橋倉詩織、十七歳。高校二年の秋。
詩織の部屋の机の上には、百円ショップで買った透明なプラスチックのケースが整然と並んでいる。
ケースの中には、色とりどりの小さな破片が、グラデーションをなすように美しく分類されていた。
青いペットボトルのキャップ、赤や黄色のプラスチックのバリ、使い古されて丸くなった消しゴムの角、誰かが落としたシャープペンの芯のケース、ちぎれた輪ゴム。
大人や、クラスの「まともな」人たちから見れば、それはただの『ゴミ』だ。
けれど、窓から差し込む秋の斜光を浴びたそれらは、詩織の目には、夜空に散らばる星屑の欠片のように輝いて見えた。
詩織は、物心ついたときから言葉を出すのが苦手だった。
頭の中にはたくさんの感情や景色があるのに、それを喉の奥から引っ張り出そうとすると、いつも途中でつっかえて、ただの「……あ」という奇妙な音になってしまう。小学校でも中学校でも、そして今の高校でも、詩織は「何を考えているか分からない、暗い子」として、教室の隅の風景と同化してきた。
そんな詩織にとって、学校の敷地内に落ちている小さなゴミを拾い集めることは、唯一の呼吸の方法だった。
人が使い古し、不要として手放したモノたち。教室の隅や、誰も通らない裏廊下に打ち捨てられた、色のついたプラスチック。それらはまるで、この教室における自分自身の抜け殻のようだった。
「大丈夫だよ」
声には出さない。けれど、指先でその汚れを拭き取り、小さなビニール袋に収めるとき、詩織は確かに彼らと、そして自分自身と繋がることができた。家に持ち帰り、きれいに洗ってケースに並べると、教室での息苦しさが少しだけ和らぐ気がした。
だから、あの日の放課後、物理準備室の裏でペットボトルのキャップを拾ったときも、詩織はただ純粋に嬉しかったのだ。
まさかそれを、物陰からスマートフォンで盗撮されているなんて、一ミリも気づいていなかった。
スマートフォンを持っていない詩織が、その『動画』の存在を知ったのは、翌日の朝、母親のスマホに学校の担任から連絡が入ったからだった。
「橋倉さんが放課後の校内にいるところを撮影した動画が、クラスのLIMEに流れていると、他の保護者から連絡がありまして……」
担任の困惑した声。母親の、なじるような、そして憐れむような視線。
詩織はそれ以上何も聞きたくなくて、自分の部屋のベッドにもぐり込み、毛布を頭から被った。
学校に行きたくない、と思ったのではない。
ただ、自分の大切な、誰にも迷惑をかけていない聖域を、土足で踏み荒らされ、クラス全員の『お笑い草』にされてしまったことが、ただただ悲しかった。液晶画面の向こうで、何十人もの同級生たちが自分を見て、笑い、気味悪がっている。その想像だけで、皮膚が粟立ち、息ができなくなった。
結局、詩織は学校を休んだ。
二日目の午後。部屋でじっとプラスチックのケースを眺めていたとき、インターホンが鳴った。
母親はパートで留守だ。詩織は恐る恐る玄関に行き、覗き穴を覗いた。
心臓がドクリと跳ねた。
そこに立っていたのは、同じクラスの美桜だった。
美桜は、クラスの「真ん中」にいる人だ。詩織のように無視されているわけでもなく、亜蘭くんたちのように目立つわけでもない。いつも誰かと普通に笑っている、詩織にとっては「遠い世界の住人」だった。
なぜ、彼女がここにいるのだろう。亜蘭くんに言われて、様子を隠し撮りしに来たのだろうか。
居留守を使おうとしたとき、ドアの向こうから、美桜の小さな、けれど固い声が聞こえてきた。
「橋倉さん……いる? 押し売りとかじゃないから、一瞬だけ、ドア開けてくれないかな」
その声には、妙な緊迫感と、隠しきれない「怯え」が混ざっていた。
詩織は迷った末に、チェーンをかけたまま、数センチだけドアを開けた。
「……なにか」
かすれた声を絞り出す。
隙間から見えた美桜の顔は、驚くほどボロボロだった。目の下に濃いクマがあり、制服のネクタイも少し曲がっている。美桜は詩織の顔を見ると、ホッとしたように眉を下げ、それから深く頭を下げた。
「ごめんなさい。……昨日の動画のこと。私、LIMEで何も言えなくて。結局、あいつらに直接やめろとも言えないまま、グループを退会しちゃって、それで……」
美桜の言葉は、支離滅裂だった。けれど、彼女が必死に何かを伝えようとしていることだけは分かった。
「私、今、クラスで完全に無視されてるの。誰も話しかけてくれないし、バイ菌みたいに扱われてる。……千賀さんにも、裏切られちゃって」
美桜の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。彼女は制服の袖でそれを乱暴に拭いながら、続けた。
「でも、どうしても橋倉さんに謝りたくて。橋倉さんは何も悪くないのに。あいつらが、藤沢たちが狂ってるだけなのに、誰もそれを言わないの。それが悔しくて……私、学校の帰りに、気づいたら橋倉さんの家に向かってた。前にクラスのプリントを届けたことがあったから、場所だけは覚えてて」
