アイ・キャン・ウォーク

 秋雨の冷たい雫が、廊下の大きな窓ガラスをアメーバみたいに伝っていく。
 なんとなく、ユウゴはそれを目で追った。別の粒とくっついては離れ、最後は窓枠のゴムパッキンに吸われて消える。眼下のアスファルトへ焦点を移せば、救急車専用の黄色い路面標示が雨に滲んでいた。
 三階からだから、一〇メートルちょっと下。濡れて黒い地面から目が離せなくなる。気がついたら、車いすから身を乗り出して、窓に手を伸ばしていた。
 もし、ここにガラスがなかったら?
「――死ねるよ」
 予想しなかった返事に、意識が現実に引き戻される。傍らを見上げたら、女が地面を見つめていた。
 風で揺れたように外に跳ねたボブヘアと、透明に白い肌が印象的だった。歳は同じくらい。だからたぶん高校生。薄桃色の病衣とリストバンドを見るに、彼女も入院中のようだ。
 ぺたりとガラスに手をついて、女は繰り返した。
「死ねるよ。ここから飛び降りたら」
 ハスキーな声は歌手みたいに綺麗に伸びたのに、言葉は突き刺すように鋭かった。
 最初は何を言われたのかわからなくて、わかった後も答えられずにいると、彼女は、あれ、と首をかしげた。
「死にたいんじゃなかったの?」
「死に……」一瞬想像して、あわてて首を振る。「そ、そんなわけねえだろ」
「なんだあ、つまんないの」
 不謹慎なことをけろっと言って、女は下唇を突き出した。
 むっとして、車いすから彼女を睨み上げる。
「おまえはどうなんだよ」
「飛び降りるかどうかってこと? なら、わたしはべつにどうでも」
 なんだよそれ。おまえだって同じじゃん。でも口に出す前に、女は腰に手をやって、
「だってわたし、そのうちお迎え来るし」
 一瞬、世界から色が無くなった。
 薬のつんとした匂いが鼻腔をくすぐる。何も言えずにいたら、彼女は頬にえくぼを作った。
「心臓と肺をつなぐ血管が悪いの。詰まってて、うまく酸素を運べない。今だってちょっと走ったら死ぬほど疲れるし、一年後には立ってるだけでバタンキューかも」そこで彼女は大きく息をした。潜水して水面に飛び出した時のように。「だから、わたしはべつに飛び降りなくていい。むしろいつ死んでもいいって思えるように、今むちゃくちゃするの」
 野性的な鋭い犬歯をこぼして笑う彼女は、冷房が効いた院内なのに額に汗が浮いていた。
 ぞわっと鳥肌が立った。普通の少女に見えるのに、さっきまでなんだこいつとか思っていたのに、死が目の前にある気がする。
「――藤沢さん!」エレベーターホールから看護師が走ってきた。「また勝手に出歩いて!」
 げえっ、と肩を持ち上げた女は、逃げるように看護師に背を向けた。でも走り出す直前に、
「わたし、カコ」
「え?」
「わたしの名前。カコ。あんたは?」
「あ、ユウゴ」
「ふーん、ユウゴね」
「な、なんだよ」
「んーん。またね、ユウゴ」
 意味ありげに微笑んで、カコは小走りに去っていった。まったく、と看護師が嘆息を漏らす。
「待たせてごめんなさいね。先生のとこ行きましょ」
 ブレーキを解除して、エレベーターへ車いすを押される。
 もう一度、カコに目をやった。歩く彼女が見える。
 その瞬間、ずきりっ、と左の足の裏に痛みが走った。
 ……いや、気のせいだ。痛んだ気がしただけ。痛いなんて感じるわけがない。
 だって。自分の足に目を落とす。
 左足は、膝までしかなかった。

1

 いつも通りの水曜日だった。
 高校から西武線沿いに自転車を飛ばして、東大和にある居酒屋で四時間バイト。二一時半で上がって、また自転車で今度は家までの慣れた帰り道。
 正直、急いでいた。予報外れの雨がシャツを重たく濡らし、跳ね返った水でスニーカーの中までぐちゃぐちゃ。背負ったリュックにはチユキに借りた『アオのハコ』の最新刊が入っているし、カズトとはエペやろって約束してるし。
 濡れたアスファルトにヘッドライトの白い光が伸びて、細いタイヤが水を蹴立てる。住宅街を抜ければ、二車線道路を跨ぐ横断歩道が見えてきた。信号はなくて、雨粒を照らす街灯の下に、消えかけの白線が並んでいる。あと少し――そう思って、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。
 そこから先の記憶はない。
 目を開けたら、トラバーチン模様の知らない天井だった。
 左端に並んで映っているのは、スーツ姿でげっそりした父と、赤い目をしたすっぴんの母。右端のべっ甲メガネのおっさんは知らない。知らないけど、白衣を着ているからたぶん医者。医者ってことは……
 あー、事故った?
 やっちまった。明日もバイトがあるし、週末は皆で映画行く予定だったのに。
 なんて思っていたら、おっさんが耳元に顔を寄せてきて、ぽそっとつぶやいた。
「足を、切ったからね」
 ごく簡単な言葉だった。だったのに、理解ができない。
 足を、切った?
 胸を膨らませる悪い予感に、そんなはずはないって言い聞かせて、首だけ持ち上げる。
 左足がおかしかった。膝のあたりに包帯がぐるぐる巻かれて、そこから先が見えない。もっとよく見ようと思って、首を伸ばして、
「……は、はあ?」
 なかった。
 包帯の巻かれた膝から先が、編集アプリで消したみたいに何もない。
 なにも言えずにいたら、父が肩に手を置いてきた。
「生きてて良かった」
 ぐっと肩を握りしめてきた父を呆然と見つめる。
 良かった、ってなんだよ。

 警察の話だと、横断歩道に飛び出して車と衝突。自転車と車のバンパーの間に左足を挟まれて、数十メートル引きずられたらしい。
 衝撃で左足――特にふくらはぎから先――が引きつぶされて、骨も千切れて皮膚だけでつながった肉片に、指が数本ぶら下がっている状態だった。出血も多く、水たまりに触れて感染症も起こしていたため、生きるためにも切るしかなかった。
 べっ甲メガネのおっさんの言葉は、淡々としすぎていて全然頭に入ってこない。今後についての話もそうだ。義足なんて言葉が出てきて、動画を見たり、パンフレットを渡されたが、想像ができない。
 突然世界が倍速になった気分だ。自分だけが等速に取り残されている。
 待ってほしい。止まってほしい。一度、自分で自分を理解したい。
 足が無いって、どういうことだよ。
 両親の言葉も、医者や看護師の励ましも、なにも頭に入ってこなくて、ただ天井を見つめているうちに、夜になっていた。
 ぽたっと落ちる点滴の粒に意識がまどろみ始めて、ちょっと安心する。これで眠ったら、夢から醒めるんじゃないか、足はあるんじゃないか。
 そう思った矢先――
 バチッと火花が散った。静電気をもっと強くしたような、しびれる痛みが走る。
 左足に。
 なんで? そこには何もないのに。
 まるで、モンハンの麻痺武器が放つ黄色い光が、左足を包んでいるみたいだ。目をつぶって、噛みしめた歯の隙間からふうふうと息を漏らす。
 そして思った。――まだあるんじゃないか、足。
 だって、こんなに痛いのだ。確かに足が痛みを感じている。
 じゃあ、あるじゃん。なんだよ、あるじゃん、足。
 途端に立ちたくなって、ベッドに両手をついた。体のあちこちが痛んだけど、そんなのどうでもよくって、まずは上半身を起こす。
 起こしたはずだった。
 やたらと軽い左半身にバランスが取れなくて、気がついた時にはベッドから転げ落ちていた。点滴棒が派手な音を立てて倒れ、アラームが鳴り響く。
 あれ? リノリウム敷きの床に頬をこすりつけて、瞬きをする。
 立つどころか、まともに座ることすらできなかった。
 なぜかはわかっている。頭はもうわかっているのに、心がそれを拒絶する。
 うそだ。目からこぼれた熱い雫が床に滴る。それに握りこぶしを叩き落とした。
「ふざけんな……ふざけんなよっ」
 駆け付けた看護師に引き起こされて、自分の下半身が見える。
 足がなくなったんだと、初めて理解できた。

