六限目の授業が終わる鐘の音。ロッカーに入れるのは宿題が出ていない教科達。
それ以外はスクールカバンへと入れていく。
「今日、野球部の練習、一時間遅らせて室内練習だってよ」
クラスの男子生徒がスマートフォンを見て声を上げた。「やったー」という野球部員の声が耳を貫いていく。
大翔はその一時間、何をするのだろう。ふと、颯太はそんなことを思った。スクールカバンに荷物を入れる手が止まる。
もしかしたら、自分のところに来たりして、と淡い願望を抱く。なぜかそんな気がしたからだ。
だが、そんな都合のいいことはない。大翔のことだ。きっと、筋トレでもするのだろう。
荷物を全て入れ終えた颯太は学習部がある、隣の校舎へと向かった。
雨は強いが家庭科室などがある屋根付きの廊下を通ったため、濡れることはない。バレー部やバスケ部は、今から部活があるのか傘を差して体育館などに向かって行く。
吹奏楽部のサックスの音なども聞こえ始める。いつもの外の音に雨の音が重なり、どこか綺麗な音色が出来上がっていた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、メモ帳を開く。脚本と記されたフォルダーをタップすれば、趣味で書いている脚本が書いてある。
スクロールしていき、空いている場所に〇と書く。
「うわー、雨だりー」
横を通って行く男子生徒と肩がぶつかった。思わず画面を閉じた。
どんなに趣味である脚本でこの情景を書き起こし、残したいと思っても廊下で立ち止まるのは間違いだ。
だが、書きたい気持ちは止まらない。ならば、と颯太は歩きながら頭の中で書き起こしていく。
◯学園・屋根付きの廊下(夕方)
屋根や地面を叩く雨音。
聞こえてくる吹奏楽部の音。
A(17)は、スクールバッグ片手に歩いている。
× × ×
顔を真っ赤にしたB(18)。
B「話があるんだ」
× × ×
ため息をつくA。
「颯太」
自分の中で流れていた映像と脚本への書き起こしが止まる。背後から大翔の声がしたからだ。別棟に足を踏み入れる。
こんな幻聴まで聞こえるようになってしまったのかと、颯太は苦笑を漏らした。
「おい、無視すんな」
肩を引かれ、雨のせいで足を滑らすと背中に誰かの胸板が当たる。制服のシャツを首筋で感じた。声で後ろに誰がいるのか、颯太には分かってしまう。
心臓の音が雨音と共に流れていく。
「あっぶね。悪い」
背中を優しく押されて、体勢を整える。後ろを向くとスポーツバッグを斜めにかけ、肩を少し濡らした大翔がいた。
「何、やってんの?」
先ほど、淡い期待を抱いていたが、まさか本当に来るとは思わなかった。
「いや、なんて言うか……分かんねえ」
「はあ?」
首が痛い系男子というポーズがあると同じクラスの女子が言っていた。首の後ろに手を当てる仕草だ。
実際、それを目の当たりにするとは颯太は思わなかった。
雨のせいなのか、大翔に対して色気を感じてしまう。
「なんか、喋りてえって思ったんだ。クラス変わっちまって、二年の時はあんま喋んなかったし、卒業まであと少しだし」
電気がついていない廊下は雨のせいで暗い。学習部はこの校舎の三階。一階、二階は後輩達の教室だから、人はいるだろう。いや、いる。教室に明かりがついているのが見えた。
どこで喋ればいいのか、颯太は見当もつかない。
「屋上に繋がる階段あるだろ? そこでいい」
「あ、うん」
階段の電気をつけて上へと上がっていく。颯太は震える指先でティティへ「部活、ちょっと遅れる」とメッセージを送る。OKと絵文字付きですぐに返事が返って来た。
二階を通り、ティティ達がいるであろう三階を過ぎていく。雨で濡れた靴の底が、光沢のある硬い床と擦れ合いキュッ、と音を鳴らす。
恋人でもなんでもないのに、放課後にこっそりと会う今の状態は何て名前をつければいいのだろう。全く頭が働かない。一番上の踊り場に着くと、大翔がスポーツバッグを肩から下ろした。
そのまま腰を下ろした大翔は、こっちを見て「来いよ」と言ってきた。
少し間を空けて座れば、じっ、と大翔が顔を覗いてくる。
「なに」
