4
公園に着くと、辺りは薄暗くなり始めていた。雲行きがあやしくなり始めた空に気持ちが焦る。
電話をかけ続けていると、どこからか振動音が聞こえ始めた。
――翠であってほしい。碧くんであってほしい。
鼓動の存在を確かめるように辿っていく。
公衆トイレの裏の茂みへ足を踏み入れると、ぱきっと枝の音が響いた。深緑色の草木の中でうずくまるように誰かが座っている。明るい髪色のウィッグが頭部から浮くようにずれていて、ネットの網目からは地毛が見えている。服は清潔感のあるレースのワンピースで、今にも消えてしまいそうな儚い妖精に見えた。
どちらの名前で呼べばいいのか迷う。
ゆっくり酸素を吸ってから、
「翠……」
縋るような、引き留めるような声が内側からこぼれた。
翠はたった今、人の気配に気づいたという様子で、警戒と怯えをむき出しにした顔でわたしを見た。まぶたは二重ではなく一重だ。翠の素は一重なのだろう。アイメイクは崩れ、黒く滲んでしまっている。
「ほの、か……?」
「翠、隣に座ってもいい?」
沈黙を勝手に肯定だと判断したわたしは、そうっと近づくようにしゃがんだ。翠がびくりと腕を引っ込める。強張っている翠の手には、落ち葉や土が一緒に握られていた。
「ねえ翠。手をつないでもいい?」
翠の顔が石像のように硬直しては、今にも泣き出しそうにぐしゃりと歪む。
いつものように完璧に整った麗しさもなければ、かっこいい碧くんの姿もない。剥がれ落ち、乱れている。
でもなぜだろう。
涙がこぼれそうになるほど、美しいと思った。滲んでいる表情は、濃淡が重なり合った一輪の花みたいだ。
迷うことなく手を伸ばす。ぴくと震えた翠の指先は冷たくなっていて。わたしは体温を分け与えるように、そっと自分のを絡めた。
「騙してごめん。穂果」苦しそうに声を絞る。
「ふふ」つい笑みがこぼれた。
戸惑うような、怪訝な顔でわたしを見返す。
「ごめん。翠の手って子どもみたいにやわらかいんだなって。初めて触ったから」
ほのかに暖かくなってきた体温を確かめるように、もぞもぞと指を動かしてみる。握り直すと、世間一般で言う「恋人つなぎ」になっていた。
恋人ではないけれど、違和感はない。誰かに見られたらおかしいと思われるかもしれないけれど、別に構わないと思った。わたしは自分で思っている以上に、図太い人間なのかもしれない。
そばにいるよ、わたしはすぐ隣にいるよと体温を通して翠に伝えたかった。
「どうしてなにも言わないの。怒らないの……」
「どうして怒ると思うの?」
「どうしてって……わたしはずっと騙して、裏切ってたんだよ。もう気づいてると思うけど、実はわたしは『碧』なの。穂果に隠し続けてたの」
「……すごく、苦しかったよね」
え、と声を漏らした翠の瞳が大きく見開く。
「わたし、翠と碧くんにいつも甘えて頼ってばかりで。大切にしたいのに、ふたりのことを大切にできていなかった」
「なに言ってるの。わたしのこと気持ち悪いって思わないの? 失望したでしょう」
「しないよ」はっきり首を横に振る。
黒く滲んだ下まぶたに、透明な涙が流れ落ちた。
「びっくりはしたけど、そのことで翠と碧くんを大切に思う気持ちはなくならないよ。一ミリも」
ねずみ色の空模様を見上げた翠が、ずずっと鼻音を立てる。
わたしも空を仰ぐと、顳顬にぽつと小さな雨粒が落ちた。
「……実はわたしね、物心ついた頃から、女の子でいることに窮屈さを覚えるようになったの。だからと言って、心が男の子なわけでもない。ただ息抜きをするような感覚で、中学二年の頃から、たまにこっそりと男装をするようになったの」
意味わからないよね、と翠が顔を強張らせる。その表情に胸の奥が軋んだ。
「わたしのおばあちゃん、女性らしさに厳しいところがあるんだけど。いないときを見計らって、近所の人にも気づかれないように、この公園の公衆トイレで男装してた。ここは薄暗くて人が寄りつかない場所だから。でも繰り返しているうちに慣れすぎたんだと思う。見てる人は見てるってわかってるはずなのに、まだ大丈夫って安易な暗示をかけながら逃げ続けてた」
