それからというもの、大翔は最低限の挨拶しかしてこなくなった。電話で話していた時間が嘘だったかのように。
だが、それは学校だけの話。
颯太はノートと向き合いながら、自室の机の上にある時計に目を遣る。時刻は二十一時を示していた。
机の上に置いてあったスマートフォンの画面が点き、全身を震わせ着信を教えてくれる。画面に書かれた電話の発信元は大翔だ。
シャーペンを置いた颯太は、小さく息をつく。緩んでしまう口元を隠すことなく画面をスライドさせた。「はい」と伝えれば、相変わらず電話の向こうは賑やかな声が微かに聞こえてくる。
「勉強しろよ」
『してるって』
「毎日電話してくるじゃん。明日からテストだぞ」
『分かってる、だけどちょっとだけ』
「恋人かよ」
自分で言って颯太は、自分の口元を隠す。
『はは、颯太が恋人とか』
その後の言葉が止まる。その続きを颯太は聞きたくなった。
『無理、だな』
大翔の言葉に颯太は、口の内側を軽く噛む。さっきまで緩んでいた口元は完全に力をなくす。急に目の奥すら痛い。
『だって、テストが終わったら俺ら夏の大会が始まるだろ? 今だって朝練やってんのに。これからもっと野球に集中すると思うから大事にしてやれない』
どういうことだ、と颯太は首を傾げた。顔がぼっと火がついたように熱くなる。
まだ何も起こっていないのに、まるで大翔が夏の大会が終わったら大事にする、と言っている気がした。訳が分からず机に突っ伏す。
近くにあった消しゴムのカスを人差し指で押しつぶした。
「なんだそれ」
笑ってそう言えば、大翔が歩いているような音がした。足音すら響く空間は、大翔が寮の中にいるのだと教えてくれる。扉が開く音がすると、外を歩いているような足音。
『外、やっぱあちーな』
お金を入れる音と共に聞こえてくるペットボトルが落下する音。ティティを日頃、寮まで送っていたからか、大翔が今どこらへんにいるのか想像できてしまう。
まるで隣を歩いているような感覚に自分の口角が、水をもらった花のように上がっていく。
「そりゃ外は暑いだろ」
『喉乾いたんだよ』
「水飲め、水」
『やだね。今は炭酸が飲みたい気分なんだよ』
ペットボトルから空気が抜ける音がする。
『炭酸って、青春みたいな味しねえ?』
「……分かんない」
『分からねえか、そっか』
外のベンチに座っているのだろうか。それとも立っているのだろうか。大翔が炭酸を飲み込んでいる音が聞こえる。
「何味?」
『レモン』
確かにレモン味の炭酸は甘酸っぱくて青春と言えるかもしれない。しかし、自分にとって青春の飲み物といえば、あれしかない。
「俺にとっての青春の味はスポドリだよ」
大翔が部活の休憩中に自分のところまで走って来てくれた、あの日を颯太は思い出す。あの時、飲んだスポーツドリンクの味は、ほんのり感じた酸味と甘味だったからだ。
『確かに、部活とかで飲むもんな』
「そうそう」
『いや、お前、文化部だろ』
電話の向こうで小さな笑い声が聞こえた。息をつく音が聞こえる。
『明日からのテスト、頑張ろうな』
「うん」
『英語、一緒に勉強しようって言ったの俺なのにな』
「大丈夫、捗ってる」
『おい、それはどういうことだ』
颯太が笑うと大翔が笑う声が聞こえてくる。
他愛のない時間。颯太はこの時間が好きだった。
翌日からテストは三日間続いた。
結果はどれも平均点以上取ることができた。もちろん、英語もだ。「学習部」と書かれた黒板の教室では、留学生同士がテストの結果を見せ合っている。その中心にはティティの姿があった。英語やタイ語を使って、何かを説明している。
颯太はその様子を見ながら、英語の宿題をしていた。
だが、その手元にはスマートフォンがある。動く映像の中には北都学園高等学校という文字。颯太はスマートフォンに釘付けになった。
大翔達は二回戦目からの出場だ。映像の中で学園の生徒と相手高校が整列して頭を下げている。
九番の文字を背負った大翔の姿があった。
レギュラーだ。
そしてテストが明けてからというもの、二十一時頃になっても大翔から電話が来ることがなかった。夏の大会が始まったからだろう。
廊下ですれ違っても軽い挨拶のみ。英語の時間だけが大翔とちゃんと会える時間だった。
それも夏休み明けにはどうなるのか分からない。今回の結果を以て、クラスが変動するからだ。
颯太はペンケースの中から小さく折られた紙を出す。
開けばそこには「さんきゅ」と書かれていた。颯太は一昨日の授業の記憶を呼び起こす。
アラン先生の英語を聞きながら、頬杖をつく颯太は大翔の背中を見つめていた。
うたた寝をする生徒もいる中、しっかりと顔を上げてノートにシャーペンを走らせている音が耳に入ってくる。電話をかけてこられないほど、野球に全力投球している姿は胸を鷲掴みにする。
背中に人差し指を伸ばし「が」とゆっくり書く。椅子にもたれかかるように大きな背中が近づいてきた。「ん」「ば」「れ」と続きを書けば、背中は離れていく。
指先に触れた体温を見つめているとコロン、と何かが飛んできた。簡易的に畳まれた付箋だ。中を開けば「さんきゅ」と一言書かれている。
スマートフォンの中でボールがバットに当たる音。映像の中で真剣な表情をした大翔の姿が映った。
颯太は「さんきゅ」と書かれた文字を指でなぞる。
「がんばれ、大翔」
小さく呟かれた声は、異国の言葉に紛れて消えていった。
