背中文字のカムトープ


 別棟の空き教室に颯太はいた。
 黒板には「学習部」と書かれた文字。十人程度の外国人の生徒が日本語を教え合ったりしている。飛び交う異国の言葉とカタコトの日本語と共に聞こえてくる紙を捲る音。
 穏やかな時が流れている。だが、それに反して外が賑やかだ。校舎横にある体育館から聞こえてくるボールを床に打ちつける音。近くにある土手道を走っている集団の掛け声。吹奏楽部のトランペットの音など聞こえてくる。
 賑やかなのに心地がいい。
 
「ただいま」
「おかえりティティ。部長の引き継ぎ終わった?」
「うん。まあ引き継ぎと言っても鍵のこととか、なんだけどね」

 隣の席に座ったティティはスクールカバンから、自分と同じようにノートを出し始める。

「結局、一年ちょっといたね」
 
 ティティの言葉に「だな」と頷く。颯太は元々帰宅部だったからだ。

「楽しかった?」
「まあ、楽しかったかな」
 
 なぜこの部活に入っているのだろうか、と首を傾げることがあった。だが、辞めてしまおうという気持ちは湧かなかった。
 シャーペンの芯をカチカチと鳴らし、ノートに数式を記入していく。

「あの、ティティせん、あー……せんぱい」

 一年生のカチャーが、たどたどしい日本語でティティに話しかける。
 ティティの口から異国の言葉が紡がれる。理解はできないのに「どうした?」「ここが分からないの?」と言っている気がした。颯太はその光景を眺める。
 辞めなかった理由はここにあるのかもしれない。

「君たち、そろそろ帰りなさいよ」

 顧問のアラン先生だ。時計を確認すると十八時になろうとしていた。日が長くなったせいで時間感覚がおかしくなる、と颯太は思った。

「あ、ご飯の時間か。みんなお疲れ様。今日はもう、終了にしよう」

 ティティの言葉に颯太はノートを閉じる。他の部員も各々片付けて「さようなら」とカタコトで教室を後にして行く。
 いつものように教室の明かりを消して、校舎を出てティティと共に寮へ歩いて行く。
 空はもう曇天ではなかった。柔らかく薄いオレンジのキャンバスに濃淡のある青が滲むように混じり合っていた。
 颯太は昨日の雨で作られたであろう水たまりを避ける。

「今日の飯、なに?」
「うーん、確かカレーだったかな」
「へー、いいなあ」
「寮に入ればいいのに」
「いや、俺の家、すぐそこだから」

 口を窄めたティティは「ちぇっ」と声を漏らす。学園から歩いて十五分くらいの場所に自分の家はある。
 ティティを寮近くまで送るのは、ただ単に話がしたいからだ。同じ部活に入ってからは、ほぼ毎日帰りを共にしている。
 それに仲良い他の友人も皆、運動部で寮生だ。

「そういえば、夢、見つけた?」

 ティティの言葉に颯太は目線を落とし、口内を軽く噛む。
 この北都学園を選んだのは、家が近かったから。それに、面白そうだったから。将来の夢が見つからない自分にとって、輝く宝箱のように見えた。

「僕はバンコクで通訳とか翻訳とかやろうかなって」
「ティティはすごいな」

 学園敷地内に存在する寮が見えてくる。建物の隙間から茶色いグラウンドが顔を覗かせていた。
 
「……颯太もすごいけどなあ。またアレ見せてよ」
「読めないだろ」
「颯太に聞きながら読むから平気。それに翻訳の練習にもなりそう」
 
 ガッツポーズをするティティに、颯太は口角を上げた。

「また今度、持って来る」
「うん、待ってる」

 ティティと別れ、寮近くにある通用門に向かって歩く。通学する他の生徒も正門よりこっちの方が駅に近いため、何人かが足早に過ぎていく。

「あ、野球部だ」

 男子生徒の声に振り返ってしまう。肩で息をしながら、帽子を取って腕で額の汗を拭う大翔がいた。
 白いユニホームはグラウンドで汚れたのか、所々茶色く染まっていた。
 歩いてくる大翔は、呼吸を整えているようだった。

「ひろ、と?」

 なんで、と小さな声を颯太は漏らす。ティティと会話し、なだらかだった心拍が上がっていく。
 近づいてきた大翔がずいっ、と自販機で買ったのかスポーツドリンクを渡してきた。

「やる」
「は? え?」

 急な出来事に颯太の口から「え、部活は? え?」とボロボロと言葉が漏れ出ていく。

「休憩中だった。んで、お前見つけたんだよ。そろそろ戻んねえといけねえから、貰ってくれ」
「あ、ありがとう」
「じゃあ、な。気をつけて帰れよ」
「あ、ああ」

 駆け足で去っていく大翔の後ろ姿は、颯太の頬を赤く染めるのに十分だった。

「また、かよ」

 颯太は口元を汗ばんだ腕で隠す。
 通用門に向かいながらペットボトルの蓋を開ける。解放されていく音は、自分の押さえ込んだ想いがこじ開けられていくようだった。
 口内に流し込む。ほんのりとした酸味と甘味が口の中に広がって体内へと染み渡っていく。

「はあ、無理ゲー過ぎる」

 首を大きく傾けた颯太は、ペットボトルの蓋を閉める。しかし、自分の心は閉まることはない。

「……まじで、やばい」

 英語の時間、背中に文字を書いてしまったのはきっと大翔の行動のせいだ。
 ペットボトルを指に掛け、颯太は家路を辿りながら一週間前のことを思い起こす。