エルセア王国の朝は、いつも同じ鐘の音から始まる。
午前七時。
王都の中心にそびえる時計塔から鐘の音が響き渡り、それを合図に、街のあちこちで人々が動き始める。
パン屋の店主は焼きたてのパンを店先に並べ、商人たちは荷車を引いて大通りを進む。学校へ向かう子どもたちは、石畳の道を友達と並んで歩いていく。
白い石造りの建物が立ち並ぶ街並みは、朝日を浴びて明るく輝いていた。
そんな見慣れた光景を、僕は自室の窓から眺めていた。
「……今日も平和だな」
誰にも聞かれないくせにやけに大きな声で呟いてから、机の上に目を落とした。
開きっぱなしの教科書。使いかけのインク瓶。書きかけの課題。そして、その横に置かれた一冊のノート。
どこにでもある、ごく普通の学生の机だ。
ただ一つ……。
他の人とは違うことがあるとすれば、僕の机には人生書がないことくらいだろう。
この国では、人は生まれた瞬間から自分の人生を記された本を持っている。
将来の進路も、出会う人も、人生の大きな出来事も、その本に書かれている。
けれど僕の人生書だけは、どこにも見つかっていなかった。
生まれてから早十五年。
両親は何度も中央記録院に問い合わせたらしいが、返ってくる答えはいつも同じだったという。
——リツ·アステリオンの人生書は、登録されておりません。
その言葉を初めて聞いたとき、僕はまだ幼かった。
人生書がないと、どうなるのだろう。
そんな疑問を抱いたことは覚えている。
けれど、今ではもう、気にすることも少なくなっていた。
人生書がなくても、学校には通えるし、友達だっている。毎日ご飯を食べて、眠って、朝になれば目を覚ます。
普通の人と何ら変わらない。少なくとも、僕の日常はそうだった。
「リツー! いつまで部屋にいるの! 遅刻するわよ!」
階下から母さんの声が飛んできた。
「今行く!」
僕はノートを閉じ、鞄を肩にかけてから、部屋を後にした。
食卓には、焼きたてのパンと目玉焼き、それから湯気の立つスープが並んでいた。
「おはよう、リツ」
「おはよう」
父さんが新聞を畳み、僕に目を向ける。
「学校の課題は終わったのか?」
「昨日終わらせたよ」
「そうか。ならいい」
父さんは満足そうに頷き、再び新聞に目を落とした。
母さんは紅茶をカップに注ぎながら、壁に掛けられた暦を見上げていた。
「そういえば、もうすぐ十六歳になるのね」
「うん」
「時間が経つのは早いわね。ついこの間まで、あんなに小さかったのに」
母さんは懐かしそうに笑った。
僕はパンをちぎりながら、何気なく尋ねた。
「十六歳って、そんなに大きな節目なの?」
「もちろんよ。この国では、十六歳になると人生書の公開範囲が広がるでしょう?」
「まあ、そうだね」
「将来について、今までより詳しいことがわかるようになるの。みんな、その日を楽しみにしているものよ」
母さんはそう言ってから、僕の顔を見た。
はっとした後、ほんの少し、表情が曇る。
僕はその変化に気づかないふりをした。
「まあ、僕には関係ないけど」
「リツ……」
「だって、僕の人生書はないんだから」
できるだけ明るい声で言ったつもりだった。でも、顔は引きつってしまっていたんだろう。
母さんは何か言いかけて、結局、口を閉じた。
横から父さんが新聞を置いてこっちに来た。
「まあ、焦ることはないさ。人生書がなくても、お前の人生がなくなるわけじゃない。だろ?リディア」
「そうそう。父さんの言うとおりよ」
父さんは僕の頭を優しく撫でてくれた。その優しさを受けて僕は笑った。
「僕は僕なりにやっていくよ」
それ以上、人生書の話は続かなかった。
食事を終え、家を出る。
玄関の扉を閉める直前、ふと振り返ると、母さんがこちらを見ていた。
何かを心配しているような顔だった。
けれど、僕が見返すと、いつもの笑顔に戻った。
気のせいだろう。
そう思って、僕は学校へ向かった。
学校へ続く大通りは、朝から多くの人で賑わっていた。
道沿いには商店が並び、広場の噴水では子どもたちが水を跳ねさせて遊んでいる。広場の中央には、この国の建国者とされる女性の像が立っていた。
片手に一冊の本を持ち、もう片方の手を空へ伸ばした姿。
台座には、建国以来、この国で語り継がれてきた言葉が刻まれている。
