2
翌日の夜、ストックしてある袋麺を食べようと鍋に水を張る。お父さんがいない夜ごはんは、ここぞとばかりにインスタントを選ぶことが多い。
健康によくないものって、どうして贅沢に感じるほど美味しいんだろう。お父さんに目撃されると、「太るぞ」「豚になるぞ」とリズムよく脅すような口調で言われる。
いつもだったら好きなトッピングを用意したりするのに、そんな気分になれない。ぼんやりと鍋底を眺めてしまう。目撃した碧くんのうなじが、こぽこぽと昇るあぶくと重なっては弾けていった。
もしかしたら、見間違いだったのかもしれない。
けれど――碧くんは翠で、翠は碧くんかもしれない――という想像が消えてくれない。
更衣室で着替えは見ているから、翠の身体は女性だと思う。けれど、心まではわからない。
激しく沸騰する熱に飲み込まれるような感覚を覚えていると、玄関が音を立てて開いた。
「穂果、話がある」
神妙な顔つきのお父さんに首をひねる。
日曜である今日は、千紗都さんと会うと聞いていたから、帰宅したあとも機嫌がいいものだと思っていた。
仕方なくコンロの火を止めてから、ダイニングテーブルに座った父の向かいに腰を下ろす。
理由はわからないけれど、漂う空気が重い。
今月の生理はもう終わっているのに、下腹部が圧迫されるような嫌な感じがした。
「穂果は昨日、友達と会うと言っていたよな?」
一拍置いてから小さく頷く。
都合よく友達という言葉を使うくせに、わたしは違和感を覚えてしまう。
「でも実際は違うんだろ?」
確信している声に、わたしは息を呑んだ。
「買い物途中だった千紗都さんが、ショッピングモールで見かけたらしいんだ。……下着店で、彼氏らしき若い男と親密に過ごす穂果の姿を」
両手で喉が圧迫されるみたいに苦しくなった。追い打ちをかけるように、お父さんの乾燥した唇が動く。
「付き合ってるんだろう、その男と」
そう言って大きなため息を吐いた。
「穂果も年頃だし、お父さんには話しづらい気持ちも理解しているつもりだ。けどな、」
軽蔑するようにお父さんの唇が歪む。
わたしは耳を塞ぎたくなる衝動を堪えながら、膝上でこぶしを作った。
「下着店にまでついて来るのは、デリカシーがなさすぎるんじゃないのか。他にも女性客はいるだろうし、そもそも高校生の分際でそういった店に一緒に入るのは、マナーに欠ける行為だと思うが」
間違っているか、と訴える眼差しが、鋭利な矢のようにわたしを射抜く。
お父さんが言っていることは、きっと正しい。
頭ではそう、わかっているけれど。
これ以上の異論は許さないというような態度で、お父さんが腕組みをする。お願いだから、わたしの話も聞いてほしいと言う勇気が、ほつれた糸のように散らばっていく。
息が苦しい。顔も知らない千紗都さんに苦手意識が湧き上がる自分が嫌だ。世界のすべてが千紗都さんに染まっているようなお父さんの言動が怖い。
感情の塊をまるごと吐き出してしまいたいけれど、内側でブレーキがかかる。
思いのままに吐き出した言葉は、相手に突き刺さるだけでなく、ブーメランのように自分に返ってくると、十七歳のわたしはもう知っている。
彼は――碧くんはわたしにとって大切な人だけど、恋人じゃないよ。ランジェリーショップの商品を一緒に見たのは事実だけれど、他の女性客が入店しようとしたとき、すぐに立ち去ったんだよ。
頭の中で文章を組み立ててみる。でも、彼氏とも友達とも異なる関係性で下着を見ていたと知れば、お父さんの中で限界を超えて爆発してしまう。
口を噤んでいるとお父さんがもう一度大きなため息を吐いた。
「恋愛をするなとは言わない。ただ、その相手と交際を続けるのは考え直したほうがいい」
「……彼氏じゃないよ」恐る恐る口にする。
「じゃあなんなんだ。男友達と行ったとでも言うのか」思いきり眉をしかめる。
「そうじゃないけど彼……は、わたしにとって大切な人なの」
