フィルターバブル・セブンティーン―偏差値52の僕ら―

 十二月上旬の月曜日。明鳳高校の朝は、いつにも増して冷たい沈黙に支配されていた。
 先週の月曜日、学年全体が騒然とする『事件』が起きた。我妻が『ステータス・チェック』に投稿した成績表が偽造であったこと、そしてそれを駆が暴露したこと。その噂は週末の間に瞬く間に広がり、尾ひれをつけて学年中に共有されていた。
「おい、あれ長谷部だろ」
「我妻の成績表、あいつがチクったんだって?」
「てか我妻、今日学校来てないらしいよ。メンタルやられたんじゃね?」
 廊下を進む駆の背中に、無数の視線と囁き声が突き刺さる。
 駆はブレザーのポケットの中で、スマートフォンを強く握りしめていた。画面は暗いままだ。週末の間、我妻からのLIMEは一件も来なかった。それどころか、クラスのグループLIMEでも、駆に対する直接的な言及は避けられつつも、明らかに腫れ物を扱うような空気が醸成されていた。

 教室のドアを開けると、いつものように凍りついた空気が駆を迎えた。
 我妻の席は、ぽっかりと空席のままだった。かつて彼を中心に『ステチェク』の動画を見て爆笑していた男子グループは、何事もなかったかのように別のスマートフォンのゲームの話題で盛り上がっている。彼らにとって、我妻という存在は「数字の競争から脱落し、さらに嘘をついて自滅した哀れな敗者」として、すでに処理が終わっているのだ。進学校の生存競争は、驚くほど新陳代謝が早い。
 駆は自分の席につき、小さくため息をついた。
 教科書を取り出そうとバッグを開けたとき、前の席から影が落ちた。
「長谷部くん」
 顔を上げると、雫が立っていた。いつもと変わらない、感情の読めない冷徹な瞳が駆を見下ろしている。
「……何だよ、藤崎」
「今日の放課後、ちょっと付き合って。見せたいものがあるの」
 それだけ言うと、彼女は翻って自分の席へと戻っていった。周囲の生徒たちが、怪訝そうな視線を駆と雫の間に走らせる。駆には、彼女が何を考えているのか、まったく見当がつかなかった。
 
