背中文字のカムトープ


 何度聞いても聞き慣れない外国の言葉がシャワーのように降ってくる。ほとんど聞き取れない。聞く気がないのかもしれない。
 ノートにシャーペンを走らせる音に消しゴムのカスを手で払う音。
 緑川颯太(みどりかわそうた)は、頬杖を突きながら指でシャーペンを回していた。

「先生、また筆記体になってるよ」
「ああ、ソーリー」
 
 男子生徒と先生の会話に小さな笑いが起きる。颯太はそれに反して、ため息を漏らした。何も面白くなかったからだ。一言で言えばつまらない。窓から見える曇天の雲に似ている。だが、それは授業の話だ。
 颯太は前の席に視線を向けた。坊主頭にこんがり焼けた小麦色の肌。そして制服のシャツからでも分かる筋肉質の体。
 誰から見ても運動部だ。逆に自分は文化部だ、と言われるだろう。
 開けられた窓からほんのり生暖かい風が頬を撫で、雨の匂いが鼻腔を通って行く。残り日数がない六月が終われば、暑い夏が来る。そして秋が来て冬が来て、自分達は卒業だ。
 そんなことを考えていると、颯太は前に座る山田大翔(やまだひろと)の広い背中に指で触れていた。ぴくり、と大翔が体を揺らすのが薄いシャツの布越しに体温と共に伝わってくる。
 やってしまった。
 ならやめればいいのに、指先は止まることなく「すき」という文字を書く。上がっていく心拍数に胸が痛い。

「は?」

 前から聞こえてきたのは普段よりも低い声色だった。
 そのまま流れるように「やき」という言葉を足す。震える指を背中から外し、ノートに黒板の英単語を書く。しかし、シャーペンは折れてしまう。
 前の席の椅子が動く。顔を上げれば、眉間に皺を寄せた大翔が体を捻ってこちらを見ていた。切れ長の一重から覗く瞳が下へと動く。なぜか思わずノートを手で隠してしまう。
 再び上がってきた視線が自分と重なり合う。
 
「なんだよ」

 飲み込むことを忘れた唾を飲み込み「なんでもない」と返事をする。自分は今、どんな顔をしているのだろうか。ちゃんと平常を保てているのだろうか。
 大翔の体温に触れ、未だに震えている左手を右手で隠した。

「んだよ、ちゃんと授業聞けよ。バーカ」

 そう言って大翔は体を前に向けた。だが、背中はなぜか未だに近い。颯太は額の上で両手を組んでノートを見下ろす。
 大きく息を吸って、結び目近くで穴が開いた風船のように細く吐いていく。
 真夏でもないのに体が暑くなって、額や脇に汗をかいてしまう。
 顔を上げてノートで小さく扇いでいく。教室の外から授業の終わりを告げるチャイムの音が聞こえてきた。
 褐色の肌を持ったアラン先生が教材をまとめ、右端に座る生徒に号令を指示する。

「起立」

 椅子が床を滑る音がする。自分より大きな大翔の後ろ姿を見上げる。颯太も身長は一七三センチある。だが、大翔の方が十センチ高い。一年生の頃はまだ同じ身長だった。しかし、クラスが変わった二年生の間に大きくなっていた。
 悔しさを通り越して羨ましい。

「礼」

 頭を下げながら筆箱の中にペンを片付けていく。教室を出て行く生徒達の波に自分も乗って行く。一刻も早く大翔から逃げたかった。

「次の英語のクラス替えっていつだっけ?」
「忘れたの? アラン先生が前期テストでやるって言ってたよ」
「あちゃー、もうすぐじゃん。私、次はAかBクラス行きたーい」
「確かに。絶対、Eには行きたくないよね」

 聞こえてくる会話に颯太は小さく息をつく。二年生の冬までEクラスだったからだ。
 そして大翔はずっとCクラスにいた。

「下手打たなきゃそこまで落ちないっしょ」
「確かにー」

 高校生活最後くらい側にいたいと奮起した結果だ。

「おい、大翔。部活行くぞ」
「ああ」

 背後でする大翔の声。ちらり、と振り返れば「北都学園 野球部」と書かれたスポーツバッグを背負った男子生徒と共に歩く大翔がいた。
 今でも忘れることはない。あれは一年生の頃に見た野球部の夏の大会。初めて北都学園が準決勝まで進み、そのため全校生徒で応援しに行った。
 結果は負けてしまったが、試合に出れず観客席で応援していた大翔が見せた男の涙と流れる汗に射抜かれたのだ。

「運動部マジックだったら良かったのに」

 一時的なマジックであれば、「卒業」までのカウントダウンがここまで苦しいなんて思うことはなかった。
 
「あー、颯太みっけ!」

 背中に当たる衝撃はあまりにも重く、「うっ」と声を漏らしてしまう。
 鼻を掠める香りは甘い。香水でもつけているのかと、過去に聞いたことがあったが柔軟剤らしい。

「確か、今日は掃除こうばんじゃないよね?」
 
 ほんの少しだけカタコトの日本語。

「ティティ、重い。降りて。それと、掃除こうばんじゃない。掃除当番だ」
「あー、そうそう。掃除当番。なーんか、まちがえちゃうんだよね」

 背中が軽くなり、横に来たティティが「掃除当番、掃除当番」と何度も復唱する。天然の癖毛の黒い髪に大きな二重の瞳。そして大翔よりは薄い小麦色の肌。タイからの留学生だった。
 北都学園は、積極的に留学生を受け入れているのだ。

「あ、ティティだー」

 女子生徒に手を振られて、ティティは屈託のない笑顔を向ける。
 国際交流が盛んな学園で、ティティとは二年生の時、同じクラスになった。
 仲良くなったきっかけは、女子が話すような恋バナだった気がする。
 そしてそれは「親友」となった今でも継続中だ。

「今日も会えた?」
「うん、会えた」

 ティティが颯太の顔を覗き込む。

「わお! 今すごく颯太の顔、ナラ!」
「ナラって……かわいい、はやめろよー」

 顔を背けると、「北都学園 野球部」と書かれたスポーツバッグを持った大翔がいた。
 大翔の教室は反対側だ。それに向こうに階段だってある。疑問を大翔に投げかける前に、ティティが一歩下がるとその間を大翔が通っていく。
 さっきまで香らなかった石鹸の香り。制汗剤のような匂いが鼻を掠める。
 大きな手の感触が肩に触れた。

「部活、行って来る」

 初めて言われたかもしれない。肩にあった手の体温が離れていく。
 腕なんて引かれていないのに、自然と大翔の背中を追ってしまう。

「いってら。頑張れ、大翔」

 出て来た声は震えていた。
 足を止めた大翔が振り返った。
 普段、目つきの悪い一重が弧を描き、白い歯を見せて笑う。「おう」と返ってきた言葉は、颯太の胸を鷲掴みにした。
 去って行く背中を見送る。曇り空から漏れた光が窓を通して廊下に差し込む。見えていなかった細かな埃がキラキラと輝き、エフェクトのように補正される。

「胸が痛い」
「え!? 山田君に何かされた!?」

 教科書とノートで胸元を押さえればティティが顔を覗き込んできた。

「なんだろう。ティティの顔見ると安心する」
「良かったって言えばいいのかな? でも、なんか胸がもふもふするよ」
「それを言うならもやもや、な」

 颯太は未だに高鳴る胸を落ち着けながら、再び教室へと歩き出した。