『人生を知る者は、人生に迷わない』
僕はその言葉を見上げた。
小さい頃から、何度も聞かされてきた言葉だ。
人生書があれば、進むべき道がわかる。
自分に向いている仕事も、幸せになれる選択も、何もかもをあらかじめ知ることができる。
だから人々は、本に記された人生を信じている。
それは、この国では当たり前のことだった。
「おーい、リツ!」
後ろから声がした。振り返ると、カイルがこちらに手を振りながら駆け寄ってきた。
「おはよー!何してんだよ、こんなところで」
「別に。ちょっと像を見てただけ」
「また難しいこと考えてんのか?」
「考えてないよ」
「本当かよ」
カイルは笑いながら、僕の隣に並んだ。
彼はカイル·ノクティス。同じクラスの友人で、昔から人生書の話が好きな奴だ。
自分の将来についても、俺によく話してくれる。
「そういえばさ、昨日、人生書を読み返したんだよ」
「また?」
「またって何だよ。大事なことだろ」
カイルは肩にかけた鞄から、青い表紙の本を取り出した。
「俺、将来は王都の魔法研究所に進むことになってるんだけど、そこに至るまでの記述が少しずつ公開されてるんだ。今から準備しておけば、きっと役に立つと思ってさ」
「へえ。すごいな」
「だろ? 人生書があれば、何をすればいいか迷わなくて済むんだよ」
そう言って彼は本を大切そうに鞄へ戻した。
「リツも、もし人生書が見つかったら、絶対すぐに読んだほうがいいぞ」
「見つかったらね」
「まあ、そうだけどさ……」
カイルは少しだけ言葉を濁した。
僕の人生書が存在しないことは、彼も知っている。
だから、気まずそうな顔をすることもあった。
けれど、それに僕はもう慣れていた。
「気にしなくていいよ。僕は僕で、なんとかするから」
「……お前って、意外と前向きだよな」
「そうかな」
「そうだよ。俺だったら、自分の未来がわからないなんて不安で仕方ないけどな」
カイルはそう言って、いつものように笑った。
僕たちは並んで歩き始めた。
広場を抜け、学校へ続く坂道を上っていく。
道の先には、白い壁と青い屋根が特徴的な校舎が見えていた。
今日も、この学校での1日が始まる。
午前七時。
王都の中心にそびえる時計塔から鐘の音が響き渡り、それを合図に、街のあちこちで人々が動き始める。
パン屋の店主は焼きたてのパンを店先に並べ、商人たちは荷車を引いて大通りを進む。学校へ向かう子どもたちは、石畳の道を友達と並んで歩いていく。
白い石造りの建物が立ち並ぶ街並みは、朝日を浴びて明るく輝いていた。
そんな見慣れた光景を、僕は自室の窓から眺めていた。
「……今日も平和だな」
誰にも聞かれないくせにやけに大きな声で呟いてから、机の上に目を落とした。
開きっぱなしの教科書。使いかけのインク瓶。書きかけの課題。そして、その横に置かれた一冊のノート。
どこにでもある、ごく普通の学生の机だ。
ただ一つ……。
他の人とは違うことがあるとすれば、僕の机には人生書がないことくらいだろう。
この国では、人は生まれた瞬間から自分の人生を記された本を持っている。
将来の進路も、出会う人も、人生の大きな出来事も、その本に書かれている。
けれど僕の人生書だけは、どこにも見つかっていなかった。
生まれてから早十五年。
両親は何度も中央記録院に問い合わせたらしいが、返ってくる答えはいつも同じだったという。
——リツ·アステリオンの人生書は、登録されておりません。
その言葉を初めて聞いたとき、僕はまだ幼かった。
人生書がないと、どうなるのだろう。
そんな疑問を抱いたことは覚えている。
けれど、今ではもう、気にすることも少なくなっていた。
人生書がなくても、学校には通えるし、友達だっている。毎日ご飯を食べて、眠って、朝になれば目を覚ます。
普通の人と何ら変わらない。少なくとも、僕の日常はそうだった。
「リツー! いつまで部屋にいるの! 遅刻するわよ!」
階下から母さんの声が飛んできた。
「今行く!」
僕はノートを閉じ、鞄を肩にかけてから、部屋を後にした。
食卓には、焼きたてのパンと目玉焼き、それから湯気の立つスープが並んでいた。
「おはよう、リツ」
「おはよう」
父さんが新聞を畳み、僕に目を向ける。
「学校の課題は終わったのか?」
「昨日終わらせたよ」