碧くんの姿でわたしと会うとき、翠として学校でわたしと会うとき、どれほど大きな恐怖と不安を抱えていたのだろう。わたしはふたりに何度も救われたのに、自分のことしか見えていなかった。
「先月にやった高校生活調査アンケート、男女の間にある中黒に丸をつけた生徒はわたしなんだ」
翠の声はかすかに震えている。濡れた瞳は、鬱蒼とした茂みの奥へと向けられていた。
「ここまで聞いたらわかると思うけど……実はわたし、自分の性別がわからないんだ。高二にもなってわからないとかおかしいよね」
無理して口端を持ち上げているのがわかる。絡む指先に、きゅっと力を入れた。
「二回目」
えっと翠がわたしを映す。
「『実は』なんて言葉、使わなくていいんだよ」
翠が息を呑んだように目を見張って、ゆっくりと逸らした。
「……翠でいるときも碧でいるときも、いつも誰かを騙しているような気がする。自分がやってることは滅茶苦茶な詐欺師と変わらない。そうわかってるのにやめられなくて……結局、大切な人を傷つけた」
翠の体温が離れていってしまうような気がして、指の腹をぎゅっと押しつける。
「痛いよ」
「うん」
「離してよ……」
「ごめん。いやだ」
子どもみたいに勢いよく首を振ってから、わたしもねと口を開く。
「ずっと誰にも話せなかったことがあるの」
頬にぽつぽつと当たる雨粒に、近日中には関東も梅雨入りするでしょうと、先日見た予報を思い出す。
「たぶんなんだけど、わたし、恋愛感情を抱かない人間なの。だから誰々がかっこいいとか、好きなタイプとかの話題が苦手で。中学の頃は周りを見習うようにそれっぽいことを言って、嘘ついたりしたこともあった。いつか本当になると、自分を誤魔化しながら信じたりして」
耳を傾けたまま、翠が静かに頷く。
「高校生になると、女子も男子もお互いのことをより意識したり、彼氏彼女がいる人がクラスにどんどん増えていって。あれ、おかしいなって心の中でずっと焦ってた。高校生になって、そろそろ初恋は経験できるかな、みんなみたいに普通になれるかなって淡い期待を抱いてたんだけど、全然関心が持てなくて。毎日取り残されてるみたいな感じがしてた」
黙って聞いていた翠が、わかるよとこぼした。
「わたしも、恋愛感情とか性的欲求を感じたことがないんだ」
「翠も……知らなかった」
「このことを打ち明けるのも初めてだから。アセクシュアルっていうみたいだよ」
「初めて聞いた。わたし、自分のことなのに調べるの怖かったから」
「自分と向き合うのって怖いよ。勇気がいる。だから穂果は、自分にも相手にも真正面から対峙しようとしててすごいよ」
そう言ってくれる翠の表情はさっきよりも和らいでいて、少しだけ胸をなでおろす。
「さっきね、お父さんの恋人に初めて会ったんだけど。その人に、ゆくゆくは家族みたいな関係性になれたらって言われたんだけど、わたしにとっては出て行ったお母さんが今もお母さんで……すごく複雑な気持ちになった」
うん、雨音みたいに翠が頷く。
碧くんのときもだけど、大袈裟な反応をしたりせずに耳を傾けてくれる姿勢が好きだ。
「思いきって伝えたの。『適切な距離感を保てる関係性でいたいです』って。前に碧くんが、月に三回は自分の願望を優先してもいいって提案をしてくれたおかげで、自分の言いたいことが言えたんだ。お父さんには失望されたと思うけど」
へらっと笑うも、翠は真面目な顔で「がんばったね」と言ってくれた。
雨粒を受ける翠のメイクは、さっきよりもよれているけれど、神秘的で。蛹から蝶に変わるように見える。
「わたしは穂果のこと、かっこいいと思ったよ。それにその言葉は、お父さんの恋人を否定しているわけじゃない。穂果なりの歩み寄りだと思う」
落ち着いた口調に熱が込み上がる。視界がじわりとぼやけ始めた。堪えるように、一度唇を引き結んでから言う。
「わたしね、少し前から翠と碧くんが同一人物なんじゃないかって考えるようになったの。首の後ろにある、双子みたいに並んだふたつのほくろを発見して」