「だからつまり、付き合っているんだろう? どうしてそんな曖昧な言い方をするんだ」
眉間のしわが深まっていく。
お父さんにとっては、友達か恋人、その二択しかないのだ。
「……ごめんなさい」
こんなことしか言えない自分が愚かで、情けなくて悔しくて。奥歯をぐっと噛み締める。
「品がないのは、美月だけで十分だ」
――美月。
随分と久しぶりに、お父さんの口からお母さんの名前を聞いた気がした。
わたしが六歳のときに、好きなひとができたと言って出て行ってしまったお母さん。ぼんやりとだけれど、笑顔がきれいでいつも優しかったことだけは覚えている。たとえ、お母さんが世間にとって赦されない行為をしたのだとしても。
お母さんがいなくなってから、お父さんはよくお酒を飲むようになった。呷りながら、お母さんへの恨み言をこぼす日も少なくはなかった。「ふしだら」「自堕落」「あんな女にだけはなるなよ」、とお父さんは事あるごとにわたしに言いかせた。
立派な剣を突き立てるように、何度も何度も。
強靭で、粘着力のある呪縛のように頭に響く。
「穂果は美月とはちがう……でも、心配なんだ」
お父さんの瞳は、力強いのにかすかに揺れていた。「付き合う人は慎重に選びなさい」と続けて背中を向ける。つかの間、着信音が鳴り始めた。お父さんの動きが電源がオンになった様子で途端に早くなる。しばらくして、寝室のほうから愉しそうな声が漏れ聞こえてきた。
愛することも愛されることも、素晴らしいことだと色んな場面で教わってきたけれど、わたしは感動よりも恐怖を覚えてしまう。
クラスメイトたちが異性や恋愛に関心を高めていく中、わたしは十七歳になった今も、その流れに乗ることができない。青春ドラマみたいに放課後デートをしたり、手をつないだり、キスをしたり。そういったことに興味も抱かなければ、経験したいと思ったこともないのだ。
このままではいけない。変わらなくちゃ。
何度も何度も焦りと不安に襲われるのに、わたしは水槽の中を彷徨い続けている。
ふらふら、ぐらぐら。
このままでいたい、という愚かな本心を捨てきれずに。
翌朝、いつものように登校すると、背後から高い声で名前を呼ばれた。振り返ると、渡り廊下の向こうに、クラスメイトである倉橋さんの姿が見える。一年生の頃から一軍に所属している彼女のことは、クラスが一緒になる前から認識している。直接話したことはほとんどないけれど。
彼女は、ぶんぶんと手を振りながら、わたしの元へ駆け寄って来た。
「ねえ笹良ちゃん、この前モールで見ちゃったんだけど、どこであんなイケメンな彼氏を見つけたの? あたしもあの日デートしててさ、ちょうど見かけたんだよねえ」
愉しそうに両手の指の腹をくっつけたり離したりしながら言う。整えられた長い爪はつやつやとした淡いピンク色にコーティングされていた。
倉橋さんはカラオケに参加しているメンバーのひとりだと思っていたので内心で驚く。どうやらあの日は倉橋さんの十七歳の誕生日だったらしく、直前までクラスのみんなから祝ってもらおうか悩んだけれど、社会人の恋人からお祝いされることを選んだようだ。
うっとりとした表情で語る倉橋さんは、少女漫画で読んだ恋する女性をそのまま体現しているかのようで。この前食べた花形のにんじんが、わたしの頭を過ぎる。
「いや、今はあたしのことじゃなくて、笹良ちゃんの彼氏について聞きたいんだった」
話がこのまま逸れてくれるかと期待したけれど、そう上手くはいかない。
否定しようと口を開きかけたとき。倉橋さんが甘えるように、わたしの二の腕をふにっとつついた。
「やわらかーい」倉橋さんの白い前歯がきらりと光る。
「笹良ちゃんの彼、身長は高くなかったけど、清潔感があって雰囲気もいい感じだったよねえ。笹良ちゃんに、あんなに素敵な彼がいるだなんて知らなかったから、デート中なのを忘れるくらい驚いちゃった」
きれいにネイルされた爪が、ワイシャツ越しに肌をなでる。悪意のない愉しそうな表情に、ぶわっと肌が粟立った。
