シロヒトリ

 随分と遠い記憶の切れはしだが、お母さんの腕の至るところに無数の赤い発疹が 浮き出ているのを、今でも鮮明に思い出す。そして、それを思い出す度、私は背筋にゾッと鳥肌が立った。

 虫は好きではないが、見るのも嫌なほど嫌いでもない。だが、三、四歳のあの時、あの痛々しい発疹が脳裏に焼き付いてから、毛虫などの幼虫と蛾は眺めているだけでも身がすくむようになった。

 今すぐにこのページを閉じよう。ページの端をつまんだ。蝶の載っているほうに戻そう。

 すると、ページの隅のほうに、視線が引き寄せられた。どこか、見覚えのある色だ。雪みたいな透き通った白に、赤い線。

 まさか。あの虫は、蝶なのだから、これは似ている蛾なんだ。逃げるように蝶のページをめくると、ガラスのように透き通った色の蝶が、羽を広げていた。

 必死に、あの虫は蝶だ、蛾なんかじゃない、と蝶の解説にも目を見開いて探していく。だが、見つかるのは、光沢のある白銀のような蝶ばかり。

 あの虫は、もっと雪のような、混じりけのない白なのに、それに似た羽の蝶は、見つからなかった。

 なんであの虫が見つからないの。ページをめくったそのとき、人差し指に鋭い痛みが走った。

 驚いて人差し指を見ると、髪の毛ほどの細い傷から、血が出てこようとしていた。どうやら、焦ってページを指で指で切ってしまったらしい。

「いった......」

 傷を押さえながら、図鑑を見ると、「チョウとガのちがい」と書かれた表が載っていた。

 とまり方、と書かれたところには、モンシロ蝶が羽を閉じた状態で葉に止まっている。

 比較として載せられた蛾の写真を見たとき、肺がキュッとこわばる感覚に襲われた。

 モンシロ蝶の羽よりもずっと白い羽を開いたまま止まっている蛾は、尻尾のような部分に赤い線があった。

 間違いない、あの虫だ。校庭で私が放した、あの虫だ。

 何としてでも受け入れたくなかった事実なのに、私の心は、あっさりと、受け入れてしまった。

 あれは蛾だったのだ。まだ脳が拒んでいるのか、繰り返しそう呟いていると、脳裏に、言葉でいえないほどの恐怖を感じたあの発疹が蘇った。

 あの蛾を、当時は夢でうなされるほど恐ろしい蛾を、数時間前の私は、触ってしまった。しかも、素手で。

 あの蛾を触った右手を目に近付ける。鱗粉が付いているかどうかは、わからない。

 お母さんは、腕がかゆい、と発疹をかきむしり、所々からは発疹よりも赤い、血が流れていた。

 今にも自分の指から、ぶにぶにとしている発疹が出てくるんじゃないか。指先が赤くなっているけれど、もしかして、これは発疹ではないのか。

 今からでも遅くはないはず。今すぐにでもこの手を洗わないと。

 そう思い席を立とうとした瞬間、 後ろに気配を感じ取った。

「あら、蝶が好きなの?」

 先生は机の上に開かれた蝶のページを見つめている。逃げられなくなった。なんでこのタイミングで来てしまうのだ。

 先生はそんなことお構いなしに喋り続けた。

「蝶っていいよねえ。でも、私は蛾の方が好きかな。」

 そんなこと聞いていないのに、先生は楽しそうに喋り続ける。早くどこかに行ってほしい。

「蛾ってさ、毛虫の時は気持ち悪いって言われちゃうけど、一生懸命変わろうとして、サナギになって、最後は綺麗な蛾になるところが、健気でかわいいんだよね」

 先生のゆっくりとした口調が野暮ったく感じる。しかも、なんで蛾なんかを贔屓(ひいき)するんだ。

 うんうんうん、と適当に相づちを打って、パタンと図鑑を閉じると、先生は一歩引いて、椅子から立ち上がれるほどのスペースができた。私は椅子をギイっと引いて立ち上がる。

 図鑑を元あった場所に戻し、図書室の出口に足を向ける。

 先生のほうをちらっと見ると、反省したように自分の足元を見つめていた。

 私はそのまま、何も言わず廊下に出た。