「いらっしゃい、二人とも」
「お邪魔しまーす! 咲姉、おめでとう!」
笑顔で出迎えてくれた咲姉に、恭介は明るくそう言って一緒に買ったプレゼントを差し出した。子供服の入ったそれを、咲姉は嬉しそうに受け取っている。
結局あの後、咲姉は予定をさっさと決めてしまった。退院したらおいでよ、と、指定された日は二週間後。「恭介も連れて行っていいの」と返事をしたわたしに、咲姉からの答えは「いいよ」の一言だった。
咲姉は、いつもより少しだけ疲れて見えた。それは、髪がすこしぼさっとしていたり、着ている服がゆったりとして楽そうなものだったり、ちょっと目元が眠たそうだからだろう。大変なんだろうな、と、わたしはぼんやりと考える。
「……咲姉、これ、お母さんからおかず」
「ありがとう! 台所立つのしんどいから嬉しいよ~」
わたしも、お母さんに持たされた袋を差し出した。両親は平日で仕事だから、また別の機会に会いにくると聞いている。
咲姉は里帰りせずに産んだから、きっとご飯を作ったりするのも大変なんだろう。なんの変哲もないおかずにお世辞じゃなく嬉しそうな顔をしていて、なんとなく口がへの字になった。
リビングに行っても、赤ちゃんはいない。「赤ちゃんは?」ときょろきょろする恭介に、咲姉は「今寝たとこ」と襖で隔てられた隣室を顎で示した。
「起きたら顔見てやって」
その言葉に頷いて、わたしと恭介はソファに腰掛ける。お茶を淹れようとしてくれた咲姉を慌てて手伝おうとするけど、「このぐらいは大丈夫」と笑われてしまった。
手持ち無沙汰でぼんやり見た机の上には、空のコップが二つ置きっぱなしだった。わたしたちの前に誰か来てたのかな、コップを下げる時間もないなんてやっぱり忙しかったんじゃないかな、と考えたわたしの前に、咲姉はお茶を置いて腰を下ろした。
「さて……結花、なんか元気ないんだって?」
「え?」
思わぬ咲姉の言葉に、わたしは目を見開く。なんで、と聞く間もなく、咲姉が「恭介から連絡来てたよ」と笑う。
勢いよく隣を見れば、わたしを見る恭介は本当に心配そうな顔をしていた。
「姉ちゃん最近変だから、俺、咲姉に相談したんだよ」
「……」
「姉ちゃん、どうしたの? 最近口数も少ないし、食欲もないだろ? なんかあった?」
焦ったように言葉を重ねる恭介の、その表情が。本当にわたしのことが、心配で心配でたまらない、と言いたげなものだったから。
わたしは、思わず口元を手でおさえる。こみ上げてくるものを、堪えるために。
「……い」
「え?」
「きもちわるい」
そして口から出たのは、嘔吐物よりも苦く嫌悪にまみれた言葉。呆然としたような恭介の顔を横目で見ながら、わたしはもう一度「きもちわるい」と吐き捨てた。
「元気がないんじゃない、あんたのこと避けてるだけだし」
「え? ……俺?」
「あんただよ」
一度鋭い言葉が口から出てしまったら、もう止められなかった。呆然としたような、傷ついたような顔をする恭介がひどく癇に障って、わたしは「あんたが!」と大声を上げた。
「恭介が気持ち悪いこと言うからじゃん! なに? 妊婦さんは勝手にヤッて勝手に子供作ってる、って! あんた、妊婦さん見るたびそんなん考えてたの!?」
「なっ」
「キモい、最悪! ほんとやだ……!」
一気に吐き出したわたしに、恭介は一瞬青くなって、そしてすぐに赤くなった。わたしが何を不快に感じているのか、やっと気づいたのだろう。眉を吊り上げるとなんだよ、と妙に裏返った声で叫ぶ。
