after kiss


「ねえ、ここで小さい時キスしたの、覚えてる?」

 線香の匂いが充満する和室で、長い足を伸ばしながら従弟の祥が不意に呟く。その声音には躊躇いや淀みなどはなく、今日の夕飯なだっけ? というような些細な疑問と、変わらない音をしていた。だから最初、その言葉が耳に届いた時、彼が一瞬何を言っているのか、分からなかった。

「十二年前くらいだっけ。俺が七歳で、稔くんが八歳くらいの時」

 具体的な数字を上げられて、ようやく彼の言葉が滞りなく俺の脳内を駆け巡る。俺はその記憶に、なんて言えばいいのか分からず、ただ閉口して、彼の背中を眺めていた。仏壇へと足を投げでした祥越しに、細い線香の煙がひょろひょろと立ち上っているのが滲んで見えた。

「あれ、ばあちゃんに絶対見られたよね」

 そう言いながら、毛羽立つ畳を長い指先が引っ掻く。俺はその骨ばった――七歳よりもずっと男らしく長い――指先と爪を見つめながら、小さな声で「うん」と、返した。

***

 お互い一人っ子で、夏休みの盆と正月に顔を合わせる俺と祥は、会えば兄弟のように仲良く過ごしていた。俺は弟が欲しかったし、祥は兄が欲しいと言っていたから、俺達はお互いの役回りに何の不満もなかった。

 夏は祥の手を引いて、都会ではなかなかお目に掛かれない山間の森林へ、祖父の運転する軽トラで出かけたり、冬は広い庭先で霜を競い合いながら踏んだりしていた。雪が降れば手がしもやけになる寸前まで遊んで雪だるまを作り、誰も入れないくらい小さなかまくらを作って、ロボット人形を押し込んでいたっけ。

 ――そして俺が八歳で祥が七歳の時の、何てことない年末特番の長ったらしいドラマで、俺と祥は高校生同士の初々しいキスを目の当たりにした。

 病魔に侵された少女と、そんな彼女を一途に思い続ける少年の長編ドラマだった。

「この手のドラマとか映画とか増えたよね」
「ホント。年末くらいドカンと笑えるのやって欲しいわ」

 隣に居る母親たちが口々に文句を垂れる中、テレビの中の少女と少年は美しいキスをして、涙を流していた。俺はこたつの中に手を入れて、冷えた末端を擦りながら、ちょうど対角線上にいる祥へと視線を投げる。祥は蜜柑を剥いている最中のまま、まるで時が止まってしまったかのように、テレビに釘付けとなっていた。一日に蜜柑を十個以上食べたら、肌がオレンジ色になるという祖母の脅しに負けず、誰かと競うように蜜柑を頬張る祥の指先が、オレンジ色にぽっと灯っているように見えた。

 祥の不思議なオレンジ色の指先を眺めていると、
「稔くん、あっちで遊ぼう」
 祥は食べかけの蜜柑を机に転がして、突然こたつから抜け出した。

「あんた、食べかけ!」
「あとで食べる!」

 言うが早い。祥は居間の隣にある仏間へと先に引っ込んでしまった。エアコンの効きの悪い日本家屋は、全体的にひんやりとどこもかしこも温度が低く、本当はこたつから出るのは億劫だけれど、祥に「遊ぼう」と言われて、断る理由が思い浮かばず、俺は渋々彼を追いかける形で仏間に入った。

 仏間は暗かった。

 小さな黄金色の観音様の置物だけが、仏壇の奥で、ぼんやりと火が灯るように輝いて見えていた。まるで、そこかしこの光を吸い込んでいるようで、何となくそこには近寄りたくない。

「祥?」

 明かりを点けないままの部屋を見渡すと、突然くい、と手首を引かれた。驚いて引っ張られた方へと顔を向けると、祥が暗がりの中で笑っていた。ぱちっと大きな目を開くと、こっちこっちと部屋の隅へと引っ張っていく。

「なに? 何するの?」

 電気くらいつけようよ、そう提案するよりも早く、
「キスしたい」
 祥がそう言った、内緒話するように声を潜めて。俺は一瞬何を言われたのか分からず、一歩遅れてやって来た「キス」という単語の意味に、頭に血が上るような、恥ずかしいような、何とも言えない気持ちで、祥を凝視した。つい今さっき見ていたキスシーンが、頭の中に大きく映し出されて、言葉が空回り、くちから何も出て来ない。

 いきなり何言ってんだ?