 だけど、理解できたからと言って、それを受け入れられたわけじゃない。
 だって足が無いってことは、つまり――障害者ってことだ。
 これから先の不安と恐怖、無いはずの足の痛みに寝られない一週間が過ぎたころ、西日が差しこむ病室に、友達の声が響いた。
「でさ、マルちゃんにぶつかられて、オレもう顔面からプール落ちて。マジ死ぬかと思った」
 丸椅子に座ってちょっと高めの声を上げるチユキに、バカだな、とベッドの上で肩を揺する。カズトにマサヒロも笑っていた。
 いつもと変わらない友達。いつもと変わらない下らない話。いつもと変わらない笑い声。
 なのに、うまく笑えている自信がない。来てくれて嬉しいのに、話ができて楽しいのに、うまく心が乗っからない。エンジンがかからない。
 それを感じたのか、チユキの話もそこで終わって、カズトとマサヒロも何も言わなくて、隣のおじさんの新聞をめくる音がカーテン越しに病室に響く。
「じゃあ、そろそろ帰るか」
 茶髪をくしゃっと掻いてチユキが席を立った。カズトたちも、そうだな、って立ち上がる。
 でも二人が先に出たところで、チユキはカーテンを引く手を止めて、
「あの、さ。ユウゴ」
 入学以来の親友は、二重のまぶたをせわしなく上下した。なにかを言いかけるように、口を動かす。だけど、声は出てこない。
「なんだよ」
 促すように訊いたら、彼は床に視線を伏せた。肩を落として息を吐く。
「いや。やっぱなんでもねえわ」もう一度顔を上げた時、チユキはいつもの笑顔だった。「また明日」
「無理しなくていいって」
 来てもらっても、なにもできないし。
 閉まったカーテンにそう思った瞬間、ビリッと強烈なしびれが左足を駆け巡った。
 くそ。歯ぎしりして、幻肢痛をこらえる。
「――藤沢さんっ!!」
 廊下から看護師の鋭い声が飛んできたと思えば、カーテンが揺れて何かが突っ込んで来た。
 ケア帽子をかぶった男の子――と、彼の乗った車いすを押す女。見覚えがあると思って、
「シー! 静かにして!」
 眉を逆八の字にしたカコが、立てた人差し指を唇にやる。
 相変わらずよく通るハスキーな声と、ぜえぜえと肩でする息遣い。気おされていると、リノリウム敷きをぎゅっぎゅっと踏む看護師のスニーカーの音がした。それが病室の前を通り過ぎて、カコが息をつく。
「ふうっ。やったね、ター君」
「うんっ」と元気な男の子。
「喉渇いたー。あ、これ、あんたの? ちょっともらうね」
「お、おい」
 テーブルの麦茶を勝手に取ったカコは、止める間もなく一気に飲み干した。ん、と渡された空のコップを渋面で受け取る。
「なにやってんだよ、おまえ」
「なにって、言ったじゃん。いつ死ぬかわかんないから、むちゃくちゃやってんの。しちゃいけないことをするのって楽しいんだぜ?」
「楽しいんだぜ」と真似するター君。
「迷惑だろ」とあきれ顔になれば、
「メーワク結構。どうせ死ぬんだから怖いもんナシ!」
「ナシ!」
 そろって親指を立てた二人は笑顔だったけど、色が白くて小柄で、怒る気が引ける。ここは病院で、彼女たちは患者。気持ちが重たくなっていると、カコが言った。
「で? あんたはいつ死ぬの?」
「死なねえよ!」とっさに言い返して、目を伏せる。掛け布団は右足の部分は盛り上がっているのに、左足はぺたんこだった。「……死なねえよ」
「あっそ」訊いておきながら、カコは興味なさそうに軽く返して、「じゃ、またね! 行くぜ、ター君!」
 カーテンを突っ切って、また駆け出す。車いすに乗ったター君が歓声を上げて、それも遠くなっていった。
 変なやつ。そう思うのに、チユキたちと別れた時のもやもやがちょっと薄くなっていた。
 翌日、気分転換に良いよ、と看護師に勧められて、中庭に出た。ウッドデッキの敷かれた庭はオーニングと鳥よけのネットが張られた池があって、しつこい残暑でも涼し気だ。魚でもいるのかな、と車いすを漕いで、
「――ユウゴ」
「おわっ」
 覗き込んだ水面に、ぬっと誰かの顔が映って軽く飛び上がる。
「なによ。まるで人をバケモノみたいに」
 ケラケラ笑うカコに、顔をしかめる。五〇〇床もある大学病院なのに、どこにいてもこいつと会うのはなんなんだ。
 そんな戸惑いなんか露知らず、カコは言った。
「バク転やるから見てて」
「……はあ?」
「バ・ク・転・や・る・か・ら・見・て・て!」
「うるせえな! 聞こえてるよ!」
「なんだ。耳が遠いのかと」
「んなわけねえだろ。だいたい、なんでバク転やんだよ」
「したいから」
「できんの?」
「さあ? やったことない」
「できねえんじゃねえか」
「やったことないだけ。できるかできないかは、まだわかんないでしょ」
 よく響くハスキーな声でそれっぽいことを言って、スマホを押し付けてくる。渋々受け取って、カメラを起動する。
 手のひらに息を吹きかけたカコは、イメトレするように屈伸すると、
「行くよ」
 曲げた膝をばねに、腕を振ってウッドデッキを蹴り上げる。
 宙に跳ねた体は綺麗な弧を描――かなかった。
 思いっきりしりもちをつく。どしん、という衝撃が車いすを揺らした。
「痛ァっ!!」
 一瞬焦ったが、幸いカコはすぐに立ち上がった。苦い顔で腰を擦る彼女に、おかしくなってきて、ぷっ、と噴き出す。
「バカじゃねえの」
「バカで結構。やりたいことやるんですう」
 ぶう、と唇を突き出したカコがスマホをひったくって動画を再生する。
「ふん、センスはありそうじゃん」
「どこかだよ」
「わかんないやつねえ――っと」むくれたカコだったが、ハッと目を開いた。「じゃ、また」
 なにかと思えば、看護師が猛然と迫り食っていた。やばい、と逃げるカコと追いかける看護師。ばからし、と思うのに、また心が少し軽くなった。
 病室に戻ろうとエレベーターに向かったら、待っている人が手を振ってきた。チユキたちだ。
「おう。来てたのか」
 やっぱり顔を見られたらうれしくて、でも素直に認めるのも恥ずかしくて、ちょっと突っぱねながら言う。すると三人はそろってニヤニヤした。
「なんだよ」
「いや? 心配して損したかなーって」
 なあ、と目配せしあって、スマホを見せてくる。動画に収まっていたのは、一緒に笑うカコと自分だった。
「彼女ができたなら言ってくれよ。オレらも邪魔しないよう気を付けるからさ」
「そ、そんなんじゃねえよ! ただ絡まれただけで――」
 耳の先まで赤くなるのを感じながら、車いすから体を持ち上げる。
 そうしたらこらえきれないというように、チユキたちが笑い出した。腹を抱えて転げそうな三人に、こっちもつい笑ってしまう。そのうちに本気でおかしくなって、目じりに涙が浮かんできた。
「くっだらねえ」
 口ではそう言ったけど、気分は楽だった。
 久しぶりにちゃんと笑った気がする。みんなと笑っている。バカみたいなことで。
 足を失う前の日々に帰ったみたいだ。
 ……帰りたいな。
 頑張ったら、あの頃に帰れるのかな。
「でもさ。元気そうで良かったよ、ユウゴ」
 三人は笑っていた。あの頃と同じで笑っていた。
 急に昨日の自分が恥ずかしくなった。
 三人とも自分の生活があるのに毎日見舞いに来て、変わらず接してくれている。なのに、自分だけふさぎ込んでなにやってんだ。
「ありがと」三人を見上げて、自分から訊いてみた。「なあ。今、学校ってどんな感じ?」