「……彼氏じゃないよ」また、恐る恐る口にする。
目を瞬かせた倉橋さんは、一時停止するように固まってから、あははと大きな口を開けて笑った。
「笹良ちゃん、もしかして照れてるー? ていうか彼氏じゃないなら一体どういう関係なの?」
アイラインが濃く引かれた目に、鋭い光が宿ったような気がして生唾を呑む。
わたしにとって碧くんは、友達以上に大切な存在だ。けれど、倉橋さんが恋人に抱くような感情とは種類がちがう。
――それに、碧くんはもしかしたら。
確証のない憶測が、また過ぎる。
答えられずにいると、倉橋さんは「笹良ちゃんてなんか変わってるねえ」とてらてらと輝く唇を突き出して笑った。
わたしも口端を引っ張ってみるけれど、うまく真似をすることができない。
そのあと通りかかった友達に声をかけられた倉橋さんは、わたしと話していたことなど忘れてしまった様子で、あっけなく通り過ぎていく。
ぽつんと残ったわたしは、渡り廊下に縫いつけられたみたいに、濃淡のある影を作っていた。
「朝のHR遅れて来たけど、なにかあった? 穂果が遅刻するなんて初めてだよね」
昼休み、いつもの空き教室でお弁当を食べていると翠が言った。
声質は似ているけれど、碧くんのほうが低音だ。それに碧くんは一重で、翠は二重。でもアイプチやテープを使って二重まぶたを作っている可能性もある。
「……穂果?」
心配するような声に慌てて顔を持ち上げた。
「ごめん。今日は寝坊しちゃって、お弁当も失敗しちゃったんだよね」
いつも、翠の前でどうやって笑っていたんだっけ。こんなにもへらへらとした声だったっけ。
込み上げてきた熱を誤魔化すみたいに、茶色く焦げてしまったたまご焼きを箸でつまんだ。
苦い。噛めば噛むほど苦味が押し寄せる。
翠の顔がまともに見れない。
「そういえば翠ってさ、恋人とか好きな人っていたりするの?」
ぽろっと出た言葉に自分で驚く。目を見張った翠の長い睫毛が、羽を広げるように天井を見上げた。
「どうしたの急に。恋人はいないよ。恋愛はしたことがない」
「そっか」
「大切に思う人はふたりいるけど」
箸の動きを止めると、「穂果もそのひとり」と翠は穏やかに微笑む。碧くんの品のいい笑い方に似ていた。
「もうひとりは一緒に暮らしてるおばあちゃん。ふたりとも、わたしにとってかけがえのない人だから」
さらりと言って、好物のきんぴらをぱくりと食べた。
翠はおばあちゃんとふたりで暮らしている。詳しいことは聞いていないけれど、両親は共に海外で働いている。兄弟姉妹がいるという話も聞いたことはない。
ついさっきまで不安定に揺れていた心が、潮が引くように凪いでいく。わたしもふたりが大事だ。翠も碧くんも。
ふたりが同一人物かどうか、答えを探し求めるようなことはもうやめよう。どうしたらふたりのことを大切にできるのか、わたしにとって重要なのはそれだけだ。
「わたしもふたりいるよ」
「ふたり?」
「うん。翠と碧くん。高校生になって一番嬉しかった出来事は、ふたりに出会えたこと」
にいっと自然に笑みがこぼれる。
美しく澄んだ瞳が揺れ動いたように見えた。
ふふっと口元を綻ばせたまま、唯一上手にできたアスパラのベーコン巻きを頬張る。ほどよい塩味とじゃきじゃきとした食感が口いっぱいに広がった。
翠が眩しいものでも見るように目を細める。
「もしかして食べたい? もう一個あるよ」
そう言ってお弁当箱を寄せると、翠は一瞬だけ固まってから、ぷぷっと笑った。
「わたし、そんなに食べたそうに見えた?」
「え、違った?」
「ううん、大正解……ありがとう、穂果」
大きな口を開けて、アスパラのベーコン巻きを翠が齧る。幸せそうな表情に、わたしまで嬉しくなった。
開いていた窓から入ってくる風が気持ちいい。窓硝子の向こうの上空に飛行機が飛んでいるのが見えた。白い線上の雲が、すうっと横切るように水色の世界を泳いでいく。
