39対2の宇宙

 午前八時十五分。
 美桜と詩織は、昇降口の前で待ち合わせていた。
 二人の視線が交わる。言葉はなかった。美桜は制服のポケットの中で、昨日詩織から貰った半透明の青いプラスチックの破片を、お守りのように強く握りしめていた。硬くて、少し尖ったその感触が、美桜の指先に「私は一人じゃない」という確かな事実を教えてくれる。
「行こう」
 美桜の言葉に、詩織が小さく、けれど深く頷いた。
 二人が並んで階段を上り、二年の廊下を進む。すれ違う他クラスの生徒たちが、ヒソヒソと囁き声を交わすのが分かった。あの動画と、美桜のグループLIME退会事件は、すでに学年中の格好のゴシップに消化されているのだろう。
 二組の教室のドアの前に立つ。美桜は一度、肺の空気をすべて吐き出し、ドアノブに手をかけた。
 ガラリ、と音を立ててドアを開ける。
 瞬間、教室のすべての音が、凍りついたように消え去った。
 三十九対、二。
 圧倒的な数の重力が、教室内を満たしていた。
 教壇の近くにいた亜蘭は、ニヤニヤとした笑みを浮かべ、椅子の背もたれに深く寄りかかっている。その隣では、取り巻きたちも面白そうに二人を見ていた。
 美桜は、自分の席へと歩き出した。その後ろを、詩織が静かに追う。
 カーストの中位に位置するかつての「友人」たちの前を通り過ぎるとき、彼女たちは一斉に視線をスマホの画面や教科書へと落とした。誰も、美桜と目を合わせようとしない。昨日まで一緒にスタバの新作の話をしていたはずの教室は、今や完全に美桜たちを「透明人間」として処理していた。
 美桜の斜め後ろ。あゆみの席の前を通りかかる。
 あゆみは、机の上に広げたノートをじっと見つめたまま、微動だにしなかった。シャーペンを握る指先が、白くなるほど強張っている。彼女は生き残るために美桜を裏切り、マジョリティの側に擬態した。その代償として、彼女は今、美桜の顔を見る自由すら失っているのだ。
 美桜と詩織は、それぞれの席についた。
 隣り合う二つの席だけが、教室の中でぽっかりと浮いた孤島のように見えた。
「おい、橋倉ー」
 後ろの席から、亜蘭の小馬鹿にしたような声が飛んだ。
「今日から放課後ボランティア、復活ですか? 今日は何拾うの? 空き缶? それとも呪いの藁人形の続き?」
 取り巻きの男子たちが、ドッと下品な笑い声を上げる。
 美桜は思わず立ち上がりそうになった。ポケットの中の青い破片が、指に食い込む。
 だが、そのとき。
 隣の席の詩織が、机の中から一冊のノートを取り出した。それは、彼女が拾い集めたプラスチックやゴミの写真を貼り付け、それぞれの「拾った場所」や「色の名前」を丁寧に書き留めた、世界に一冊だけの図鑑だった。
 詩織は、亜蘭の方を振り返りもしなかった。ただ、そのノートを机の上に堂々と広げ、静かにページをめくり始めた。
 その横顔には、怯えも、怒りも、媚びもなかった。ただ、自分の愛する美しい世界を、自分の手で守り続けるという、絶対的な自負だけがあった。
 美桜は、ハッとした。
 そうだ。言い返す必要なんてない。
 詩織は最初から、そんな歪んだルールの外にいた。
 三十九人が何を言おうと、彼女の星屑の美しさは変わらない。
 美桜は深く息を吸い、椅子に腰を下ろした。そして、バッグから教科書を取り出し、詩織と同じように、前だけを向いた。
 反応が返ってこないまま、亜蘭たちの笑い声は少しずつ小さくなり、やがて途切れた。
         ☆
 昼休みになっても、奇跡は起きなかった。
 流されていた「三十九人」の誰かが、ドラマのように「藤沢くん、もうやめなよ」と言い出すこともなかった。みんな、自分の平穏が一番大切だからだ。あゆみは別の女子グループの輪の中で、引きつった笑顔を浮かべながら、必死にマジョリティの会話に相槌を打ち続けていた。
 教室の空気は、何も変わらない。
 けれど、美桜の心の中は、驚くほど穏やかだった。
 美桜と詩織は、それぞれの机を向かい合わせることはしなかった。ただ、自分の席に座ったまま、お互いがお弁当を食べる。
 時折、詩織がふと美桜の方を見て、小さく微笑む。美桜もそれに応えて微笑む。
 たったそれだけのこと。けれど、その二人の間に流れる空気だけは、あの悍ましいLIMEの通知音からも、亜蘭の冷笑からも、あゆみの醜い保身からも、完全に隔離された、透明で美しい宇宙だった。
 大人になるための正解が、「多数派に紛れて、誰かを傷つける刃に同調すること」なのだとしたら。
 美桜は、そんな正解なんて糞食らえだ、と思った。
 たとえ三十九人に無視されようとも、私は、目の前の理不尽に「NO」と言った。そして、詩織の美しい世界を知った。

 窓の外から、秋の乾いた風が吹き込み、詩織の髪を揺らした。
 十七歳の教室。そこは世界のすべてに見えて、本当はただの、ちっぽけなプラスチックの箱に過ぎない。
 美桜はポケットの中の青い破片をそっと取り出し、窓からの光に透かしてみた。
 教室の誰も見向きもしないその欠片は今、何よりも眩しく二人の手元で輝いていた。
(終)