 夕食前に母と妹がやってきた。所在無げにスマホをいじる妹の後ろで、母が下着や日用品を入れ替えている。
「母さん」と言ったら、
「ん?」と母は手を止めた。妹もスマホから視線を上げる。
 二人の視線が突き刺さって、体がこわばった。でも握りこぶしを作って口を開いた。
「おれ、さ。義足の話、ちゃんと聞いてみたい」

2

 足を切ったべっ甲メガネのおっさんは、めちゃくちゃ腕が良かったみたいで、手術から一か月もしないうちに、リハビリ専門の病院に転院することが決まった。
 西武線の駅ビルに直結した病院に着いて早々、担当医だというおばさんが言った。
「最短で九週間での退院、これを目指していきましょうか」
 つまり二か月。二か月で、歩けるようになる?
 不安を見透かしたようにおばさんは笑った。
「焦らなくて大丈夫。六〇代の人でも、基本的に三か月で退院してますから。大切なのは」一度言葉を切って、胸を叩く。「ここ。気持ち。――また立って、歩きたい?」
 記憶がよみがえる。自転車を漕いで高校に行って、授業を受けて友達と遊んで、夜はめんどくさいと思いながらバイトして、帰ったら家族に会って。
 あの頃に、元の世界に戻りたい。
 まっすぐにおばさんを見つめた。
「はい。お願いします」
 リハビリはすぐに始まった。
 足の切った断面――断端に、シリコンライナーという靴下みたいなものを履いて、最初は車いすからベッドへの移乗、残った右足と歩行器を使ったケンケン移動、左太ももの筋トレ……。
 寝たきりの生活が続いていたから、ただ立っているだけでも息が上がって、足はすぐに筋肉痛になったが、へばっているわけにはいかない。――戻ると、決めたのだから。
 そんな一週間が経ったら、
「じゃ、つけてみよっか」
 メガネの義肢装具士はあっさりと言って、義足を取り出した。
 底部は実際の足を模しているが、足首からは鉄のパイプが突き出して、壺のようになったソケットへとつながっている。なんか手羽みたいだ。ギプスに似た素材のソケットが断端を包む。
「これは訓練義足の一つで、立ったり、平らな場所を歩くための低活動用のものね」
 装具士の説明に、目を瞬かせる。それってつまり? 車いすから視線を持ち上げると、クマのような体型の理学療法士が精悍なあごを引いた。
「今週の目標は、これで立つこと。来週の目標は――これで歩くこと」
「も、もう?」
 つい食い気味に尋ねてしまう。やるとは決めたけど、もう少し段階を踏むと思っていた。
 動揺をからかうように、クマが日焼けした顔に白い歯を浮かべる。
「じゃあ、やめとく?」
「い、いや。やります!」
 こうなったらやるしかない。
 ベルトを膝の皿に引っかかるように固定して、いざ車いすのペダルから足を出す。右足はいつもの感覚。でも左足はごとっと重たい。
 手すりを掴んで上体を持ち上げて、急に怖くなってきた。
 本当に立てんのかな。このまま倒れるんじゃないか。そしたら、二度と起き上がれないんじゃ。手のひらにかいた汗で、木目プリントの手すりが滑る。
「――できるかできないかは、まだわかんないでしょ」
 なぜかカコの声が頭に響いた。よく通るハスキーボイス。
 彼女の奇行を思い出して、つい口元が緩んだ。そうしたら、恐怖なんてなくなった。
 転んだっていいや。そう開き直って、体を起こして膝を伸ばす。
「……あっ」
 視界は静止していた。
 自分の足に目を落とす。運動靴が、しっかりと床を踏んでいた。
 立ってる。立てた。立てた?
 無いはずなのに、左足の裏が地面を踏んでいる感覚がする。
「ハハ」
 ようやく湧いてきた現実感に、自然と笑っていた。
 それから義足のリハビリが始まった。
 その場で足を交互に上げてみたり、振ってみたり、手すりから手を放してみたり。
 でも良いことばっかじゃない。
 まず義足は重たい。実際には一キロちょっとだけど、それを使う左足は筋力が落ちていてすぐに悲鳴を上げる。おかげで義足が持ち上がらずにすっころぶ毎日。
 他にも、体重が乗ると骨にずんと響くし、ソケットは擦れて痛いし、朝はむくむし、なにかに集中してないと無い足が常にしびれている。
 それでも――
「よし。じゃあここを歩き切ってみよう。ゆっくりでいいからね」
 クマに言われて、平行棒から手を放す。手すりを掴んでの歩行はできるようになったが、手を放しての歩行はまだ成功していない。
 右足を前に踏み出す。それから左足。ひざまでは残っているからそこを曲げて、義足が地面を擦らないように、太ももを持ち上げる。ただ理屈ではわかっていても、体が追いつかない。
 足がもつれて、体が傾く。また転ぶ――
 そう思った時、左の義足が自然と前に出た。床を踏みしめ、続いて右足が前へ。
 あとは足が歩き方を憶えていた。
 気がついたら、平行棒の終端。振り返ると、クマがうなずいていた。
「やった」
 四メートル。たかだか四メートルだけど、歩けた。
 手のひらに爪の痕が残るくらい拳を握った。叫び出した衝動をぐっとこらえて、天井を仰ぐ。
「まじかあ」
 達成感と安どの声が、甘酸っぱくこぼれた。

 週三回の貴重な入浴を終えて、ケンケンをしながら病室に戻ると、
「やっほー、ユウゴ」
 ベッドから誰かがぴょんと立ち上がる。
 いや誰かじゃない。くしゃっと外に跳ねたボブヘアと、よく通るハスキーな声。
 カコだ。
 なんでここに、と思ったが、不安の方が先に浮かぶ。
「おまえ、病院は? まさか抜け出したんじゃ」
「違う違う、退院したの。なんか容態が安定しちゃってさ。死に損ねちゃった」
 いたずらっぽく舌を出して、縁起でもないことを言う。
 でも確かに彼女の血色はよくなった気がした。服も病衣ではなく、赤いリボンが目を惹くどこかの高校の制服だ。
 だからと言って、完治ではないのだろう。リュックには赤いヘルプマークがあって、息継ぎもまだ荒っぽい。
 気持ちを落ち着けて尋ねた。
「どうやってここに?」
「看護師さんに、告白する間もなく転院しちゃったんですう! って言って教えてもらった」
 ドキッ、とはしない。両手を握りしめて目をウルウルさせるカコにバカらしさが勝る。
「でも、本気で心配もしたんだよ。突然いなくなったから、死んじゃったのかなーって」
「本気で心配してるやつのセリフじゃねえだろ」
「バレた?」
 へへっと笑って、彼女はベッドに立てかけられた義足に目をやった。
「頑張ってんだね、リハビリ」
「まあ、な」
 褒められるのはくすぐったくて、顔をそらすと、面白がるようにカコが覗いてくる。
「かっこいいじゃん」
「うるせえ」
「ひっど! 本気で思ったのに」
 わざとらしく自分を抱えるカコを無視して、ベッドに座る。テーブルの教科書とノート、それにタブレットを手に取った。途中で止めていた公共の動画を再生する。
「これ勉強?」
「ん」不機嫌を匂わせた返事で、ノートにシャーペンを滑らせる。
「追いつけてる?」
 手が止まる。それが答えみたいなものだった。
 抜けていた期間もあるし、実際の授業中はリハビリをしているし。質問もメールでいつ返ってくるかわからないから、通っている気がしなくて、やる気も沸いてこない。
「じゃ、わたしが教えたげよっか」
「まずはありがとう」
「なんで断んのよ!」
「だっておまえ、どう見ても勉強できねえだろ」
「失礼ねえ! これでも早慶上理A判定ですケド!」
 マジ? 眉をきりっとさせた表情は嘘か本当かいまいち判別できない。
 迷っているうちに、彼女は、パン、と手を叩いた。
「きーめた。来週から来て、教えてしんぜよう」
「はあ? なんでだよ」
「暇……じゃなくて、運動も何も許されない放課後を有意義に過ごすため!」
「暇なんだろ」
「キー! つまんないオトコ!」
 しかめっ面で吠えた彼女は、満足した風に息をつくと、くるっと踵を返した。タータンチェックのスカートがひらりと揺れる。一瞬見えた膝の裏にドキッとした。……ちょっとだけ。
「じゃ、またねー」
「お、おう」
 大した挨拶を返す暇もなく、カコは病室を出て行った。
 相変わらず嵐みたいなやつだ。