詩織は、目を見開いた。
この人は、私のために、あの教室の化け物みたいな『空気』に立ち向かって、そして、負けたのだ。一人で戦って、傷ついて、ここまで来たのだ。
詩織はそっとチェーンを外し、ドアを大きく開いた。
「……入って」
詩織の部屋に入った美桜は、机の上に並ぶプラスチックのケースを見て、息を呑んだ。
「これ……」
「……ゴミ、だけど」
詩織は俯きながら言った。
「不気味、だよね」
「ううん」
美桜はすぐに首を振った。そしてケースに近づき、じっとそれらを見つめた。
「すごく綺麗。……なんか、モザイク画みたい。橋倉さんは、これが好きだったんだね」
「……うん」
「そっか。ただそれだけのことなのにね」
美桜は畳の上に座り込み、膝を抱えた。
「たったそれだけのことなのに、なんであの教室に入ると、みんなあんなに冷酷になれるんだろう。千賀さんだって、普段はすごく優しい子なんだよ。なのに、藤沢くんに『新渡戸が大袈裟なんだ』って言われて、私のこと、裏切ったの」
美桜の言葉を聞きながら、詩織は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
自分の収集癖を「綺麗」だと言ってくれた人は、生まれて初めてだった。それだけで、あの動画によって汚された自分の世界が、一瞬で修復されていくような気がした。
「新渡戸さん」
詩織は、机の上から一番小さくて綺麗な、青い半透明のプラスチックの破片を取った。それは、いつか理科室の裏で拾った、何かの実験器具の破片のようだった。
それを美桜の手のひらに握らせる。
「……私、明日、学校に行く」
「えっ!? でも、行ったら絶対に藤沢くんたちが……」
「大丈夫」
詩織はそう言って、美桜の目をまっすぐ見つめた。言葉はうまく出ない。けれど、心の中の形は今までで一番はっきりとしていた。
「新渡戸さんは、一人じゃない。私も、隣にいる」
美桜は、握らされた青い破片を見つめ、それから再び涙を流した。けれど、今度の涙は、昨夜の暗闇の中で流した絶望の涙とは、まったく違う色をしていた。
十七歳の二人が、小さな部屋で一つの決意を共有していた。
社会の縮図のような教室の、歪んだ『正解』。それに押しつぶされるがままにはならないという、静かな、けれど確かな反逆の火種が、そこに灯ろうとしていた。
詩織の部屋の机の上には、百円ショップで買った透明なプラスチックのケースが整然と並んでいる。
ケースの中には、色とりどりの小さな破片が、グラデーションをなすように美しく分類されていた。
青いペットボトルのキャップ、赤や黄色のプラスチックのバリ、使い古されて丸くなった消しゴムの角、誰かが落としたシャープペンの芯のケース、ちぎれた輪ゴム。
大人や、クラスの「まともな」人たちから見れば、それはただの『ゴミ』だ。
けれど、窓から差し込む秋の斜光を浴びたそれらは、詩織の目には、夜空に散らばる星屑の欠片のように輝いて見えた。
詩織は、物心ついたときから言葉を出すのが苦手だった。
頭の中にはたくさんの感情や景色があるのに、それを喉の奥から引っ張り出そうとすると、いつも途中でつっかえて、ただの「……あ」という奇妙な音になってしまう。小学校でも中学校でも、そして今の高校でも、詩織は「何を考えているか分からない、暗い子」として、教室の隅の風景と同化してきた。
そんな詩織にとって、学校の敷地内に落ちている小さなゴミを拾い集めることは、唯一の呼吸の方法だった。
人が使い古し、不要として手放したモノたち。教室の隅や、誰も通らない裏廊下に打ち捨てられた、色のついたプラスチック。それらはまるで、この教室における自分自身の抜け殻のようだった。
「大丈夫だよ」
声には出さない。けれど、指先でその汚れを拭き取り、小さなビニール袋に収めるとき、詩織は確かに彼らと、そして自分自身と繋がることができた。家に持ち帰り、きれいに洗ってケースに並べると、教室での息苦しさが少しだけ和らぐ気がした。
だから、あの日の放課後、物理準備室の裏でペットボトルのキャップを拾ったときも、詩織はただ純粋に嬉しかったのだ。
まさかそれを、物陰からスマートフォンで盗撮されているなんて、一ミリも気づいていなかった。
スマートフォンを持っていない詩織が、その『動画』の存在を知ったのは、翌日の朝、母親のスマホに学校の担任から連絡が入ったからだった。
「橋倉さんが放課後の校内にいるところを撮影した動画が、クラスのLIMEに流れていると、他の保護者から連絡がありまして……」
担任の困惑した声。母親の、なじるような、そして憐れむような視線。
詩織はそれ以上何も聞きたくなくて、自分の部屋のベッドにもぐり込み、毛布を頭から被った。
学校に行きたくない、と思ったのではない。
