フィルターバブル・セブンティーン―偏差値52の僕ら―

 十一月上旬。進学校の秋は、残酷な速度で深まっていく。
 教室の窓の外では、いちょうの葉が黄色く染まり、冷たい木枯らしに吹かれてコンクリートの地面へと叩きつけられていた。まるで、役目を終えた受験生たちのプライドが剥がれ落ちていくかのように。
 駆は、机の上に広げられた薄い紙を、生気のない目で見つめていた。
 先月受験した『駿台全国模試』の結果速報データ。志望校判定の欄には、インクの滲んだ文字で、冷酷にこう刻まれていた。
【筑波大学 理工学群:E】
【明治大学 理工学部:D】
 頭の芯がジーンと痺れる。
 偏差値は「五十二」。明鳳高校においては、下位三十パーセントに沈む壊滅的な数字だった。中学時代、高校受験では常に「安全圏」のA判定しか見たことがなかった駆にとって、そのアルファベットは、自分の人格そのものに下された「不合格通知」のように感じられた。
「終わった……」
 小さな呟きは、周囲の喧騒にかき消された。
 教室中が、模試の結果を巡る一喜一憂の嵐に包まれていた。「判定が上がった」と周囲にアピールする声。「今回は母集団のレベルが高すぎる」と言い訳を並べる声。すべてが駆の鼓膜を不快に震わせる。
 だが、その喧騒の中でも、駆のすぐ後ろの席から放たれる『音』は、明らかに異質だった。
 トントントントントン。
 凄まじい速度で机を叩く指の音。我妻だった。彼がここ数週間、以前ほど勉強していなかったことを、駆は知っていた。昼休みには参考書ではなくスマホを開き、放課後も自習室へ行かず、ステチェクの切り抜き動画を漁っていた。それでも本人だけは、「俺は地頭がいいから」と笑っていた。そんな彼の顔は土気色に変色し、見開かれた目は血走っている。机の上に投げ出された彼の成績表が、駆の目にも嫌でも飛び込んできた。
 総合偏差値、四十七。
 それは、明鳳高校の歴史において、ほぼ最底辺に位置する数字だった。かつては真ん中より上にいたはずの我妻の学力は、ここ数ヶ月で坂道を転げ落ちるように急降下していた。
「おかしい。何かの間違いだろ、これ」
 我妻の口から、乾いた、壊れた機械のような声が漏れた。
「俺が偏差値五十以下? あり得ねえよ。採点ミスだ。それか、周りの奴らが予備校の裏技か何かで不正に点数上げてるんだ。俺の地頭が、こんな数字で測れるわけがない……!」
 我妻は震える手でスマートフォンを掴むと、狂ったように画面をスワイプした。彼が逃げ込んだのは、やはりあのチャンネルだった。
『はいどーも! ステチェクのロクです! 今回はね、秋の全統・駿台模試で爆死した負け組の皆さんをたっぷり煽っていきたいと思います! 偏差値55以下の奴らってさ、ぶっちゃけ脳みその構造が一般人と違うっていうか、遺伝子レベルで努力の才能がないんだよね。そんな奴らがいくら机に向かっても時間の無駄! さっさと受験諦めて高卒で工場でも行った方が社会のためでーす!』
 大音量で流れるロクの冷笑。普段ならイヤホンを使うはずの我妻は、周囲への当てつけのように、音量を最大にしていた。動画から流れる「低学歴はゴミ」「努力の無駄」という過激なフレーズが、教室の壁に反響する。
 我妻はその言葉を、まるで砂漠で水を飲むかのように、必死に脳内に吸収していた。
「……そうだ。ロクの言う通りだ」
 我妻の目が、不気味な光を帯び始める。
「今回は問題の難易度がバグってたんだ。こんなクソ模試の対策に時間使ってる奴らは、ただの要領の悪いバカなんだよ。俺は地頭が良いから、本番で一発逆転できる。Fランに行くような底辺の奴らとは、脳の構造が違うんだから」
 駆は、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
 我妻は、動画をエンタメとして楽しむ段階を完全に通り越していた。彼は、動画の過激な思想を「現実の自分を守るための盾」として狂信し始めている。他者を強烈に見下さなければ、目の前にある「偏差値四十七」という現実によって、自分の精神が粉々に砕け散ってしまうからだ。
「おい、長谷部」
 突然、我妻が駆の肩を強く掴んだ。その手は不自然に熱を帯びていた。
「お前もE判定だろ? でも気にするなよ。俺たちは明鳳の生徒なんだから。世間の、あの動画に出てくるような名前も知らねえFランのチンパンジーどもとは、最初から身分が違うんだ。あいつらを笑いながら、俺たちは高みの見物をしてればいいんだよ」
「あ、我妻……」
 駆の喉から、掠れた声が出た。
 我妻の言葉に同調すれば、自分の自尊心も少しは救われるのかもしれない。けれど、我妻の顔に張り付いたその歪んだ笑顔を見た瞬間、駆の脳裏に強烈な拒絶感が湧き起こった。
 醜い。あまりにも無様で、痛々しい。
 そして何より恐ろしいのは、我妻のその姿が、他ならぬ「未来の自分」かもしれないという現実だった。このまま成績が下がり続ければ、自分も我妻のように、ネットの煽り動画の言葉を叫びながら狂っていくのではないか。
「……ちょっと、トイレ行ってくる」
 駆は我妻の手を振り払い、逃げるように席を立った。