 入院してから一か月、一〇月も終わりが近づくと、義足が変わった。
 今度のやつは断端を入れるソケットがギプスじゃなくて、半透明のプラスチック製。足の型を取って作った自分の専用もので、固定方法もベルトではなく足にかぶせるライナーのピンを使うので、できることも広がる。
 歩くことはもちろん、坂道や階段の昇降から、ほうきを使った掃除、落ちているものを拾う、といった日常的な動作にリハビリは発展し、ついには外にも出た。
 外と言っても、病院が入居した駅ビルの商業階を回ったり、電車に一駅乗ってみたりだが、足を失ってから病院にしかいなかったので、なにもかもが新鮮で懐かしい。
「でさあ。駅前にうまそうな家系ラーメンがあるんだよ。もうめっちゃ行きたくて」
 解放されている屋上を歩きながら言うと、イヤホン越しにチユキの笑い声が返ってきた。
『じゃあ、退院祝いはラーメン屋にしようぜ。おごるよ』
「マジ? っしゃあ!」
 その後も、修学旅行の準備とか、論国の課題が多すぎるとか、他愛もない話をしながら歩いていると、びりりっと幻肢痛がした。そばのベンチに座って深呼吸して、パンツから覗く義足を見つめる。もう無いんだぞ。そう脳に教えると痛みが和らいでいく。
 スポドリを一口含んでいると、チユキが言った。
『今日はカコちゃん、来てねえのか?』
「あー、明日じゃね。来るとしたら」
 キャップを閉めつつ、他人行儀に答えた。
 カコが来ている、と気づかれたのは一週間くらい前。病院から帰るチユキたちが、面会に来た彼女とすれ違ったらしい。勉強を教えてもらってるだけだ、と説明しても、めちゃくちゃにからかわれたのを今も根に持っている。
『ふーん』
「なんだよ」
『いやあ? べつに?』
 べつに、なんて声音じゃない。ニマニマした顔が目に浮かぶ。
 確かにチユキと立場が逆だったら、自分だってからかい倒しただろう。
 だけど、本当に何もないし。ただ勉強を教えてもらってるだけで、カコとはただの……病人友達? だ。うん。そう。間違いない。
 なんて自分で自分に確認していたら、
『そういやさ。これ知ってっか?』
 ポケットのスマホが震える。送信されたURLを開くと、ショート動画が再生された。
 薄暗いステージに煌めく目に染みるような光、耳を激しく叩くギターやドラムの音色。ライブハウス? ともかく音量を下げようとして――
「えっ」
 ボーカルに目が吸い寄せられた。
 髪を振り乱して歌う彼女の、ハスキーな声。
『カコちゃん、だよな?』
「なんだよ、これ」
『半年くらい前だったかな。結構バズってさ。インディーズバンドらしいんだけど』
 チユキの言葉は途中から耳を抜けてしまって、意識はカコに引っ張られていた。
 小柄な体で、マイクにかじりつく彼女は、汗びっしょりで肩で息をして、あらゆる力を振り絞っているみたいで、歌い終わったら死んでしまいそうな危うさがあった。
 でもその口からあふれる声は違う。
 普段聞くようなプロとは違って、つんと尖って青っぽいけど、その分、感情が直に突き刺さってくる。最っ高! という彼女の想いが耳から伝わって、それが目で見る彼女と重なって、生きている、という感じがした。
 オリジナルなのか、知らない曲だったが、背筋がぞわりと騒ぎ出す。集まった客はほんの数人、でもみんな腕を突き上げ、後ろ姿なのに熱狂しているのがわかった。
 ショート動画だから、サビだけですぐに終わってしまって、チユキの声が返ってくる。
『それで、この投稿が三か月前』
 また送られてきたURLをタップすると、今度はSNSの投稿だった。
《ボーカル辞めます! 病気になっちゃいました! 円満脱退だよ!》
『あの子も病気、なんだよな?』
「まあ、そう言ってたけど」
 肺と心臓をつなぐ血管が悪くて、酸素をうまく運べないとかなんとか。
 でもバンドをやっていたなんて全然知らなかった。意外だったけど、しっくりも来る。
『本人には言うなよ。知られたくないのかもしんないからさ』
「そう、だな」
 うなずきながら、もう一度動画を再生していた。

 夕焼けが伸びた廊下を、タブレットと数2の教材を抱えて歩く。糖尿病で足を切ったという顔なじみのおばあちゃんに挨拶して、談話室に入った。
 入ったけど、足を止める。
 窓際の席にカコが座っていた。まだこちらには気づいていないようだが、その横顔が動画の彼女と重なって、どう声をかけていいかわからない。
 チユキは言うなと言っていたけど、うまく隠せる気もしないし、そもそも彼女が隠しているのかもわからないし。
 答えのない問答をしていると、カコがこちらに気づいた。
「どしたの?」
「え、あー、いや。べつに」と誤魔化しつつ、向かいに座る。
「今日は? なにやってたの?」
「プール。水ってめちゃくちゃ疲れんだな」
 もうすでに腕の筋肉が張っている。でも浮いたら体の重さを感じなくて、軽さが新鮮だった。
 動揺を鎮めるためか無意識のうちに饒舌に答えると、カコは、ふーん、と頬杖をついた。
「ホントに頑張ってんだね」
「まあ、やるしかないからな」
 ちょっと得意になって、タブレットの授業動画を再生する。苦手な数学だったが、公式を覚えればあとは当てはめるだけ、というカコに従ってみれば、確かに解ける。三角関数も、sin2θ+cos2θ=1で……
 ノートにペンを走らせていると、水筒を開ける音がした。カコがカプセル薬を飲んでいる。
 ぽきっとシャーペンの芯が折れた。やっぱり、訊きたくなる。
「なあ」
「なに?」
「その、嫌だったら、答えなくていいんだけどさ」
「うん」
「歌とか、歌ったりしてた?」
 カコは一瞬目を丸くして、ふっと口元を緩めた。
「知ってたんだ」
「知ってたってか、教えてもらったっていうか」
「いつもの友達だ」
 うなずくと、うーん、とカコは背もたれに寄りかかって、腕を組んだ。
「そう。歌ってた。けっこう、好きだった」
 過去形で言う割に、彼女の声には滲むものがあった。
「もうやらねえの?」
「うーん。やらないっていうか、できないっていうか」
 カコは目を時計回りにぐるりと回して、天井を仰いだ。
「まずさ、歌えないのよ。歌うのって結構体力使うし、汗だくで心拍も跳ね上がって、足も割と棒になる」カコはふうっと息をついた。「今のわたしの体じゃ、かなりきついワケ。だから、もういいかなって思って」
 ちょっと投げやりに聞こえて、彼女っぽくないなと思った。なんか気になって、本当かよ、と言おうとしたとき、
「――って思ってたんだけどね」
 にやっとカコは笑った。野性的な犬歯をこぼす、不敵な笑みだった。
「もっかいだけ、やってみよっかな」
 それこそ彼女らしくて、安心する。
「いいじゃん、やってみろよ」
「うわー、上から目線! 自分は頑張ってるからってさ!」
「うるせえな」
 緩んだ頬を引き締めつつ、シャーペンから新たな芯を出した。

