フィルターバブル・セブンティーン―偏差値52の僕ら―

 長谷部駆(はせべ かける)、十七歳。県立明鳳(めいほう)高校、二年A組。
 この学校の廊下には、独特の匂いがある。それは古びたワックスの匂いでも、部活動の汗の匂いでもない。過剰なまでに印刷された模試の解答解説の紙、そして、壁一面に張り出された『校内上位成績者一覧』から放たれる、冷たいインクとプライドの匂いだ。
 十月の半ば、少し肌寒い放課後の教室。
 駆は自分の席で、スマートフォンの画面を横向きにして凝視していた。イヤホンの片耳から流れ込んでくるのは、いかにも下品な、原色を多用したテロップが目に浮かぶような笑い声だ。
『はいどーも! ステチェクの時間がやってまいりました! 今日はね、某有名Fラン私立大学の学園祭に突撃して、在学生の皆さんに簡単な中学生レベルの英語クイズを出してみたいと思いまーす!』
 画面の中で、坊ちゃん刈りに黒縁眼鏡、派手な赤いスカジャンという悪趣味な出で立ちの大柄な配信者『ロク』が、マイクを片手にニヤニヤと笑っている。京大出身を声高に売りにする彼が運営するチャンネル『ステータス・チェック』――通称『ステチェク』は現在、日本の高校生、特に受験を控えた進学校の生徒たちの間で爆発的な登録者数を誇る動画番組だった。
『お、そこの金髪のお兄さん、ちょっといいですか? 「私は昨日、リンゴを食べました」を英語に直すと?』
『え? 英語? むずっ! アイ……イート……アップル、イエスタデイ?』
『ブブー! 正解は「I ate an apple yesterday.」でしたー! 過去形すら怪しい! さすが偏差値38、脳みそのステータスもバグっちゃってますねー!』
 ドン、という効果音とともに、画面には「人権なし」「チンパンジー以下」といった過激なテロップが踊る。
 駆のすぐ隣で、同じように画面を覗き込んでいた我妻が、机を叩いて爆笑した。
「ギャハハ! マジでやべえ、アホすぎるだろ! 過去形も分かんねえでよく大学生やってんな。これだからFランはマジで生きてる価値ねえわ」
 我妻の声は、静まり返った放課後の教室にやけに大きく響いた。我妻の周りには、いつも一緒にいる数人の男子生徒が集まり、同じようにスマホを見ながらゲラゲラと笑っている。
 駆も、引きつった笑顔を浮かべながら「確かに、これはちょっとひどいな」と相槌を打った。
 正直に言えば、駆の胸の中には、笑いと同時にネットリとした不快感がまとわりついていた。動画の編集は悪質だし、インタビューを受けている大学生たちをただ晒し者にして笑いものにしているだけだ。モラルとして最低の部類に入るコンテンツだということは、17歳の倫理観でもじゅうぶんに理解できた。
 けれど、駆はその動画を観るのをやめられなかった。
 なぜなら、この動画を観ている間だけは、胸の奥を蝕む『恐怖』から逃れることができたからだ。
 明鳳高校は、県内トップの公立進学校だ。毎年、東大や京大、国公立の医学部に何十人もの合格者を出す。中学時代、地元の公立校で「天才」「神童」と持て囃された人間だけが、ふるいにかけられて集まる場所。
 駆も、中学までは常に学年トップだった。勉強なんて、大して努力しなくてもできた。自分は特別な存在なのだと信じて疑わなかった。
 だが、この高校に入った瞬間、世界は一変した。
 周囲にいるのは、自分と同等か、あるいは遥かに上の化け物たちだった。最初の実力テストで、駆の順位は三百人中「百八十位」を記録した。見たこともない数字だった。それから一年半、いくら勉強しても、順位は真ん中より少し下をウロウロするだけ。
 自分は、ただの凡人だった。
 その残酷な事実が、毎日、模試の成績表という「数字」で突きつけられる。自分の価値が、偏差値という一つの物差しで削り取られていくような感覚。
 そんな時、『ステチェク』の動画は極上の麻薬だった。
 世の中には、自分よりも遥かに下の、英語の過去形すら分からない人間が山ほどいる。自分は明鳳にいる。どん底だと思っていても、世間一般から見れば、まだ「上の側」に属しているのだ。他者の無知を笑うことで、駆は辛うじて崩れそうな自尊心を繋ぎ止めていた。
「おい、我妻。少し静かにしろよ。耳障りだ」
 教室の最前列、窓際の席から、冷徹な声が響いた。