「きにっ、気に食わなかったんなら、その場で言えばいいだろ!?」
「弟がそんなキモいこと言い出すと思わないじゃん、普通! ドン引きしてたんだよ!」
「はい、ストップ」
ヒートアップしそうなわたしたちを、咲姉が静かな声で止める。そこでようやくわたしは隣の部屋で赤ちゃんが寝ていることを思い出してはっと唇を閉じた。恭介も同じだったのだろう、気まずそうにちらちらと隣の部屋を見ている。
幸い、赤ちゃんは起きなかったようだ。息を吐いたわたしたちを見ながら、咲姉は怒りも呆れもない淡々とした表情であのさ、と切り出す。
「結花、キモいはやめな。嫌な気持ちになったのはわかるけど、ちゃんと言葉にして何が嫌だったのか伝えないと」
「……」
「で、恭介はなんでそんなこと言ったのさ?」
恭介は、わけを聞いてくれた咲姉に対しても仏頂面をしている。その太々しさが腹立たしくて思わず睨んだら、恭介はますます不貞腐れたような顔をした。
「だって本当のことだろ」
「なにが?」
「だから! 妊婦なんてヤリましたって証拠ぶらさげて歩いてるみたいなもんなんだから、もっと小さくなってればいいんだよ!」
勢いよく放たれたその言葉に、わたしは全身に鳥肌が立つのを感じていた。ぞわっと、虫の大群や大量の汚物を見せられたような嫌悪感に、声が出ない。
一緒に育った弟が、まるで別人みたいに感じられた。だけど咲姉は動揺した風もなく、真面目な顔のまま少しだけ首を傾げただけだった。
「恭介は、セックスしてる人のことを恥ずかしいと思うの? 妊婦じゃなくても、セックスしてる人なんて世の中にいっぱいいるけど」
「……や、それは」
「ちがうの?」
咲姉の言葉に、恭介はもごもごと口ごもる。でも、とかだって、どか、まるで子どもみたいに口の中でよくわからないことを呟いて。
咲姉の問いは、恭介の攻撃性がなぜ妊婦さんに向けられたのかというもの。どうせ理由なんてない、反撃ができない弱い人に向けられてるんだ、とわたしは鳥肌が立った腕をさすりながら考える。
けど恭介は、パッと顔を上げると薄く笑って口を開いた。
「聖母マリアってさ、ヤらないで子供産んだんだろ」
「は」
「それって、神様はそんなんなしで生まれてくるってことじゃん。ヤッたりすんのはドーブツみたいなホンノーに負けた証拠なんだから、それを偉そうに見せびらかしたりすんなって思ったんだよ!」
どこか得意げな様子でそういう恭介に、わたしはいよいよ化け物を見る目を向けてしまったと思う。
こいつは、何を言ってるんだ? 聖母マリア? キリスト教徒でもないくせに、一体何を言ってるの? ドーブツ、とかホンノー、という言葉がいかにも借り物のそれに聞こえて、これが誰かの受け売りだということはすぐにわかってしまった。
弟の理解できない発言に混乱するわたしをよそに、咲姉はうーんと唸ると、小さく「恭介は」と呟く。
「セックスなしで生まれてくるのが神様だから、セックスで孕む妊婦は全部恥ずかしいものだと思うんだ? だから、普通の妊婦は恥を知れ、と」
咲姉の直截的な言葉に、恭介は一瞬目を泳がせたけど頷いた。絶対にそんなことを考えてた訳じゃないとわたしは思うけど、咲姉は恭介の言葉を肯定も否定もしない。
「じゃあ、不妊治療の人はどうなん?」
「……そういうのは、ヤッても出来なかった人でしょ」
「なるほど」
うんうんと頷いた咲姉は、突然立ち上がった。そしてゆっくりと歩くと、隣室へ消えていく。
戻ってきた咲姉は、腕に赤ちゃんを抱えていた。ぱちぱちと目をまたたく、大きな目をした赤ちゃん。興味深そうにじっとこちらを見る目に、わたしは何故だか息を止めてしまった。