「じゃあ、行ってみますか。学校」
 退院まで残り三週間となったころ、面談で担当医のおばさんに言われた。
 あまりにさくっと言うので、一瞬聞き間違いかと思った。
「マジっすか?」
「マジっす。リハビリも順調だし、外出訓練の一環として高校に行くにはいい段階です」
 すでに医療ソーシャルワーカーを通して高校との事前計画も進んでいるようだ。
 具体的には、理学療法士付き添いの下、一二時から一三時までの一時間滞在する。途中からだが教室で授業を受けて、昼休みの間に帰る。退院後の生活を実際にやってみて、難しい部分があれば今後のリハビリで重点的に行う――とおばさんは言った。
 学校に行ける。病院に友達が来るんじゃない。自分が、元いた世界に行ける。
 急に理想に現実が追いついてきて、鼓動が早くなる。
 ただし、とおばさんは人差し指を立てた。
「まだ退院、ということじゃないからね。そこだけは間違えないように」
 要は、現在位置の確認ってことだ。
 それでも上手くできたら、退院も見直されて、早く元の世界に戻れるかもしれない。
 病室に戻って、すぐに家族に連絡した。チユキたちにもメッセージを送る。
 それから一応、カコにも。
《よかったじゃん!》既読と同時に返信があって、《おめでとう!》と続く。
 なんかくすぐったくて、ありがと、と文章だけ返したら、
《頑張ってね!》
 とポンポンを振るクマのスタンプ。グッドマークをつけて、スマホを閉じる。
 ベッドに寝て、エアコンの埋まった天井を見つめる。興奮が静まって、現実感が湧いてきた。
 学校に、行ける。

3

 十一月一日は、青い空がどこまでも高かった。
 モノレールの走る街道から、住宅街へとタクシーが折れる。後部座席でユウゴは小さく息をついた。
 高校に行く当日。久しぶりの制服で、久しぶりの通学路。隣に座った理学療法士のクマは、落ち着いて行こう、と言ってくれたけど、今になって緊張で喉が渇く。ちゃんとやれんのかな。クラスのみんなはどう思うのかな。来月の修学旅行、どうなんだろ。
 ……いや、考えたって仕方ない。これまで頑張って来たんだ。歩けるようになったんだ。だからきっと、大丈夫。首を左右に振って、つばを飲み込む。
 そうこうするうちに、タクシーが停車した。スライドしたドアをくぐれば、校門だった。黄色みがかった葉が風に揺れる桜の奥に、校舎がそびえている。
 最初に抱いたのは、あれ、という感覚だった。
 なんの変哲もない、四階建ての校舎。でもエレベーターも何もないと考えると、立ちふさがる壁のように感じる。
 教室はこの三階。あそこまで上る? 抑え込んだはずの不安がまた脳裏をよぎる。
「――よく戻って来たね」
 声に我に返ると、壮年の教頭が微笑んでいた。なにかと話が長くて苦手だったけど、今はその禿頭にほっとする。
 手伝うことは? と続ける教頭に、自分でやらせてあげてください、とクマが答える。
 そうだ。一人でできる。一人でやらなくちゃ。じゃないと、元の世界になんて戻れない。
 昇降口のベンチで靴を脱いで、砂っぽいすのこを踏む。
 そこで、困った。靴箱に。
 自分のサンダルが入っているのは、一番下ってわけでもないけど、ちょっとしゃがまないと取れない場所で、そして義足はそのちょっとしゃがむができなかった。
 苦い気持ちを抱えつつ、仕方なくひざをすのこにつく。二年を示す深緑のサンダルは懐かしかった。日常に戻ってきた気がする。
 でもクマに止められた。
「待って」彼はサンダルを手に取ると、「ちょっと危ないかな。いつもの室内履きにしようか」
 いやだ、とは言えない。クマだって安全を考えている。いくら滑り止め付きの靴下を履いているとはいえ、義足にとってただつっかけるだけのサンダルは難しい。
 ただ頭は冷静にそうわかっていても、心はもやっとする。情けないって感情に似ている。
 そして階段。実際に目の当たりにするとさらに思う。長い。
 一二段で上がって、踊り場でまた一二段折り返し。三階まで大体五〇段。
 息をついて、足を踏み出した。褪色した手すりを掴んで、一段ずつ上っていく。
 重たい。やっぱり義足は重たい。交互に上れるように練習はしていたけど、緊張でテンポが崩れて息が上がる。段を踏むとカチャンと音が響くのも嫌だ。
 早く早く、と気持ちが急いで、義足が段を踏み損ねた。滑り落ちそうになって、クマに支えられる。
「ゆっくりでいいからね」
「ぅす」
 いら立ちで声がかすれた。クマに対してじゃない。自分に、対して。
 やっと上り切って、壁に手をついて息を整える。
 これがリハビリなら、やったぜ、って達成感が湧くところなのに、今は焦りが汗とともに滲み出す。後ろでカチッと音がして目だけ向ければ、クマが持っていたバインダーにペンを走らせていた。
 くそ。拳を握った。
 階段だけじゃない。家から学校まで約四キロ。バス通学を考えているけど、それでも片道五〇〇メートルは歩く計算だ。それなのにこれじゃ……。
 教頭に促されて教室へ向かう。窓から差し込んだ正午の陽光に、自分の真っ黒な影が長く大きく廊下に伸びている。それが重たい。足首を掴まれている気がした。映画に出てくる奴隷みたいに、重しをずるずると引きずっている。
 気のせいだ、考えすぎるな。振り切るように義足を太ももから持ち上げて、廊下を進む。
 2・Cの札が見えてきた。先を行く教頭が、教室の後方の扉を開ける。
 急に怖くなって、指先がかじかんできた。早くなる息に唇を噛んで、教室に踏み込む。
 くらっ、とするくらいの視線が突き刺さった。クラスメイト達の双眸は一つ残らずこちらを捉えて離さなかった。まずは顔を見て、それから一斉に足へ目がそそぐ。
 スラックスを履いているので見えない――けど、無意識のうちに足を半歩退いてしまって、かちゃんっと金属音がした。
 その瞬間、強烈な恥ずかしさが脳天まで突き抜けた。耳の先まで赤くなって、耳鳴りが頭に響く。誰かに笑われたわけでもない。からかい交じりの目でもない。むしろそこにあるのは、帰ってきたんだ、とか、元気そうじゃん、とか暖かさと優しさ。
 なのに、どうしようもなく恥ずかしかった。
「授業中だぞ。集中しよう」銀縁メガネの担任が、教科書で教卓を叩く。「つまり比較級は……」
 再開した授業に教室の目は黒板へと戻る。
 肩がふっと軽くなって、止めていた息を吐き出そうとした。
 でもできなかった。
 自分の席がない。
 ずっと窓側に憧れていて、二学期初めのくじ引きでやっと当てた席。なのに、そこにはバスケ部のタケちゃんが座ってて、代わりにタケちゃんの席だった廊下側が空いている。
「こっちの方が楽かなって」
 こそっとした声に目を向けると、かつてのタケちゃんの席の隣で、マサヒロが横にも縦にもでかい体をきゅっとさせていた。
「……そっか。ありがと」
 小さく笑って、そこに腰を下ろす。苦い感情は噛み潰す。だって、みんな考えてのことだ。
 それだけじゃない。
 集中しよう、と言った先生も、教室の反応を確かめる視線が、最後に必ずこちらを見る。意識しないように振舞いながらも、気にしてくれているんだろう。
 マサヒロもだ。落とした消しゴムを拾おうと椅子を引いたら、
「いいよ、任せろ」
 捕手らしい巨体を沈めて、拾ってくれた。
 みんな優しい。その後もマサヒロは、教科書四七ページだぞ、とか教えてくれたし、プリントを回してくれた前の席の水田さんは、おかえり、って言ってくれた。ポケットで振動するスマホをこっそり見れば、クラスメイトからメッセージがたくさん届いていた。
 それなのに、どうしてこんなに違和感があるんだろう。なんか、違う。
 帰りたかった元の世界って、これだったっけ。

