背中文字のカムトープ


 颯太は自分の人差し指の爪を眺めていた。耳を赤くした大翔の顔、去り際に弧を描いた目元が頭の中を埋め尽くす。
 改造したバイクの音が、ど真ん中を通り過ぎていく。
 埋め尽くしていたものが、写真をひっくり返すように消えていった。
 そして、自分が未だに玄関に座っていたことに気づいた。
 大翔と話をした後、学習部へと向かったが「今日は帰ってちゃんと寝なさい」とティティからお叱りを受けた。
 玄関に引っ掛けられた濡れた傘に目を向ける。
 傘を忘れたと言ったら、ティティが貸してくれたのだ。傘のネームタグの場所に不格好な日本語で「ティティ」と書かれている。
 また月曜日に返さなければ、と思いながら足元を見る。撥水加工を施されたローファーも水を落とし、靴底周辺に黒い影を描いていた。
 それにしてもゲリラ豪雨というのだろうか。雨粒が大きく、地面を跳ね返る水滴も激しかった。
 傘を差していたが、ところどころ濡れてしまっている。
 制服のシャツを脱ぎながら洗濯機がある脱衣所へと向かう。まだ誰も帰宅していない家の中は、颯太が歩く足音と服が擦れる音だけ。
 濡れた服を脱衣所にある洗濯機に全部入れ、パンイチになった自分の上半身が鏡に映る。腹筋があるわけないのに、少し力を入れてみたりした。

「……何してんだろ」

 目にかかりそうな前髪を自分で動かす。ふと、大翔の指に撫でられたことが鮮明に蘇る。
 両手で乱暴に前髪を動かし、それをかき消すが、すぐに修復されるかのように戻って来てしまう。
 それだけならまだしも、自分の口から出た言葉も蘇っていく。

「一緒に勉強って……無理ゲー過ぎる」

 銃口を構えた大翔に向かっていくようなものだ。
 鏡に映る自分の姿が、情けないほど眉が下がっていた。下にしゃがみ込み、自分を隠した。

「ちょっと、いつまでそこにいんのよ。風邪引くわよ」
「ぎゃー!」

 後ろを振り返れば、茶髪に体のラインを強調するTシャツとオーバーサイズのジーンズを履いた姉さんがいた。
 耳を塞いでいる姉さんは「早く退いて」と足で蹴ってくる。

「ちょっ、姉さん。いつから」

 どこまで姉さんは聞いていたのだろうか。

「今さっきよ。ってか、早く退いて、風呂入んの」

 茶化してこないあたり、何も聞いてないのかもしれない。颯太は胸を撫で下ろす。
 自分がいるにも関わらず、ベルトを取り始めた姉さんから逃げるように脱衣所から出て行く。

「……ねえ、あれの新刊出たけど見る?」
「え、読みたい」
「リビングにあるから先にいいよ」
「やったっ」

 姉さんと趣味が似ている自分は、同じ作品が好きだった。新刊が出るとこうして貸してくれるのだ。
 閉められた脱衣所の扉に向かって颯太は「姉さん、ありがとー」と伝える。返ってきた言葉は「うるさい」だった。
 

 

 リビングにあるL字型のソファに、着替えた颯太はうつ伏せになり、「青は春色」と書かれた漫画のページを捲っていた。
 頭の中で脚本にしてしまう癖を抑えながら、青春に没頭する。自分の恋とは程遠い、憧れのシチュエーションがお菓子のアソートのように詰まっている。
 颯太のページを捲る手が止まった。主人公である伊織が、校舎の屋上前の踊り場に腰を下ろすシーンがあったからだ。
 伊織は智に恋心を抱いている。そんな中、呼び出されたのだ。日常的にも話す仲。
 颯太の膝下をソファから上げる。ふらふらと交差させ、ふくらはぎ同士をぶつけていく。
 漫画の中で、伊織が「話って何かな」と言っている。夕陽が背後から差し込んでいる光の描写に、伊織と共に智を見てしまう。
 我慢していたはずの脚本が勝手に頭の中で、伊織達のシーンを書き起こしてしまう。



