会い、合い、愛

 駆けつけるなり、何度も頭を下げるその姿は、園長先生が持ってきた赤い牛の玩具を思い出させた。確か、赤べことか、そんな名前だったはず。初めは園児みなが興味津々だったのに、今では教室の隅で、ちょこんと埃をかぶっている。あれもいつか、捨てられてしまうのなら、私がもらってもいいかもしれない。
「本当に、申し訳ありません」
「そんな、顔を上げてください。ブランコを譲らなかった司君も悪かったんですから」
 両掌を胸のあたりでバイバイと振る貴子先生に、母はまた、父にするように頭を下げた。それを傍目に泣くのを堪えて、膝やお尻に付いた砂を叩きはらった。
 園内にあるブランコは一つだけだ。だから、遊びたい園児はいつも列を作って順番を守る決まりになっている。次は、友達の朱音ちゃんの番だった。それなのに、司くんはいつまでたってもブランコから降りようとしない。ルールを守ってくれない司くんに何も言い出せなった朱音ちゃんは、遂に泣き出してしまったのだ。一部始終を見ていた私はいてもたってもなった。気づいたら、司くんはブランコから”落ちていた”。
「いえ、この子が悪いんです。本当にすみませんでした。ほら、藍も」
 腕を引っ張る母の声に、私は何も言えなかった。だって、私が背中を押したのは本当だから。司くんがブランコから降りなかったのも、朱音ちゃんが泣いていたのも、みんな本当。
 掌を開いたり閉じたりすると、司くんの背中の感触が読みだえってくる。
 確かに、押した。ほんのちょっとだけ。そう思いたかったのに司くんは転んだ。砂場の縁に膝をぶつけて、手のひらもすりむいて、それからずっと泣いていた。
 私だって、泣いていた。なのに、どうして私だけが悪いみたいになっているんだろう。
「藍ちゃん」
 呼びかけながら貴子先生はしゃがんで私の顔を覗き込む。母とは違う、眉間に皺の寄っていない優しい顔が目の前まで降りて来た。
「先生、怒ってないからね」
 夏に吊るされる風鈴みたいな声と言葉に、鼻の奥がつんとした。
「……うん」
「ただね、人を押したら危ないでしょ?」
「……うん」
「司君も順番を守らなかったことはいけなかった。でも、だからって押していいわけじゃないの」
「……うん」
 非力な私は俯くことで反抗するしかなかった。本当は、「でも」と言いたかったのに。
 でも、朱音ちゃんが泣いていた。
 でも、司君がずっとブランコに乗っていた。
 でも、他の子は何もしなかった。
 でも、でも……。
 そのとき、ふと誰かに見られている気がした。顔を上げると、迎えに来たお父さんと手を繋いで帰っていく女の子と目が合った。
 見ないで、そう思った。
 今は、見ないで欲しい。慌てて顔を伏せるけれど、耳だけは熱くなっていく。さっきまで泣いていたところも、先生に怒られているところも、母が頭を下げているところも、全部見られてしまった。
 恥ずかしい。早く、帰りたい。帰らせて。
 スカートの裾をぎゅっと握って、そればかりを唱え続ける。
 この場からいなくなりたい。そう思っているのに、女の子の視線だけがいつまでも刺さっているような気がした。
 脱衣所に付けてある狭い鏡に、母は毎朝一時間以上も化粧のためだけに時間を費やす。
  少しでも目を大きく見せるために、瞼に何度も筆を滑らせる。唇には薄い桃色を乗せて、頬にはほんのりと赤みを足す。そうして出来上がった顔を鏡の中に見つけると、母はいつも満足そうに笑った。
 私は、その顔が嫌いだった。
 化粧を落とした母は、いつも疲れた顔をしている。目の下には薄黒い影があって、眉間には深い皺が刻まれている。私が話しかけても、返事をするまでに少し時間がかかる。まるで、私の声が遠いところから聞こえてくるみたいに。
 「……あの……お母さん。だから、お腹がなんか痛くって……」