この子が、咲姉の子供なんだろうか。咲姉は赤ちゃんを抱いたままわたしたちの前に立つと、あのね、と平坦な声で言った。
「わたし、不妊治療で子供産んだんだ」
「え」
「そんで、誰ともセックスしたことないんだよね」
急に落ちてきたその言葉に、わたしはぎょっとした。
咲姉が何を言っているのかわからなくて、わたしは咲姉と恭介の間で視線をさまよわせる。驚いたのは恭介も同じだったようで、言葉もなく咲姉を見つめている。その目は、明らかに動揺していた。
わたしたちの心境を知ってか知らずか、咲姉はうっすらと笑って見せる。
「アセクシャルって知ってる?」
咲姉の口から出たのは、聞きなれない単語。隣の恭介も、怪訝そうな顔をしている。わたしたちの反応に頷きながら咲姉は横抱きにした赤ちゃんを小さく揺らしている。
「他人に性的欲求を抱かない人のこと。恭介的に言うと、ヤリたいと思わない人、ってことかな」
「そん、……え?」
恭介は、言葉が出ていない。咲姉は「旦那も同じで、そういう人を探した」となんでもないことのように言った。わたしは、なんだか呆然としてしまって頭がよく回らない。
「そういうことしたくないから、同じ考えの人と結婚した。だけどどうしても子供は欲しかったから、治療して子供産んだの」
結局体外受精まで行ったから、毎日注射打ったりで結構痛くてしんどかったけど、と。淡々と、咲姉は言った。わたしは、多分咲姉の言葉の意味を半分も理解できていない。不妊治療がどういったものか知らないし、体外受精って言われてもピンとこない。
だけど、咲姉が、自分の心とすごくすごく向き合って、その末に赤ちゃんを抱いていることだけは、わかった。
咲姉は微笑むと、「ほら」と言いながら赤ちゃんを恭介に抱かせた。危なっかしい手つきで赤ちゃんを受け取った恭介は、どこか呆けたような顔をしている。多分、わたしも似たような顔をしているだろう。赤ちゃんは、澄んだ瞳で恭介を見つめていた。
「聖母マリアと同じわたしが、産んだ子。どう? 神様だと思う?」
じっと、咲姉が恭介を見ている。赤ちゃんと同じような、どこか何を考えているのかわからない目線。恭介は多分無意識だろう、息を詰めているようだった。
そしてしばらく押し黙った後、少しだけ熱に浮かされたような顔をした。
「と、特別な感じ、する」
ようやく、といった様子で呟かれた言葉は、少し上擦っていた。だけど「すげぇ」と目を見開いて言う恭介に、わたしは思わず赤ちゃんの顔を覗き込む。
すべすべで柔らかそうなほっぺに、大きな目。かわいい赤ちゃんだ、と思うけど、恭介のように特別には見えなかった。
「結花は、どう思う?」
そんな心境を見抜いたようなタイミングで、咲姉がわたしに水を向けた。思わずびくりと肩を震わせたわたしを見る咲姉は、やっぱり無感情な表情に見えた。
「か、かわいいと、思う」
ようやくわたしが口にしたのは、そんなありきたりな言葉。感じたことをそのまま口にしたわたしに、咲姉は少しだけ笑ったように見えた。
――聖母マリアと同じ、処女懐胎で生まれた、赤ちゃん。
咲姉は、どうしてそれをわたしたちに明かしたのだろう。隣で妙にギラギラした目をしている恭介が疎ましくて、わたしはぎゅっと手を握りしめる。
ほにゃあ、という子猫のような鳴き声が響いたのは、その時だった。それは恭介の腕の中からでなく、襖の向こうから聞こえていた。
「え?」
「あらあら、泣いちゃった」