放課後、委員会が終わって鞄を取りにクラスに戻ると、「かっこいいんだってな、彼氏」と栢野くんに言われた。
栢野くんとはクラスだけでなく、委員会も一緒だ。あみだくじでペアを組むことになった。碧くん以外で仲のいい男子がいないわたしは始めこそ緊張していたものの、気兼ねなく話しかけてくる栢野くんの大雑把さに次第に慣れていった。
栢野くんはきっと、交友関係の広い倉橋さんから人伝いで聞いたのだろう。
「彼氏じゃないよ」
何回目になるかわからない否定を声に出す。朝、倉橋さんに伝えたときよりもはっきりと。
感じたことがすぐに顔に出る栢野くんは案の定、眉間に小さな縦じわを作った。
「じゃあ友達か? でも向こうはそう思ってないかもよ」
碧くんと会ったことも、話したことだってないはずなのに、栢野くんはあっさりと言った。少しむっとした気持ちになる。
夕陽に照らされた栢野くんの髪が、薄いミルクティー色に染まっていく。窓の向こうに見えるグラウンドから、運動部の声がかすかに聞こえた。
「栢野くん、部活に行かなくて平気なの?」
「今日は自主練」
話逸らしたな、と言うようにこちらを軽く睨んだ。
「……栢野くんは、わたしが思わせぶりな態度を取っているかもしれないって言いたいんだよね?」
「いや、そこまでは言ってない。ただおれもだけど、男って単純なところがあるから、勝手に勘違いして期待しちゃう可能性もあるってことを言いたかっただけだよ」
そう言うと、栢野くんは鞄を片側に背負うような形で肩に引っかけた。そして、なぜか気まずそうに鼻先をぽりぽりと掻く。
「いや、もうこの際だから打ち明けるけどさ」
「この際……?」意味がわからず、思い切り首を傾げる。
栢野くんはなぜか、窓の向こうに広がる夕陽と同じくらい顔を真っ赤にして言った。
「おれはさ、卯花のことが好きだと思ってたんだよ。……恋愛的な意味で」
「えっ、栢野くんて翠のことが好きなの?」
驚きの余り肩が持ち上がってしまう。
「ちがうちがう。笹良が卯花に対して特別な感情を抱いているんじゃないかって」
「え。わたしが、翠のことを?」
栢野くんが俯くように頷く。
「卯花といるときの笹良って、居心地良さそうで自然体に見えるし。他のクラスメイトと話してるときよりも、断然楽しそうに見えるからさ」
一般的な恋人がするような触れ合いだったり、言葉だったりを翠に望んだことは一度もない。
でも、友達以上に大切に思っている感情が、そこまで顕著に表れているとは考えたことがなかったから、気恥ずかしさを覚えた。
「笹良、顔赤くなってるけど」
「それは、栢野くんだっていっしょ、」
言うな言うな、と栢野くんが手のひらを大雑把に仰ぐ。
「でも笹良の反応を見ると、卯花に対して恋愛感情があるってわけじゃないんだな」
うん、としっかり頷く。
大きなため息を吐き出すように、そっかあとこぼした栢野くんは、誤解して悪かったと謝った。
「ううん。碧くんのこともそうだけど、勘違いさせてしまうわたしにも原因があるんだと思う」
「いや、それはちがうだろ」栢野くんがはっきり否定する。
「おれもだけど、周りが勝手に、自分たちにとって都合のいいストーリーを作っているだけだ。男女ふたりきりイコールデートだとか、本当のことなんてなんにも知らないのに、わかった気になってるだけだから」
おれも気をつける。と背筋を伸ばしながら呟いた栢野くんに、わたしもと深く頷いた。
高校生になっても恋愛感情がわからないわたしはおそらく「少数派」で、こんな自分は受け入れてはもらえないのだろう、弾かれるのだと、閉じこもるように思い込んでいた。
「わたし、栢野くんと委員会が一緒になれてよかった」
「は?」
ぽかんと口を開いた栢野くんが、くしゃりと目尻にしわを作る。
「なんだよ急に。まあおれも、笹良と一緒になれてよかったよ」
お互いに笑ってなんとなく窓の外を見る。
橙色と薄紫色が溶けあう空に、淡い星がちらちらと煌めき始めていた。
