光岡くんとは同じ窓


 放課後。鞄を持って教室を出る。
 月曜日は吹奏楽部の練習日だ。うちの高校の吹奏楽部は、全体合奏は金曜日だけ。一応、毎日練習日になっているけれど、必ず出ないといけないわけじゃない。
 だから、毎日猛練習している強豪校とは程遠い、緩い空気の中での部活だった。
 存在感の薄いわたしには、ちょうどいいと思っている。
 音楽準備室に行くと、既に楽器を取りに来ている部員がいた。
「あ、米原さん。なんか、顧問の谷先生が呼んでいたよ」
「谷先生が? なんだろう」
「たぶん、この前の合奏のときに課題曲の楽譜配られたからじゃないかな」
 楽譜ぐらいなら言付けした人に頼めばいいのにと思ったけれど、わたしが今日も部活に来るかは分からないはずだ。
「うん。ありがとう。行ってくる」
 鞄をいつもの棚に置いて、職員室に向かう。廊下は部活に向かう生徒やどこに寄り道するか話している生徒たちでざわついている。
わたしの隣を風が通り抜けた。
 光岡くんだ。軽く早足でわたしを追い抜き、職員室のドアの前で頭を下げて入っていく。彼も先生に呼ばれたのだろうか。疑問に思いつつ、わたしも職員室へ向かう。
「失礼します」
 放課後の職員室は、先生たちも部活の様子を見に行っているのか、まばらに人がいる様子だ。カサカサとプリントをめくる音が聞こえてくる。
 わたしは先に入った光岡くんの姿を探す。
 すぐに見つかった。担任の先生と話をしていた。わたしはその広い背中を数秒見つめてから、顧問の先生の机へ歩いていく。
「谷先生。米原です」
「おー。米原、珍しく合奏を欠席したと思ったら風邪だったって?」
 顧問の谷先生は間延びした太い声でゆっくりと話す。
「はい。もう良くなったので、今日から練習に参加します。楽譜を配られたと聞いたのですけれど」
「ああ。ちょっと待っていてなー。どこに入れたんだったか」
 谷先生は机の上のファイルを探り出す。お世辞にも整理されていると言えるような状態ではないので、少し時間がかかりそうだ。
「それで先生、必要な書類なんですけれど」
 机を挟んだ向こう側での会話が聞こえてくる。盗み聞きをするのはいけないと思うけれど、自然と耳に入ってきた。
「ほら。向こうの学校でもしっかりがんばれよ」
 向こうの学校? 練習試合かな。でも、光岡くんは部活には入っていなかったはず。
「はい。友達出来るか心配ですけど」
「光岡なら大丈夫だろ」
 間違いない。光岡くんは転校するんだ。
 どれくらいぼんやりしていたかは分からない。
「――原! 米原!」
「あ、はい」
 気づいたら谷先生が楽譜を手にしてわたしを呼んでいた。
「どうした? ほら、楽譜」
「すみません。ありがとうございます」
 慌てて頭を下げて、楽譜を受け取る。そのまま光岡くんの方は見ずに逃げるように職員室を出た。
 楽譜をもらったけれど、ただ胸に抱きしめて早足で歩く。
 心臓の鼓動がうるさい。
 どうして知ってしまったのだろう。
 他のクラスメイトは知っているのだろうか。知っていたらきっと盛大に見送る計画を立てている。朝も休み時間も、いつもの日常だった。
「きっと、知らないんだ……」
 立ち止まって、地面に言葉を落とす。
 わたしだけ知ってしまって、明日からどんな表情をすればいいのだろうか。
「米原さん、どうかしたの」
「え、あ……」
 いつの間にか渡り廊下に来ていた。自販機の前で光岡くんがボタンを押そうとしている。
 光岡くんはわたしが職員室にいたことを知らないのだろうか。
 話しに集中しているようだったし、光岡くんは背中を向けていたから出ていくときに気づかなければ知らないかも。
「何か飲む?」
 手の中でじゃらと小銭を遊ばせて光岡くんは言う。
「あ、自分で買うよ。……お財布ないんだった」
 持っているのは楽譜だけで、財布は音楽準備室に置いてある鞄の中にある。
「いちごミルクでいいよな」
 止める前にガコンと飲み物が落ちる音がした。光岡くんはさらにもうひとつ飲み物を買う。
「ごめん。明日の朝、お金返すね」
「そこは、ありがとうだろ!」
 光岡くんは八重歯を見せて、ピンク色のパックを差し出してきた。
 わたしにはまぶしすぎて、素直にありがとうとは言えない。
 ただ、黙って受け取った。
 ストローを刺して、いちごミルクを飲む。久しぶりに飲んだけれど、甘すぎて好みの味ではない。
 それでも、光岡くんがくれたものだからか、乾いていた身体をみるみるうちに潤してくれる。横で同じように牛乳に刺したストローをくわえた光岡くんが尋ねてくる。
「元気出たか?」
 口の中が甘くなっただけだけど、ストローをくわえたまま頷いた。
「そうだ。米原さんも協力してよ」
「協力?」
 光岡くんはポケットを探って、スマホを取り出す。
「写真撮ろうよ」
「え……」
 何でもないことのように光岡くんは説明を始める。
「実は今、ツーショット写真を集めていてさ。学年全員とツーショットで撮っていくっていう、ちょっとしたゲームをしているんだ」
 わたしは上手く言葉が出てこない。
 写真を撮っている目的は間違いなく、転校する前に思い出を残していくつもりだ。仲のいい人だけじゃなくて、学年全員というところが光岡くんらしい。
「……えっと、全員って百人くらい?」
「正確には九十三人。まだ始めたばかりだけど、米原さんも!」
 光岡くんは顔の上にスマホを構えようとする。
「ちょっと待って!」
 わたしは顔の前に手のひらを出した。何かを察したように光岡くんはスマホを下げる。
「ごめん。何かあったんだよね。無神経だった」
「う、ううん」
「また、今度頼むよ! じゃ!」
 光岡くんは気を使ったように、牛乳パックを持った手を上げて去っていく。
 白く光る背中が遠ざかっていく様子を眺めながら、彼は本当にこの学校から去っていくんだと思った。
 きゅうと胸が締め付けられる。
 甘すぎるいちごミルク。光岡くんが元気ないからと渡してくれた、それを見つめて、やっぱり好きだと思った。
 でも、転校していく彼に想いは伝えられない。勇気もないし、きっと伝えても今以上に切なくなるはずだから――。