 昼休みは混雑した状況での歩行訓練……のはずだったが、教室を出ると、たむろしていた同級生たちが海を割ったように道を開けた。昼練に向かう運動部も、購買に走るギャル軍団もそろって足を止める。その視線にまた肌を刺される。
 階段を下りるのは上るより大変だった。義足に体重がかかるし、転ぶ恐怖も合わさって、時間がかかる。それでもチユキたちは気にしていないかのように、隣をゆっくり下りてくれた。それがよっぽど申し訳なくて、情けなくて、恥ずかしい。
「タクシー来るまで時間あんだろ」
 チユキに教室棟と実習棟の間にある中庭に誘われた。
 ベンチに座ってすぐ、校長が話したいとクマが呼ばれた。悩んだクマだったが、少しでいいので、と教頭に言われて、
「すぐ戻るから、絶対に動かないでね」
 二人を見送れば、今度は弁当を開けたカズトが、やべ、と漏らす。水筒を忘れたようだ。
「飲みもん買ってくるわ。なんかいる?」
 首を振って返したら、カズトが自販機へ走っていった。
 マサヒロは野球部の練習に行ったし、いるのはチユキだけ。
 そのチユキが、開けっ放しのカズトの弁当から唐揚げをつまんで口に放る。苦笑していると、
「どうだよ。二か月ぶりの学校は」
「……よかったよ、ありがと」
 努めて頬を持ち上げた。チユキも安心させたかったし、自分を納得させたかった。
 大丈夫。なんとかなる、って。
「そっか」親友はくしゃっと茶髪を掻いて、「なあ。なんかあったらすぐ言えよ」
 途端に、つっかえた感情を打ち明けたくなった。想像と全然違う、って。苦しい、って。
 でも言う前に、
「チユキ! 体育のコバセンが呼んでるぜ。この前のレポートで」
「うわっ、やべ! 出すの忘れてた!」
 三階の教室――その窓から降ってきた声に、チユキがベンチを立つ。
「ここにいろよ! 動くんじゃねえぞ!」
 くぎを刺すように言う親友に、わかってるよ、と手を振ろうとした。でも腕が重い。
 ふと、トイレに行きたくなった。緊張して今の今まで気づいていなかったけど、結構したい。
 それくらいならいいか。というか、トイレは一人でできるし、できないとヤバいし。リハビリでも真っ先にやったし、もう全然慣れてる。
 思い立ったら、体はもう動いていた。昇降口に近いトイレへ歩いて、ドアを押し開ける。
 なんだよ、大丈夫じゃん。
 そう思った矢先だった。
 義足が、敷居につまずいた。なんてことはない段差なのに。
 あわててバランスを取ろうとしたけど、つんのめった体は止まらず、あっけなく顔面からタイルに突っ込んだ。ガツンという衝撃に、まぶたの裏に火花が飛び散る。痛みよりも先に鼻の奥から血の匂いがあふれてきた。
「お、おい、ユウゴ!」
 カズトらしき声がして、大丈夫か、と肩を揺さぶられる。
 そこで、股間が冷たいことに気づいた。やけに濡れたズボン、鼻を衝く尿の匂い。
 勝手に唇が震え出した。握った拳を床に叩き落とす。
「くそっ! ちく、しょう……っ!!」
 なにが、元の世界に戻る、だ。
 こんなんじゃ、戻れるわけない。

 病院に帰ったらリハビリ時間だったせいか、広い病室は誰もいなくて、がらんとしていた。
 開け放たれたカーテンの向こうで、窓が西日で真っ赤に染まっている。ベッドで一人、笑ってしまった。いっそ雨だったら良かったのに。
 幸い、転倒の傷は大したものではなくて、打った頭も検査で問題なかった。服も、すぐに着替えた。
 でも一応報告が行ったみたいで、病院に帰って早々、母が駆けつけてきて、目を離してしまい、とクマが平謝りだった。それを見て、一層自分が情けなくなる。
 元の世界に戻る。結局、そんなの無理だったんだ。
 だって――足が無いんだから。
 やせ細って途中から無くなったひざ下に、歯を軋ませた。
「――やっほー」
 場違いに明るい声が、耳を弾いた。
「カコ」
「うわっ、なにその辛気くさそーなカオ! 空気も辛気臭いわ」
 ベージュのカーディガンを着たカコが、パタパタとわざとらしく手を横に振る。
「さーて期末考査に向けて、今日もいっちょやりますか」
 椅子を引っ張ってきた彼女が、アネロのリュックから筆箱や参考書を取り出す。
 事情を知っているんだろうな、って気がした。その上で、なにもなかったように振舞っている。普段ならいじり倒してきそうな、あのカコが。
 最悪だ。叶わない夢を追って優しくされるのも、その優しさをちゃんと受け止められないのも、最悪で、情けなくて、みじめで、目の前が真っ暗になる。
 これから先も、こうやって生きて行くのか? そんなの……。
「おれさ」息を吐くと同時に、口が動いていた。「おまえの気持ち、わかったような気がする」
「気持ち? わたしの?」
 手を止めたカコが、目をぱちぱちと上下する。
 なんだかへらっと笑ってしまって、つぶやくように言った。
「いつ死んでもいいや、って」
 長いまつ毛の奥で、カコの琥珀色の瞳がすっと大きくなった。
 なにかを言いかけるように唇が動く。でも言葉が湧いてこないようだった。
 病室の時が止まったような静寂があって、ようやく彼女はかすれた声を上げた。
「ユウゴ」
 途端に、言ってはいけないことを口に出した気がしてきた。焦りと後悔が滲み出してきたけど、冗談とか取り消せるようなものでもない。
 カコの視線が怖くて、背筋がぞっとして、逸らした目が自分の足に落ちる。
「悪い、カコ。今日はさ、ちょっと気分じゃないんだ。だからその、帰ってくれねえか」
 ごめん。何度か繰り返す。逃げるように。
 カコの息遣いが聞こえた。
「わかった」
 その声はいつもと変わらずハスキーで軽やかなのに、いつもと違って全然響いていなかった。
「じゃあね、ユウゴ」
 視線だけ上げたら、髪を揺らした彼女の背中だけ見えた。

