マリアのこども



 そして大学祭の日は、あっという間にやってきた。出雲と初めて待ち合わせをして訪れた先は、高校とは比較にならないぐらい広くて人が多くて驚いた。大学祭中ということもあるんだろうけど、校舎の中自体がもう全然違って見える。賑やかに飾られた広い廊下を歩きながら、わたしは思わず息を吐く。
「大学祭って初めてだ。なんかすごいね」
「な。高校と全然ちがう」
「受かったら、わたしたちもこれやるんだよね」
「……しんどそ」
 珍しくうんざりとした調子で言う出雲がなんだかおかしくて、わたしは思わず噴き出した。こんなことを言っていても、いざ取り組みが始まったら真面目にやるのが出雲だ。そんな姿が簡単に想像できて、わたしはもう一度笑う。
 パンフレットを片手に歩いていると、目の前から男子の三人組が歩いてくる。なんだか見覚えがあるな、と思っていると、そのうちの一人が顔を上げた。
「大地?」
「ん? あー、壮太」
 出雲に声をかけてきたのは、確か中一の頃のクラスメイトだ。名前は憶えていないが、出雲といるところを見たことがある気がする。彼は出雲の肩を叩くと、「元気してた?」と歯を見せて笑った。
「おー、壮太も。春休み遊ぼうっつって、結局流れちゃったもんな」
「なー。……なに、今日は笹倉と二人?」
 そう言って彼に視線を向けられて、わたしは少しだけぎくっとする。わたしは彼の名前を覚えていなかったのに、彼はわたしを覚えていたことがちょっと気まずかった。だからわたしは曖昧に笑って、出雲に「ちょっとトイレ行ってくるね」と声をかけた。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫、この辺にいて」
 妙に過保護な出雲に片手をあげて、わたしはさっさとその場から離れる。出雲には感じないが、男子が集団でいると妙な圧を感じてあんまり側にいたくない。
 ゆっくり時間をかけてトイレから戻ると、出雲と彼らはまだ話しているようだった。嫌だなぁと思いながらノロノロと近づくと、彼らの会話が耳に届く。
「笹倉といい感じじゃん。付き合ってんでしょ?」
「まぁ」
「どこまでいった?」
 からかうように。彼がそう言った瞬間、わたしの足はぴたりと止まる。
 それが、たとえばデートでどこに行ったとか、その類の質問でないことはすぐに理解した。理解したから、わたしはその場から動けなくなってしまった。
 出雲も彼らも、わたしに気づかない。特に出雲はわたしに背を向ける立ち位置だから、尚更だろう。出雲は、少しため息をついたように見えた。
「そういうこと、聞くな」
「いいじゃん、笹倉いたら聞いてないし」
「いなくても聞くなや」
 うんざりとした調子の出雲に、わたしは無意識のうちに詰めていた息を吐いた。多分、それは安堵だった。冷たくなった指先に血が戻る感じがして、わたしは足を踏み出そうとする。
「高2の夏休みだぞ? 遊べるの今だけだって。大地だって、なんもしたくないわけじゃないだろ?」
 けど、次に発された彼の言葉に、出雲は何も言わなかった。
 何も、言わなかったのだ。
 わたしは、とっさに踵を返す。人ごみをかき分けて大学の入り口に戻る頃には、みっともなく息が上がっていた。どくどくと、全身が心臓になったように脈打っている。それなのに手足の先は雪に突っ込んだみたいに冷たくて、わたしはひっ、ひっと短く呼吸する。
 スマホが、鳴った。画面には、出雲からのメッセージが表示されていた。
『どうした? 迷った?』
 短い、いつもの出雲からのメッセージ。同時に、友達の言葉に返事をしなかったその背中を思い出して、わたしは口元に手を当てていた。
『ごめん、吐いた。先に帰る』
 それだけを送信して、鞄の中にスマホをしまう。スマホが震えている気がしたが、見る気はしなかった。
 その後どうやって自宅に帰ったのか、覚えていない。ただよろよろとリビングに足を踏み入れた時、そこに恭介がいることには、気がついた。
「おかえり、姉ちゃん」
「……」
 いつも通りにそう言った恭介は、わたしが返事をしなかったことを怪訝に思ったのだろう。スマホから顔を上げると、ぎょっとした顔をした。
「姉ちゃん、顔色悪いよ」
「……大丈夫。ちょっとバス酔いしただけ」
「酔ったん? 水飲む?」
 そう言った恭介は、本当に心配そうな顔をしていた。心から、わたしを案じているように見えた。
 それが、とてもとても、気味が悪かった。
 車酔いしたわたしのことは、気遣う。じゃあ、もし。わたしが妊娠していて、これがつわりだったなら、恭介は勝手に子供作ったんだからとわたしを突き放すのだろうか。
 この間口にしたように、「勝手にセックスして作ったのだから」という、理由で。
 そう考えたら喉の奥から苦いものがこみ上げてくる心地がして、わたしは「いい、大丈夫」とだけ告げて自室へと逃げ込んだ。
 鞄の中で、スマホが震えた音がした。出雲は、怒っているだろうか。いや、出雲のことだからきっと困惑しているだろう。そんなことを考えてのろのろと取り出したスマホの画面には、出雲からではなく咲姉からのメッセージが表示されてきた。
『生まれました。3300gの女の子です!』
 咲姉からのメッセージは、簡潔なものだった。そうだ、そろそろ咲姉の出産予定日だった、と気づいて、わたしは彼女が母親になったのだとぼんやり考える。
 おめでとう、と返したいのに、指が震えて動かない。スマホを握ったまましばらく呆然としていると、スマホが再び震える。
 画面には、『恭介と遊びにおいで』と短く表示されていた。