グラデーションフラワー

3
 六月の最初の日曜日。わたしとお父さんがふたりで暮らすマンションに千紗都さんが訪れた。
 ふんわりとしたシフォンブラウスに、張りのあるティアードスカートを合わせている。小粒のピアスや漂ってくる香水から、隙のない女性らしさを感じてかなり緊張してしまった。
「穂果ちゃんと一緒に食べたいと思って、オーガニックのシフォンケーキを買ってきたの。からだにも良いし、環境にも配慮されているのよ」
 オーガニックというワードを聞いて、さすが千紗都さんだと、お父さんは感心するように笑顔を浮かべている。
 どうしよう。気まずい。緩みきったお父さんの表情に、見てはいけないものを見ているよな居心地の悪さを覚える。
「今日の夕飯はな、千紗都さんが腕を振るってくれるそうだ。千紗都さんは料理が上手だから、穂果も絶対に胃袋を掴まれるぞ」
 とっさに愛想笑いを作る。頬の内側がぴくぴくするのを感じながら、「なにを作ってくれるんですか?」と定型文のように尋ねた。
「ビシソワーズとラグーソースパスタだ。このパスタはすごく手の込んだ料理なんだぞ」
 千紗都さんではなく、お父さんが誇らしげに答える。
 どちらも名前は聞いたことがあるような気がするけれど、見た目や味の想像が全くできない。
 なんとく、すごいねと言うと、そうだろうとお父さんが鼻を高くする。カタカナの料理名をよどみなく言えるお父さんに背中がぞわっとした。
 テーブルの上にシフォンケーキが運ばれてくる。椅子に腰をかけた千紗都さんが、思い出したように口を開いた。
「そういえば穂果ちゃん、先月彼氏さんと見ていたランジェリーは購入したの? 配色のバランスも大人っぽくて繊細なデザインだったわね」
 フォークで掬ったひと口目が、危うく滑り落ちそうになった。
「えっと、彼氏ではないです」
 頬が引きつる。
 お父さんの前で下着の話をするのはやめて欲しい。
「あら、じゃあお友達?」
 パーマがあてられた黒い睫毛が、探るように上下に動く。
「それが、素直に認めないんだ。誰に似たのか、穂果は変なところが頑固だから」
 そんなこと言わないの、と千紗都さんがたしなめるように言って続けた。
「繊細な年頃だもの。わたしたちが見守る姿勢でいないと正直に話せることも話せなくなるものよ」
 フォークを上品に口に運んだ千紗都さんが、穂果ちゃんと言って正面に座るわたしを見る。
「お化粧とかファッションの相談にも乗るから遠慮しないでね。わたしはいい歳をしたおばさんだけど、それでもやっぱり同性のほうがわかり合えることも多いと思うの。それから食生活についても。インスタントって便利で美味しいけれど、健康のことを考えると食べ過ぎはよくないから」
 ね? と同意を求めるように斜めに首を傾ける。そして、くるんと宙を舞う睫毛を軽く伏せた。アイラインで囲まれた黒目がわたしの胴体をなぞる。哀れみと低評価がブレンドされている視線に、手土産がオーガニックであることに合点がいった。
 千紗都さんはきっと、わたしの容姿や健康を思って選んでくれたのだろう。わたしが美味しいと思うのは、生クリームたっぷりの甘さなのだけれど。
 さっぱりとした味わいのスポンジを咀嚼しながら、ランジェリーショップで買い物をしたあの日の帰り道をふと思い出した。

『着たいと似合うが一致したらいいのにな』
『そうだね』碧くんが共感するように頷く。
『あと、周りの視線とか自分の思い込みとか、もう少し手放せるようになれたらいいのになあ』
 黙ったまま、碧くんが首を縦に振る。ビルの狭間にぽつぽつと浮かぶ星を見上げてからわたしを見た。
『提案なんだけどさ、お互いに、月に三回は自分の願望を優先してもいいって余白を持つのはどう?』
『余白?』
『うん。自分を責めたり我慢し過ぎたりしないように。ひとりじゃないって心強くない?』
 大きく頷いたわたしに、碧くんは目尻にしわを作って笑った。