言うと、翠ははっとしたように繋がれていない手をうなじにあてた。本当に馬鹿だと翠が息を吐く。
「もしかしてって疑問を持ち始めたときも、事実を聞いた今も、裏切られたとか騙されたなんて微塵も思わなかったよ。本当に」
これ以上ないほど見開かれた翠の瞳が、波打つように震える。
「わたしは翠も碧くんも好きだよ。この感情にどういう名前がしっくりくるのかはわからないけど、ふたりとも友達以上に大切だと思ってる」
「穂果……」
「曖昧でごめん。普段は友達という言葉を都合よく使っているのに」
世間からすれば、わたしは不気味な目で見られるのかもしれない。十七歳にもなって、恋愛感情がわからないと真剣に言っても、これからすぐにわかるから大丈夫、と気安く受け止める人も少なくはないだろう。
「名前があることで安心できる部分もあるけど、すべてに必要なわけじゃないんじゃないかな。大切に思っていれば」
ずっと、世間の正解とされている輪に自分も近づきたい、でもこのままでいたい。そんな矛盾を抱える自分に毎日のように落ち込んでいたけれど、わたしのまま、大切にしたいものを自由に愛していいんだと、今では心の底から思える。
名前がなくても、選んだ道を、自分の正解にすればいい。
――きゅるるるるう。
ふと、気の抜けるような音が、わたしの内側から鳴り響いた。
「お腹すいたね」翠がくすりと笑みを浮かべる。
うんと素直に頷いてから尋ねた。
「翠のお家に帰ったあと、スーパーに行ってデザートを買ってもいい?」
「もちろん。なに食べたいの?」
「バニラアイス。翠も碧くんも好きだよね」
「穂果もね」
お互いに笑って手を繋いだまま立ち上がる。
「あ。あとおはぎも買いたい」
「おばあちゃんの好物、覚えててくれたんだ」
嬉しそうに口角を持ち上げた翠に頷いては、
「お父さんも好きだから、お父さんの分も買う」
雨模様の空を見上げるようにして言った。
濃いねずみ色の雲がこちらへ迫っているのが見える。その重々しさに、わたしはまた怯みそうになった。けれど、怖がからなくていいんだよと言うみたいに、重なり合う手に優しい力が加わった。
「今度、穂果のお父さんに挨拶しに行ってもいいかな」
えっと驚いては翠を見る。
「理解してもらいたいとも、理解してもらえるとも思ってないよ。多様性ってよく聞くけど、わたしには言葉ばかりが大きく波打って歩いているように感じる」
そうだね。共感しながら頷く。
「ただ、わたしのことが原因なのに穂果ひとりに大変な思いはさせたくない。穂果とこれからも一緒にいるためにも――まずはおばあちゃんに話すよ。わたしも、がんばってみる」
ぴんと背筋の伸びたきれいな横顔に、わたしはこれから、何度も救われるのだろう。そして、幾度も幸福を祈り続けるのだろう。
「なんだか、プロポーズみたいだね」
重い空気に不似合いな笑みがこぼれると、そうだねと翠はおかしそうに笑った。
「通り雨だと思うけど、勢いが増してきたからそろそろ行こう」
手をつないだまま、一緒に並んで走り出す。
お互いに髪も衣服もすっかり湿っているのに、羽が生えたみたいに全身が進んでいく。
「上がったら虹が見えるかな」
「見えたらいいね。雨はいつか必ず上がるから」
たまに足が滑りそうになる。ここ最近の雨はスコールのように激しさを増すことが多い。わたしたちを非難するかのように、容赦なく降りそそぐ。
――それでも、この手を離したくない。
これからも、手と手を取り合ってそばにいたい。
脆くて、不器用な、わたしたちの幸福を守るために。
分厚い雲間から陽が射すも、雨はまだ降り続いている。空は気分に合わせるように自由に色めき、光のグラデーションを描いていた。アスファルトの片隅に咲く、小さな花を照らしては濡らしていく。
わたしたちは、赤から青に変わった信号を合図に、縞模様の歩道をピアノを弾くようにして駆けていった。
濃く、淡く、鮮やかに滲んだまま、指先から迸る熱を重ね合って。