 放課後。藤崎雫に連れられてやってきたのは、特別棟の最上階にある第二美術室だった。
 普段は使われていないその教室は、放課後の夕日が大きな窓から差し込み、床一面をオレンジ色に染め上げていた。部屋の隅には埃を被ったイーゼルやデッサン用の石膏像が並び、独特の油絵の具の匂いが鼻を突く。
「ここ、何だよ」
 駆が尋ねると、雫は窓際に置かれた一台のイーゼルを指差した。そこには、一枚の大きなキャンバスが立てかけられ、上から白い布が掛けられていた。
「長谷部くん、あんたは私が東大を目指して、この学校の最高ステータスを手に入れたいだけの人間だと思ってるんでしょ。我妻くんもそう言っていたわね」
 雫は布の端を掴むと、静かにそれを引き剥がした。
「……っ」
 駆は息を呑んだ。
 キャンバスに描かれていたのは、無数の『数字』だった。
 青、赤、黒、様々な色の絵の具で、びっしりと数字が書き込まれている。
「68」「72」「52」「47」――それは、この学校の生徒たちが毎日追いかけ、怯えている偏差値の数字だった。
 だが、その無数の数字の群れを少し離れて見ると、ひとつの巨大な、渦を巻く『銀河』の形を成していることに気づく。冷酷な記号であるはずの数字が、圧倒的な色彩のグラデーションによって、息を呑むほど美しい宇宙のパノラマへと変貌していた。
「これ……お前が描いたのか?」
「そうよ」
 雫はキャンバスを見つめたまま、自嘲気味に微笑んだ。
「私はね、東大なんて行かないわ。来年の秋、イギリスの芸術大学の入試を受ける。もうポートフォリオ(作品集)の審査は一次を通っているの。ここにあるのは、そのための提出作品の一部」
 衝撃だった。学年1位、東大理一確実と言われた本物の天才が、日本の受験競争のレールから最初から降りていたのだ。
「じゃあ、なんでお前はいつも、あの模試で1位を取るんだよ。勉強なんかする必要ないじゃんか」
「必要はあるわ」
 雫はまっすぐ駆を見た。
「この学校にいる限り、数字を出さない人間の言葉には誰も耳を傾けない。もし私が偏差値50で『学歴なんて関係ない』『他人の数字を笑うな』と言っても、それはただの『負け犬の遠吠え』として処理されるでしょ。あの『ステチェク』の動画みたいに、バカにされて終わるだけ。だから私は、この学校のルールで圧倒的なトップに立ち続けたの。あいつらの大好きな『最高ステータス』の座から、あいつらの信仰している宗教がいかに下らないかを突きつけるためにね」
 雫の言葉は、駆の魂を根底から揺さぶった。
「……でも、それだけじゃないわ。たぶん私も怖いのよ。一度でも一位から落ちたら、今までの自分まで否定された気がするんじゃないかって」
 彼女もまた、この学校の窒息しそうな空気の中で、自分なりにもがいていたのだ。
「長谷部くん。あんたが我妻くんの嘘を暴いたとき、私は少しだけあんたを見直したわ」
「……別に、立派なことしたつもりはない」
「でしょうね。でも、怖かったのに言ったんでしょ。それなら、それでじゅうぶんじゃない?」
 雫は一歩、駆に近づいた。
 駆はポケットの中で、じっと拳を握りしめた。
 あの惨めで、傷だらけの自分の選択を、藤崎だけは否定しなかった。その事実が、凍りついていた駆の胸の奥を、じんわりと温めていく。
 雫はキャンバスの数字の銀河に指を触れた。
「でもね。たぶん、現実はそんな簡単には変わらないわ。少なくとも私は、明日も一位を取ろうとすると思う。くだらないって分かってるのにね。あの『ステチェク』みたいな動画は、形を変えていくらでも湧き出てくる。たぶん、大人になっても同じよ。数字で誰かを見下して、自分が上だって安心したがる人は、いなくならないと思う。あんたは明日からも、その現実の中で生きていかなきゃいけないのよ」
「……分かってるよ」
 駆は、窓の外の夕闇を見つめた。
「でも、もう動画を見て安心するのはやめる。あんな偽物の泡の中に隠れて、誰かを見下して、自分の『52』をごまかすのは、もう終わりにしたい」
 駆はバッグから、あのクシャクシャになった模試の成績表を取り出した。
 E判定。偏差値五十二。
 それが、今の自分の現在地だ。格好悪くて、惨めで、これが僕のすべてだと言われたら死にたくなるような数字。
 けれど、これが僕の足元にある、唯一の本物の地面なのだ。ここから始めるしかないのだ。
「藤崎。その絵、少しだけ我妻に見せてやりたかったな」
「あいつがこれを見ても、ただのゴミだって言うかもね」
「かもな。でも、あいつだって、本当は苦しかったんだと思う」
 駆は成績表を丁寧に折り畳み、ポケットに仕舞い直した。

 翌日。我妻は学校に登校してきた。
 彼の顔からはあの狂気的な傲慢さは消え失せ、ひどく小さく、萎縮したように見えた。クラスの誰も、彼に金曜日の生配信の話を振ろうとはしなかった。ただ「腫れ物」として、無視されているだけだった。

 昼休み。駆は購買でパンを買うと、一人で中庭のベンチへと向かった。
 途中で、廊下の壁に新しく張り出された『期末考査の範囲表』と、その横にあるいつもの成績優秀者一覧が目に入った。そこには、圧倒的な点数で『1位 藤崎雫』の名が刻まれている。
 駆はその前を、素通りした。
 もう、その名前を見ても、自分の胸が擦り切れるような劣等感は湧いてこなかった。藤崎には藤崎の宇宙があり、我妻には我妻の、そして僕には僕の、戦うべき現実がある。偏差値は僕の現在地ではある。でも、僕の全部ではない。
 スマートフォンを取り出し、画面を開く。
 アプリの通知欄には、『ステータス・チェック』の最新動画のポップアップが表示されていた。
【衝撃:学歴フィルターの実態! Fラン卒の人生の末路が悲惨すぎたwww】
 駆は、そのサムネイルをじっと見つめた。
 そして、迷うことなく、画面を長押しした。
『このチャンネルをおすすめに表示しない』
「バイバイ、ロク」
 画面から原色のアイコンが消え去り、すっきりとした壁紙だけが残った。
 空を見上げると、いちょうの隙間から、冬の訪れを告げる冷たくて、けれどどこまでも澄み切った青空が広がっていた。
 奇跡なんて起きない。明日もまた、僕は偏差値52の凡人として、あの重苦しい教室でペンを握り続けなければならない。第一志望の筑波大学までは、まだ果てしなく遠い。
 けれど、僕の胸の中には、あの夕方の美術室で見た、無数の数字で描かれた美しい銀河が、確かに輝いていた。
 十七歳の冬。僕らはまだ、誰かが作った数字の檻の中にいる。
 けれど、その檻そのものを壊すための言葉を、僕はもう、自分の頭で考え始めていた。
(完)