「千紗都さんはな、穂果を自分の娘のように案じてくれているんだ」
 意識が現在に戻る。お父さんの言葉に、千紗都さんがうんうんと頷いた。わたしの中で、ふつふつと違和感が膨らんでいく。
「あまり外見のことは言いたくないが、穂果の彼氏は髪色が派手で、しかも女の人みたいに化粧までしていたそうじゃないか」
「メイクをする男の子はわたしの学校にもいるよ」
 血色をよく見せるチークとか、眉毛とか、ほんのりとだけれど。
「でも少数だろ」ばっさり切るように言う。
「しかも来年、穂果は受験生になる。悪い影響を受けるじゃないかって心配しているんだ」
 お父さんの考え方こそ、わたしからすればどうかと思う。
 髪を染めている男子に比べて、メンズメイクをしている人は少ない。今はまだ、女の子のほうが圧倒的にメイクをしている。
 多様性という言葉は広く浸透はしているけれど、他人とちがいを尊重できるかどうか、受け入れられるかどうかは、わたしも含めてそれぞれ差異がある。
「わたしたちの頃よりも今は自由な時代なのよ」
 千紗都さんが宥めるように、お父さんの肩に手をのせる。
「穂果ちゃん、わたしはね、いつかあなたと家族のような関係になれたらいいなと思っているの。穂果ちゃんには長い間お母さんがいなかったでしょう……。年頃ならではの悩みもあるだろうし、相談に乗ってサポートできたらなって考えているの」
 盛大なため息がこぼれそうになったのをぐっと堪える。関心を寄せてくれるのはありがたいようで、ときに困ってしまう。ふたりの理想を押しつけられている気がした。
 一見穏やかに見える波でも、一度飲まれてしまったら、生涯に渡って溺れ続けることになるかもしれない。それは、わたしには耐えられない。
 わたしは、まだ半分残っているケーキの皿にフォークを置いた。
「お父さん千紗都さん。ふたりがお付き合いするのはいいけれど、わたしにとってのお母さんは今も美月お母さんだけなの。もう、わたしのお母さんじゃないとしても。だから、ごめんなさい」
 膝上に両手をついて深く頭を下げる。重い沈黙を内臓の奥深くまでひしひしと感じながら顔を上げると、呆然としたお父さんと唇を歪ませた千紗都さんと目が合った。綺麗に塗られている唇の艶に、怖気づきそうになる。
「なにを言っているんだ、穂果。美月はおれとおまえを捨てて出て行った最低の女なんだぞ。なにより千紗都さんに対して失礼だとは思わないのか?」
「徹次さん、いいんです……。わたしが色々と先走ってしまったのが悪いんです。穂果ちゃん、距離の縮め方を急いでしまってごめんなさいね。今後は焦らず、少しずつ深い関係になれるように努力するからね」
 ふたりの望む気持ちに応えられないわたしは間違っているのかもしれない。けれど、歩み寄れない部分もある。
 お父さんにとっては大切な恋人でも、わたしにとってはちがう。寂しくて、悲しいけれど。
 十七歳になってもそんなふうにしか考えられないわたしは、駄々をこねる子どものように映るのかもしれない。
 わたしは、膝に置いていた手を重ね合わせるようにぎゅっと力を込めた。
「本当にごめんなさい。千紗都さんとは、ほどよく適切な距離感を保てる関係性でいたいです」
 椅子から立ち上がったわたしは一礼して、「夕はんは外で食べてくるから心配しないで」と言ってマンションを後にした。
 後ろ髪を引かれるような思いもしたけれど、清々しさもあって不思議な感じがする。
 特に行くあてもないまま、ふらふらと駅へ向かった。日が伸びた空はまだ明るい。
 ――ほどよく適切な距離感。
 曖昧な表現をしてしまったなと思う。けれど、にこにこ顔でふたりに接することはできない。わたしにも意思はある。
 深いため息がこぼれそうになっていると、ポケットの中でスマホが連続して鳴いた。
「千紗都さんに謝りなさい」「例の彼氏と会うのか?」確認すると、お父さんからのメッセージが立て続けに出現する。
 見なかったふりをして、無我夢中で駅へと向かった。
 道中のまんなかで、大声を出して泣いてしまいたい。赦されるのなら、叫び出してしまいたい。
 それ以上に、翠と碧くんに会いたい――。
 最寄駅に着くと、さっきよりも長い振動を肌に感じた。無視したい気持ちに駆られるも、一呼吸ついて表示を確認する。
 予想していなかった名前に、すぐにスマホを耳に押し当てた。
「もしもし、翠?」
『穂果、ごめんね急に。今夜わたしひとりなんだけど、昨日の夜カレーを作りすぎちゃって。穂果の都合さえよければ、家に来て一緒に食べないかなって』
「……いいの? 行きたい!」
 つい、意気込むように声が張る。
『ありがとう。じゃあわたしの家の最寄り駅に着く時間がわかったら教えてくれる? 迎えに行く……っ、』
 不自然に途切れた声に、一度画面を確認する。画面はまだ通話中になっていた。
「翠? どうしたの?」
 吸盤になったみたいに、ぴたりと耳をくっつける。すると、翠ではない女性の声がかすかに聞こえてきた。
『まさか――の子だったなんてね。こんな人気のない公園に、随分と不似合いな美男子が定期的に現れるなあって前から気になってたんだけど……なんだ、誰も寄りつかないトイレでこっそり男装してたんだ、』
 画面にひびが入るような勢いで通話が切れる。すぐにかけ直すも応答の気配はなかった。ばしゃんっ、と冷水を浴びたみたいに全身が凍りついていく。呼吸が浅くなるのを感じながら、わたしは急いで電車に飛び乗った。
 ――はやく、はやく、はやく。
 逸る気持ちを抑えるように胸元に手を当てる。穏やかな走行に揺られているだけなのに、心臓は汗を掻いているみたいにうるさい。
 ――ぼくの家から少し離れたところに、寂れた公園があるんだよね。夜はもちろん、朝も昼も薄暗くて、散歩してる人も滅多に中を通らないような。でもぼくはそこに行くと、なんか落ち着くんだ。
 以前、碧くんから聞いた話が思い浮かぶ。スマホでマップを開くと、この公園かもしれないという場所をひとつだけ見つけることができた。
 目的の駅へと電車が到着する。
 ――どうか、どうか無事でいますように。
 祈りに似た願いを抱えたまま、プラットホームの改札へ足を走らせた。