結末から生まれた子ども

昼休み。
僕は校舎の裏にある小さな庭で、昼食を食べていた。
校舎の中は賑やかだったが、ここは比較的静かだった。
木々の葉が風に揺れ、遠くから生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
僕はパンをかじりながら、朝のカイルとの会話を思い出していた。
未来がわからないことは、不安なことなのだろうか。
確かに、進路を考えるときには困る。自分に何が向いているのかも、どんな仕事に就けばいいのかも、僕にはわからない。
けれど、人生書に書かれているからといって、それが本当に自分の望むものなのかは、別の話ではないだろうか。
そんなことを考えていると、足音が近づいてきた。
「ここにいたんだ」
顔を上げると、ミナが立っていた。
「一緒に食べてもいい?」
「もちろん」
ミナは隣に腰を下ろし、包みを開いた。
しばらくは、他愛のない話をしていた。
授業のこと。宿題のこと。最近、街にできた新しい菓子屋のこと。
けれど、ふとした拍子に、ミナが自分の人生書を取り出した。
「ねえ、リツ」
「ん?」
「もしもさ、自分の人生書に書かれている未来が、嫌なものだったらどうする?」
唐突な質問だった。ミナの瞳には光がこもっていなかった。
ぎょっとして、僕はパンを持つ手を止めた。
「どうしたの、急に」
「……ちょっと、気になっただけ」
ミナは本の表紙を見つめていた。
「私の人生書には、将来、王都の学校で教師になるって書いてあるの。家族も喜んでくれてるし、先生にも向いてるって言われた」
「うん」
「でも、ときどき思うの。もし本に何も書かれていなかったら、私は何になりたいと思うんだろうって。…実は今、教師になりたいとは心底思ってないし」
彼女は困ったように笑った。
「変だよね。将来がわかっているのに、こんなことを考えるなんて」
「変じゃないと思うよ」
僕はすぐに答えた。
「自分が何をしたいのか、考えるのは普通のことじゃない?」
「でも、人生書に書かれていることと違う道を選ぶのは……怖いよ」
ミナの声は、とても小さかった。
「もし失敗したら、どうすればいいのかわからないもの」
僕は彼女の言葉を聞きながら、しばらく考えた。
この国では、人生書に従うことが正しいとされている。
だからこそ、書かれていない道を選ぶことは、簡単ではない。
たとえ、それが自分の望む道だったとしても。
「……僕には、人生書がないから」
僕は静かに言った。
「正直、どうするのが正しいのかはわからない。でも、自分が何をしたいのかを考えることまで、やめなくてもいいんじゃないかな」
ミナは、少し驚いたように僕を見た。
「リツは、そう思うんだね」
「うん」
「……そっか」
彼女は本を閉じた。
その表情は、さっきよりも少しだけ柔らかくなっていた。そんな気がした。
それ以上、僕たちは何も話さなかったけど、僕の中には、一つの問いが残っていた。
人生書は、人々が幸せになるためにある。
それなら、どうして人々は、本に書かれていない未来を恐れるのだろう。
どうして、自分の望みよりも、本に記された道を優先するのだろう。
その答えは、僕には多分一生訪れることはないだろうけど…。

放課後、僕は一人で図書室へ向かった。
別に、特別な理由があったわけではない。ただ、昼休みの会話が頭から離れなかったのだ。
図書室には、王国の歴史や魔法学、地理、文学など、さまざまな本が並んでいる。
人生書について書かれた本も、もちろんあった。
僕は棚の前に立ち、背表紙を順番に眺めていった。
『人生書の基礎』
『中央記録院の歴史』
『人生書と社会の発展』
どれも、授業で一度は目にしたことがある本だった。
その中に、一冊だけ、古びた本があった。
背表紙には、かすれた文字でこう書かれている。
『エルセア王国史——人生書の起源』
僕は、その本を手に取った。
人生書が、いつ、どのようにして生まれたのか。
考えてみれば、僕はそのことを詳しく知らなかった。
生まれた瞬間に現れる。その内容は、変えられない。
そして、人々はその記述に従って生きている。それが常識だったから、疑問に思うこともなかった。
僕は本を開いた。
最初の数ページには、エルセア王国の建国について書かれていた。
そして、人生書が初めて確認された時代についての記述もあった。
だが、その説明は驚くほど短かった。
人生書は、王国の成立以前から存在しているが、その起源については、詳しい記録が残されていない。