翌日の夜、ストックしてある袋麺を食べようと鍋に水を張る。お父さんがいない夜ごはんは、ここぞとばかりにインスタントを選ぶことが多い。
健康によくないものって、どうして贅沢に感じるほど美味しいんだろう。お父さんに目撃されると、「太るぞ」「豚になるぞ」とリズムよく脅すような口調で言われる。
いつもだったら好きなトッピングを用意したりするのに、そんな気分になれない。ぼんやりと鍋底を眺めてしまう。目撃した碧くんのうなじが、こぽこぽと昇るあぶくと重なっては弾けていった。
もしかしたら、見間違いだったのかもしれない。
けれど――碧くんは翠で、翠は碧くんかもしれない――という想像が消えてくれない。
更衣室で着替えは見ているから、翠の身体は女性だと思う。けれど、心まではわからない。
激しく沸騰する熱に飲み込まれるような感覚を覚えていると、玄関が音を立てて開いた。
「穂果、話がある」
神妙な顔つきのお父さんに首をひねる。
日曜である今日は、千紗都さんと会うと聞いていたから、帰宅したあとも機嫌がいいものだと思っていた。
仕方なくコンロの火を止めてから、ダイニングテーブルに座った父の向かいに腰を下ろす。
理由はわからないけれど、漂う空気が重い。
今月の生理はもう終わっているのに、下腹部が圧迫されるような嫌な感じがした。
「穂果は昨日、友達と会うと言っていたよな?」
一拍置いてから小さく頷く。
都合よく友達という言葉を使うくせに、わたしは違和感を覚えてしまう。
「でも実際は違うんだろ?」
確信している声に、わたしは息を呑んだ。
「買い物途中だった千紗都さんが、ショッピングモールで見かけたらしいんだ。……下着店で、彼氏らしき若い男と親密に過ごす穂果の姿を」
両手で喉が圧迫されるみたいに苦しくなった。追い打ちをかけるように、お父さんの乾燥した唇が動く。
「付き合ってるんだろう、その男と」
そう言って大きなため息を吐いた。
「穂果も年頃だし、お父さんには話しづらい気持ちも理解しているつもりだ。けどな、」
軽蔑するようにお父さんの唇が歪む。
わたしは耳を塞ぎたくなる衝動を堪えながら、膝上でこぶしを作った。
「下着店にまでついて来るのは、デリカシーがなさすぎるんじゃないのか。他にも女性客はいるだろうし、そもそも高校生の分際でそういった店に一緒に入るのは、マナーに欠ける行為だと思うが」
間違っているか、と訴える眼差しが、鋭利な矢のようにわたしを射抜く。
お父さんが言っていることは、きっと正しい。
頭ではそう、わかっているけれど。
これ以上の異論は許さないというような態度で、お父さんが腕組みをする。お願いだから、わたしの話も聞いてほしいと言う勇気が、ほつれた糸のように散らばっていく。
息が苦しい。顔も知らない千紗都さんに苦手意識が湧き上がる自分が嫌だ。世界のすべてが千紗都さんに染まっているようなお父さんの言動が怖い。
感情の塊をまるごと吐き出してしまいたいけれど、内側でブレーキがかかる。
思いのままに吐き出した言葉は、相手に突き刺さるだけでなく、ブーメランのように自分に返ってくると、十七歳のわたしはもう知っている。
彼は――碧くんはわたしにとって大切な人だけど、恋人じゃないよ。ランジェリーショップの商品を一緒に見たのは事実だけれど、他の女性客が入店しようとしたとき、すぐに立ち去ったんだよ。
頭の中で文章を組み立ててみる。でも、彼氏とも友達とも異なる関係性で下着を見ていたと知れば、お父さんの中で限界を超えて爆発してしまう。
口を噤んでいるとお父さんがもう一度大きなため息を吐いた。
「恋愛をするなとは言わない。ただ、その相手と交際を続けるのは考え直したほうがいい」
「……彼氏じゃないよ」恐る恐る口にする。
「じゃあなんなんだ。男友達と行ったとでも言うのか」思いきり眉をしかめる。
「そうじゃないけど彼……は、わたしにとって大切な人なの」
