歌姫デリート

 すぐにベッドから飛び上がった。一気に鼓動が早くなり、呼吸も荒くなる。家の中を全速力で駆け抜け、親友が待つ玄関先へ飛び出した。

「はぁ……はぁ……和奏、何で……」
 激しく息切れしながら問う私とは正反対に、凛として直立する親友。
「これ、教室で明日奈のかばんから落ちたよ」
 そう言った和奏の手には、使い古した私のボイスレコーダーが握られている。
 目を疑った。あの中には、私がまだナナセになる前に、初めて作った曲の歌声が入っている。急いで帰ろうとして、スクールバッグから落としてしまったのだろうか──。
 いや、今は理由なんてどうでもいい。問題なのは……あのボイスレコーダーが、ボタン一つで録音した声を再生できること。最悪のシナリオが頭をよぎった。

「和奏まさか──!」
「──ごめん、どうしても気になって聴いちゃった。ナナセの声、明日奈だったんだね」
 頭を抱えた。こんな形で友達に知られたくはなかった。友達とナナセ、この二つを両立する、もっと良い方法があったはずなのに……。それも全て崩れてしまった。
「今まで学校休んでたのも、ナナセとして活動してたから?」
「うん……。今まで黙っててごめん」
「ったく、本当に迷惑」
「……!」
 腕を組み、不機嫌そうにそう吐き捨てた和奏。
 やはり相当怒っている。それもそのはず、彼女はナナセの大ファン。こんなこと、裏切り行為以外の何物でも無い。自分が隠してきた事実の重みを、今さらになって痛感させられる。
「そう、だよね……。みんなに隠れてコソコソ歌って、学校も休んで、おまけに和奏にも冷たい態度取って……大バカ野郎だ私……」
 俯いてボソボソと話すことしかできない私。

 ところが──次に彼女から放たれた言葉に、私は驚かずにはいられなかった。
「違う! そうじゃない!」
「……えっ?」
 突然大きな声を上げる和奏。アスファルトをじっと見つめていた目線を、思わず上げる。
「もっと私達を頼ってよ! 相談してよ! 一人で何でもやろうとして無理してるのが迷惑だって言ってんの!」
「わ、和奏……?」
「明日奈がナナセかどうかなんてどうだっていい! 私にさえ気を遣って、あんな誹謗中傷の動画が出回っても強がって、久しぶりに学校来たと思ったら死んだような顔してて──。私も、他の友達も、どれだけ心配してたか! 一人で抱え込まないでよ!」

 必死にそう訴える親友。それは、歌手のナナセへ向けてではなく、一人の友達へ向けて純粋に紡がれた言葉。
 自分はなんてバカだったんだろう。そう思うと、今度は自然と涙が溢れた。紅白歌合戦への出演が決まった時でさえ流れなかった、嬉し涙。
「あぁ……やっぱり私は大バカ野郎だ」
 こんなことになる為に、私は歌っていたんじゃない。ボロボロになりながらマイクを握って、歌うこと自体を楽しめていない今なんて──ナナセどころか、明日奈(じぶん)にすらなれていない。結局、誰にとっても良くない結末になってしまった。

 私はもっと──私の心を大事にしたい。目に見える大切な友達の為にマイクを握りたい。そう思いながら、頬を伝う涙を拭った。
「じゃあ和奏。一つお願いがあるんだけど」
「うん、何でも言って」
「私もカラオケ連れてってよ。今日みんないるんでしょ?」
「えっ?」
 キョトンとした和奏の表情に、思わず笑みが零れてしまう。ここ最近、音楽活動で笑った記憶なんて無かった。久しぶりに自然と笑顔になれた気がする。
 この瞬間、私は元の普通の高校生に戻った。
「な、何言ってんの明日奈。さすがに正体バレるよ?」
「いいから! ほらっ、早く行こ?」
「ちょ、ちょっと──!」
 和奏の手を引いて、自分の思うがままに走り出す。友達の前で歌うことが大好きだった、あの頃に戻る為に──。

   *

「明日奈ー! 超久しぶりじゃん! 会いたかったよー!」
「今まで何してたんだよ! 今日はたくさん歌おうぜ!」
 かつて行きつけだったカラオケの一室に行くと、既に友達が雰囲気を温めてくれていた。その景色はまるで、満席になったライブ会場をステージから眺めるように眩しい。私は友達をないがしろにしてまで音楽活動をしていたのに、みんな変わらず私に接してくれた。
「遅くなってごめん! 今日は私も歌っちゃうよー!」
 そう言って、弾ける賑わいの中に自分の身を委ねる。

 やっぱり私は、みんなのこの笑顔が大好きだ。
 この人達の為に歌いたい。私の歌声で、みんなをもっともっと喜ばせたい。その思いだけが、今日のカラオケボックスへ私を突き動かした。
 コの字型のソファーに詰めて座り、リモコンを手に取る。その送信履歴を覗くと──既に今日の日付でナナセを歌った跡が何曲も残っていた。

 この上なく嬉しかった。それだけでもう、思い残すことは何も無い。
「今まで本当にありがとう、ナナセ──」
 誰にも聞こえない声で呟いて、こっそりスマホを取り出す。
 メッセージアプリを開き、萌ちゃんとのトーク画面を出す。「萌ちゃん、ごめんなさい。私、やっぱり普通の高校生に戻ります」と短く打って送信し、返信を待たずしてそのままアプリを閉じる。
 次に、動画サイトの設定画面。そこから"アカウント削除"の項目を辿り、[本当に削除しますか?]という問いに、迷い無く[はい]のボタンを押した。ボイスレコーダーに残っている歌声も、全て削除。

 この世界からナナセという存在が、たった今消えた──。

「じゃあ次、明日奈の番ね!」
「あ、もう私? オッケー任せて!」
 そしてとうとう、自分の出番が回ってくる。この最高のライブ会場でマイクを握った瞬間、改めて自分の中で何かが弾けた。歌手としての正解は、見えない大勢の誰かがいる世界ではなく──目の前で大好きな友達が笑う、この場所にあったのだと実感した。
 他人から見れば、目の前で掴みかけた名誉を手放してもったいないと思うかもしれない。だけど──この選択は、純粋に音楽を楽しむ本来の自分を取り戻す為。さぁ──今こそ私らしく、堂々と歌おう。
「じゃあ私も、ナナセの曲歌いまーす!」

 ごめんねナナセ。覆面シンガーは、今日で終わりにするね。


-完-