ただ、自分の大切な、誰にも迷惑をかけていない聖域を、土足で踏み荒らされ、クラス全員の『お笑い草』にされてしまったことが、ただただ悲しかった。液晶画面の向こうで、何十人もの同級生たちが自分を見て、笑い、気味悪がっている。その想像だけで、皮膚が粟立ち、息ができなくなった。
結局、詩織は学校を休んだ。
二日目の午後。部屋でじっとプラスチックのケースを眺めていたとき、インターホンが鳴った。
母親はパートで留守だ。詩織は恐る恐る玄関に行き、覗き穴を覗いた。
心臓がドクリと跳ねた。
そこに立っていたのは、同じクラスの美桜だった。
美桜は、クラスの「真ん中」にいる人だ。詩織のように無視されているわけでもなく、亜蘭くんたちのように目立つわけでもない。いつも誰かと普通に笑っている、詩織にとっては「遠い世界の住人」だった。
なぜ、彼女がここにいるのだろう。亜蘭くんに言われて、様子を隠し撮りしに来たのだろうか。
居留守を使おうとしたとき、ドアの向こうから、美桜の小さな、けれど固い声が聞こえてきた。
「橋倉さん……いる? 押し売りとかじゃないから、一瞬だけ、ドア開けてくれないかな」
その声には、妙な緊迫感と、隠しきれない「怯え」が混ざっていた。
詩織は迷った末に、チェーンをかけたまま、数センチだけドアを開けた。
「……なにか」
かすれた声を絞り出す。
隙間から見えた美桜の顔は、驚くほどボロボロだった。目の下に濃いクマがあり、制服のネクタイも少し曲がっている。美桜は詩織の顔を見ると、ホッとしたように眉を下げ、それから深く頭を下げた。
「ごめんなさい。……昨日の動画のこと。私、LIMEで何も言えなくて。結局、あいつらに直接やめろとも言えないまま、グループを退会しちゃって、それで……」
美桜の言葉は、支離滅裂だった。けれど、彼女が必死に何かを伝えようとしていることだけは分かった。
「私、今、クラスで完全に無視されてるの。誰も話しかけてくれないし、バイ菌みたいに扱われてる。……千賀さんにも、裏切られちゃって」
美桜の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。彼女は制服の袖でそれを乱暴に拭いながら、続けた。
「でも、どうしても橋倉さんに謝りたくて。橋倉さんは何も悪くないのに。あいつらが、藤沢たちが狂ってるだけなのに、誰もそれを言わないの。それが悔しくて……私、学校の帰りに、気づいたら橋倉さんの家に向かってた。前にクラスのプリントを届けたことがあったから、場所だけは覚えてて」
詩織は、目を見開いた。
この人は、私のために、あの教室の化け物みたいな『空気』に立ち向かって、そして、負けたのだ。一人で戦って、傷ついて、ここまで来たのだ。
詩織はそっとチェーンを外し、ドアを大きく開いた。
「……入って」
詩織の部屋に入った美桜は、机の上に並ぶプラスチックのケースを見て、息を呑んだ。
「これ……」
「……ゴミ、だけど」
詩織は俯きながら言った。
「不気味、だよね」
「ううん」
美桜はすぐに首を振った。そしてケースに近づき、じっとそれらを見つめた。
「すごく綺麗。……なんか、モザイク画みたい。橋倉さんは、これが好きだったんだね」
「……うん」
「そっか。ただそれだけのことなのにね」
美桜は畳の上に座り込み、膝を抱えた。
「たったそれだけのことなのに、なんであの教室に入ると、みんなあんなに冷酷になれるんだろう。千賀さんだって、普段はすごく優しい子なんだよ。なのに、藤沢くんに『新渡戸が大袈裟なんだ』って言われて、私のこと、裏切ったの」
美桜の言葉を聞きながら、詩織は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
自分の収集癖を「綺麗」だと言ってくれた人は、生まれて初めてだった。それだけで、あの動画によって汚された自分の世界が、一瞬で修復されていくような気がした。
「新渡戸さん」
詩織は、机の上から一番小さくて綺麗な、青い半透明のプラスチックの破片を取った。それは、いつか理科室の裏で拾った、何かの実験器具の破片のようだった。
それを美桜の手のひらに握らせる。
「……私、明日、学校に行く」
「えっ!? でも、行ったら絶対に藤沢くんたちが……」
「大丈夫」
詩織はそう言って、美桜の目をまっすぐ見つめた。言葉はうまく出ない。けれど、心の中の形は今までで一番はっきりとしていた。
「新渡戸さんは、一人じゃない。私も、隣にいる」
美桜は、握らされた青い破片を見つめ、それから再び涙を流した。けれど、今度の涙は、昨夜の暗闇の中で流した絶望の涙とは、まったく違う色をしていた。
十七歳の二人が、小さな部屋で一つの決意を共有していた。
社会の縮図のような教室の、歪んだ『正解』。それに押しつぶされるがままにはならないという、静かな、けれど確かな反逆の火種が、そこに灯ろうとしていた。



