39対2の宇宙

 液晶画面のバックライトが、暗い自室の天井にぼんやりと青白い四角を浮かび上がらせていた。
 午後十一時四十二分。
 新渡戸美桜(にとべ みお)、十七歳。高校二年の秋。
 ベッドに寝転んだまま、美桜は右手の親指を画面の上に固定させていた。動かせない、というのが正確な表現だった。親指の腹の下では、メッセージアプリ『LIME』の、クラス全員が強制加入させられているグループトークの画面が開いている。
【2年B組いつも仲良し(40)】
 そのふざけたグループ名の下に、たった三分前、一本の動画が投稿された。
 投稿主は藤沢亜蘭(あらん)。クラスでも目立つ、いわゆる中心人物だ。整った顔立ちに、緩く巻いたマッシュヘア。話題の中心には、いつも自然と彼がいた。
 亜蘭が投稿した五秒の動画を、美桜はすでに音声なしで三回再生していた。
 撮影場所は、放課後の誰もいない物理準備室の裏の廊下。
 そこに、一人の女子生徒がしゃがみ込んでいる。ボサボサの髪を後ろで一つに結び、いつもサイズの合わない大きすぎる制服のブレザーを着ている彼女の名前は、橋倉詩織。クラスの最底辺、というか、もはや背景の一部として扱われている、極端に口数の少ない女子だった。
 動画の中の詩織は、周囲をキョロキョロと見回した後、廊下の隅に落ちていた「何か」を拾い上げた。それは、誰かが飲み残して捨てたペットボトルのキャップのようだった。詩織はそれを愛おしそうに眺めると、スカートのポケットから取り出した、小さなチャック付きのビニール袋に入れた。袋の中には、色とりどりのプラスチックの破片や、使い古された消しゴムのクズのようなものが詰まっている。彼女はそれを嬉しそうに胸に抱きしめ、また足早に去っていった。
 ただそれだけの動画だった。少し変わった収集癖がある。それだけのことだ。誰も傷つけていないし、誰の迷惑にもなっていない。
 けれど、亜蘭がその動画に添えた一言が、この動画の持つ意味を凶悪なものに変貌させていた。
『ねえ、ウチのクラスのゴミ拾いボランティア、放課後に活動してて草。これマジで何集めてんの? 呪いの藁人形の材料?www』
 心臓がドクン、と嫌な音を立てて脈打った。美桜の胃のあたりが、冷たい氷を押し当てられたように縮み上がる。
 画面の向こうで、クラスメイトたちの反応が秒単位で連鎖していく。
『やば笑』
『マジでホラーなんだけど』
『てかそれ何時? 亜蘭よく見つけたね』
『爆笑。明日から近づかんとこ』
 ポップアップする言葉の暴力。それらはすべて、クラスの「一軍」と呼ばれる、亜蘭の取り巻きたちから発せられたものだった。それに続くように、ウサギがケラケラと笑っているスタンプや、目が点になっているキャラクターのスタンプが、滝のように画面を流れていく。
 画面の右下に表示される数字が、目まぐるしくカウントアップされていく。
 既読、22。
 既読、29。
 既読、35。
 そして。
 既読、39。
 このグループの総数は「40」だ。スマートフォンを持っていない詩織だけは、最初から参加していない。
 既読は39。つまり、投稿した亜蘭以外の全員が、もうこの動画を見ている。
 けれど、まだ何の反応も返していない人間が二人いた。
 一人は、美桜自身。
 そしてもう一人は――。
 美桜はトーク画面を一度閉じ、メンバー一覧を確認した。メッセージの時刻と、これまでに発言した、あるいはスタンプを押した人間の顔写真を脳内で照合していく。
 消去法で浮かび上がった最後の一人は、出席番号二十一番、千賀あゆみ。
 クラスでは美桜と同じく「中位」に位置する、目立たないけれど誰とも波風を立てずに付き合う、おとなしい女子だった。普段の移動教室や昼食を一緒に食べるわけではないが、席が前後になった時は「次の授業、小テストだっけ?」くらいの軽い雑談をする間柄だ。
 千賀さんも、今、この画面を見ている。
 美桜は確信した。彼女も自分と同じように、スマホを握りしめたまま、指を震わせているに違いない。
「どうしよう……」
 声が漏れた。
 美桜の脳裏に、明日の朝の教室の光景が嫌なリアリティを持って再生される。
 もしここで、何も反応しなかったら?
 亜蘭なら、反応しなかったことに気づくだろう。
 翌朝、教室に入った瞬間、亜蘭とその取り巻きたちの冷ややかな視線が突き刺さるに違いない。「お前、昨日のLIMEシカトしたよね?」「橋倉の味方なんだ?」
 そうなれば、明日からの自分の席は、詩織の隣へと引きずり下ろされる。それは、この高校生活における「社会的死」を意味していた。
 じゃあ、どうするのが正解なのか。
 周りのみんなと同じように、適当なスタンプを一つ押して、流れに身を任せるか?