「だからつまり、付き合っているんだろう? どうしてそんな曖昧な言い方をするんだ」
眉間のしわが深まっていく。
お父さんにとっては、友達か恋人、その二択しかないのだ。
「……ごめんなさい」
こんなことしか言えない自分が愚かで、情けなくて悔しくて。奥歯をぐっと噛み締める。
「品がないのは、美月だけで十分だ」
――美月。
随分と久しぶりに、お父さんの口からお母さんの名前を聞いた気がした。
わたしが六歳のときに、好きなひとができたと言って出て行ってしまったお母さん。ぼんやりとだけれど、笑顔がきれいでいつも優しかったことだけは覚えている。たとえ、お母さんが世間にとって赦されない行為をしたのだとしても。
お母さんがいなくなってから、お父さんはよくお酒を飲むようになった。呷りながら、お母さんへの恨み言をこぼす日も少なくはなかった。「ふしだら」「自堕落」「あんな女にだけはなるなよ」、とお父さんは事あるごとにわたしに言いかせた。
立派な剣を突き立てるように、何度も何度も。
強靭で、粘着力のある呪縛のように頭に響く。
「穂果は美月とはちがう……でも、心配なんだ」
お父さんの瞳は、力強いのにかすかに揺れていた。「付き合う人は慎重に選びなさい」と続けて背中を向ける。つかの間、着信音が鳴り始めた。お父さんの動きが電源がオンになった様子で途端に早くなる。しばらくして、寝室のほうから愉しそうな声が漏れ聞こえてきた。
愛することも愛されることも、素晴らしいことだと色んな場面で教わってきたけれど、わたしは感動よりも恐怖を覚えてしまう。
クラスメイトたちが異性や恋愛に関心を高めていく中、わたしは十七歳になった今も、その流れに乗ることができない。青春ドラマみたいに放課後デートをしたり、手をつないだり、キスをしたり。そういったことに興味も抱かなければ、経験したいと思ったこともないのだ。
このままではいけない。変わらなくちゃ。
何度も何度も焦りと不安に襲われるのに、わたしは水槽の中を彷徨い続けている。
ふらふら、ぐらぐら。
このままでいたい、という愚かな本心を捨てきれずに。
翌朝、いつものように登校すると、背後から高い声で名前を呼ばれた。振り返ると、渡り廊下の向こうに、クラスメイトである倉橋さんの姿が見える。一年生の頃から一軍に所属している彼女のことは、クラスが一緒になる前から認識している。直接話したことはほとんどないけれど。
彼女は、ぶんぶんと手を振りながら、わたしの元へ駆け寄って来た。
「ねえ笹良ちゃん、この前モールで見ちゃったんだけど、どこであんなイケメンな彼氏を見つけたの? あたしもあの日デートしててさ、ちょうど見かけたんだよねえ」
愉しそうに両手の指の腹をくっつけたり離したりしながら言う。整えられた長い爪はつやつやとした淡いピンク色にコーティングされていた。
倉橋さんはカラオケに参加しているメンバーのひとりだと思っていたので内心で驚く。どうやらあの日は倉橋さんの十七歳の誕生日だったらしく、直前までクラスのみんなから祝ってもらおうか悩んだけれど、社会人の恋人からお祝いされることを選んだようだ。
うっとりとした表情で語る倉橋さんは、少女漫画で読んだ恋する女性をそのまま体現しているかのようで。この前食べた花形のにんじんが、わたしの頭を過ぎる。
「いや、今はあたしのことじゃなくて、笹良ちゃんの彼氏について聞きたいんだった」
話がこのまま逸れてくれるかと期待したけれど、そう上手くはいかない。
否定しようと口を開きかけたとき。倉橋さんが甘えるように、わたしの二の腕をふにっとつついた。
「やわらかーい」倉橋さんの白い前歯がきらりと光る。
「笹良ちゃんの彼、身長は高くなかったけど、清潔感があって雰囲気もいい感じだったよねえ。笹良ちゃんに、あんなに素敵な彼がいるだなんて知らなかったから、デート中なのを忘れるくらい驚いちゃった」
きれいにネイルされた爪が、ワイシャツ越しに肌をなでる。悪意のない愉しそうな表情に、ぶわっと肌が粟立った。