 ◯学校・屋上前から階段(夕方)

 階段踊り場に座っている伊織と智。横にある窓から夕陽が差し込み、二人の影が階段に映っている。

 智「あのさ、ずっと言ってこなかったんだけどさ」

 首に手を置く智の頬は赤い。
 伊織は、膝の上に置いた両手を握りしめる。

 女子1の声「でさー、彼氏と別れたさ」

 階段を上る音と共に女子二人が三階の踊り場を通って、廊下へ向かう。

 女子2「えー、あんたはそれでいいの?」

 女子二人の去っていく足音。
 智。自分の前髪を掴むようにかきあげていく。

 智「やっぱり……なんでもない」

 俯く伊織。



 颯太は漫画を閉じた。表紙には手書き風に書かれたタイトルに、風で靡く髪を耳にかけている伊織。中身を読めば、この伊織の表情が物語と重なっているように思えた。
 漫画のページはあと、半分残っているのに颯太は、この先が読めなかった。
 智はきっと告白をしようと考えていたはずだ。なのに、タイミングが悪い。
 自分が大翔に告白するとなった時、同じことが起きたらきっと言えないだろう。
 漫画を開き、再び伊織と智が屋上前の踊り場で座っているページを見る。
 頭の中で自分と大翔に置き換えてしまう。
 そして、大翔が自分の爪先を撫でるところを思い出してしまう。
 もしかして大翔も、自分のことを——。

「……いや、バカ。あれはただ、仲良くなりたかったからだ。深く考えるな、もし違ったら傷つくのはお前だぞ颯太」

 漫画を閉じた颯太は、表紙を眺める。

「可哀想な智……お前達がくっついたらこの先読むからな」

 そう言いながら颯太は漫画が入っていた袋にしまって、テーブルの上にある姉さんのカバン横に戻す。
 ポケットに入っているスマートフォンがポロン、と音を鳴らす。
 リビングのソファに仰向けになり、ポケットからスマートフォンを取り出す。
 画面を開くとティティからだ。

「今日は早く寝なさい、か。お前は俺の母さんかよ」

 颯太は口端を上げた。
 ティティに「分かった」とメッセージを送る。
 だが、颯太の頭は冴えてしまっていた。
 スマートフォンの中にあるメモ帳を開く。新しいフォルダーを作り、◯と冒頭に書いて、脚本を書いていく。恋愛か友情か、決めないまま男女の話を書いていく。
 だが、ページの半分くらいを埋めたあたりで、なぜか瞼は重くなってしまう。寝不足だからだろうか。
 しかし、今日だけのことではない。趣味である脚本をパソコンでも書くが、途中で記憶がないことが多い。脳の回路が一時的に熱くなり過ぎて、ショートするかのよう。
 それにしても脚本にハマったのはいつからだっただろうか。
 高校一年生の時に、姉さんに借りた好きだった映画のシナリオブックだった気がする。
 それからこんな面白い書き方があるのか、とハマって二年生の時にティティに書いていたところを見られて。褒められて。それで、部活に誘われて。
 ゆむたななに、と意味不明な誤字が記入され、重い瞼で消していく。
 最後に残った一文字は「ゆ」だった。瞬きが遅くなり、視界が黒くなることが増えるなかで、颯太はそこに「め」を足してみた。
 将来の夢って、こういうのじゃだめなんだろうか。
 文字の変換候補のところに「夢見」と出てきた。

「……ゆめ、み」

 目の焦点が定まらなくなっていき、颯太はスマートフォンを持った手を下ろす。
 天井にある電気が眩しい。瞬きが早くなり、そのまま目を閉じてしまう。
 颯太の手からスマートフォンがゆっくりと離れていき、カーペットが敷かれた床で鈍い音が聞こえた。