39対2の宇宙

 午前七時三十五分。
 千賀あゆみ、十七歳。高校二年の朝。
 洗面所の鏡の前で、あゆみは入念に前髪の束をヘアアイロンで挟んでいた。ミリ単位のズレも許さない。17歳の女子高生にとって、前髪のコンディションはその日の自尊心のすべてを左右する。
 だが今朝のあゆみの手元は、わずかに、本当にわずかに震えていた。
「……よし。完璧」
 鏡の中の自分に向かって、無理やり笑顔を作る。いつも通りの、無害で、明るくて、どこにでもいる「普通の女子高生」の顔だ。
 スカートのポケットの中で、スマホが短いバイブレーションを返した。取り出すまでもない。昨夜から、クラスのグループLIMEの通知は一睡もしていないかのように動き続けている。
【藤沢亜蘭:てか新渡戸、マジでウケるんだけど。あいつ今頃どんな顔してんのかな】
【取り巻きA:学校来るかな? メンタル持つといいけど笑】
【取り巻きB:あゆみちゃん、昨日マジでナイスだったわー。新渡戸の暴走止めてくれてありがと!】
 あゆみは画面をスクロールし、自分が昨夜送った最後のスタンプを眺めた。
 ウサギが冷や汗をかきながら「それな」と書かれたプラカードを掲げているスタンプ。
 心臓の奥が、ちりちりと自虐的な熱を帯びる。
(私は、悪くない)
 あゆみは自分に言い聞かせるように、強くスマホの電源ボタンを押した。
 昨夜、新渡戸美桜から「一緒にグループLIMEを退会しよう」と言われたとき、あゆみは本当に生きた心地がしなかった。美桜の言っていることは、教科書的に言えば100%正しかった。橋倉さんを盗撮した動画で盛り上がるなんて最低だし、いじめに加担するのも間違っている。
 けれど、美桜の提案はあまりにも幼稚で、あまりにも致命的だった。
 二人同時に退会すれば、亜蘭が怯む? クラスの空気が変わる?
 そんなわけがない。あゆみは、この教室では数の暴力が絶対だと知っていた。
 美桜は「自分の誇りを守るために」と言った。
 綺麗事だ、とあゆみは思った。誇りでご飯が食べられるだろうか。誇りがあれば、明日からの孤独な学校生活を耐えられるだろうか。昼休みに一人で便所に籠ってお弁当を食べる地獄から、その誇りとやらは救ってくれるのだろうか。
 あゆみには、絶対に失いたくないものがあった。
 今のグループ。一緒に学食へ行き、週末にスタバの新作を飲みに行き、他校の男子の噂話をする、あの「普通に楽しい時間」。それを維持するためには、教室の「空気」という透明な神様に、毎日少しずつの生贄を捧げなければならない。昨夜の生贄は詩織だった。そして、美桜は自ら生贄の台座に登っていったのだ。
 あゆみは美桜をハメたつもりはなかった。ただ、美桜がカウントダウンを始めた瞬間に、強烈な生存本能が働いたのだ。
『美桜ちゃんが退会しました』というシステム文字が画面に浮かんだ瞬間、あゆみは恐怖で指が凍りついた。そして同時に、頭のどこかで信じられないほど冷徹な計算が弾き出された。
(今、私が美桜に追従して退会すれば、私も一緒に死ぬ。でも、今ここで私が亜蘭たちの側に回れば、私は『裏切り者の美桜を拒絶した、従順な身内』として、カーストの安全圏に永住できる)
 あゆみは退会ボタンではなく、亜蘭への同調スタンプを押した。
 それが、千賀あゆみにとっての「正解」だった。
 