「……彼氏じゃないよ」また、恐る恐る口にする。
目を瞬かせた倉橋さんは、一時停止するように固まってから、あははと大きな口を開けて笑った。
「笹良ちゃん、もしかして照れてるー? ていうか彼氏じゃないなら一体どういう関係なの?」
アイラインが濃く引かれた目に、鋭い光が宿ったような気がして生唾を呑む。
わたしにとって碧くんは、友達以上に大切な存在だ。けれど、倉橋さんが恋人に抱くような感情とは種類がちがう。
――それに、碧くんはもしかしたら。
確証のない憶測が、また過ぎる。
答えられずにいると、倉橋さんは「笹良ちゃんてなんか変わってるねえ」とてらてらと輝く唇を突き出して笑った。
わたしも口端を引っ張ってみるけれど、うまく真似をすることができない。
そのあと通りかかった友達に声をかけられた倉橋さんは、わたしと話していたことなど忘れてしまった様子で、あっけなく通り過ぎていく。
ぽつんと残ったわたしは、渡り廊下に縫いつけられたみたいに、濃淡のある影を作っていた。
「朝のHR遅れて来たけど、なにかあった? 穂果が遅刻するなんて初めてだよね」
昼休み、いつもの空き教室でお弁当を食べていると翠が言った。
声質は似ているけれど、碧くんのほうが低音だ。それに碧くんは一重で、翠は二重。でもアイプチやテープを使って二重まぶたを作っている可能性もある。
「……穂果?」
心配するような声に慌てて顔を持ち上げた。
「ごめん。今日は寝坊しちゃって、お弁当も失敗しちゃったんだよね」
いつも、翠の前でどうやって笑っていたんだっけ。こんなにもへらへらとした声だったっけ。
込み上げてきた熱を誤魔化すみたいに、茶色く焦げてしまったたまご焼きを箸でつまんだ。
苦い。噛めば噛むほど苦味が押し寄せる。
翠の顔がまともに見れない。
「そういえば翠ってさ、恋人とか好きな人っていたりするの?」
ぽろっと出た言葉に自分で驚く。目を見張った翠の長い睫毛が、羽を広げるように天井を見上げた。
「どうしたの急に。恋人はいないよ。恋愛はしたことがない」
「そっか」
「大切に思う人はふたりいるけど」
箸の動きを止めると、「穂果もそのひとり」と翠は穏やかに微笑む。碧くんの品のいい笑い方に似ていた。
「もうひとりは一緒に暮らしてるおばあちゃん。ふたりとも、わたしにとってかけがえのない人だから」
さらりと言って、好物のきんぴらをぱくりと食べた。
翠はおばあちゃんとふたりで暮らしている。詳しいことは聞いていないけれど、両親は共に海外で働いている。兄弟姉妹がいるという話も聞いたことはない。
ついさっきまで不安定に揺れていた心が、潮が引くように凪いでいく。わたしもふたりが大事だ。翠も碧くんも。
ふたりが同一人物かどうか、答えを探し求めるようなことはもうやめよう。どうしたらふたりのことを大切にできるのか、わたしにとって重要なのはそれだけだ。
「わたしもふたりいるよ」
「ふたり?」
「うん。翠と碧くん。高校生になって一番嬉しかった出来事は、ふたりに出会えたこと」
にいっと自然に笑みがこぼれる。
美しく澄んだ瞳が揺れ動いたように見えた。
ふふっと口元を綻ばせたまま、唯一上手にできたアスパラのベーコン巻きを頬張る。ほどよい塩味とじゃきじゃきとした食感が口いっぱいに広がった。
翠が眩しいものでも見るように目を細める。
「もしかして食べたい? もう一個あるよ」
そう言ってお弁当箱を寄せると、翠は一瞬だけ固まってから、ぷぷっと笑った。
「わたし、そんなに食べたそうに見えた?」
「え、違った?」
「ううん、大正解……ありがとう、穂果」
大きな口を開けて、アスパラのベーコン巻きを翠が齧る。幸せそうな表情に、わたしまで嬉しくなった。
開いていた窓から入ってくる風が気持ちいい。窓硝子の向こうの上空に飛行機が飛んでいるのが見えた。白い線上の雲が、すうっと横切るように水色の世界を泳いでいく。