『やばいね笑』と、本心では一ミリも思っていない言葉を打ち込んで、亜蘭に媚びを売るか?
 そうすれば、自分の平穏は守られる。明日もいつも通り、友達とくだらない恋バナをして、お弁当を食べて、笑って過ごせる。詩織一人を犠牲にすれば、三十九人の平和は維持されるのだ。
 けれど、胸の奥底から湧き上がる猛烈な自己嫌悪が、美桜の指を縛り付けていた。
 詩織は、何も悪いことをしていない。ただ、誰も見ていないところで、自分だけの小さな宝物を集めていただけだ。それを盗撮され、晒され、クラス全員のオモチャにされている。
 それに加担することは、美桜の倫理観がどうしても拒絶した。ここでスタンプを押してしまったら、自分は一線を超えてしまう。一生、自分が汚れたような感覚を抱えて生きていくことになる。
「大人になるって、こういうことなの?」
 美桜は天井を見上げた。
 中学の頃、道徳の授業で「いじめを見て見ぬふりをするのも、いじめに加担しているのと同じです」と教わった。あの時の教師の、正義感に満ちた綺麗な顔を思い出す。
 馬鹿馬鹿しい。あの教師は、じゃあ、うちのクラスのこの重力を知っているのだろうか。たった一つのスタンプを拒むだけで、自分のすべての居場所が消失する、この底なしの恐怖を知っていて、そんな綺麗な言葉を吐いたのだろうか。
 時計の針が、午前零時を回った。
 日付が変わったその瞬間、画面の上部に新たな通知が表示された。
 グループトークではなく、個別(個人)メッセージの通知。
【千賀あゆみ:美桜ちゃん、起きてる?】
 美桜は跳び起きた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
 慌ててトークを開く。
【美桜:起きてる。LIME、見てた】
【千賀あゆみ:やっぱり。……どうしよう、これ】
 文字の向こうから、あゆみの悲鳴のような呼吸が伝わってくるようだった。
 美桜はベッドの上で膝を抱え、急速に回転し始めた頭で返信を打つ。
【美桜:亜蘭くんの動画、ひどいよね。橋倉さん、何も悪いことしてないのに】
【千賀あゆみ:うん、本当に最低だと思う。動画消してほしいくらい。でも、うちらが何か言ったら、次はうちらがターゲットになるよね……】
 やっぱり、あゆみも同じことを考えていた。美桜は少しだけ救われたような気持ちになった。この教室で、狂っていない人間が自分以外にもう一人いた。その事実だけで、凍りついていた身体に血が巡る気がした。
【美桜:まだ、うちら二人だけスタンプ押してない。既読39のまま止まってる。多分、みんなうちらがいつ押すか見てるよ】
【千賀あゆみ:どうする? 一緒に無視する? それとも、話を合わせる? 美桜ちゃんが合わせるなら、私も合わせる】
 あゆみからのボールが、美桜の元に転がってきた。
「美桜ちゃんが合わせるなら、私も合わせる」
 その言葉は、優しさのようでいて、残酷な責任転嫁だった。もし美桜が「スタンプを押そう」と言えば、あゆみは罪悪感を半分に薄めて、喜んで亜蘭の軍門に降るだろう。もし美桜が「無視しよう」と言って、明日いじめられたら、あゆみは心の中で美桜を恨むかもしれない。
 美桜は、スマホを持つ手にじっとりと汗をかいているのに気づいた。
 選択肢は三つ。
 一つ、二人で一緒にスタンプを押し、詩織を裏切って生き残る。
 二つ、二人で一緒に完全に無視を貫き、明日、亜蘭からの報復を覚悟する。
 三つ――。
 美桜の脳裏に、ある無謀な、けれどこれ以上ないほど「尖った」アイデアが閃いた。
 それは、正義の味方になることではない。かと言って、卑怯なマジョリティに埋もれることでもない。十七歳のプライドと、この理不尽な教室への、精一杯の反逆。
【美桜:千賀さん。うちら、スタンプ押すのも無視するのもやめない?】
【千賀あゆみ:え? じゃあどうするの?】
 美桜は、トクトクと脈打つ指先で、文字を打ち込んだ。
【美桜:このグループLIME二人で同時に退会しよう】
 画面の向こうで、あゆみが息を呑む気配がした。数秒の沈黙の後、メッセージが返ってくる。
【千賀あゆみ:退会!? そんなことしたら、それこそブチギレられるよ!?】
