いくら夕方とはいえど、日中に太陽の光を吸収していた地面は熱を持っていた。
「野球部、帰って来たって!」
「え、まじ!?」
「ってか、勝ち進んでるってやばくない?」
「甲子園、すぐそこじゃん」
校舎から出て来た女子生徒達が駆け抜けていく。中庭でティティとアイスを食べていた颯太は、バニラアイスを口に含む。
あれから二回戦、三回戦と勝ち進んだ。それに今日も準々決勝、他校を退けてきた。
嬉しいはずなのに、なぜか胸はアイスを食べた口の中のように冷たい。知られたくなかった大翔の存在が見つかってしまった。
「僕たちも行く?」
「いい、行かない」
行ったところで見たくないものを見るからだ。
「えー、行こうよ! まさか、またくよくよしてる?」
「……知らない」
「女々しいねー」
「もう使えるようになったのかよ」
アイスを全部食べ終わったティティに手を繋がれる。大翔より小さく、手の内側も指の皮膚も柔らかい。残りを食べ終えた颯太は、寂しく残ったプラスチックの棒をゴミ箱に投げ入れた。
「手、繋ぐなよ」
「えー、いいじゃん。それに逃げちゃうでしょ? 行くよ。いけいけ颯太! おせおせ颯太!」
ブンブン手を振られ、校舎の間で響くティティの声に颯太は声を上げて笑う。
「おま、本当にやめろって、あはは」
そんなことをやりながら校舎を通り過ぎ、体育館前を過ぎる。
「溱先輩! お疲れ様です」
「山田先輩!」
「おーい、山田、良かったぞ!」
野球部に声をかける声が耳に入ってきた。朝礼などをするちょっとした広場に野球部がいた。
バスから降りて来たところだ。部活ジャージを着た大翔の姿が見えた気がした。
ドンッと女子生徒がぶつかってきた。「ごめんなさい」と頭を下げてきた子は、この間、大翔と話したことを喜んでいた女子生徒だった。
ティティが手を離し「おかえりー」と手を振る。
「おか」
えり、と続けて言う前にその女子生徒が人の波をくぐり抜けていく。そのまま大翔の横へ行くと何かを渡していた。
振り返った大翔は、大きく目を見開いた後、微笑む。
胸がぎゅうっと握り潰されるかのようだった。
「もう、帰ろう」
「え、え、颯太も声かければいいじゃん」
ティティの手首を掴んで、集まった人の中を歩いて行く。頭にこびりついてしまった二人の姿。お似合いだった。あれぞ青春という場面だ。背後から聞こえる声は「ヒュー! いいぞ!」という声が混じっている。
何も良くない。
普通の友人として声をかければいいのに、それすらできない。
戦うことを諦めた気分だ。
「颯太?」
何人かの声に混ざり、大翔の声が聞こえた。
バッ、と振り返るが大翔は未だに女子生徒と話をしている。聞き間違いすら起こすようになったのか。
地面を見下ろした颯太は、ティティの手首を引っ張りまた歩き始める。
「颯太、なんで逃げるの?」
「逃げてない」
「逃げてるよ」
「逃げてない」
寮の近くまで来て、ティティに手首を振り払われた。
「逃げてるよ!」
じゃあ、どうすればいいんだ。あんなにお似合いだった二人の間を踏み込めば良かったと、ティティはそう言っているのだろうか。颯太は、腕で顔を隠す。
だが、その腕を無理矢理、ティティに外される。
「男だから、とか思ってるの? 関係ないじゃん。そーゆーの古いって言うんでしょ?」
「でも」
「でも?」
初めてくっきり二重が怖く感じた。手を離したティティがむにっと右頬を掴んできた。
タイ語でつらつらと何かを言ってくる。「諦めるな」「当たって砕けろ」とでも言っているのだろうか。
それとも、もっと別のことだろうか。
分からない。
「あ、ほら来たよ」
ティティが来た道に視線を向ける。顔を向ければ、大翔が真っ直ぐこっちを見ていた。元々目つきが悪いがさらに悪くなっている気がする。
「颯太」
背中をポンッと優しく押されて、大翔に向かって足が一歩前に出た。
「お疲れ」
そして、出た言葉はそれだけだった。本当はもっと「すごいな」「かっこよかった」「画面越しに応援してた」って言いたいことがたくさんあったのに、言えなかった。
頭に置かれた大きな手がわしゃわしゃと撫でてくる。目線を向ければ立ち止まってくれた大翔が微笑んで、こちらを見下ろしていた。
「さんきゅ」