わけがわからず、わたしたちは二人して目を見開く。咲姉は再び隣室に向かうと、すぐに戻ってくる。
戻ってきた咲姉の腕の中には――赤ちゃんが、いた。
わたしが今抱いている赤ちゃんよりも、もっと小さな赤ちゃん。赤い顔でほにゃほにゃと泣いている、頼りない、小さなこども。
赤ちゃんが、二人。その意味がわからなくて絶句するわたしたちとは裏腹、咲姉はとても穏やかな顔をしていた。
「こっちが私の子。そっちは優貴くん。私の父方の従姉の子だよ」
上の子の予防接種があるからって、預かってたんだよね、と。さらりと言った咲姉の言葉が、一瞬理解できなかった。でも、そういえば家に来た時、テーブルの上にコップがあった。それは、この赤ちゃんのお母さんが来ていたのか。
言葉もないわたしたちに、もう二ヶ月になるんだけど、全然気づかなかった? と咲姉は笑った。
「だましたのかよ!?」
「うん」
激昂した恭介の言葉を、あっさりと咲姉は肯定した。抱いてきた咲姉の赤ちゃんを床に敷かれた布団に寝かせると、恭介の手から優貴くんをするりと持っていってしまった。恭介の大きい声に驚いたのか泣いてしまった優貴くんをあやしながら、立ち上がった恭介をじっと見る。
「恭介が変なこと言ってるって、気づかせようと思って。わかんなかったでしょ、どっちがセックスして生まれた子かなんて」
恭介は、息を呑んだ。恭介が特別な子だと言った優貴くんは、多分性行為してできた子なのだろう。恭介は、それを見抜けなかった。
咲姉の目が、険を帯びる。今まで見たことのない、鋭い目だった。
「わかってるでしょ、自分の言ってることがおかしいって。だから変に正当化しようとして、神様がどうのってわけわからないこと言い出したんでしょ」
滔々と語る咲姉の声はその目の強さとは裏腹に、とても落ち着いている。
「あんたの根っこにあるのが、優遇されているように見える人への鬱屈なのか女へのヘイトなのか、セックスに対してなんか思うところがあるのかわかんないけど、胸にしまっておきな。口に出したら加害だ」
「加害なんてしてない!」
「加害だよ」
咲姉の言葉は思わぬものだったのだろう。とっさに、といった様子で叫んだ恭介に、咲姉は間髪入れずに応じた。
加害。その言葉の持つ強烈さに、わたしは何も言えない。
「妊婦に親切にしなくていい、って結花に言うのは結花の善意を制限する言葉だよ。とても怖いものでしょ」
「怖いって、なんで……」
「だってあんたの前で親切にしたら、あんたはまた結花を責めるんでしょ?」
静かに突きつけられたそれに、恭介はひどく傷ついた顔をした。
多分恭介は自分の考えを披露しただけで、わたしを責めたり糾弾する気持ちはなかったんだと思う。だけど、咲姉の言う通りだった。同じ場面に出くわしたとして、わたしはきっと恭介の口からあの言葉を聞きたくなくて、席を譲ることができなくなるだろう。
それはわたしだけでなく、本来親切を向けられるはずだった妊婦さんにとっても、加害だ。同じことに思い当たったのか、恭介は少し青い顔をしていた。
「心の中ではどう思ってもいい。それは誰も干渉できない。でも、口にするんじゃない。そんぐらいは分別しな」
言葉の苛烈さとは裏腹、咲姉の声はゆっくりと言い聞かせるような穏やかさだった。それがかえって、いたたまれなかったのかもしれない。勢いよく席を立った恭介は、真っ赤な顔のまま大きい足音を立ててリビングから出て行った。そして鍵を開けて、扉が開く音。出て行った、とぼんやり見送っていたわたしに、咲姉は苦笑して「ごめんね」と小さく呟く。
