどうかは、分からなかった。
桃ヶ崎さんが、少し歩調を緩めた。
信号の前で止まった時、私は桃ヶ崎さんの手を見た。
何度も万年筆を握っているところを見た手。なぜだろう。その手を、繋いでみたいと思った。
「甘奈さん」
「うん? なに?」
「明日も、何も書けなくても、一緒にいたいです。……それが、私の返事です」
少しだけ、手を伸ばした。指先が、桃ヶ崎さんの手に触れた。
桃ヶ崎さんが私を見ると、手のひらを私のほうへ向けた。
桃ヶ崎さんの指が、私の指の間に入った。
温かかった。
向こう側の歩道から――凪沙さんが、歩いてきた。
……どういう顔をして笑ったらいいのかな。
私は繋いだ手を見た。離せば、今までと同じに笑える。そう考えた自分が、まだいた。
桃ヶ崎さんの指が、わずかに動いて、私は握り返した。
信号が青になった。
凪沙さんがスマホから顔を上げて、横断歩道へ踏み出した。
「あれ、二人とも一緒なんだ」
凪沙さんの目が、繋いだ手に止まった。
私は息を止めた。
「……うん」
凪沙さんは、繋いだ手から桃ヶ崎さんへ視線を戻した。
「小説も、新しいの出来たら読ませてね」
「うん。書ける気がする」
「楽しみにしてる。じゃ、また明日。学校でね」
「うん、じゃ」
すれ違ってからも、私たちは手を離さなかった。
横断歩道を渡りきったところで、桃ヶ崎さんが言った。
「新しい作品が書けそうな気がする! まだ誰も知らない、とってもキュンとする甘い恋愛小説!」
「すごいです! 内容、教えてください」
「まだ、ひ・み・つ」
一言一言、桃ヶ崎さんは区切るように言った。
「今度は、誰かじゃなくて、自分で主人公を生み出してみたいんだ」
桃ヶ崎さんは、繋いだ手を少し持ち上げた。
「やっと気づいたよ。凪沙との恋が終わって、いっぱい泣いた。泣いて泣いて、失ってから初めて分かった気持ちも、いっぱいあった。ありすぎて、また泣いた。けどね、今……私はすっごく嬉しいの。ちょっと怖い気持ちもあるけど……」
遠くに沈んでいく夕日を眺めながら、桃ヶ崎さんが何かをひらめいたようだった。
「あ……そっか! 感情が、物語になるんだ」
「感情がですか?」
「私が誰かを好きになって、嬉しくなったり、ドキドキしたり、怖くなったり、泣いたり。その気持ちが、物語になるんだ」
桃ヶ崎さんは本当にすごい。普通なら言葉にするのも恥ずかしくなりそうなことを、平気で言う。
「やっぱり、かっこいいです」
「今の私なら、何ページも書けちゃいそうだよ」
繋いだ手に、少し力がこもった。
見上げると、夕焼けと夜の色が綺麗に混ざり合っていた。
真っ白な原稿用紙に、桃ヶ崎さんがどんな物語を書いていくのか、楽しみだった。
でも、それ以上に楽しみなのは、明日も、甘奈さんに会えること。
もうすぐ、暑い夏が来る。
そのころも、こうして手を繋いでいたいと思った。