公園に着くと、辺りは薄暗くなり始めていた。雲行きがあやしくなり始めた空に気持ちが焦る。
電話をかけ続けていると、どこからか振動音が聞こえ始めた。
――翠であってほしい。碧くんであってほしい。
鼓動の存在を確かめるように辿っていく。
公衆トイレの裏の茂みへ足を踏み入れると、ぱきっと枝の音が響いた。深緑色の草木の中でうずくまるように誰かが座っている。明るい髪色のウィッグが頭部から浮くようにずれていて、ネットの網目からは地毛が見えている。服は清潔感のあるレースのワンピースで、今にも消えてしまいそうな儚い妖精に見えた。
どちらの名前で呼べばいいのか迷う。
ゆっくり酸素を吸ってから、
「翠……」
縋るような、引き留めるような声が内側からこぼれた。
翠はたった今、人の気配に気づいたという様子で、警戒と怯えをむき出しにした顔でわたしを見た。まぶたは二重ではなく一重だ。翠の素は一重なのだろう。アイメイクは崩れ、黒く滲んでしまっている。
「ほの、か……?」
「翠、隣に座ってもいい?」
沈黙を勝手に肯定だと判断したわたしは、そうっと近づくようにしゃがんだ。翠がびくりと腕を引っ込める。強張っている翠の手には、落ち葉や土が一緒に握られていた。
「ねえ翠。手をつないでもいい?」
翠の顔が石像のように硬直しては、今にも泣き出しそうにぐしゃりと歪む。
いつものように完璧に整った麗しさもなければ、かっこいい碧くんの姿もない。剥がれ落ち、乱れている。
でもなぜだろう。
涙がこぼれそうになるほど、美しいと思った。滲んでいる表情は、濃淡が重なり合った一輪の花みたいだ。
迷うことなく手を伸ばす。ぴくと震えた翠の指先は冷たくなっていて。わたしは体温を分け与えるように、そっと自分のを絡めた。
「騙してごめん。穂果」苦しそうに声を絞る。
「ふふ」つい笑みがこぼれた。
戸惑うような、怪訝な顔でわたしを見返す。
「ごめん。翠の手って子どもみたいにやわらかいんだなって。初めて触ったから」
ほのかに暖かくなってきた体温を確かめるように、もぞもぞと指を動かしてみる。握り直すと、世間一般で言う「恋人つなぎ」になっていた。
恋人ではないけれど、違和感はない。誰かに見られたらおかしいと思われるかもしれないけれど、別に構わないと思った。わたしは自分で思っている以上に、図太い人間なのかもしれない。
そばにいるよ、わたしはすぐ隣にいるよと体温を通して翠に伝えたかった。
「どうしてなにも言わないの。怒らないの……」
「どうして怒ると思うの?」
「どうしてって……わたしはずっと騙して、裏切ってたんだよ。もう気づいてると思うけど、実はわたしは『碧』なの。穂果に隠し続けてたの」
「……すごく、苦しかったよね」
え、と声を漏らした翠の瞳が大きく見開く。
「わたし、翠と碧くんにいつも甘えて頼ってばかりで。大切にしたいのに、ふたりのことを大切にできていなかった」
「なに言ってるの。わたしのこと気持ち悪いって思わないの? 失望したでしょう」
「しないよ」はっきり首を横に振る。
黒く滲んだ下まぶたに、透明な涙が流れ落ちた。
「びっくりはしたけど、そのことで翠と碧くんを大切に思う気持ちはなくならないよ。一ミリも」
ねずみ色の空模様を見上げた翠が、ずずっと鼻音を立てる。
わたしも空を仰ぐと、顳顬にぽつと小さな雨粒が落ちた。
「……実はわたしね、物心ついた頃から、女の子でいることに窮屈さを覚えるようになったの。だからと言って、心が男の子なわけでもない。ただ息抜きをするような感覚で、中学二年の頃から、たまにこっそりと男装をするようになったの」
意味わからないよね、と翠が顔を強張らせる。その表情に胸の奥が軋んだ。
「わたしのおばあちゃん、女性らしさに厳しいところがあるんだけど。いないときを見計らって、近所の人にも気づかれないように、この公園の公衆トイレで男装してた。ここは薄暗くて人が寄りつかない場所だから。でも繰り返しているうちに慣れすぎたんだと思う。見てる人は見てるってわかってるはずなのに、まだ大丈夫って安易な暗示をかけながら逃げ続けてた」