4

 壁にかかったホワイトボードに、赤マーカーでリハビリ中止の文字が躍っている。それも数日続けて。
 看護師には、体がだるいと言った。クマには、足が痛むと言った。臨床心理士には、ちょっと気持ちに整理をつけたくて、と笑っておいた。
 整理ってなんだよ。もうわかってることじゃん。迷うようなものなんてないだろ。
 自分でもそう思うのに、なにか引っかかるものがあって、胸が重くなる。
 窓に目を移すと、昨日から冷え込んだせいか、曇り空を映すガラスは結露している。見つめているうちに、ざくっ、と無いはずの足に痛みが走った。
 目をつむって、一秒、二秒、三秒……。まぶたの裏の暗闇に数えると、徐々に幻肢痛が収まっていく。それでもこうやって何もしていないと、無い足は常にしびれていた。というか、あるのだ。今もベッドに寝ころんで足を伸ばしている感覚がある。ただ目で見ると、無い。
 だからわからなくなる。無いのにあって、あるのに無い。ぐちゃぐちゃだ。まとまらない考えと同じくらい絡み合って、いっそ全部投げ出して叫びたくなる。
 そんな腐った日が、また夜になりかけている夕方だった。
「――よし、誰もいねえ!」
 そんな声がしたかと思えば、病室にこそこそとチユキたちが入ってきた。
 見張るわ、とカズトが廊下に顔だけ覗かせ、うなずいたチユキがマサヒロとやってくる。
 二人のこわばった顔に気おされて、上半身をベッドから起こす。
「な、なんだよ」
「ユウゴ、おまえ義足は?」
「いや、今はない、けど……」
「ちっ、仕方ねえ。マサ、車いすに移すぞ」
「おう」
 言うが早いか、チユキが畳まれていた車いすを広げ、マサヒロが腕を掴もうとしてくる。
「ま、待てよ!」とっさにその手をすり抜けた。「なんだよ、急に」
「いいから!」チユキが言う。「時間がねえんだよ!」
「なんのだよ!」
 いつしか肩で息をしていた。チユキたちと視線をぶつける。
 わかっている。意味もなく変なことをするやつらじゃないってことくらい。
 一緒にバカやって笑って、でもミスったときはそばにいてくれて、自分にはもったいないくらいの良いやつらだ。だからきっと今も、こっちのことを考えてなにかをしようとしている。
 だけど、だからこそ、受け止めきれない。
 そんな自分が嫌になって、髪の毛をくちゃくちゃにかき上げる。
「ほっとけよ」絞り出すように言った。「もう、ほっといてくれよ」
 もういいんだ。どこかに行ってくれ。
 だって、一人でトイレもできないやつだ。そんなの、普通じゃない。
 布団を握りしめた手を見つめて、口が勝手に笑いだす。
「――オレは一昨日、夢精した」
 チユキが言った。あまりにも唐突だったので、言葉が出てこなかった。
「……は?」
「よくやんだよ。それで毎朝母ちゃん姉ちゃんに見つかんねえよう、こそこそ洗ってんだ。小便漏らすのとなんも変わんねえよ。なあ?」
 急に振られたマサヒロだったが、すぐにその太いあごを引いた。
「俺も腹が弱いからさ。その、具合が悪いと屁と間違えて、出るときあるぜ」
「えっと、おれは……」病室の入り口でカズトも頭を掻いて、「ああっ、ちょい漏れ! トイレし終わった後、たまにちょっと残ったのでパンツが濡れるぜ」
 なんの話なのか、流れが掴み切れないでいると、つまりよ、とチユキが口を開いた。
「オレたち、そんな気を使うような仲じゃねえだろ。気に入らねえことは言うし、オマエも言えよ。遠慮なんかしねえし、オマエもすんな。それが、友達だろ」
 チユキはまっすぐにこちらを見つめていた。瞳にも言葉にも芯があって、胸を突き刺される。
「それでもおまえは、ほっとけっていうのかよ」
 ちくしょう。震えた唇ごと歯を噛みしめる。
 どうしようもないやつだ。
 チユキたちはどうしようもなく良いやつらで、そして自分はどうしようもなく憶病なやつだ。
 それでもやっぱり――友達でいたい。
「ごめん。おれ……ごめん」
 熱い息をこぼすと、滲んだ視界にチユキの手が伸びてきた。
「感動の仲直りと行きたいが、あいにく時間ねえんだ」
 ニッと笑ったチユキに腕を引かれ、車いすに移る。マサヒロがクローゼットから薄手のダウンを取り出した。外に出るのか?
「どこ行くんだよ」
「おまえが行かなきゃいけない場所さ」
 チユキは得意げに言って、行くぞ、と車いすを押した。

 チユキの手を借りて、ケンケンで地下への階段を降りると、レンガ調の壁にかかったネオンサインが目に染みた。
『ライブハウス IKEBUKURO Touch & GO』
 鮮やかなブルーの文字に、病院を抜け出した後、チユキの見せてきたスマホを思い出す。
 揺れる急行池袋行きの中で、画面にはカコのいたガールズバンドのSNSが表示されていた。初めてのワンマンライブを知らせる告知に、赤い文字が重なって、
《いろいろあって、やっぱ歌いたくなっちゃって。バンドのみんなに土下座しました! 一曲だけ、歌いに戻ります!》
 カコだ。
 もう歌わないのか、と訊いた時を思い出す。やろっかな、と答えていたけど、本当に戻っていたのか。
 聞いてみたい。彼女が何をどう歌うのか、聞いてみたかった。
「な? 行かなきゃいけねえだろ?」
 チケットも確保済みだ、と降り注いできた声に、つり革を掴んだチユキたちを見上げる。
 無断で外出してどうなるかわからないのに、三人ともいつもと変わらない笑顔だった。それに胸が引き締められる。
「ありがとう」
 ライブハウスに入ると、配管や蛍光灯、ケーブルがむき出しの天井の下、結構な人が集まっていた。カコと同じ制服を着た高校生から仕事帰りらしい女性まで、一〇〇人に迫るかもしれない。びっくりした。人気じゃん、と。
 あとから聞いたところ、ショート動画がバズったおかげで、SNSが回転し、ファンが一気に増加したらしい。カコが抜けた後も、ギターがボーカルを兼ねて人気をつなぎ止め、ついにワンマンライブまでこぎつけたみたいだ。
 フロア最奥の車いすエリアへ案内されると、ほどなくしてスタッフのアナウンスが始まった。その後、光が暗転して、派手な登場曲に合わせ、バンドの面々が飛び出してくる。
 5ピースのガールズバンドではあるが、高校生はカコとキーボードの子だけで、あとは大学生からフリーターまでさまざま。
 最後にカコが出てくる。やっぱりショート動画の印象が強いのか、そこが一番盛り上がった。
 でも変だ。人垣の向こうに見えた彼女は、やけに白かった。
 まるで幽霊だ。透けるように白くて、輪郭が淡く滲んでいる。そのくせ目だけはぎらぎらして、見るもの全部食い散らすような凶暴さがあった。
 ドラムがスティックを叩き、タイミング合わせて曲が始まる。
 ちょっとしたざわめきがあった。ユウゴも唇を噛んだ。
 カコが歌わなかった。
 頭サビなのにマイクを持ったまま、ただ黙って、集まった人々に視線を巡らせている。
 バンドの面々はサビの演奏を繰り返す。でもカコは動かない。
 そのまなざしに飲まれて、ユウゴも客もスタッフもみんな、石になってしまいそうだった。
「……わりい。手、貸してくれ」
 こそっと言うと、我に返ったチユキたちが腕を掴んでくれた。車いすから身を起こす。
 目が合った。一〇〇の人越しなのに、確かにカコと目が合って、彼女の瞳が開くのがわかる。
 小さくうなずいた。理由もないし確証もないけど、大丈夫だ、ってうなずいた。
 そうしたら、カコの目がいつもの輝きを取り戻した。墨を引いたように、輪郭ができる。
 繰り返されるサビの演奏に、小さく息を吸って――
『お先は真っ暗で
 明日もわかんねえ
 けど消せない夢があるのなら
 突っ走ってみるしかねえじゃん』
 ハスキーな声が、マイク越しにライブハウスに響いた。
 それから彼女は歌った。歌って、跳ねて、笑って、叫んで。その姿は本当に楽しそうだった。
 だけど、体に巣食う病が消えたわけじゃない。息切れがひどくなり、途中から腕を上げるのもしんどそうで声はカサカサで、それでも絞り出すから全然通らない。
 だから聞く人によっては失望したかもしれない。バンドを抜けた理由を感じて可哀想だと思ったかもしれない。
 でも、ユウゴは違った。
 彼女は突風に抗って、前に進もうとしているように見えた。流されてしまえば楽なのに、ボロボロになりながら足を突っ張って耐えている。
 そこに確かに、生きている命を感じた。
 やがて歌いきった彼女は、ライトに向かって両手を突き上げた。
 肩を上下して、張り裂けそうなくらい胸を隆起させたカコは、紅潮した顔が汗びっしょりで、それでも鋭い犬歯を見せて笑っていて――カッコよかった。
 何度も何度も叩いた手は赤くなって、空調の風に頬がヒリヒリした。