放課後、委員会が終わって鞄を取りにクラスに戻ると、「かっこいいんだってな、彼氏」と栢野くんに言われた。
栢野くんとはクラスだけでなく、委員会も一緒だ。あみだくじでペアを組むことになった。碧くん以外で仲のいい男子がいないわたしは始めこそ緊張していたものの、気兼ねなく話しかけてくる栢野くんの大雑把さに次第に慣れていった。
栢野くんはきっと、交友関係の広い倉橋さんから人伝いで聞いたのだろう。
「彼氏じゃないよ」
何回目になるかわからない否定を声に出す。朝、倉橋さんに伝えたときよりもはっきりと。
感じたことがすぐに顔に出る栢野くんは案の定、眉間に小さな縦じわを作った。
「じゃあ友達か? でも向こうはそう思ってないかもよ」
碧くんと会ったことも、話したことだってないはずなのに、栢野くんはあっさりと言った。少しむっとした気持ちになる。
夕陽に照らされた栢野くんの髪が、薄いミルクティー色に染まっていく。窓の向こうに見えるグラウンドから、運動部の声がかすかに聞こえた。
「栢野くん、部活に行かなくて平気なの?」
「今日は自主練」
話逸らしたな、と言うようにこちらを軽く睨んだ。
「……栢野くんは、わたしが思わせぶりな態度を取っているかもしれないって言いたいんだよね?」
「いや、そこまでは言ってない。ただおれもだけど、男って単純なところがあるから、勝手に勘違いして期待しちゃう可能性もあるってことを言いたかっただけだよ」
そう言うと、栢野くんは鞄を片側に背負うような形で肩に引っかけた。そして、なぜか気まずそうに鼻先をぽりぽりと掻く。
「いや、もうこの際だから打ち明けるけどさ」
「この際……?」意味がわからず、思い切り首を傾げる。
栢野くんはなぜか、窓の向こうに広がる夕陽と同じくらい顔を真っ赤にして言った。
「おれはさ、卯花のことが好きだと思ってたんだよ。……恋愛的な意味で」
「えっ、栢野くんて翠のことが好きなの?」
驚きの余り肩が持ち上がってしまう。
「ちがうちがう。笹良が卯花に対して特別な感情を抱いているんじゃないかって」
「え。わたしが、翠のことを?」
栢野くんが俯くように頷く。
「卯花といるときの笹良って、居心地良さそうで自然体に見えるし。他のクラスメイトと話してるときよりも、断然楽しそうに見えるからさ」
一般的な恋人がするような触れ合いだったり、言葉だったりを翠に望んだことは一度もない。
でも、友達以上に大切に思っている感情が、そこまで顕著に表れているとは考えたことがなかったから、気恥ずかしさを覚えた。
「笹良、顔赤くなってるけど」
「それは、栢野くんだっていっしょ、」
言うな言うな、と栢野くんが手のひらを大雑把に仰ぐ。
「でも笹良の反応を見ると、卯花に対して恋愛感情があるってわけじゃないんだな」
うん、としっかり頷く。
大きなため息を吐き出すように、そっかあとこぼした栢野くんは、誤解して悪かったと謝った。
「ううん。碧くんのこともそうだけど、勘違いさせてしまうわたしにも原因があるんだと思う」
「いや、それはちがうだろ」栢野くんがはっきり否定する。
「おれもだけど、周りが勝手に、自分たちにとって都合のいいストーリーを作っているだけだ。男女ふたりきりイコールデートだとか、本当のことなんてなんにも知らないのに、わかった気になってるだけだから」
おれも気をつける。と背筋を伸ばしながら呟いた栢野くんに、わたしもと深く頷いた。
高校生になっても恋愛感情がわからないわたしはおそらく「少数派」で、こんな自分は受け入れてはもらえないのだろう、弾かれるのだと、閉じこもるように思い込んでいた。
「わたし、栢野くんと委員会が一緒になれてよかった」
「は?」
ぽかんと口を開いた栢野くんが、くしゃりと目尻にしわを作る。
「なんだよ急に。まあおれも、笹良と一緒になれてよかったよ」
お互いに笑ってなんとなく窓の外を見る。
橙色と薄紫色が溶けあう空に、淡い星がちらちらと煌めき始めていた。