碧くんの姿でわたしと会うとき、翠として学校でわたしと会うとき、どれほど大きな恐怖と不安を抱えていたのだろう。わたしはふたりに何度も救われたのに、自分のことしか見えていなかった。
「先月にやった高校生活調査アンケート、男女の間にある中黒に丸をつけた生徒はわたしなんだ」
翠の声はかすかに震えている。濡れた瞳は、鬱蒼とした茂みの奥へと向けられていた。
「ここまで聞いたらわかると思うけど……実はわたし、自分の性別がわからないんだ。高二にもなってわからないとかおかしいよね」
無理して口端を持ち上げているのがわかる。絡む指先に、きゅっと力を入れた。
「二回目」
えっと翠がわたしを映す。
「『実は』なんて言葉、使わなくていいんだよ」
翠が息を呑んだように目を見張って、ゆっくりと逸らした。
「……翠でいるときも碧でいるときも、いつも誰かを騙しているような気がする。自分がやってることは滅茶苦茶な詐欺師と変わらない。そうわかってるのにやめられなくて……結局、大切な人を傷つけた」
翠の体温が離れていってしまうような気がして、指の腹をぎゅっと押しつける。
「痛いよ」
「うん」
「離してよ……」
「ごめん。いやだ」
子どもみたいに勢いよく首を振ってから、わたしもねと口を開く。
「ずっと誰にも話せなかったことがあるの」
頬にぽつぽつと当たる雨粒に、近日中には関東も梅雨入りするでしょうと、先日見た予報を思い出す。
「たぶんなんだけど、わたし、恋愛感情を抱かない人間なの。だから誰々がかっこいいとか、好きなタイプとかの話題が苦手で。中学の頃は周りを見習うようにそれっぽいことを言って、嘘ついたりしたこともあった。いつか本当になると、自分を誤魔化しながら信じたりして」
耳を傾けたまま、翠が静かに頷く。
「高校生になると、女子も男子もお互いのことをより意識したり、彼氏彼女がいる人がクラスにどんどん増えていって。あれ、おかしいなって心の中でずっと焦ってた。高校生になって、そろそろ初恋は経験できるかな、みんなみたいに普通になれるかなって淡い期待を抱いてたんだけど、全然関心が持てなくて。毎日取り残されてるみたいな感じがしてた」
黙って聞いていた翠が、わかるよとこぼした。
「わたしも、恋愛感情とか性的欲求を感じたことがないんだ」
「翠も……知らなかった」
「このことを打ち明けるのも初めてだから。アセクシュアルっていうみたいだよ」
「初めて聞いた。わたし、自分のことなのに調べるの怖かったから」
「自分と向き合うのって怖いよ。勇気がいる。だから穂果は、自分にも相手にも真正面から対峙しようとしててすごいよ」
そう言ってくれる翠の表情はさっきよりも和らいでいて、少しだけ胸をなでおろす。
「さっきね、お父さんの恋人に初めて会ったんだけど。その人に、ゆくゆくは家族みたいな関係性になれたらって言われたんだけど、わたしにとっては出て行ったお母さんが今もお母さんで……すごく複雑な気持ちになった」
うん、雨音みたいに翠が頷く。
碧くんのときもだけど、大袈裟な反応をしたりせずに耳を傾けてくれる姿勢が好きだ。
「思いきって伝えたの。『適切な距離感を保てる関係性でいたいです』って。前に碧くんが、月に三回は自分の願望を優先してもいいって提案をしてくれたおかげで、自分の言いたいことが言えたんだ。お父さんには失望されたと思うけど」
へらっと笑うも、翠は真面目な顔で「がんばったね」と言ってくれた。
雨粒を受ける翠のメイクは、さっきよりもよれているけれど、神秘的で。蛹から蝶に変わるように見える。
「わたしは穂果のこと、かっこいいと思ったよ。それにその言葉は、お父さんの恋人を否定しているわけじゃない。穂果なりの歩み寄りだと思う」
落ち着いた口調に熱が込み上がる。視界がじわりとぼやけ始めた。堪えるように、一度唇を引き結んでから言う。
「わたしね、少し前から翠と碧くんが同一人物なんじゃないかって考えるようになったの。首の後ろにある、双子みたいに並んだふたつのほくろを発見して」
