ハッピーエンドバター

 数日後、朝宮さんから借りた小説を手にしながらわたしは学校の廊下を歩いていた。

「なんで俺がお前の用事に付き合わされんだよ」

 隣を歩く櫂は少し不服そうだった。けれど、「いいじゃん。お礼にお昼ご飯奢るから」と言うと「えっまじ?」と顔を輝かせた。単純な奴め。

「じゃあ、ちょっと待っててね」

 朝宮さんのクラスの前で微笑みかけると、櫂は「おう」と手を挙げた。わたしはそれから扉を開き、真っすぐに朝宮さんの席へと向かった。朝宮さん、と声をかける。

「あ……三澄、さん」
「これ借りてた本」

 朝宮さんからおすすめされた小説を手渡す。それから頭を下げた。

「朝宮さん、本当にごめん。わたし、嫌な奴だったよね? 大切な本も借りっぱなしで……ごめんね」
「もういいよ」
「許してくれる?」

 問いかけると、朝宮さんは「怒ってない。最初から全然怒ってないの。ただどうしたらいいか分からなかっただけだから」と微笑んでくれた。来月も本の貸し借りをする約束をしてそのまま教室を出ようとした時だった。三澄さん、と声をかけられた。振り返ると知らない女の子が立っていた。

「あの、あのさ、こんな事聞いていいかどうか分かんないけど」

 女の子の声は震え、顔色から余程緊張しているのが伝わってくる。わたしは相槌を打ちながら彼女の言葉を待った。

「三澄さんと櫂くんって付き合ってるの?」

 なるほどと思う。櫂はあんな感じだが女の子にはよくモテる。中学の時もよくわたしが一緒にいるものだから彼女と勘違いされたことが多々あった。

「ごめんねこんな事聞いて。でも私、櫂くんとは最近話すようになったばかりだからさ……やっぱり直接は聞けなくて」
「ないよ!」
「え?」
「付き合ってない!櫂とわたしは幼稚園からの幼馴染ってだけだから。頑張ってね。櫂はあんな感じだけどめちゃくちゃいい奴だから。わたしが保証する!」

 女の子が安心したように笑みを溢すのを見届けてからわたしは教室を出た。すぐさま廊下の壁に背を預けていた櫂の身体に体当たりしてやる。

「痛っ、なにすんだよ」
「さっき」
「さっきなんだよ」
「櫂くんと最近話すようになったっていう女の子から付き合ってる?って聞かれた」

 悪戯っぽく言ってやると、櫂は露骨に動揺した。あーあの子か、と目も泳いでる。分かりやすい奴め。「好きなんだ。もしくは好きかもなんだ?」と言ってやる。櫂とは子供の頃から一緒だから櫂の感情は手に取るように分かってしまう。

「うるせえよ。いいからお前は早く飯奢れよ」と駆けるように階段を降りていく。その背をみながら、「良かったね」と呟いていた。

 梅雨が明け夏のひかりが空から降り注ぐ少し前に、美鈴からあの浮気をされていた彼氏と別れたと聞かされた。ようやく決心がつき、別れを切り出せたのだという。けれど、その数週間後には「私さ、気になる人出来たかも」と相談された。行く気すら無かったサッカー部の応援で、他校に出向いたのが出会いだった。わたしは美鈴の手をとって「良かったね、応援するから」と今の自分に出来る最高の笑みを浮かべた。美鈴が幸せなら、わたしも幸せだ。

 きっと幸せは、ふとしたところに落ちている。たとえ今は闇のなかにいても、何でもない日常の欠片が途端に輝き始めたりするものなのだろう。人生なんてそんなもの。バターみたいなもの。ゆっくりゆっくり溶けるから、決断を急がなくていい。私なんて不幸だと決めつけるのは八十年先でいい。幸せは自分から掴みにいくものだ。信じ続けてさえいれば、いつかきっと訪れる。あの男性だって言っていた。そう、合言葉はハッピーエンドバター。