 その日の午後、我妻はほとんど授業を聞いていなかった。
 休み時間になるたびにスマートフォンを開き、ステチェクのコメント欄へ何かを書き込んでは、何度も画面を更新していた。
「明鳳にいる時点で、俺らは勝ち組なんだよな」
 誰に聞かせるでもなく、そんなことを繰り返していた。
 
 放課後。駆は重い足取りで最寄りの駅へと向かっていた。バッグの中の模試の結果が、まるで鉛のように肩に食い込む。
「おい! 待てよコラ!」
 駅前のロータリーの手前、人通りの少ない高架下から、鋭い怒鳴り声が響いた。
 駆が足を止めると、そこには我妻と数人の明鳳の男子生徒、そして――見慣れない、他校の制服を着た男子生徒が二人、小競り合いを起こしていた。他校の制服は、地元では「ヤンキー校」として知られる、偏差値四十半ばの私立高校のものだった。
「何だよお前ら、文句あんのか?」
 我妻が、スマホの画面を他校の生徒の目の前に突きつけていた。画面には『ステチェク』のロゴが映っている。
「お前らの学校さ、この動画で『名前書けば受かる動物園』って紹介されてたぞ。マジでウケる。過去形も分かんねえような奴らが、よくそんな偉そうな顔して歩けるな。脳みそのステータス、チェックしてもらった方がいいんじゃねえの?」
 我妻の声は震えていたが、その言葉は完全にネットの受け売り、ロクのセリフそのものだった。模試で失ったプライドを取り戻すために、彼は現実世界で「自分より確実に偏差値が低い相手」を見つけ出し、直接マウンティングを仕掛けていたのだ。
「あんだと、てめえ……! 進学校だからって調子に乗ってんじゃねえぞ!」
 他校の生徒が、我妻の胸ぐらを掴み上げた。
「我妻! やめろ!」
 駆は思わず駆け寄り、二人の間に割って入った。
「長谷部、お前も言ってやれよ!」
 我妻が叫ぶ。
「こいつら、俺たちの学校の足元にも及ばないゴミだぞ! 勉強もしてこなかったクズに、俺たちが頭下げる必要なんてねえんだよ!」
「うるせえな、このガリ勉が!」
 他校の生徒の拳が、空を切ろうとしたその瞬間。
「そこまでにしなさい。警察を呼びますよ」
 高架下に、低く、凛とした声が響き渡った。
 全員の動きが止まる。暗がりの向こうから歩いてきたのは、スクールバッグを正しく肩にかけた、雫だった。彼女は冷徹な目で、我妻と他校の生徒を一瞥した。
「……チッ、何だよ、女かよ。行くぞ」
 他校の生徒たちは、雫の放つ異様な威圧感と「警察」という言葉に怯んだのか、我妻を突き放すと、吐き捨てるようにして去っていった。
 高架下に、不気味な静寂が戻る。
 我妻は息を荒くしながら、服の襟元を整え、雫を睨みつけた。
「……余計なことすんなよ、藤崎。俺はあいつらに、現実を教えてやってただけだ」
 雫は、我妻には言葉すら返さなかった。ただ、ゴミを見るような軽蔑の目を一瞬だけ向けると、そのまま駅の改札へと歩き出した。
 その背中を追いかけるように、我妻は叫んだ。
「何だよその目は! お前だって、あいつらを見下してるだろ! 勉強ができる奴が偉い、それがこの世界のルールじゃねえのかよ!」
 雫は足を止めなかった。
 駆は、その場に立ち尽くしたまま、我妻の叫び声が虚しく高架下に吸い込まれていくのを聞いていた。
 我妻のスマートフォンから、消し忘れた動画の音声が小さく流れている。
『……はい、というわけでね、やっぱり高学歴こそが正義。数字が出せない奴は……』
 その軽快なナレーションが、今の彼らにとっては、まるで自分たちを奈落の底へと引きずり込む、悪魔のカウントダウンのように聞こえてならなかった。