空は、青い絵の具をぶちまけて他の何も混ぜなかったような色をしている。
空から降ってくる日光が、つむじをじりじり焼いている気がした。「昔の札幌はこんなに暑くなかったんだけど、今の子は大変だね」と笑うお母さんは、夏だけこっそり日焼け止め代をお小遣いに上乗せしてくれる。それでも少しの隙を見つけて太陽は肌を焼いていくから、わたしは夏が好きではない。
「笹倉、日影歩きな」
「あ、ありがと」
隣を歩いていた男が、そんなことを言いながらわたしの腕を引く。建物の影に入るように誘導されて、わたしはじっと彼の顔を見た。
中学の頃は女の子みたいに線が細かった出雲大地は、高二の今すっかり男の子になっている。中三の時にいきなり背が伸びだして、クラスのみんな驚いたのを覚えている。出雲みたいな人を、ばあちゃん曰く「おそおがり」というらしい。その響きが何だか面白かったので、わたしはそれからしばらく彼のことを心の中で「おそおがり」と呼んでいた。
そんな「おそおがり」が「出雲大地」に戻ったのは、約一年前のことだ。
出雲とは高校も一緒で、加えてクラスも一緒だった。去年の文化祭では一緒に委員にもなった。中学の頃からまぁ仲のいい方ではあったので、「出雲と一緒だと楽だよ」と笑ったら、「俺はちょっと緊張する」と返されてわたしは面食らった。
わたし、出雲に怖がられるようなことしたかな? と、何も思い当たらず首を傾げたわたしから、出雲は目をそらした。そして唐突に、「笹倉、かわいいから」と言った。
今度は面食らったなんてもんじゃない。だって、男の子から「かわいい」なんて言われたの、多分初めてだった。そういうのは、少女漫画のヒロインとか恋愛リアリティ番組とか、そういうどこか違う世界のものだと思ってたから。
わたしが出雲を意識するようになったのは、げんきんなことにそれからだ。そしてなんだかお互い牽制するように近づいたり離れたりしながら、出雲が告白してくれたのが三か月前のこと。
「笹倉のこと、好きだ。付き合ってほしい」と、放課後たまたま一緒になった帰り道で、出雲は言ってくれた。なんとなくそれを予感していたわたしは、だけど妙に気恥しくて、足元を見ながら「うん」と答えた。告白の返事が、「うん」だ。我ながらなんて味もそっけもない女だろう。出雲にはもっといい人がいたと思う。
ともかく、こうしてわたしたちの関係は友達から恋人になった。だからと言って、何が変わったわけでもないけれど。
「夏休み、お盆に東京のばあちゃんのとこ行くんだけど、お土産何がいい?」
「え、なにか買ってきてくれるの?」
「うん。行列店とかはなしで」
軽い調子でそんなことを言う出雲に、わたしも笑う。食べ物となんか物系とどっちがいい、なんて言う出雲を、わたしはなんとなくじっと見る。
誰もが騒ぐイケメン、ってわけじゃないけど、出雲の顔、わたしは好きだ。奥二重の目元も、形のいい鼻も、余分な肉がない輪郭も。短く切られた髪は清潔感があるし、髪を染めたりピアスを開けたりしていないところも、わたしはいいと思う。性格だって、口数は多くないけど困った時にさりげなく助けてくれる、優しい奴だ。委員をした時も、高いところに上る作業や重いものを持つ仕事は率先して引き受けてくれたのを覚えている。
だからわたしは、告白をしてきたのが出雲以外の男子だったら付き合ってない。それは確かなこと。確かなこと、なのだけれど。
「よかった」
「え?」
「笹倉、なんか元気なかったから」
そう言った出雲は、すごく安心したような顔をしていた。そんな顔を向けられたわたしは、視線を足下に落として「ありがと」と小さく呟く。
