「サワディーカップ! 颯太! 起きて!」
はっ、とティティの声で賑やかな生徒達の声が耳に入ってくる。
視界に入るティティと緑色の壁。
そうだ、ここは食堂でいつも通りに隅に座って、と颯太は記憶を辿る。
自分の記憶が、お盆に乗っているビビンバを半量食べたところで終わっていた。
まさか食事を摂りながら寝るとは思わなかった。お盆の上に乗っているビビンバの上で手をつけられていない温泉卵が、こちらを見上げている。
そして、その横にあるスープも寂しげな雰囲気を醸し出していた。
「昨日寝れなかったの?」
「うん」
「なんで?」
ティティの言葉に視線を逸らすと、こっち向いて、とタイ語で言われた気がした。
視線を合わせ「昨日、背中に文字書いた」とティティに伝えた。
「好きな人に?」
「うん」
「なんて?」
「すきって」
「……えー!」
うるさい、と伝えるとティティは両手で自分の口を塞ぐ。
「それで、どうしたの?」
「でも、バレるのいやですぐにやきって書いた」
「あー……あ? うーん? えーっと?」
腕を組むティティは「それはつまり、すきやき? ってこと?」と小さく声を漏らす。
「え、颯太……チキンボーイじゃん」
「うるさいな、しょうがないだろ」
だが、ティティと別れた後に大翔が来てスポーツドリンクをくれた、とは伝えることができなかった。
自分が好きな人が男と知られたくなかったのかもしれない。
颯太は残ったビビンバを一口含む。
「「ちわーす」」
食堂に下級生の声が響く。その声の方向を見れば、大翔が友人達と一緒に入って来たようだった。
「うわー、すごいね」
「運動部は上下関係厳しいからな」
「僕たちの部活はそういうのないからいいね」
学習部は学年が上の生徒に対しては「先輩」とつけるが、敬語が苦手な後輩もいるから基本フレンドリーだ。
「あ、緑川先輩だー」
「ティティ先輩もいるー」
学習部の一個下の後輩が手を振って横を通り過ぎていく。
「ってか、ティティ。友達と食べたかったよな。ごめん」
「なんで? いいよー」
「親友」とはいえ、お互いに友人はいる。ティティは母国の友人が同じ学年にあと三人いるのだ。
「監督が来週から部活休みにするってよ」
「マジか。ランニングとかはしようかな」
大翔とその友人の声が遠くから耳に入ってくる。
「バカ、前期の試験、赤点だったらベンチ入れねえぞ。まあ、大翔はそこそこの頭だから、困らないとは思うけどな!」
近づいて来た声に颯太は俯き、ビビンバを混ぜていく。
大翔達の会話がぴたり、と止まる。
「よっ、颯太」
降って来た声に、顔を上げると大翔の瞳が大きく開いた。
「え、何お前……顔」
どうした、と大翔の声を掻き消すように席についたと思われる友人が、「おい、大翔。早く飯食うぞ」と後ろの方で声を上げた。
「あ、ああ」
去って行く大翔から視線を外し、ビビンバを食べる。どろり、とした温泉卵が米の一粒まで包んでいた。
「最近、山田君と話すようになったんだ?」
「まあ、うん。向こうからしょっちゅう声かけてくるんだよ」
「へー……、確か山田君も英語Cクラスだよね?」
タイ語でぶつぶつと呟くティティも皿に残っているビビンバを口に含む。
「なんだよ」
口の中の物を飲み込んだティティは、スープを手にする。
食べ終わった食器を持った生徒達が下膳する姿が見受けられ始めた。
「いや、なんだっけ。えっと……うーん、と。あー……仲良くなりたい? のかも?」
スープを飲むティティの言葉に、颯太はスプーンをお盆に置いた。
「……まじ?」
「え、顔赤いよ。颯太。熱ある?」
首筋を触るティティの手は冷たくて気持ちがいい。
「熱はない、かな? 分かんないや、あははっ」
そう言いながら横に座って来たティティに、ぐいっと肩を引き寄せられる。
「なに、して」
ティティの腿上に招かれた。下から見上げれば、微笑んだティティがこちらを見下ろしていた。
「ちょっと寝なよ。あと、十五分くらいあるよ」
「いや、いや」
「もしかして、男同士だろって気にしてる?」
颯太は顔に腕を置く。「気にし過ぎだよ」とティティに言われた。
「あー、またいちゃいちゃしてるー」
美穂の声だ。自分の体が強張り、ティティの制服から香る柔軟剤の匂いが近くなる。
「まあねー! 颯太、疲れちゃったんだって」
「え、そうなの? じゃあ、しゃーないね。写メだけ撮ってよい?」
「あはは、えーとなんだっけ。そう、あれだ。マネージャー通してー」
「えー、ケチー」
そう言って去って行く足音が聞こえた。
「ほら、大丈夫だよ。ちょっと寝なよ。颯太の今の顔、全然ナラじゃない」
タイ語で何かを歌い始めたティティに笑いが込み上げてきた颯太は、声を出して笑った。
黒板に英語の文法が書かれていく。アラン先生の声が教室に響き渡る。
颯太の頭は冴えていた。ティティの歌声に身を任せて、いつの間にか寝てしまっていたからだ。
膝枕をしてくれたのが大翔だったら、絶対に寝ることはなかっただろう。
服にこびりついたティティの香りは香水のように染み付いていた。
窓の外が光る。その次の瞬間、ゴロゴロと腹の虫のような大きな音を立てて雷が鳴る。
「うわっ」
窓際にいた男子生徒が声を漏らす。次第に窓を叩きつけるような雨が降り始めた。
「うわ、最悪」
「やった、部活なしかな?」
所々から聞こえてくる声。
前に座る大翔も窓を眺めていた。
「こら、みんな授業に集中してー」
アラン先生の声によって授業は再開されるが、終わりを告げる鐘が鳴っても雨の音は弱まることはなかった。
「颯太、これ」
ペンケースにシャーペンなどをしまっていると、机の上にオレンジジュースの紙パックが置かれた。
しかも果汁百パーセントだ。
昼にでも買ったのだろうか。ほんのり冷えが残っている気がした。
「ありがとう」
「おう」
だが、大翔は颯太を見下ろしたまま動かない。
「なに?」
颯太が尋ねると大翔が「いや、別に」と返してきた。「じゃあな」と軽く手を振って、大翔は雨が降る窓をもう一度見て教室を出て行った。
