シロヒトリ


 廊下のすぐ左手側には、階段がある。これを下りると、下駄箱や水道場のある一階に出る。

 階段を一段、また一段と下りるにつれ、外部活の声が賑やかになっていった。

 正直言って、外部活の人たちはあまり好きではない。サッカー部はあのクラスメイトのことがあるし、外部活の人はたいてい騒がしいので、関わりにくい。

 そんなこともあってか、いつも私は階段を下りてから、まっすぐ廊下を歩いていって、下駄箱に近い水道場を使っている。

 下駄箱近くの廊下には窓が少なく、外はまだ明るいのに薄暗い。

 蛇口をひねると、透明な水が落ちてきた。水が手に触れると、今の季節が秋だからか冷たく感じた。

 石鹸をつけて五分ほど指先を擦ったあと、水で石鹸を洗い流す。泡は水から逃げるように指から落ちていった。

 図書室にはもう用事は無いし、このまま帰ろうかな。

 リュックを背負いなおし、自分のクラスの下駄箱に足を進めた。リュックは、なぜだか少し、重く感じた。

 外に出ると、陸上部が列を成して校庭を回っているところが見えた。走るのは気持ちがいいけれど、部活として毎日走るという考えは、私には到底思い付かない。

 いつもは下校のチャイムがなったら真っ直ぐ家に帰るので、色々な部活の人で賑わっている校庭を見るのが新鮮だった。

 それぞれの部活は背番号やボールの描いてあるTシャツを自慢するかのように、みんなお揃いで着ている。

 学校指定のTシャツで充分なのに、なんで「みんなでおそろい」とわざわざ部活のTシャツをもう一枚買うのだろう。

「この授業、部T(そう彼らは呼んでいる)だめなのに、着てきちゃった」

と騒いで、先生から注意もされるのに、なんであんなにヘラヘラとしているのだろう。

 きっと彼らとは渡り合えない。宇宙人と同じだ。もとの生まれや育ちも違うから、根っこからわかりあえることなんて無い。

「あれ、ヨモギじゃん」

 私の下の名前を呼ぶ声の方向を振り向くと、唯一の友達であるマコトがいた。

「今日もサボり?」

「まあ、ちょっとね」

 マコトは美術部に入っているが、自分のレベルの低さに絶望した、と言って週に三回は部活をサボっている。

 そんなマコトに私は、「ちゃんと練習しないと上手くなれないよ」と言った。でも、まだマコトに超される心配は無いと、心の中では今日も安堵のため息を漏らしている。

 マコトは勉強も私と同じくらいだし、ちょっと絵が描けるというだけで、友達も私以外にはいないはず。

 そのまま私とマコトは、校門に向かって歩きだした。ここで会ったら、一緒に帰る。いつの間にか、それは言わずとも守られるルールになっていた。

「そういえば、ヨモギがこんな時間まで学校にいるなんて珍しいね。居残り補習?」

 マコトは「どの先生と勉強してたの~?」と、私が補習を受けた前提で話し始めていた。

「そんなんじゃないってば。ちょっと図書室に行ってたの」

 そう言うとマコトは、なあんだ、と少しつまらなそうに肩を落とした。すると、今度は興味津々といった様子でまっすぐこちらを見つめて、

「じゃあ、何読んでたの? この前教えた印象派? もしかして、ベックリン?」

 と、矢継ぎ早に聞いてきた。

 そういえば、マコトは絵の知識が中途半端にある。一緒に帰っている時によくうんちくを語られていたのを思い出した。

「ううん。虫を調べてて」

 そう答えると、マコトはがっかりすると思っていたが、逆に目を輝かせながらうんうん、と相づちを打ち始めた。私には本当に、マコトの好みがわからない。

「虫! いいよねえ。何調べたの? トンボ? カブトムシ? コガネムシ?」

 暑苦しささえ感じるほど熱のこもった声に、私は思わず一歩分離れる。

「ちょっと綺麗な蝶を見て、それを探してた」

 そう言えばマコトは話を終わりにすると思った。だが、マコトはどこか自慢気に腕を組んで、いかにも自分は虫のことでは先輩だ、と言わんばかりに語り出した。

「蝶かあ、いいよねえ蝶。でも、自分は蛾のほうが好きだなあ」

 今日は厄日か何かなのだろうか。そう感じるほど、嫌いな蛾が至るところで出てくる。しかも、極めつけは自分の手で触ってしまったことだ。

「蚕とか、滅茶苦茶小さくて、尊いの具現化でしょ、あの子!」

 私は何で嫌いな蛾の褒め言葉を聞かなければならないのだろう。奥歯を食いしばった次の瞬間、口が動いていた。

「何で蛾なんて好きなの? 意味わかんない」

 マコトは、目を見開いて驚いたようにこちらを見る。

 車の走る音が、いつもより大きく聞こえる。頭の中で考えていたことが、車の音に轢かれていく。

 ああ、私、ダメなこと言ったんだ。

 次にまばたきした時にはもう、マコトは視界に映っていなかった。

 足の速さはクラスで下から二番目だったけれど、必死に足は前へ進んでいる。心臓の鼓動が、耳に届いて周りの音が掻き消される。

 頭がいっぱいになった。どうすれば、マコトは許してくれるだろう。どうすれば、代わりの友達は作れるだろう。

「ちょっと……どうい……」

 後ろからマコトの声が聞こえる。ただ、どんどんと距離が離れていくせいで、何を言っているかはわからなかった。

 マコトの方に戻ろうとは思わなかった。一旦、ここから離れたくて、仕方がなかった。

 交差点を左に曲がって、そのまま二番目の曲がり角まで走っていって……

 走っている時は、自分が何を考えていたのかも、わからなかった。ただ、無我夢中だった。