出雲は「別にこんくらい、なんも」といつもの調子で言う。わたしはそんな出雲の顔が見られずに、ただ汗ばんだ手を誤魔化すようにリュックの肩紐を強く握りしめていた。
***
家に帰ると、珍しく恭介がリビングにいた。
制服のままソファに寝そべってスマホを眺めているその姿に、わたしは何とも言葉にしがたい、腹の底に重石をぶち込まれたような感覚を覚えて顔をしかめた。
どうせ、SNSに気持ち悪いことを書きこんでるに違いなかった。だってそうじゃなきゃ、恭介が「あんな気持ち悪いこと」を口にするはずがない。
いつものようにとっとと自分の部屋にいけばいいのに、と頭の中で独り言ちて、わたしはリビングを素通りして洗面所に向かおうとする。
「姉ちゃん、おかえり」
だけど、そんなわたしの背中に恭介の声がかかった。まったくいつもと変わらない、平坦な声。きっとスマホの画面から顔を上げてもいないだろうことが、背を向けていてもわかる。
その「いつもどおり」が、ひどく気持ちが悪い。泥を口に無理やり詰め込まれたような気持ちになりながら、わたしは「ただいま」と声が揺れないように告げる。そして足早に洗面所に向かって手を洗い、さっさと二階の自室へと飛び込んだ。
あの日以来、恭介とはまともに話していない。思い返すのも嫌な「あの発言」のあと、わたしは絶句してとっさに言葉を返せなかった。しばらくの沈黙のあと、やっと返せたのは「何言ってんの」という一言。そしてスマホを取り出してその画面を見つめたわたしに、恭介も会話の打ち切りを悟ったのだろう、それ以上話しかけてはこなかった。だけど、わたしの頭の中ではうるさく何かが鳴り響いていて、こめかみのあたりも痛いぐらいに脈打っていた。
一週間ほど経った今に至ってもうまく言葉に出来ないが、わたしは恭介の言葉に強烈な嫌悪感を抱いてしまった。
三つ年下の恭介は、どちらかというとおとなしい子だと思う。小さい頃、友達の弟が一秒たりともじっとしていないのを見て驚いたぐらいだ。恭介は本を読んだりゲームをしたりするのが好きで、生意気なことも言うけど、普通の子だった。動物が好きで、犬の散歩に出くわすとじっと犬を見つめていて、でも飼い主さんに「触っていいですか」とは聞けない、そんな少し人見知りで、でも、優しい、普通の子。
そんな弟の口から、あんな言葉が出たなんて信じられなかった。信じたくなくて、あの日のわたしは会話を打ち切るしかできなかった。聞かなかったことにして、スルーした。「何でそんなこと言うの」なんて言って、恭介の口からもっとおぞましい何かが飛び出したらと思うと、耐えられなかったから。だけど、それが正しかったのかはわからない。だって何日過ぎても、恭介のあの言葉は消えるどころかどんどん大きくなって頭の中で反響しているから。
胸の中に溜まっているものを押し流すように、わたしは長い息を吐いた。扇風機のスイッチを入れれば、生ぬるい風が体に当たる。エアコンはリビングにしかないから避難したいところだけど、恭介と同じ部屋にいるのは嫌だった。
ベッドに腰かけて、ぼんやりと部屋を眺める。早く部屋着に着替えなきゃと思うのだけれど、汗をかいた体は重たくて、てきぱき動く気になれなかった。
ふと目についたのは、大きめの本棚。みっちりと詰まっていた小説や漫画の一部は、今段ボールに入れられて部屋の隅にある。歯抜けの本棚を見ていると段ボールの中身を思い出してしまって、わたしは無理やり立ち上がった。さっさと着替えて、スマホでも眺めよう。そうすればきっと、頭を覆う嫌なもやみたいな考えも、少しは忘れていられるはずだから。そう考えてTシャツとハーフパンツに着替え、鞄にしまっていたスマホを取り出す。画面を見れば、そこにはメッセージの受信を示す通知が表示されていた。