【美桜:ただシカトするだけなら『ビビって返信できない奴』だけど、退会したら『このいじめに明確にNOを突きつけた』ことになる。しかも二人同時にやれば、亜蘭だって一瞬怯むはず。クラスのみんなだって、心の中では『これはやりすぎだ』って思ってる人がいるはずだよ。うちらが先陣を切れば、空気変わるかもしれない】
 打っているうちに、美桜自身、自分の言葉に熱がこもっていくのが分かった。
 そうだ。多数派(マジョリティ)は、ただ流されているだけだ。誰かが「NO」と言ってくれるのを待っている。その最初の二人になれば、歴史が変わるかもしれない。何より、その方が圧倒的に「カッコいい」。
【千賀あゆみ:……本当に、空気変わるかな?】
【美桜:変えるんだよ。橋倉さんを助けるためじゃなくて、うちらが自分の誇りを守るために。千賀さん、私のカウントダウンに合わせて、せーので『グループを退会』ボタン押して。いい?】
 長い、長い一分が経過した。あゆみからの返信はない。
 美桜はスマホを胸に抱きしめ、祈るように待った。
 やがて、画面がピカリと光る。
【千賀あゆみ:わかった。やろう。私、美桜ちゃんを信じる。準備できたよ】
「よし……!」
 美桜は小さくガッツポーズをした。全身にアドレナリンが駆け巡り、恐怖は完全に消え去っていた。私たちは正しい。正義は私たちにある。
 美桜は『2年B組いつも仲良し』のグループ設定画面を開き、赤く表示された『退会する』のボタンに指を添えた。これを押せば、「新渡戸美桜が退会しました」というシステムメッセージが、あの悍ましいタイムラインに刻まれる。
【美桜:じゃあいくよ。3、2、1、今!】
 美桜は思い切り、画面の『退会する』をタップした。
「確認:本当に退会しますか?」というポップアップが出る。迷わず『はい』を押した。
 画面が切り替わり、美桜のLIMEから『2年B組いつも仲良し』のグループが消滅した。
 静寂。
 美桜は大きく息を吐き出した。やった。ついにやってやった。クラスの中心にいる亜蘭に、明確なNOを突きつけたのだ。胸のすくような達成感が、彼女を包み込んだ。
 すぐに、あゆみの個人トークを開く。
【美桜:千賀さん、押したよ! そっちもいけた?】
 しかし。
 メッセージの横に、『既読』がつかない。
 三分が経過した。

 五分が経過した。
 あゆみからの返信はない。既読すらつかない。
 おかしい。さっきまで、あれほどリアルタイムでやり取りしていたのに。
 嫌な予感が、冷たい手足の先から這い上がってきた。
 美桜は、クラスの別の、亜蘭グループではない大人しい女子生徒――普段から比較的仲の良い、別のグループにいる「ゆか」の個人トークを開いた。
【美桜:ゆか、夜遅くにゴメン! ちょっと確認したいんだけど、今クラスのグループLIME、どうなってる……?】
 ゆかは夜更かしの常習犯だ。すぐに既読がついた。
【ゆか:えっ、美桜!? なんで退会したの!? マジでクラス中パニックになってるんだけど!】
【美桜:千賀さんは? 千賀さんも退会したよね?】
【ゆか:え? あゆみちゃん? ううん、退会してないよ。てか、さっきあゆみちゃん、グループにスタンプ押してたよ。ウサギが冷や汗かいて笑ってるやつ】
 ――え?
 美桜の思考が、完全に停止した。
 スマホを持つ手が小刻みに震え、ベッドの上にぽとりと落ちた。
【ゆか:あ、待って。今、亜蘭くんがタイムラインでメンションしてる。
『新渡戸、マジで空気読めなくて草。橋倉の件、そんなに怒ること? あゆみちゃんもドン引きしてるよ』って。あゆみちゃんも『それな』ってスタンプ押してる……美桜、明日学校来れる? 大丈夫?】
 液晶画面から溢れる光が、美桜の顔を青白く照らし出していた。
 暗闇の中で、美桜はただ、自分の激しい呼吸の音だけを聞いていた。
 あゆみは、退会しなかった。
 美桜が本当に退会するのを見届けたあと、自分だけ亜蘭たちの側に戻ったのだ。
 美桜が抜けたことで、グループの人数は一人減った。
 けれど、美桜がそこにいた痕跡だけは、昨夜のタイムラインに残されている。
 明日、朝が来れば、教室のドアを開けなければならない。
 そこには、三十九人の「正しいマジョリティ」と、裏切り者のあゆみ、そして何も知らない背景の詩織が待っている。
 美桜はベッドの中で体を丸め、二度と来ないでほしいと願いながら、東の空が白んでいくのを恐怖と共に待つしかなかった。