 午前八時十五分。
 教室のドアを開けるとき、あゆみは肺の空気をすべて入れ替えるように深く息を吸った。
「おはよー!」
 できるだけ高いトーンで声を出す。いつも一緒にいる女子グループの席へ向かう。
「あ、あゆみ! おはよー!」
 リーダー格の女子が、ニヤニヤしながらスマホを見せてきた。
「昨日、マジでウケたよね。新渡戸、何熱くなってんのって感じ。あゆみも巻き込まれそうになって大変だったじゃん」
「あはは……うん、ちょっとびっくりしちゃって」
 あゆみは愛想笑いの仮面を貼り付けた。
「新渡戸、いつも大人しいくせに、急に正義の味方にでもなったつもりなのかな。橋倉の肩持つとか、マジで意味わかんない」
「ねー。空気読めないよね」
 あゆみも、周囲に合わせて笑った。
 言葉が口から出るたびに、胸の奥の澱(おり)が重くなっていく。けれど、周囲の女子たちの笑顔を見るたびに、ホッとしている自分もいた。私は間違っていない。私はここにいていいんだ。
 そのとき、教室の前のドアがガラリと開いた。
 一瞬で、教室の喧騒が不自然に一段階、ボリュームを下げた。
 美桜だった。彼女はいつも通りの硬い表情のまま、まっすぐ自分の席へと歩いていく。視線は床に落とされたままで、誰とも目を合わせようとしない。
 あゆみの心臓が、痛いほど跳ね上がった。美桜の席は、あゆみの斜め前だ。美桜が席につき、スクールバッグを机のフックにかける一連の動作を、あゆみは盗み見るように凝視した。
 美桜の横顔は、信じられないほど凛としていた。
 怯えているのは間違いなかった。指先が微かに震えているのも見えた。けれど、彼女の瞳には、昨夜あゆみを誘ったときと同じ、奇妙に澄んだ「光」がまだ残っていた。
 それは、周囲に媚びを売って生き延びたあゆみには、逆立ちしても手に入らない、圧倒的な「潔白さ」だった。
 その光が、あゆみの胸を猛烈に焦がした。不快だった。醜い嫉妬と自己嫌悪が混ざり合い、美桜の存在そのものを否定したくなる。
(何よ、そんな被害者みたいな顔して。勝手に自爆したのはそっちじゃない。私が裏切ったからって、恨まれる筋合いはないわ)
「おい、新渡戸ー」
 教室の後ろから、低く、楽しげな声が響いた。亜蘭だ。
 亜蘭は数人の男子を引き連れて、美桜の席へと近づいていく。教室中の視線が、一斉にそこに集まった。あゆみも息を殺して見守る。
「お前、昨日LIME抜けたろ。何キレてんの? もしかして、橋倉の盗撮動画、そんなに怒っちゃった感じ?」
 亜蘭は美桜の机に手を置き、上から覗き込むように笑った。
「いやさー、俺らも別に悪気があって弄ったわけじゃないじゃん? なあ、あゆみちゃんもそう思うよな?」
 突然、名前を呼ばれた。
 あゆみの身体が硬直する。亜蘭の目が、笑ったままあゆみを捉えていた。
 あゆみには、それが踏み絵のように思えた。
「え……?」
 あゆみの声がかすれた。教室中が、あゆみの次の言葉を待っている。
 美桜が、ゆっくりと首を巡らせた。そのまっすぐな瞳が、あゆみの目を正面から射抜く。責めるような色はない。ただ、静かに、あゆみの「正解」を確かめるような目だった。
 あゆみの脳裏に、数々の選択肢が浮かんでは消える。
 ここで美桜を庇えば、昨夜の立ち回りはすべて水の泡だ。美桜と一緒に、亜蘭の標的にされる。
 じゃあ、どうする?
 あゆみは、乾いた唇を開いた。
「……うん。ちょっと、大袈裟だよね、新渡戸さん」
 美桜の瞳の光が、一瞬で消えるのが見えた。
 亜蘭が満足そうに、ゲラゲラと笑い声を上げる。
「だろ!? あゆみちゃんもそう言うってことは、お前が異常なんだよ、新渡戸。お前さ、クラスの和を乱して楽しい? 謝るなら今のうちだぞ?」
 美桜は、亜蘭の言葉には答えなかった。ただ、じっとあゆみを見つめた後、静かに前を向いた。その背中は、まるですべての人間を拒絶する壁のようだった。
 
 昼休み。
 あゆみはいつものグループと机を並べてお弁当を食べていたが、食べ物の味はまったくしなかった。
 美桜は、自分の席で一人、買ってきたパンを口に運んでいる。周囲には誰も近づかない。誰も彼女に話しかけない。完全な、透明人間としての扱い。
 それが、昨日まで普通に雑談をしていたクラスメイトの成れの果てだった。
「ねえ、そういえばさ」
 グループの女子の一人が、声を潜めて言った。
「橋倉さん、今日学校来てないよね」
 あゆみはハッとして、教室の隅の席を見た。
 詩織の席は、空席だった。
「あー、やっぱり? 昨日の動画のせいかな」
 別の女子が言った。
「自業自得じゃん? あんな不気味なことしてるのがバレたんだから」
 あゆみは、胸の奥が冷たく冷えていくのを感じた。
 詩織は、今日、学校に来ていない。
 美桜は、クラスで完全に孤立している。
 そして自分は――誰からも責められず、笑いの中に身を置いている。
(これが、私の求めていた『正解』の景色なの……?)
 誰も傷つけず、誰も裏切らない綺麗な生き方なんて、この教室には存在しない。誰かを踏み台にして、誰かの痛みに目をつぶって、初めて手に入るのが「うちのクラスでの平穏」なのだとしたら。
 あゆみは自分のスマホの画面を見つめた。
 LIMEの通知はまだ鳴り続いている。亜蘭たちの他愛ない笑い話。
 そこに映る自分のアイコンが、まるで泥にまみれた怪物のように見えて、あゆみは激しい吐き気を覚えた。