「顔色良くなってるな」
食堂で寝かせてくれたティティのお陰だろう。大翔がくれたオレンジジュースも良かったのかもしれない。
「ジュース、ありがと。美味しかった」
「おう」
喋りたいと言って来たのは大翔のくせに、話題を出してこない。待ちのスタイルなのだろうか。
下の階から靴と床が鳴る音が聞こえてくる。その音が近づくとカチャーの日本語を呟く声が聞こえた。しまいには独り言なのかタイ語で何かを言っている。
教室の扉が開く音がした。「サワディーカップ」という挨拶と共に複数人の声が聞こえ、閉まる音が響く。
雨音だけが自分の鼓膜を支配する。何を話せばいいのか。普段は指のささくれなんて気にも留めないのに、なぜか今は無性に気になってしょうがない。
「……あのさ、まじで一緒に勉強しねえ?」
大翔の声に視線を向ける。どこかぎこちない声色は、緊張しているのだろうか。
だが、大翔より自分の方が緊張してるはずだ。頬は赤くないか、声は上擦ってないか、呼吸は正常だろうか。大翔に気づかれないように必死だった。
「やだって言ったろ」
「……あいつとはするのか?」
大翔の声が低くなった。
「ティティのこと? あいつとはって、俺の部活、学習部だぞ? 運動部みたいに休みじゃない」
「……悪い」
「別にいいけど」
再び、沈黙が階段を支配する。颯太はだんだん耐えられなくなっていた。もし、ここで大翔と恋人であったのなら、濡れている肩でも気にせずに寄りかかっていたかもしれない。
自分の気持ちを落ち着かせよう、と考えながら後ろに手をつくと指先が大翔の手に当たる。
「ごめん」
だが、そのまま手を取られた。
「……っ」
「爪、綺麗だな」
優しく人差し指の爪先のラインをなぞられる。
この短時間で脳の回路がキャパオーバーになりそうだ。息の仕方を忘れて、胸が苦しく、なぜか目元に熱が溜まっていく。
それに吐きそうだ。
触られることが嫌だ、とかではない。むしろその逆。
深く息を吸い込み、指先を撫でられる行為ではなく、大翔の手に意識を向ける。
なぞってくる人差し指の腹は硬い。
ボールを扱っているからだろうか。手の内側の皮膚は硬い。
それに自分と同じように爪が綺麗に整えられている。深爪過ぎるくらいだ。
しかも一重のくせにまつ毛は長い。鼻も高そうだし、肌は綺麗でニキビがない。
それにしてもいつまで爪を撫でられているのだろう。意識を別の方向へと持っていったおかげなのか、徐々に慣れていく自分がいた。颯太は爪を撫でている大翔の手を取る。
「お前、深爪すぎだろ」
大翔と同じように爪先をなぞれば、大きな手がぴくり、と動く。
「ちょっと待ってくれ。なんか意外と緊張する」
ぎこちなく笑った大翔は手を引っ込めてしまう。
さっきまでお前が同じことをやっていたんだぞ、と思いながら颯太は苦笑を漏らす。
誰かのスマートフォンが何かを知らせるように声を上げた。自分のスマートフォンの音ではない。
「あ、もう時間か」
大翔は音の元である機器を取り出し、指を画面にスライドしていく。
「悪い、部活だ」
やっと話が盛り上がってきたばかりなのに。颯太は今更になってもっと自分から話しかければ良かったと思った。
スポーツバッグを背負った大翔に頭を撫でられる。指は優しく髪の隙間を抜けていく。
「呼び止めたのに、なんか悪かったな」
「いや、別に」
きっと大翔は同じクラスだった一年生の頃のような、会話を楽しみたかったのかもしれない。
自分がこんな感情を抱いてしまったせいで、勝手に緊張して話しにくかったはずだ。
「……じゃあな」
俯いた大翔の表情に、本当に何かが終わってしまう気がした。
何か引き止める言葉はないのだろうか。そうだ、と颯太は立ち上がった。
「大翔」
名前を呼べば、階段を下る大翔が顔を上げる。
「テ、テスト勉強、一緒にしよう」
大翔の瞳が見開かれ、ふわり、と目元が弧を描く。
「ああ」
たった二文字の返事。それだけなのに、何か千切れてしまいそうだったものが、再び縫い付けられるようにくっついた気がした。
去って行く足音を聞きながら、颯太は階段にへたり込み、足を僅かに上げてジタバタと動かした。