 病院を抜け出したことがバレたようで、ライブハウスを出たら、チユキもカズトもマサヒロも、みんな青い顔でスマホの電話に出た。自分のせいだ、と替わろうとするけど、三人とも任せろと言って聞いてくれない。
 スマホを病院に置いてきたユウゴは一人手持無沙汰で、ライブハウスの入った雑居ビルの前で肩身狭くたたずんでいると、
「来なくてよかったのに」
 汗と制汗剤が混じった甘酸っぱい匂いと同時に、つんと尖った枯れた声がした。
 すぐ隣で、ニット帽をかぶったカコが、駐車禁止の黄色い車止めに腰かけていた。
 来たことを怒っているのかと思ったけど、彼女はロリポップを咥えた口をもごっとさせて、
「ダサかったでしょ、わたし」
 唇を尖らせるカコに、ゆっくりと首を左右に振った。
「カッコよかったよ」
 素直な思いは恥ずかしさも何もなく口をついた。そのせいか次の言葉もするっと出た。
「この前は、ごめん。気持ちがわかるとか、適当なこと言って」
 カコはすぐには何も言わなかった。
 長いまつ毛の下の瞳は、向かいのコンビニに注がれていた。釣られて店を見つめる。店内から漏れた真っ白な光が、濡れたアスファルトに冷たく伸びていた。
「わたし、今日死ぬつもりだったの」
 声とともに漏れた白い息が、夜空へ溶けて消えていく。
 今度はこちらが何も言えずにいたら、彼女は目を細めた。
「嘘じゃないよ。リュックん中、灯油。みんなの前で頭からかぶってさ、死のうと思った」
 気のせいか、背中の重たそうなリュックでたぷんと音がした。
 それから時折大きく息を吸いながら、カコは続けた。声音は明るいのに、雨みたいだった。
「退院って、病院で言われた時、正直、なんで? って思ったの。病気が完治したわけじゃないのに、とりあえず死ぬこともないって、意味わかんなくて。いつ死んでもいいやって、むちゃくちゃくやってたのに、それすら取り上げられた気分でさ。もう真っ暗闇ってカンジで、あんたはどうしてんのかなって見に行った。もう死んじゃったかなー、とか思って。
 そしたらあんた、すっごいじゃん。車いすで、もう死にます、みたいな顔してたのに、汗水たらして鉄の足で歩いて。それにまあ平たく言うと感化されちゃった、みたいな?」
 もっかいやってみよっかな。歌について尋ねた時、そう笑っていた彼女を思い出す。
 感化なんてそんな大したことしてない。そう思ったけど、口に出す前に、ガリッ、とカコがロリポップを噛み砕いた。急に乱暴さを感じた。でも声色はふざけたくらい軽くなって、
「ところがどっこい、そのあんたが腐っちゃった。そしたらなんかわたしももうダメじゃね? って。だってあんなに頑張ってたあんたがダメなら、思いつきでやってるわたしはもっとダメじゃん。うわーそれならもういっそ死んでやろ、と思って」
 スーパーボールみたいに跳ねた声が、胸裏にぽとっと転がる。
 なにが、大したことしてない、だよ。投げやりに放った言葉で、彼女を追い詰めていた。
 軋むぐらい歯を噛みしめて、地面に目を伏せる。
 と、その砂利を蹴り飛ばして、カコが車止めから立ち上がった。
「でもね。今日あんた見たら、嫌になっちゃった。あーやっぱりわたし、生きたいなって」
 いつもの伸びる声でそう言って、彼女は電飾看板の光が滲んだ空を見上げた。
「だってさ。よく考えたら関係ないじゃんね。あんたは腐っても、絶対立ち直って前に進む。だって足がなくなったのに、歩いてんだよ? それにもしあんたがそのまま腐りきってどうしようもないやつになったとしても、あんたはあんた、わたしはわたしじゃん。他人にすがって自分のことを悲観してるとかダサすぎ。そんなの全然、ロックじゃない」
 くるっとこちらに向き直ったカコは、少女然とした顔に、野性的な犬歯を覗かせて笑った。
「だから、わたしは生きる。怖いからって、むちゃくちゃやって目をそらして死ぬんじゃなくて、好きなことを続けるために生きていく。
 だって――歌うの、めっちゃくちゃ楽しいんだもん」
 頬と鼻を赤くしたカコは、むふっと白い息を吐いた。
 そばの自販機に向かっていった彼女から、夜空へと視線を移す。
 生きていく。
 カコは万全の体を失った。あの時みたいにはもう歌えないし、運動だってできない。
 それでも音楽が好きだから、生きていく。続ける方法を模索して、挑み続ける。
 自分も同じだ。
 足を失った。つまり元の世界には戻れない。だって、足があったから過ごせていた世界だ。
 足があったから通えた高校。足があったから登れた階段。足があったからできた生活。
 なら、今までとは違う形で、方法で、生きていく。
 今の自分で、新しい世界で、生きていくしかない。
 だってやっぱり――
「おれも、死にたくねえなあ」
 漏らした言葉が息とともにするすると空へ吸われていく。
「ふふ。だよねえ」
 くすくす笑う声に目を戻せば、ひょいっと缶を投げ渡される。オレンジペイントが鮮やかなバヤリースだった。
「ん」カコが缶を軽く掲げる。「生き続ける、わたしたちに」
 夜闇に浮かぶ彼女の笑みに、なんだかこっちも笑ってしまって、そうしたらちゃんと自分と向き合えた気がした。これから先も怖いこととか、不安になることとか、たくさんあるだろうけど、なんとかなるって今は思えている。
 プルタブを開けて、缶を合わせる。
「おれたちに」

5

 それからが大変だった。
 病院に帰って、医者と親にめちゃくちゃ怒られた。なんなら父は久々に平手を振り上げてでも、馬鹿野郎、とその手は頭に置かれた。それに謝り倒して、そうしたら今度はチユキたちの親に謝られて、いやいやこっちが悪くて、と訳を伝えて。
 数日リハビリを放棄した分、結局一週間退院は引き延ばしになったし、そうしたらすぐ修学旅行だからなんとか行けるように、とさらにリハビリがきつくなって、体はヘロヘロだ。
 それでもチユキたちは変わらず見舞いや電話をしてくれるし、カコも勉強を教えに来てくれている。病気と向き合いつつ、最近はベースを練習しているらしい。
「見てよ、このたこ」
 硬くすり減った指先に顔をしかめながらも、彼女は楽しそうだった。
 そうやって支えてくれる人のためにも、止まってはいられなかった。自分でできることはやるし、そのできることを少しずつでいいから増やしていきたい。助けてもらうだけは、嫌だ。
 そして、退院まで残り一週間になった十一月の下旬。
「これが、仮義足だよ」
 義肢装具士が差し出したのは、ピカピカの義足だった。
 足を模した底部も、足首の継手から伸びたシルバーのチューブも、全部傷一つない新品で、カーボンファイバーのソケットにマットな光沢があってかっこいい。
 仮というのは、足の断端のむくみや痩せが収まるまで使う、という意味。その後は本義足になるのだが、だいたい半年から一年ほど仮義足で過ごすので、しばらくはこれが自分の左足だ。
 自分の足。ひんやりした義足を受け取ると、ずっしり重くて、現実感が湧いてくる。
 その夜はなんだか寝付けなくて、ベッドサイドの義足を手に取った。病室の緑の非常灯に、縁のラインが鈍く輝く。
 これから先、こいつで歩く――そう思ったら、背筋がぞくっとした。
 不安はある。転ぶだろうし、迷惑をかけるだろうし、また全てが嫌になるかもしれない。
 でも自分で諦めない限り、いつだって前に踏み出せる。
 ほかの人より遅くたって。ほかの人より距離が短くたって。
 自分のペースで、歩いていける。
了