「後でフォローしてやらないとなぁ。ごめん、びっくりしたでしょ」
「いや、うん……大丈夫」
「うちの子、抱っこする?」
今までのやりとりがなかったかのように、咲姉は穏やかにそう言った。わたしが無意識のうちに頷くと、咲姉は一度布団に眠る赤ちゃんの隣に優貴くんを寝かせてから、もう一度咲姉の赤ちゃんを抱き上げた。首が据わっていないから、抱っこ一つでもこうして手間がかかるんだ。赤ちゃんって、本当にもろいんだなと、わたしはどこかしびれたような頭で考える。
「はい、どうぞ」
そして腕にそっと下ろされた赤ちゃんは、ひどく頼りない柔らかさをしている。わたしは、メッセージで聞いた赤ちゃんの名前を思い出していた。
「えみ、ちゃん」
「そう。恵まれた実り、で、恵実」
咲姉は笑いながら、優貴くんを抱っこしてわたしの隣に腰を下ろす。腕の中の恵実ちゃんを見る咲姉の顔は、これまで見たどんな顔とも違っていた。
恵実ちゃんは肌が赤くてちょっとくしゃくしゃしてて、優貴くんよりお猿さんみたいな感じがした。毛穴にも白い脂みたいなものが詰まってて、優貴くんみたいにつるつるしていない。そして開かれた目は、色が少し薄く見えた。目の中には銀河のように細かなきらめきが散っていて、その目にわたしは映っていないようだ。
「赤ちゃんってさ、生まれた時、視力すごく低いんだって」
咲姉が、わたしの心を読んだみたいなタイミングでそう言った。成長するにつれて、どんどん見えるようになるらしいよ、と。恵実ちゃんは、声も出さずにどこかを見ている。くあ、とあくびをした顔は、つぶれたおまんじゅうみたいだった。
わたしがイメージしていた「赤ちゃん」に近いのは、優貴くんだ。つるつるすべすべして、ふくふくして、黒目がちな目でわたしを見て笑ってくれる、天使みたいな赤ちゃん。
だけど。
「かわいい、ねぇ」
「結花……」
「恵実ちゃんも、優貴くんも、どっちも、かわいい……」
気付けば、頬を熱い涙が濡らしていた。恵実ちゃんに涙が落ちないように顎を目いっぱい引いて襟に受け止めさせるけど、全然止まらなかった。わたしの腕で小さな手をもぞもぞさせる恵実ちゃんも、咲姉に抱っこされてまたうとうとし始めた優貴くんも、どちらも可愛い。
生まれ方なんて、関係なかった。ここにいるのは、ただただ可愛い二人の赤ちゃんだった。
「恭介の方もだけどさ。私が心配だったのは、結花の方だよ」
「……え?」
「気づいてる?」
咲姉はそう言って、わたしの顔を覗き込んだ。何を言われているかわからなくて戸惑うわたしに、咲姉はあのね、と困ったように少しだけ笑う。
「結花、恭介の言葉を、ずっと『気持ち悪い』って言ってた」
「……うん」
「不道徳だって怒るとか、不寛容だって軽蔑するんじゃなくて、気持ち悪いって言った」
その言葉に、はっとする。確かに恭介の言葉に、一番最初にわいた感情は「気持ち悪い」。咲姉が言うようなことは後から出てきたもので、恭介をなじる時にも咄嗟に出た言葉は「気持ち悪い」だ。
呆然とするわたしに、咲姉は眉を下げた。答えを、知っている人の顔だった。
「結花は、恭介が妊婦さんに親切にできないのが嫌だったんじゃない。……恭介が、セックスについて口にしたのが嫌だったんだね」
ゆっくりと告げられたそれに、頭を殴られたような心地がした。
わたしは。自分の正義感や倫理観から外れたことを言う恭介を正したかったわけでは、なくて。ただ、幼いと思っていた弟が、性行為について口にしたのが嫌だった、だけ?
