「おはよう、ティティ」
「サワディーカップ。颯太」
賑やかな朝の教室に現れたティティが、まだ持ち主である土屋が来ていない前の席に腰を下ろす。甘い香りが鼻を掠めていく。
「傘、ありがと」
「どういたしまして」
ティティに借りた傘を渡す。
窓際に近い席は、エアコンがついていても日差しのせいで暑く感じた。ティティも同じだったのか「暑いね」と言いながら、片側だけカーテンを閉める。影になったことで幾分ましになった。
「テスト一週間前になったね」
周囲を見渡すティティに、颯太も同じように目線を向ける。いつもクラスメイトと馬鹿やっている運動部がイヤフォンをして、机に向かっている。
「……なー、そうだな」
ついに、この心臓が耐えられるかわからない一週間が始まってしまった。あの約束をした日から二日経っている。
ため息をついた颯太は、両手で顔を擦る。鼓動が落ち着かないのだ。
土曜日と日曜日もそうだった。ずっとパソコンに向かっていたが趣味である脚本なんて進みやしない。
気分転換を目的として、ティティに電話して「将来の夢」の話をした。
趣味の延長線を夢にしてもいいのかと。
『いいじゃん!』
ティティは電話越しで、背中を押してくれる言葉を沢山かけてくれた。颯太自身、悩んでいたことの一つが軽くなっていった。
しかし、いきなりティティが「好きな人とのシーン脚本にしたら?」と言うもんだから、部屋で発狂してしまう。電話越しに大笑いしてるティティとは反対に、隣の部屋にいた姉さんに「うるさい!」と怒鳴られてしまったのは言うまでもない。
「土曜の夜、電話ありがと」
「楽しかったねー、怒られちゃったけど」
あはは、と笑うティティの姿に颯太も口元が緩んでいく。
「おっはよー」
友人の佐々木の声が、横から聞こえてきた。「おはよう」とティティと共に返す。佐々木は隣の席で颯太が一年の頃からの友人だった。机に置かれたスポーツバッグには「北都学園 バスケ部」と書かれている。
短めの黒髪に真夏にも関わらず肌は色白。タレ目の目元は、一年の頃に同じクラスになった時からずっと話しかけやすさがある。
それは唇も関係あるかもしれない。笑っていなくても口角が上がっているからだ。
「ウチの息子がいつもお世話になってますー」
「いいえー。お世話してますー」
佐々木とティティは楽しそうに顔を見合わせて笑う。
「おい、やめろって。母ちゃんごっこすんなっ。ってか、ティティ、世話してるってなんだ」
佐々木の肩を押せば「あら、思春期かしら?」と茶化してくる。
「もう、やめてくれー」
そう話していると廊下から「山田おはよー」と声が聞こえてきた。思わず視線を向ければ廊下を歩いている大翔が「よっ」と誰かに手を上げている。
佐々木とティティの母さんごっこで落ち着いて来たはずなのに、心臓を鷲摑みにされた気分になる。
なのに、こっちを向いて欲しいなんて少しでも思ってしまうからタチが悪い。
「こら、どこを向いているのかしら?」
両頬を掴まれ、ティティと視線が交わる。黒くて大きな瞳のお陰で心臓を掴む手が緩まる。
「友達、見てました」
「あらそう、挨拶しなくていいの?」
「うん」
佐々木が笑いながら「ほら、やっぱり思春期」と肩を叩いてきた。
「そうだ、ティティ。今週って何日か部活休んでもいい?」
「え、なんかあるの?」
「友達とさ、勉強する約束した」
ティティが佐々木を見る。
「いや、俺は誘われてないぞ」
ティティといない時、颯太は佐々木と前の席である土屋と共にいることが多い。「誰とだよ」と横にいる佐々木に聞かれ、窓側に視線が動いてしまう。
「……大翔と」
そう言えば、ティティが「わおっ!」と驚いた声を上げた。
佐々木が頬杖をつき、不思議そうな顔を向けてきた。
「山田とお前が? 珍しいな?」
颯太は、両頬をティティの手から解放していく。手だけで温まっただけなのか分からない頬を、エアコンの冷気が冷やしていく。
「同じクラスだったの一年の時だけだろ? 最初の頃、ちょこちょこ話してたよな?」
「うん」
指でCの形を作り、目元に寄せたティティが微笑む。
「英語が同じクラスなんだって」
「へー、それで。まあ英語のクラスで仲良くなることもあるもんな。俺達みたいに」
「そうだねー」
Aと両手で表す佐々木はティティと顔を見合わせた。
二年の時よりも息ぴったりな二人の姿に、自然と颯太の心が緩んでいく。
「英語の範囲とかも違うし、いいじゃん。教えて貰えよ」
肩を佐々木に叩かれながら「うん」と颯太は返事をした。
窓側の席は六限にもなると、日差しは和らいでいた。テスト一週間前にも拘わらず、土屋はこっくりこっくりと和栗のような髪色の頭を揺らしている。
横から佐々木が「起こせ」と小声で言ってきた。確かにわからなくもない。エアコンの冷気と窓からの柔らかい光が心地よいのだ。
そしてそれに加えて国語の読解は、もう子守唄だ。国語の担当教諭と自分たちのクラス担任を務める藤井先生も授業を始める時に「頑張れよ」と言っていた。
そんな藤井先生は、教壇の上で教科書に書かれた一節を読んでいる。
颯太自身もあくびが止まらない。
気持ちは分かる、と思いながら土屋の左脇腹をつつく。
ガタッ、と体が動いた。思わず手を引っ込めて教科書を読んでいるフリをする。
隣から「ぐふっ」という佐々木の声が聞こえてきた。颯太は教科書の隙間から佐々木を睨む。
「土屋イアンー、頑張れよ」
藤井先生の声に他の生徒達がクスクスと笑う。
土屋が前の席からこちらをちらり、と見てきた。彫りの深い目元にくっきりとした眉と二重。アメリカ人の父親と日本人の母親を持つハーフだ。
授業の終わりを伝える鐘が鳴った。
そのままホームルームになり、藤井先生は簡易的な連絡事項を伝えた後、教室の扉を開ける。
藤井先生が顔を上げた気がした。
「おい、颯太! やってくれたな!」
土屋の腕に首が囚われてしまう。寝起きのせいなのか、腕は湯船に入った後のように熱い。机を見下ろしながら「寝てたお前が悪い!」と言えば、佐々木の笑い声が聞こえた。
他の生徒もこちらのやりとりを聞いて「そうだ、そうだー」と笑っている。
そんなことをしていると教室のざわめきに違和感を覚えた。大翔の声が聞こえた気がしたのだ。
「颯太ー、山田君が来てるよー」
美穂のその声に鼻から瞬発的に息を吸ってしまう。胸が苦しくなり、まだ土屋の腕に掴まっていたいと思ってしまう。
「え、山田? なんで?」
「英語のクラスが同じだから勉強すんだと」
「えー、じゃあ俺も混ざろうかなー」
「お前、英語Eクラスだろ。やめとけ」
「あ、それは言うんじゃねー! 俺は耳はいいんだ!」
「耳だけな」
佐々木の言葉に「くそう、親父がいれば俺だってえ」と泣き真似をし出した土屋の腕が離れていく。
冷気が首に触れているはずなのに何も感じない。顔を上げれば外で扉に寄りかかっている大翔と目が合う。
切れ長の一重が目の前にいる美穂ではなく、自分を見ている。
颯太は口角が上がらないように唇を噛み締め、急いで机の上を片付けていった。