 声の主は、藤崎雫(しずく)。
 長い黒髪を一つに結んだ彼女は、学年首位の常連だった。推薦枠など眼中にないと言わんばかりに、一般入試で東大理一を確実視されている、この学校の本当の「天才」の一人だ。
 我妻が露骨に不機嫌そうな顔をして、スマホから目を離した。
「あ? なんだよ藤崎。別にいいだろ、放課後なんだから。お前だって、この動画の言ってること、正論だと思うだろ? 努力もしないで遊んできたバカが、適当な大学行って大卒の資格得ようとしてるの、マジで日本の損失だし」
 我妻の言葉には、特有のトゲがあった。実は我妻は、ここ最近の模試で著しく成績を落としていた。かつては上位にいたはずの彼が、今や駆よりも下の順位に沈んでいる。彼がこれほどまでに動画の思想に狂信的になっているのは、迫り来る「転落」への恐怖の裏返しであることを、駆は察していた。
 最近の我妻は休み時間だけでなく、授業の合間や下校中まで『ステチェク』を見ていた。以前なら放課後に残って問題集を解いていたはずなのに、その姿もほとんど見なくなった。
 雫は、解いていた青チャートの数学参考書をそっと閉じると、感情の消えた瞳で我妻を見た。
「他人の数字を笑って、自分の数字が上がるとでも思ってるの?」
 教室の空気が、一瞬でゼロ度まで冷え込んだ。
 駆は息を呑んだ。雫の言葉は、我妻だけでなく、一緒に動画を見て安心していた駆の胸の真ん中にも、鋭利なガラス破片のように突き刺さった。
「あんたたちが喜んで見てるその動画、ただの娯楽(エンタメ)の皮を被った宗教よ」
 雫は立ち上がり、スクールバッグを肩にかけながら、冷ややかに教室を見回した。
「偏差値っていう、他人が作ったたった一つの物差しで、それに満たない人間を『人権なし』って見下す。あんたたち、その動画を見てる時だけ安心できるんでしょ。滑稽だわ。ネットの煽り文句を自分の言葉みたいに喋るの、やめたら? 恥ずかしいから」
「なんだと、てめえ……!」
 我妻が顔を真っ赤にして立ち上がったが、雫はそれ以上一瞥もくれず、静かに教室を去っていった。
 残された男子生徒たちの間に、気まずい沈黙が流れる。我妻は怒りで拳を震わせながら、机の上のスマホを乱暴に掴んだ。
「チッ、何が学年1位だ。あいつだって、東大っていう『最高のステータス』が欲しいだけだろ。言ってることは綺麗事なんだよ。長谷部、お前もそう思うだろ?」
 我妻から同意を求められ、駆の喉が詰まった。
「あ、いや……まあ、藤崎は元が天才だから、僕たちの気持ちが分かんないのかもな」
 そう答えるのが精一杯だった。
 その夜、駆は自分の部屋の机に向かい、英語の長文読解の参考書を広げていた。
 だが、昼間の雫の言葉が、耳の奥から離れない。
『あんたたち、その動画を見てる時だけ安心できるんでしょ』
「分かってるよ、そんなこと……」
 駆はペンを握る手に力を込めた。動画が最低なことも、それを見て安心している自分が卑怯なことも、全部分かっている。
 けれど、じゃあ、どうすればいいっていうんだ。
 この明鳳高校という檻の中にいる限り、僕たちは常に「数字」で格付けされる。廊下を歩けば、成績優秀者の名前が張り出され、模試のたびに担任からは「今の偏差値じゃ、第一志望は夢のまた夢だ」と現実を突きつけられる。
 学歴がすべてじゃない? 偏差値だけが人間の価値じゃない?
 そんなものは、この熾烈な受験戦争の戦場にいない大人が吐く、中身の伴わない綺麗事だ。ここにいる17歳の僕たちにとって、偏差値は「命」そのものであり、学歴は「生存資格」なのだ。
 ベッドに寝転び、駆は再びスマートフォンを開いた。
 アプリのトップ画面には、おすすめ動画として、また『ステータス・チェック』の動画が表示されている。
【速報:偏差値50以下の自称進学校の生徒が勘違いしてること5選www】
 駆の指が、吸い寄せられるようにそのサムネイルをタップする。
 軽快なBGMが流れ、ロクの過激な声が部屋に響く。駆はその音声を小さく絞り、画面をスクロールした。コメント欄には、同じような受験生たちの「まじでそれな」「やっぱり勉強しない奴はクズ」という言葉が、何千件も並んでいる。
 その歪んだ、けれど心地よいバブル(泡)に包まれながら、駆は深い、終わりのない自己嫌悪の沼へと沈んでいくのだった。