頭が、くらくらする。だけど咲姉の考えを否定できるものを、わたしは持たない。恭介が「あれ」を口にした時に、一番最初にわき上がった思いがなんだったのか、まっすぐに突きつけられてしまった。
恵実ちゃんを抱いた手が、震える。多分、唇も震えていた。
「……咲姉、わたし、彼氏が出来たの」
「うん」
「好きだと、思う。他の男子だったら付き合ってない。一緒にいて楽しいし、笑ってると嬉しい。だけど、だけどね……」
唐突なわたしの告白を、咲姉は頷きながら聞いてくれる。それがなんだか申し訳なくて、怖くて、止めたいけど止められなくて。涙と一緒に溢れてしまった言葉は、あっさりとわたしの唇から零れ落ちた。
「触れたく、ない……!」
絞り出した言葉は、我ながらみっともなく掠れている。しゃくり上げている身体の震えが恵実ちゃんに伝わらないようにと思うのに、無理だった。咲姉は、やっぱりわたしから目をそらさなかった。
「い、いやなの、手、つないだり、キスとか、その先なんて、想像するのもやだ」
「うん」
「恋愛漫画も、読めなくなった。スバコイ、段ボールに入れちゃったの。だって、わたしと違うんだもん」
頭の中に、段ボールにしまい込んだお気に入りだった本たちが浮かぶ。少女漫画のヒロインは、手を繋げばときめいて、キスをすればドキドキして、その先を匂わされれば心を揺らす。そのどれも、否定的に描かれない。自然な心の動きとして、いいものとして、描かれる。
わたしは、違うのに。手が触れないように意識しすぎて、自然に歩くことも出来ない。長い時間、目を合わせることも出来ない。「そういう」空気になりそうなところには、行くのも怖い。
大好きで、憧れた、物語や画面の向こうのヒロイン達。自分に同じものが降りかかるかもと思った瞬間に、彼女たちの反応はわたしにとっての毒になった。
「わたし、こんなんじゃ、出雲といたら、だめだ。出雲は普通なんだから、おか、おかしいの、わたしだもん」
鼻の奥と喉の痛みをこらえて、ようやく絞り出したのはわたしの頭の中にずっとあったもの。
わたしは、普通じゃない。だったら、普通の出雲と一緒にいられない。いちゃいけない。
それがずっと苦しくて痛くて、そんな時に子どもだと思っていた恭介があんなことを口にしたから、こらえきれなくなってしまった。八つ当たりみたいなものだったのか、と気付いたら、ますます自分がどうしようもない存在に思えて涙が出る。
「結花はなにも、おかしくないよ」
だけど、咲姉は。優貴くんを抱いたまま、そっとわたしの肩に自分のそれを触れさせる。
はっとして隣を見たら、咲姉はとても真剣な顔をしていた。茶化すでも誤魔化すでもなく、ほんとうのことしか言わない顔で、わたしを見ていた。
「それは、変じゃない。なにもおかしくないし、悪くないよ」
「でも」
「大丈夫」
咲姉の言葉に、迷いは全くない。わたしを慰めるためとか、場を収めるためとか、そういう一時しのぎの匂いがまったくしない断言に、わたしは返事もできず。
「それは一時的なものかもしれないし、この先もずっと続くかもしれない。でも、どっちでも大丈夫。変なことじゃない。なんにも、心配することない」
咲姉は、呪文のように繰り返す。不思議なことに、それはわたしだけに向けられたものではないように思える。
咲姉は、どこか遠くを見ている。恵実ちゃんみたいな目の前のものが見えていないような、他の何かを見ているような、ふしぎな顔をしていた。
「だって、優貴くんも恵実も、可愛いんだから」
ぼんやりと、それは前後のつながりが曖昧な言葉。だけど、咲姉のなかではきっと地続きなのだ。そう思わせる、声をしていた。
「世間が言う『愛の営み』で産まれてなくったって、可愛いんだから」
だから、大丈夫。そう言った咲姉の声は、少し震えているように聞こえた。
もしかしたら。咲姉も、ずっと苦しかったのかもしれない。痛かったのかもしれない。似た形をした悩みを抱えるわたしに大丈夫だと言うことで、自分にも同じ言葉を掛けているのかもしれない。そしてそれは、もしかすると、利己的とか言われてしまうものなのかもしれない。
だけど、それでもいいって思った。わたしの鼻の奥は、もう痛くなかった。