ティティの指の感触が残っている右頬を硬い指に摘まれる。
「あー……俺ら先に行ってるわ。ティティ、お前も来いよ」
「八木君、かっこよかったよー」
「ありがと、ありがと。あとで、また佐々木と部屋行くわ」
「来て来てー」
いつも大翔と一緒にいる友人である八木が後輩の部員とティティを連れて去って行く。
摘まれた頬の指はそっ、と外される。
離れていったはずの指の感触が左にも伝染したように熱を持っていく。大翔の少し開いたスポーツバッグには、「最高でした」と書かれた紙パックのジュースが入っていた。
ピンク色だからイチゴオレとかだろうか。
颯太は紙パックを指差す。
「良かったじゃん、それ」
「ん? ああ、これ? まあ、うん」
碌なことが言えないのに、無駄にそういうことばかり気にしてしまう自分に嫌気がさす。
颯太はため息をつく。出しても減らない胸の苦しさに肩にかけているスクールバッグの位置を変える。
「応援してた?」
そう聞かれ、颯太は小さく「うん」と返事を返す。
「そっか、良かった」
「良かった?」
「だって、俺、颯太に応援されてえし」
歯を見せて笑う大翔の顔から目を逸らす。
「やっぱ運動部マジックってすごいよな」
「なんだ、それ?」
「試合してる時とか、キラキラしてるんだよ」
「はー、それは今もってことか?」
顔を覗き込まれ、近くなった瞳から、また逃げてしまう。
「……分かんない」
「なんでだよ」
「無理ゲーだから」
意味分かんねえ、と頭上から聞こえ、足音が離れていく。
颯太は眉間を指の横で押さえる。
「お前には分かんねえよ」
分かってたまるか。何年も大翔のことを想っていて、急に距離を縮められて。颯太はまた大きなため息をつく。
足音が聞こえると頬に当たる冷たいものに肩を震わせた。
「な、なに!」
「やるよ」
「は?」
渡された冷たい飲み物。大翔の後ろで見える寮の近くの自動販売機から、買ってきたのだろうか。
パッケージを見るとレモンの絵と、バブルが弾けるような絵が描かれていた。颯太は、そのパッケージに見覚えがあった。
「これ、この間飲んでたやつ?」
「おう、俺の青春の味」
大翔を慰めたあの日、自分が奢った炭酸だ。
「はは、意味分かんねえ」
大翔が少しだけ屈んで、顔を覗いてきた。
「なんだよ」
「やっと笑ったって思って」
「……そんなに見んなよ」
ペットボトルの蓋を外せば炭酸が勢いよく抜ける音がする。
「ってか、いつも飲み物くれるよな。ありがと」
「どういたしまして」
一口飲むと炭酸とレモンの香りが口内でバブルのように弾けていく。それはまるで黒いモヤを銃で的確に撃っていくかのよう。
「なあ、俺にもやっぱ少しくんね?」
「……別にいいけど」
ペットボトルの口元が大翔の唇に触れる。いつもじゃ気にしないのに、なぜか目が離せない。
「やっぱ美味いな。さんきゅ」
「うん」
受け取り、ペットボトルに蓋をする。
「俺、帰る」
「もう?」
「大翔だって、試合で疲れてるだろ。もう飯食って、風呂入って寝ろよ」
「確かに、そう、だな」
大翔は自分の首元に手を伸ばし俯く。
「明後日、準決勝は応援しに来てくれるのか?」
準決勝といえば、藤井先生が帰りのホームルームで言っていた。みんなで行くぞ、と。
「行く」
「よし……じゃあ、体休めっかな」
じゃあな、と手を上げると大きな手に包み込まれる。
「じゃあな」
まっすぐ射抜いてくる瞳は、ほんの少しだけ弧を描いている気がした。
離れていく指は、ゆっくりと離されていく。
寮に帰って行く大翔の背中を見送り、颯太も流れるように帰路に就く。
手に持っていたペットボトルの蓋を震える手で外す。炭酸が抜ける音が響く。
空はいつの間にか、檸檬色へと変化していた。水色の背景の上に白い雲を描き、その上から差し色として、ほんのり重ねたような色だ。
大翔が重ねたペットボトルの口元に唇を寄せる。ただ、飲むだけなのにまるでキスをしているような気分だった。流れて口内に入ってくる炭酸とレモンの香りは、バブルのように弾けていく。
ペットボトルの蓋を持った手は、未だに震えていた。
「……確かに、青春の味、かも」
颯太は、再びペットボトルに口をつける。何度も喉を鳴らせば、ピリッとした刺激の強さに目の奥が熱くなった。