「そうか。ならいい」
父さんは満足そうに頷き、再び新聞に目を落とした。
母さんは紅茶をカップに注ぎながら、壁に掛けられた暦を見上げていた。
「そういえば、もうすぐ十六歳になるのね」
「うん」
「時間が経つのは早いわね。ついこの間まで、あんなに小さかったのに」
母さんは懐かしそうに笑った。
僕はパンをちぎりながら、何気なく尋ねた。
「十六歳って、そんなに大きな節目なの?」
「もちろんよ。この国では、十六歳になると人生書の公開範囲が広がるでしょう?」
「まあ、そうだね」
「将来について、今までより詳しいことがわかるようになるの。みんな、その日を楽しみにしているものよ」
母さんはそう言ってから、僕の顔を見た。
はっとした後、ほんの少し、表情が曇る。
僕はその変化に気づかないふりをした。
「まあ、僕には関係ないけど」
「リツ……」
「だって、僕の人生書はないんだから」
できるだけ明るい声で言ったつもりだった。でも、顔は引きつってしまっていたんだろう。
母さんは何か言いかけて、結局、口を閉じた。
横から父さんが新聞を置いてこっちに来た。
「まあ、焦ることはないさ。人生書がなくても、お前の人生がなくなるわけじゃない。だろ?リディア」
「そうそう。父さんの言うとおりよ」
父さんは僕の頭を優しく撫でてくれた。その優しさを受けて僕は笑った。
「僕は僕なりにやっていくよ」
それ以上、人生書の話は続かなかった。
食事を終え、家を出る。
玄関の扉を閉める直前、ふと振り返ると、母さんがこちらを見ていた。
何かを心配しているような顔だった。
けれど、僕が見返すと、いつもの笑顔に戻った。
気のせいだろう。
そう思って、僕は学校へ向かった。
学校へ続く大通りは、朝から多くの人で賑わっていた。
道沿いには商店が並び、広場の噴水では子どもたちが水を跳ねさせて遊んでいる。広場の中央には、この国の建国者とされる女性の像が立っていた。
片手に一冊の本を持ち、もう片方の手を空へ伸ばした姿。
台座には、建国以来、この国で語り継がれてきた言葉が刻まれている。
『人生を知る者は、人生に迷わない』
僕はその言葉を見上げた。
小さい頃から、何度も聞かされてきた言葉だ。
人生書があれば、進むべき道がわかる。
自分に向いている仕事も、幸せになれる選択も、何もかもをあらかじめ知ることができる。
だから人々は、本に記された人生を信じている。
それは、この国では当たり前のことだった。
「おーい、リツ!」
後ろから声がした。振り返ると、カイルがこちらに手を振りながら駆け寄ってきた。
「おはよー!何してんだよ、こんなところで」
「別に。ちょっと像を見てただけ」
「また難しいこと考えてんのか?」
「考えてないよ」
「本当かよ」
カイルは笑いながら、僕の隣に並んだ。
彼はカイル·ノクティス。同じクラスの友人で、昔から人生書の話が好きな奴だ。
自分の将来についても、俺によく話してくれる。
「そういえばさ、昨日、人生書を読み返したんだよ」
「また?」
「またって何だよ。大事なことだろ」
カイルは肩にかけた鞄から、青い表紙の本を取り出した。
「俺、将来は王都の魔法研究所に進むことになってるんだけど、そこに至るまでの記述が少しずつ公開されてるんだ。今から準備しておけば、きっと役に立つと思ってさ」
「へえ。すごいな」
「だろ? 人生書があれば、何をすればいいか迷わなくて済むんだよ」
そう言って彼は本を大切そうに鞄へ戻した。
「リツも、もし人生書が見つかったら、絶対すぐに読んだほうがいいぞ」
「見つかったらね」
「まあ、そうだけどさ……」
カイルは少しだけ言葉を濁した。
僕の人生書が存在しないことは、彼も知っている。
だから、気まずそうな顔をすることもあった。
けれど、それに僕はもう慣れていた。
「気にしなくていいよ。僕は僕で、なんとかするから」
「……お前って、意外と前向きだよな」
「そうかな」
「そうだよ。俺だったら、自分の未来がわからないなんて不安で仕方ないけどな」
カイルはそう言って、いつものように笑った。
僕たちは並んで歩き始めた。
広場を抜け、学校へ続く坂道を上っていく。
道の先には、白い壁と青い屋根が特徴的な校舎が見えていた。
今日も、この学校での1日が始まる。



