土曜日、待ち合わせ場所に現れた咲姉はびっくりするぐらい大きなおなかをしていた。それでも変わらない明るい笑顔で「結花!」と呼んでくれて、わたしは心底ほっとした。咲姉が予約してくれていたのは、ちょっとしたコースが食べられるっていう洋食屋さんだった。一人前千五百円ぐらいなら咲姉の分も払えるかも、なんて考えていたら、それを読み取ったみたいに「私のおごりだからね」とくぎを刺されて思わず笑う。
「咲姉、仕事お疲れ様。本当にぎりぎりまで働いてたんだね」
「ありがとー。もうね、引継ぎが終わらんくてどうしようかと思ったわ!」
私の後任、産休の一か月前入社だよ! とおどけて言う咲姉に、わたしはまた笑った。実際、それがどのくらい大変なことなのかはわからないけど。
前菜が運ばれてきて、わたしたちはそれを食べ進める。値段の割には前菜からデザートまでそろってて、さすが咲姉は素敵なご飯屋さんを知ってるんだな、とわたしはしみじみ感心してしまった。
食後、わたしは紅茶を、咲姉は水を飲む。コーヒーが大好きだった咲姉だけど、きっと妊婦さんだから控えているのだろう。そんな姿にすらなんだか母になる覚悟みたいなものを感じてしまって、わたしは少しだけ視線を逸らした。
「そんで、恭介、どうしたって?」
会話が途切れた時、咲姉が切り出したのは恭介の話。きっとタイミングを計ってくれていたのだろう、咲姉の丸い目は穏やかにわたしを見ていた。きっと咲姉がこの話をすることはわかっていたので、気分悪くなるかもしれないよ、と前置きしたうえでわたしはのろのろと口を開いた。
「なんか、この間、一緒に電車乗ってて、妊婦さんが乗ってきて」
「うん」
「わたし、席譲ったのね。そしたら、恭介が……」
そこまで言って、わたしは黙りこくってしまう。恭介が発した言葉をどうしても口にしたくなくて、舌が固まってしまったのだ。咲姉はうろうろと視線をさまよわせるわたしに小さく息を吐くと、少し困ったように笑ってみせる。
「子供作ったのは自分の都合なのに親切にするな~、みたいなこと言った?」
そして咲姉が口にしたのは、まさしく恭介の言ったことだった。もちろんあんなにも嫌な言葉ではなかったけれど、方向性は同じだろう。「な、なんでわかるの?」と呟いたわたしの声は、妙に上ずっていた。
「なんか、もっとひどい言い方だったけど、そんな感じの……」
「まー、いるからね、一定数。そっか、恭介はそっちにこじらせたか~」
ふむふむ、と何度か頷く咲姉に、わたしは呆然としてしまう。そしてそのまま、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。
いるんだ、一定数。だけど、だからといって恭介を受け入れられるかどうかは別の話だ。
「……わたし、すごく、嫌だった」
「……結花……」
「恭介、勝手にヤッて勝手に子供作ったんだから、優しくしなくていいって、言った」
無意識のうちに、あの日の恭介の言葉を口にしてしまっていた。私が感じた嫌悪感を、正しく咲姉に共有してほしかったのかもしれない。妊娠している当事者である咲姉には言うべきではないかも、って思っていたのに。
ぐっと、手に力を入れる。そうしていないと、なぜだか涙が出てしまいそうだった。
「すごく嫌だった。なんであんなこと口に出せるの?」
「結花」
「あいつ、マジで、気持ち悪い」
吐き捨てるように言ったわたしに、咲姉が少し驚いているような気配がする。それを感じ取った瞬間、わたしははっとして握っていたこぶしをほどいた。
「ごめん、気分悪いよね、こんな話」
「いや、私は大丈夫。……うん、そっか」
慌てて両手を振った私に、咲姉は何かを考えているようだった。けどわたしが複雑な顔をしているのに気付いたのだろう、「楽しい話しよっか」と言って笑いながらこの話題を打ち切った。
「前結花に教えてもらった漫画、読んだよ。面白かった」