言うと、翠ははっとしたように繋がれていない手をうなじにあてた。本当に馬鹿だと翠が息を吐く。
「もしかしてって疑問を持ち始めたときも、事実を聞いた今も、裏切られたとか騙されたなんて微塵も思わなかったよ。本当に」
これ以上ないほど見開かれた翠の瞳が、波打つように震える。
「わたしは翠も碧くんも好きだよ。この感情にどういう名前がしっくりくるのかはわからないけど、ふたりとも友達以上に大切だと思ってる」
「穂果……」
「曖昧でごめん。普段は友達という言葉を都合よく使っているのに」
世間からすれば、わたしは不気味な目で見られるのかもしれない。十七歳にもなって、恋愛感情がわからないと真剣に言っても、これからすぐにわかるから大丈夫、と気安く受け止める人も少なくはないだろう。
「名前があることで安心できる部分もあるけど、すべてに必要なわけじゃないんじゃないかな。大切に思っていれば」
ずっと、世間の正解とされている輪に自分も近づきたい、でもこのままでいたい。そんな矛盾を抱える自分に毎日のように落ち込んでいたけれど、わたしのまま、大切にしたいものを自由に愛していいんだと、今では心の底から思える。
名前がなくても、選んだ道を、自分の正解にすればいい。
――きゅるるるるう。
ふと、気の抜けるような音が、わたしの内側から鳴り響いた。
「お腹すいたね」翠がくすりと笑みを浮かべる。
うんと素直に頷いてから尋ねた。
「翠のお家に帰ったあと、スーパーに行ってデザートを買ってもいい?」
「もちろん。なに食べたいの?」
「バニラアイス。翠も碧くんも好きだよね」
「穂果もね」
お互いに笑って手を繋いだまま立ち上がる。
「あ。あとおはぎも買いたい」
「おばあちゃんの好物、覚えててくれたんだ」
嬉しそうに口角を持ち上げた翠に頷いては、
「お父さんも好きだから、お父さんの分も買う」
雨模様の空を見上げるようにして言った。
濃いねずみ色の雲がこちらへ迫っているのが見える。その重々しさに、わたしはまた怯みそうになった。けれど、怖がからなくていいんだよと言うみたいに、重なり合う手に優しい力が加わった。
「今度、穂果のお父さんに挨拶しに行ってもいいかな」
えっと驚いては翠を見る。
「理解してもらいたいとも、理解してもらえるとも思ってないよ。多様性ってよく聞くけど、わたしには言葉ばかりが大きく波打って歩いているように感じる」
そうだね。共感しながら頷く。
「ただ、わたしのことが原因なのに穂果ひとりに大変な思いはさせたくない。穂果とこれからも一緒にいるためにも――まずはおばあちゃんに話すよ。わたしも、がんばってみる」
ぴんと背筋の伸びたきれいな横顔に、わたしはこれから、何度も救われるのだろう。そして、幾度も幸福を祈り続けるのだろう。
「なんだか、プロポーズみたいだね」
重い空気に不似合いな笑みがこぼれると、そうだねと翠はおかしそうに笑った。
「通り雨だと思うけど、勢いが増してきたからそろそろ行こう」
手をつないだまま、一緒に並んで走り出す。
お互いに髪も衣服もすっかり湿っているのに、羽が生えたみたいに全身が進んでいく。
「上がったら虹が見えるかな」
「見えたらいいね。雨はいつか必ず上がるから」
たまに足が滑りそうになる。ここ最近の雨はスコールのように激しさを増すことが多い。わたしたちを非難するかのように、容赦なく降りそそぐ。
――それでも、この手を離したくない。
これからも、手と手を取り合ってそばにいたい。
脆くて、不器用な、わたしたちの幸福を守るために。
分厚い雲間から陽が射すも、雨はまだ降り続いている。空は気分に合わせるように自由に色めき、光のグラデーションを描いていた。アスファルトの片隅に咲く、小さな花を照らしては濡らしていく。
わたしたちは、赤から青に変わった信号を合図に、縞模様の歩道をピアノを弾くようにして駆けていった。
濃く、淡く、鮮やかに滲んだまま、指先から迸る熱を重ね合って。
