たとえば私がいないほうが。

 私が中学に上がるタイミングで両親が離婚して、お母さんと小さなアパートに引っ越した。
 環境がガラッと変わり、お母さんの仕事の時間が増えて、買い物や料理や洗濯など、家事を負担しなければならなくなった。

 私と同じ第一志望に受かった同級生は塾に通って、家事は全部親にやってもらって、全ての自由時間を勉強に費やしていた。

 お母さんが離婚なんてするから。私をしっかり支えてくれなかったから。

 お母さんのせいだと責任転嫁して怒鳴ったけれど、そもそも私がお父さんについて行っていたら、お母さんは苦労せずに済んだはずで。
 お母さんのあの言葉は、売り言葉に買い言葉のようなもの。
 すべてを鵜呑みにしたわけじゃない。でも、たぶん、本音も混じっている。私もそうだったから。

 絶対に言ってはいけない一線を、お互いに越えてしまった。先に越えた私が悪い。

 冷静になるほどに、胸に巣食った罪悪感が日に日に膨れ上がっていった。自分が投げつけた言葉も、受け止めた言葉も、その重さは何倍にもなって心にのしかかってくる。

『ひどいこと言ってごめん』

 滑り止めの高校の制服が届いたころに、その重さに耐えきれずに謝ったけれど。

『お母さんが悪いのよ。家事をまかせたのは本当だから。こっちこそごめんなさい』

 許してくれただけではなく、逆に謝られた。和解したはずなのに、心が軽くなることはなかった。

 それからは、映画を見ても、友だちと遊んでも、勉強をしても、すぐに『どうでもいいや』という気持ちになってしまい、なににも夢中になれなくなってしまった。

 私は私が嫌いだ。私なんかいてもいなくても変わらない。私なんか、いない方がいい。


——消えて、なくなってしまいたい。


 積極的に死にたいわけじゃない。自殺なんて怖くて私には絶対にできない。

 病気だと告げられたい。余命宣告されたい。悲劇のヒロインみたいに。
 もしくは事故に遭いたい。例えば、道路に飛び出した子を助けて身代わりになり、最期に一花咲かせるような散り方をしたい。ドラマのヒーローみたいに。

 妙にポジティブな希死念慮が、いつのまにか私の中に住みついていた。昔からの親友みたいに私に寄り添って『こんな死に方はどう?』と楽しそうにひそひそ話をしてくる。
 もしかしたら私は、昔からそうだったのかもしれない。
 受験で失敗したのなんてただのきっかけで、本当はずっと消えたかったのかもしれない。
 お母さんだって、本当はずっと私が邪魔だったのかもしれない。

 今消えてしまうことに心残りがあるとすれば、折角なら私のひとつの命でだれかを救ってから死にたかった。この期に及んで、私は私が存在していたことへの意義を残したいと思っている。
 なんて滑稽なのだろう。