・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「どうして先輩、制服なんですか?」
約束のコンサート当日。会場の最寄り駅で落ち合った彼女は、予告通りあのお嬢様然とした清楚なワンピースを身に纏っていた。対する僕は、見慣れたいつもの学校の制服だ。そもそも、クラシックのコンサートに何を着ていけばいいのか見当もつかなかったのだ。
「この方が目立つだろ」
淡々と言い訳を口にすると、彼女はもっともだと納得したように頷いた。
夕暮れの迫る高架下の路地を二人で歩く。高圧ナトリウム灯の眩しすぎる光。ひっきりなしに行き交う車のクラクションと、驟雨のようにアスファルトを擦るタイヤのロードノイズ。
「もうすぐ夏休みが来ちゃうね。死ぬなら、絶対に夏休みの前がいいな」
頭上を轟音を立てて電車が通過していく。激しい振動と喧騒が波のように押し寄せ、周囲の声が聞こえにくい状態だからこそ、彼女は平然とそんな不穏を口にできる。
「どうして夏休みの前なんだ?」
「だって、楽しみにしていた長期休みに水を差したくないじゃない。せっかくの休みなのに、同級生の訃報なんて聞かされたら気分が萎えちゃうでしょ? でも終業式の直前なら、直後にやってくる夏休みのイベントがみんなのショックをすぐに上書きしてくれるから」
相変わらず、どこまでも歪で律儀な配慮だった。
会場に入り、開演中も僕は周囲の気配を張り詰めた神経で探っていた。裕福そうな制服姿の高校生カップルに興味本位の無遠慮な視線を投げかけてくる客はいたものの、そこに悪意や殺気といったものは微塵も感じられなかった。
「ねえ、先輩にはたくさん無理をさせちゃったよね。今日もこんな遅くまで付き合わせちゃって、家の方は大丈夫だった?」
終演後、会場を後にした彼女が殊勝な面持ちで尋ねてきた。
両親には、テストに向けて友人と図書館やファミレスで猛勉強していると説明してある。あらかじめ男友達を数人自宅に招き、真面目に机に向かう姿を見せて入念なアリバイも作っておいた。その根回しを手短に伝えると、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「そっか……なら、よかった」
微かに寂しげな笑み。僕が健全な家庭の話題を口にすると、彼女は決まってそんな哀愁を滲ませるのだ。
「結局、何も起きなかったな」
並んで歩きながら、僕はどこか安堵したように吐き捨てた。やはり、SNSの撒き餌だけで通り魔をピンポイントに誘き出すなど絵空事だったのだ。彼女は少し困ったように眉尻を下げた。
「なら、やっぱり先輩に頑張ってもらうしかないかも。どういうふうに私に死んでほしいか、ちゃんと考えといてね」
悪戯っぽく笑う彼女を前に、「もうこんな真似はやめよう」という言葉が喉元まで出かかった。それを必死に飲み込み、思案するふりを取り繕った――その瞬間だった。
背後から、針のように鋭い視線が突き刺さるのを覚えた。無意識に振り返ろうとした僕を、
「ねぇ! 夏休み、思い切って京都に行かない!?」
彼女の唐突で甲高い声が引き留めた。困惑する僕の腕に、彼女は仲睦まじい恋人そのものの仕草で、すっと身体を密着させてくる。
そして、甘えるように僕の胸元へ顔を寄せたまま、微かな吐息で囁いた。
「……絶対に後ろを見ないで。無防備なふりを続けて」
僕は小さく息を呑み、静かに頷いた。僕を見上げる彼女の輝く瞳が「やっと獲物が針に掛かった」と雄弁に告げていたからだ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「よかった。今日は下見だったみたい。きっと数日中に襲ってもらえる」
人通りのある大通りへ抜けたあたりで、彼女は弾んだ声で僕に囁いた。どうやら背後にいた不審者は、今日は獲物の確認だけを済ませて立ち去ったらしい。
「これでよし! あとは襲ってもらいやすいように、SNSに私の行動スケジュールや放課後の予定を小まめに書き込んでおこうかな。たとえば『期末テストに向けて、今日は六時まで彼氏と図書館でお勉強です!』みたいにね」
彼女は鼻歌交じりに、完璧な笑顔を浮かべる。
「……なあ、本当にいいのか?」
僕が押し殺した声で念を押すと、彼女は心外だと言わんばかりにきょとんと首を傾げた。
「もちろん。夏休みまでに全部終わらせられそうで、むしろ嬉しいくらい。あとの手順はこうしよ? しばらくは先輩と一緒に学校を出るでしょ? 途中の道で先輩と別れて一人になったら、私、メッセージアプリのトーク画面をずっと立ち上げておくね」
彼女は手元の画面を僕に向け、おどけた表情の猫のスタンプを指先でトントンと叩いた。
「このスタンプが届いたら、『不審者につけられている』の合図。大事な恋人から別れ際に脈絡のないスタンプが一つだけ送られてきたら、胸騒ぎがするでしょ? だから先輩は心配になって、私の帰り道へ向かって駆けつける。すると、襲われている私を見て逆上する――っていう筋書き」
そこまで一気にまくし立てると、彼女はいたずらっぽく人差し指を立ててみせた。