映っている名前は、「SAKI.O」。従姉である咲姉の名前がそこにあった。
小倉咲は、わたしの伯母さんの娘で、10歳年上。昔からとても面倒見がよくて、いとこたちで集まると私たちを連れて公園や近くのショッピングモールで遊んでくれた。元気で優しくて、遊ぶときは全力で。わたしも恭介も、そんな咲姉が大好きだ。咲姉からのメッセージは、簡潔なものだった。
『久しぶりー! やっと産休入った~生まれる前に会いに行ってもいい?』
いつもの調子のそのメッセージに、わたしは口元を緩ませる。咲姉は四年前に結婚して、今は妊娠中。来月には初めての赤ちゃんが生まれる予定だ。いとこのなかでは咲姉が最年長だから、赤ちゃんが身内に生まれるのは初めてだ。わたしは『もちろん』と返そうとして、ふと指を止めた。
咲姉は、今、妊婦さんだ。大きなおなかで人ごみにはいかない方がいいだろうし、暑い時期だからうちに呼ぶか咲姉のおうちに行った方がいい。でも咲姉の旦那さんは家に人を呼ぶのが嫌いだって言ってたから、それなら選択肢はうちになる。うちにきたら、恭介と会うだろう。――あんなことを言った、恭介に。
直接咲姉にひどいことをするとは思わないけど、もしあんな発言を咲姉にもしたらどうしよう。気分が悪くなるに決まってるし、おなかの赤ちゃんにも悪い影響があるかもしれない。そう考えたら、全身に鳥肌が立った。咲姉には会いたいけど、恭介に会わせちゃいけない。だけどそれを、どう伝えていいのかわからない。
「あっ」
何度も文章を打っては消してを繰り返していた時、うっかり送信を押してしまった。『あいたいけど』で切れたメッセージを慌てて送信取り消ししようとしたけど、すぐに既読がついてしまって間に合わなかった。
どうしようかと焦っていると、スマホが震えた。画面は咲姉からの着信を伝えていて、わたしは覚悟を決めて通話を押す。
『あ、結花? 今大丈夫?』
「大丈夫。……変なメッセージして、ごめん」
『いや、大丈夫だよ。何かあった?』
スマホから聞こえる咲姉の声は、いつも通りだった。その平坦さに、わたしはなんだか妙に安心して息を吐く。咲姉はもうすぐお母さんになるけど、それでも咲姉のままだ。そんな当たり前の事にとても安心して、わたしは思わず「会いたいけど」と素直な言葉を口にした。
「うち、にくるのは、やめた方がいいかも……」
『ん? 笹倉家、何かあった?』
「いや……恭介が」
そこまで言って、口ごもる。だけどスマホの向こうで咲姉がじっとわたしの言葉を待ってくれている気配がして、わたしはたまった澱を吐き出すように息を吐いた。
「恭介が、なんか……ちょっと妊婦さんに、嫌なこと、言って……」
『あー……』
「咲姉にはしないと思うけど、万が一変なこと言ったら、やだなって……ごめん……」
『結花が謝ることじゃないでしょ』
もごもごと歯切れの悪いわたしの説明に、けれど咲姉は意図をくみ取ってくれたようだった。「んー」と小さく唸ると、咲姉は「じゃあさ」と妙に明るい声を上げる。
『外で会おうか? 街でお昼食べようよ』
「え、でも大丈夫? 妊婦さんって人多いところよくないんじゃ……」
『そんな神経質にならなくても大丈夫! そもそも先週まで普通に働いてたんだし』
咲姉の言葉に、わたしは「あ、そっか」と納得する。身重の人を歩かせるのも、と思ったけど、共働きの咲姉は産休に入るまで普通に働いていたんだ。お茶するぐらいなら、さほど負担でもないのかもしれない。
咲姉はてきぱきと待ち合わせ場所を決めて、「じゃあ土曜日に」と言って通話を終わらせた。なんだか久しぶりに肩の力が抜けた気がして、わたしは深く息を吐いてしばらくスマホを握り締めていた。
