ハッピーエンドバター

 六月に入って一週間で天気予報のお姉さんがわたしが住んでる地域が梅雨入りをしたと言っていた。今日も雨だった。針みたいな雨。教室の前の廊下の窓が誰が開けたのかは分からないけれど開いていて、地面からたった雨の匂いが入り込んできている。

「あめ」

 窓辺に手を置きながらひとり呟いていた。子供の頃からこの雨が降った時の地面が濡れた匂いが好きだった。思い切り吸い込んで肺のなかが満たされていく。

「莉子」

 鈴の音みたいな綺麗な高い声。振り返る。葉山美鈴が立っていた。

「なにみてたの」

 葉山美鈴がわたしの隣に立って窓の外を覗いてる。校舎裏にはいちょうの気が植えられていて、扇形の青々とした葉が雨粒を弾いてる。

「雨降ってるなあって思って」
「降ってるね」
「その匂いが癒されるなあって思って」
「あーなんか分かるかも」

 他愛もない話をしながら、今の状況が信じられないと思った。学年でもカースト上位に位置する葉山美鈴とわたしが横並びになって話してる。しかも向こうから話しかけてくれた。

 櫂があの時、食堂で背中を押してくれてから一ヶ月。わたしは葉山美鈴と自然と話せる関係にまで進展していた。最初は挨拶を交わす程度だったけれど、今は廊下や食堂、トイレで会えば明日には忘れてしまうような何でもない会話をする。葉山美鈴はわたしのことを莉子と呼び、わたしは彼女のことを美鈴と呼びあえるような関係性にまでなった。連絡先も交換し、葉山美鈴の中が深く深くみえる度にわたしは新しい葉山美鈴を自らに同化させた。これってどう思う?と尋ねられたら、なるべくはっきりと葉山美鈴ならこう考えるだろうという意見を伝え、恐らくまだ誰にも言えてないであろう悩みを抱えている素振りを葉山美鈴がみせた時には都度「なんかあった? 話なら聞くよ?」と耳を傾けた。結局まだ話せて貰えてないけれど、いつか話すよ、と言ってくれた。莉子になら話せる気がする、と笑みを向けてくれた。

「なに? わたしの顔なんかついてる?」

 当時のことを考えていたからか、わたしは無意識に葉山美鈴の顔をみつめてしまっていたらしい。

「美鈴ー」と声がして振り返ると、いつも葉山美鈴の周りにいる四人の女子がいて葉山美鈴に抱きついていった。あまったるい花みたいな匂いがふわっと広がり、くしゃみが出そうになる。

「こないだ美鈴に借りたヘアブラシあったじゃん? あれめちゃくちゃ良くてさーお父さんに何回もおねだりしたらやっと買って貰えたのー」
「そうなんだ。あれ、めちゃくちゃいいでしょ?」
「もうやばい! 6000円もしたけど」
「したけどってあんた払ってないじゃん」
「確かに」

 廊下に女子たちの甲高い笑い声が響いた。ヘアブラシが6000円。そんな信じられない事実にわたしは目を剥いた。そんなに良いものなのだろうか、と女の子の髪をみる。黒く、胸元まで流れた髪は確かに艶があってしっとりとしている。枝毛ひとつない。

「それって有名なところのやつなの?」

 気になって問いかけてみると、周りにいる女子たちからすっと笑みがひいた。えっ知らないの? めちゃくちゃ有名だよ? 〇〇ちゃんも使ってるじゃん、とわたしの知らない女性の名前を出される。どうやらインフルエンサーらしい。

「莉子ってさ、何も知らないよね? もっと美容に気を使った方がいいよ。女の子なんだし」

 葉山美鈴の取り巻きの女子の一人が唇の端を歪めながら言った。わたしはわたしなりに気にしている。每日葉山美鈴のインスタをチェックして、髪や爪、メイクまで。少しでも彼女に近づけるように。けれど、やっぱり葉山美鈴たちのようなキラキラ女子の美に対するアンテナとわたしのそれとでは比べものにならないのかもしれない。返す言葉もなくて黙ってしまう。すると、葉山美鈴がわたしの肩に手を置いて「でもさ、別に有名だからって全員が全員それ使わなくても良くない? いや私も使ってるけどさ、好きだから使ってるってだけだし」と言った。少しして、庇ってくれたのかもしれないと気付いた。思わず葉山美鈴の横顔をみつめてしまう。

「えーでもさ知ってて当然って事はあるじゃん? 男子がそれを言ってるなら分からなくもないけど」
「当然って誰が決めたの」

 葉山美鈴の声が少し低くなる。

「え? ほら流行みたいな」
「でも、それにのるかのらないかは人それぞれでしょ? 流行にのってるから偉いみたいな風潮、私めちゃくちゃ嫌いなんだけど。好きだから使ってるで良くない? 別に使ってない人もそれを知らない人もそれって人の自由じゃん。逆にさ、もし人の価値とかステータスが上がりますみたいな感じなら、私あのヘアブラシ使うのやめるんだけど」

 言葉に棘があった。言われた女の子も顔を引きつらせている。

「え、なんか美鈴怒ってる? 私もノリで言っただけだしそこまで本気にならないでよ」
「あっそうなの? じゃあもう二度あんな感じで言わないでね? さっきの、女子グループ特有の思想とかを押し付ける感じ。私めちゃくちゃ嫌いだから」

 明らかにひりついた空気が流れている。どこかのクラスから流れてきた男子の歌声がいやに大きくなって聴こえた。私のせいだと思った。何も知らない私が、それって何?って聞いたから。あ、とか、え、みたいな声にならないものが漏れて、ようやく言葉に出来たものはごめんなさいだった。

「なんで莉子が謝んの」
「わたし、変なこと言ったから」
「それ謝る理由になってないけど」

 氷みたいなつめたい目を向けられた時、チャイムが鳴った。葉山美鈴が教室に向かうと、引き寄せられるように四人の女子が教室に入っていく。わたしは、影がおちた廊下にひとり取り残された。