「いいよね、俺と稔くん、すっごい仲いいし、変じゃないよね」

 確かに俺と祥は仲が良い。兄弟みたいに仲良しで、俺は祥のことは大好きだ、けど。
 でもしたらいけない気がする。

 意味もなく直感的に、後ろめたい気持ちがふつふつと湧いてきて――あんなにテレビのなかでは綺麗だったのに――いざ自分にと置き換えると、まるで悪いことをするよな気持ちになってくる。

「いいよね」

 そう言って近づいてきた祥の小さな顔に、思わず後退る。しかし、一年分の僅かな身長差を、祥はいとも簡単に埋めてしまうと、背伸びをして俺の唇に、唇を重ねて来た。

 同意もないままの初めてのキスは、怖かった。
 何か怒られることをしてしまった気持ちで、けれど、バレなければ怒られないかもしれないと、心臓がばくばくと音を立てていた。

 祥の薄くて柔らかい唇が触れている間、俺はぐっと息を止めて、二の腕に力を入れていた。緊張して、心臓が身体の中でぶるぶると震えているようだった。

「祥ちゃん、稔ちゃん、なにしてんね」

 ふいに何の前触れもなく祖母の声がして、慌てて離れると、大きな影となって、祖母が俺達を見下ろしていた。仏間の隅、人影しか見えない暗がりで、心臓が壊れるほど、強く胸を内側から叩いていた。祖母の後ろからすぅっと伸びる居間の明かりと、両親たちの笑い声がぐわんぐわんと、鼓膜で響く。

 見られた?
 怒られる?

「……明かりつけんと、目ぇ悪くするよ」

 カチカチ、と天井から釣り下がる紐を引っ張ると、白い光が明滅しながら八畳ほどの部屋を、隅々まで照らし出した。

「もうすぐ夕飯できるからね」

 祖母は皺でくちゃくちゃになった笑みを浮かべると、そのまま台所へ続く廊下へと出て行った。きしきしと歪み軋む音が、冬の冷たい空気の中、遠ざかっていく。

 俺と祥は、ふたりで胸を押さえながら、暫くぼんやりと祖母の消えた襖の向こう側を見つめていた。


***


「ばあちゃん、なんて思ってたかな」

 仏壇に飾られた祖母の写真を眺めながら、祥が呟く。俺はその隣に正座をして並ぶと、手を合わせてから線香を一本立てた。

「暗がりで見えてなかったかも」
「それはあるかもね。ばあちゃん、目ェ弱かったし」

 ――俺たちはあれ以来、疎遠になることもなく、正しく子どもらしい、偽りの兄弟を演じていた。会えば仲良く以前通りに接し、そして年齢が上がるになるにつれて、当たり前のように疎遠になった。高校受験を迎えた年から、祖父母宅に必ず集まっていた行事は目減りし、タイミングもずれるようになってしまった。

 今ではもう十二年前なんて、大昔だ。子どもの残酷な好奇心だと、俺はこの話を笑えばいいのだろうか。

 相変わらずどこかひんやりとした、日本家屋の部屋は、隅々まで冷えている。俺は冷たくなった手を擦り合わせながら考えた。ふと視線を上げれば、祥と唇を合わせた部屋の隅が、目に留まり、祥の唇の感触が、僅かに蘇る。

「稔くんはさ、なんて思ってた?」

 視線を向ければ、あの頃とは違う眼差しが俺を射る。
 好奇心に満ち溢れていた、あの純粋な眼差しは十二年前に置き去りにされ、今はキスも全てを知った大人の目がそこにはあった。
 当たり前だ、お互いにもう大学生なのだ。

「……忘れたよ、十二年も前のことなんて」

 そこから目を逸らすと、俺は脚を崩して、胡坐を掻いた。暗がりで見上げた祖母を見上げるように、煙の昇る先を見つめる。今もはっきりと蘇る鼓動を感じながら。

「じゃあ、もう一回しようよ」

 祥の言葉に心臓が大きく跳ね上がった。
 あの頃の心臓の音が、はっきりとした祥の感触と共に蘇ってくると、何だか無性に腹が立って、俺は彼を睨み据えた。

「はぁ? 何言ってん……っ」
 思わずそう反論しようとした瞬間に、言葉が飲み込まれてしまう。あの時よりも強固な力が、大きな身体が、容赦なく覆い被さって来て、俺はなす術ないまま、祥に飲み込まれていく。

「稔くん、俺ずっと前から……っ」

 視界の隅で、祖母にあげた線香の細い煙が揺れている。
 もう、止めてくれる人は誰もいない。