中央記録院が設立されて以降、人生書の管理と保管は、すべて同院に委ねられている。
 それだけだった。
「……起源はわかってないのか」
 僕はページをめくった。
 その先には、人生書が社会にもたらした変化について、詳しく書かれていた。
進路の選択が容易になったこと。
 職業の適性が明確になったこと。
 人生における重大な選択で、迷う人が減ったこと。
 人生書は、人々の生活を豊かにした。
 そう結論づけられていた。
 僕は本を閉じた。
 人生書が便利なものだということは、わかる。
 実際、この国は長い間、人生書を中心に社会を築いてきた。
 けれど、便利であることと、絶対に正しいことは同じなのだろうか。
 その問いに答えてくれる本は、見つからなかった。
 図書室を出る頃には、窓の外が夕焼けに染まっていた。
 僕は借りた本を鞄に入れ、帰り道を歩き始めた。
 街は、朝と同じように賑わっていた。
 誰もが、自分の人生書に従って生きている。
 その光景は、昨日までと何も変わらない。
 けれど、僕の中では、ほんの小さな変化が起きていた。
 人生書があるから、未来が決まっているのか。
 それとも、未来が決まっていると信じているから、人生書に従うのか。
 その違いを考えることは、思っていたよりも難しかった。
 そして、その問いに答えるためには、もっと多くのことを知らなければならない気がした。
*
 家に帰ると、母さんが夕食の準備をしていた。
「おかえり、律」
「ただいま」
「今日は遅かったわね」
「図書室に寄ってたんだ」
「そう。何の本を読んでいたの?」
「人生書についての本」
 その瞬間、母さんの手が止まった。
 ほんの一瞬だった。
 けれど、僕は気づいた。
「……どうしたの?」
「ううん。何でもないわ」
 母さんはすぐに笑顔を作った。
「勉強熱心なのはいいことね」
「別に、勉強ってわけじゃないよ。ただ、ちょっと気になっただけ」
「そう」
 母さんはそれ以上、何も聞かなかった。
 僕も、深くは尋ねなかった。
 夕食を終え、自分の部屋に戻る。
 机の上には、朝閉じたままのノートが置かれていた。
 僕は椅子に座り、ページを開いた。
 白い紙を見つめていると、昼休みのミナの言葉がよみがえった。
 ——もし、自分の人生書に書かれている未来が、嫌なものだったらどうする?
 僕は鉛筆を手に取った。
 そして、ノートに一つの問いを書いた。
『人生書に書かれた未来は、本当に変えられないのだろうか』
 書き終えてから、しばらくその文字を見つめた。
 答えはわからない。
 今の僕には、確かめる方法もない。
 それでも、この問いを忘れたくはなかった。
 僕には人生書がない。
 だからこそ、僕は自分の人生について考えることができる。
 誰かが決めた答えを読むのではなく、自分で問いを立て、自分で答えを探していく。
 それが、僕にできることなのだと思った。
 窓の外では、夜の街に明かりが灯り始めていた。
 遠くに見える中央記録院の尖塔は、夜空の下でも白く輝いている。
 この国に生きるすべての人間の人生書を管理する場所。
 僕の人生書についても、あそこなら何か知っているのだろうか。
 そんな考えが頭をよぎった。
 けれど、すぐに首を振った。
 今さら問い合わせたところで、答えは変わらないだろう。
 十六年間、何も見つからなかったのだから。
 僕はノートを閉じ、机の引き出しにしまった。
 明日も学校がある。
 授業を受けて、友達と話して、家に帰る。
 いつもと同じ日常が続いていく。
 そのはずだった。
 このときの僕は、まだ知らなかった。
 自分が抱いた小さな疑問が、やがて、この国の根幹を揺るがすことになるのを。
 そして、人生書を持たないということが、単に未来を知らないというだけではないのかもしれない、ということを。
 僕は、いつものように明日の準備をして、ベッドに入った。
 人生書のない人生。
 それは、不確かで、不便で、ときには不安なものだ。
 けれど、まだ何も決まっていないということは、何だって選べるということでもある。
 少なくとも、今の僕はそう信じていた。
 エルセア王国の夜は、静かに更けていく。
 人々はそれぞれの家で、人生書に記された明日を信じながら眠りにつく。
 僕だけが、自分の明日を知らないまま。
 それでも、明日が来ることを疑ってはいなかった。
 ——その日常が、いつまでも続くとは限らないことも知らずに。