咲姉とわたしは、よく好きな本やドラマの話をする。半年ぐらい前に、咲姉に「産休入ったら本読みまくるからおすすめ教えて」と言われて、いくつか作品を挙げたことを思い出す。だけどさすがに結構前だから、自分が何をおすすめしたのか思い出せない。「どれ?」と首を傾げたわたしに、咲姉は笑いながらスマホを操作している。
「この間映画になったやつ。これこれ、スバコイ?」
そう言ってみせてくれたスマホには、電子書籍アプリが起動していた。そこに映った見慣れた表紙に、わたしは思わずカップを握る手を揺らしていた。
スバコイ。『この素晴らしい恋を君ともう一度』というタイトルのそのマンガは、わたしが気に入って集めていたものだ。確かに、半年前に咲姉に勧めた記憶もある。咲姉はその表紙をタップすると、「初々しくてかわいいね。久々に少女漫画読んだけど、面白かったよ」とにこにこしている。
「この間出た新刊読んだ? トウマくんがさ……」
「ごめん、読んでない」
スバコイの話を続けようとした咲姉に、わたしはかぶせる様に言葉を発していた。咲姉はきょとんとすると、「そうなの? じゃあ、ネタバレしない方がいいね」と言ってくれるが、そうではない。私は首を横に振って、無理やりに口角を上げてみせた。
「ごめん、今忙しくて。ちょっと漫画断ちしてる」
それは、嘘だった。本もドラマも、今だって見てる。だけど、どうしてもスバコイの話はしたくなかった。そんな私に、気づいてしまったのだろうか。咲姉は少しだけ眉を下げると、「そう」とだけ言った。それがなんだか嘘を吐いたことすら見抜かれているようで、わたしは再び膝の上でこぶしを握り締める。
だけど咲姉は、わたしを責めたりしなかった。水を少し飲んだ後、叔母さん元気? と笑った咲姉は、それから当たり障りのないことしか口にしなかった。
***
「大学祭?」
「そう、兄ちゃんの」
夏休みをすぐそこに控えた日の帰り道、出雲は「来週暇?」と切り出した。出雲のお兄ちゃんが通っている大学の大学祭が来週、終業式の次の日なんだ、と言いながら、出雲はこちらを見る。
「一緒に行かん? 笹倉、あそこ第一志望でしょ」
「行きたい!」
思わぬ誘いに、わたしは二つ返事で頷いた。大学祭はちょっと行ってみたいなと思っていたけど、知り合いなしじゃハードルが高かった。それに、出雲と出かけるのはきっと楽しいだろう。
だけどわたしの返事に、出雲は少し目を丸くしていた。
「何でびっくりしてるの?」
「や、一緒に行ってくれると思わんかった」
「え?」
思わぬ言葉に、今度はわたしが首を傾げる番だった。出雲はなぜかわたしから視線をそらすと、「そっか」と小さな声で言って、そして。
「二人で出かけるの初めてだから。照れる」
そう、言った。後頭部に手をやりながら、照れくさそうに。それを見たわたしは、ぎしりと胸のどこかが軋む音を聞いた気がした。
「……へん、なの。いつでも行けるじゃん、別に」
「うん。いつでもになったら、いいよな」
ぎこちなくそう言ったわたしに、出雲は笑う。頬を僅かに赤く染めて笑う姿に、わたしはふと段ボールに詰めたスバコイのことを思い出していた。
――付き合いたての二人が、初めて一緒に出掛ける。
ヒロインは初デートに浮かれて服を選んで、トラブルもありながら二人は楽しいデートをして、そして。
気付けば、わたしの手は強くスカートを握り締めていた。じっとりとした感触にはっとしてももう遅く、きっとスカートのプリーツにはいびつなしわが刻まれてしまっただろう。出雲はわたしを見ていた。大事なものを見るように、目を少し細めていた。
「たのしみ。待ち合わせとか、連絡する」
そう言った出雲の声は、いつもより少し弾んで聞こえる。その嬉しそうな声に「やっぱり行かない」なんて言い出せるはずもなくて、わたしは「うん」と小さく頷いて視線を足元に落とした。