「あ、でも駆けつけるのが早すぎちゃダメ。私、少し相手と言い争って、しっかり逆上させてから傷つけられる予定だから。……スタンプが届いても、たっぷり五分間は待ってから追いかけてきてね」
まるで放課後の寄り道の約束でもするかのように、彼女は淡々と、極めて理路整然とした口調で説明を終えた。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
犯罪者に彼女が目をつけられてからの日々、僕は結局のところ、自分がどうしたいのかを決めあぐねていた。
「どうか、彼女の馬鹿げた計画が失敗しますように」
表向きは共犯者の顔を取り繕いながら、内心ではそう懸命に祈り続けていたのだ。下見の夜から一週間は何事もなく過ぎ、「なかなか襲ってもらえない」と焦れてヤキモキする彼女を、僕はどこか安堵した気持ちで笑って眺めていた。
だが――その猶予は、唐突に終わりを告げた。
いつも通りの帰り道で彼女と別れ、一人で歩き始めた直後、制服のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
画面を点灯させる。トーク画面に浮かび上がっていたのは、あのおどけた表情の猫のスタンプ――たった一つ。
(嘘だろ……本当に現れたのか)
その瞬間、彼女の屈託のない声が脳裏に蘇った。
五分待ってから追いかける。彼女が男を挑発し、顔を切りつけさせ、完全に逆上させた頃合いを見計らって駆けつける。そうすれば、僕は正当防衛の名のもとに合法的な殺人の感触を味わえ、彼女は念願だった「社会への負債の完済」を果たして死ねる。
彼女の言い分は筋が通っている。
苦痛に満ちたこれからの何十年間を思えば、たった四秒の激痛で幕を下ろすほうが圧倒的に合理的だ。彼女の尊厳を慮るなら、約束通り死なせてやるのが最も誠実な態度なのだろう。
だが――そんな理屈、知ったことか。
社会への恩返し? マナー? 人生の損得勘定?
すべてがどうでもよかった。
直前になって、ようやく骨身に沁みて分かったのだ。僕はただ、彼女ともっと会話がしたい。あのくだらない問答を、これからもずっと続けていたい。
数秒も待たず、僕は踵を返して地を蹴っていた。
アスファルトを革靴で踏み鳴らす。早鐘を打つ心臓が肋骨を軋ませ、肺腑が熱く焼ける。角を曲がり、薄暗い住宅の脇道へ飛び込んだ瞬間、網膜に二つの影が飛び込んできた。
彼女がいた。
端正な制服姿のまま背筋を伸ばし、見知らぬ小太りの中年男と対峙している。何かを言い募り、相手を挑発しているようだった。
そして男の右手には、街灯の鈍い光を浴びて、ぎらりと冷たく光る刃物が握られていた。
僕の身体は考えるよりも早く前へ倒れ込み、喉の奥から、無様で泥臭い絶叫が爆発していた。
「助けて!! 誰か助けてください!! 不審者だ!! 殺される!!」
静まり返った路地に、僕の絶叫が響き渡る。
男はぎょっと目を見開き、弾かれたように後退りした。そして僕の形相に気圧されたのか、大慌てで闇の奥へと転がるように逃げ去っていく。ほぼ同時に、近くの民家の玄関ドアが勢いよく開き、初老の男性が血相を変えて飛び出してきた。
「どうした!? 何があったんだ!」
僕は両膝に手をつき、乱れた呼吸を貪りながら必死に叫んだ。
「ふ、不審者が刃物を持っていました! 警察を呼んでください!」
「わかった、待ってろ!」
男性は力強く頷くと、通報のために家の中へと駆け戻っていった。
大慌てで自宅の奥へ消えていく男性の背中を見送り、静まり返った路地で、呆然と立ち尽くす彼女と視線がぶつかった。
完璧だったはずの舞台を唐突に叩き壊され、彼女は理解不能な怪物を見るような顔で、震える唇を開く。
「どうして……?」
その愕然とした表情を見た瞬間――僕の喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてきた。
最初は小さく、やがて腹の底から突き上げるような大笑いになって、夜の路地に響き渡った。
笑わずにはいられなかった。
なぜだろう。自分たちが、自分たちのやろうとしていたことが、あまりにも痛々しくて、馬鹿馬鹿しくて仕方がなくなってしまったのだ。
「どうしてって……僕らは痛すぎるんだよ! 大体なんだよそれ! 国の税金を二千五百万使っちゃったから、懲役十年の凶悪犯を正当防衛で殺して三千万浮かせて、ビニール袋を被ってマナーよく飛び降りなきゃって……何なんだよそのお行儀の良さは!」
肩を揺らして笑い転げる僕を、彼女は憤慨したように睨みつける。
「な、何がおかしいんですか! 私は大真面目に筋を通そうと――」
「そんな必要、最初からこれっぽっちもないんだよ!」
僕は息を整えながら、ずっと胃の底に隠していた真実を笑い飛ばすようにぶちまけた。
「君の父親、年収二千万を優に超える開業医だろ? 日本には超過累進課税って制度があるんだ。君のお父さんはね、とっくに億単位の税金を国に納めてる『完全な払い損』の富裕層なんだよ。君が背負ってると思い込んでた二千五百万なんて、父親の納税証明書一枚でとうに完済されてる。社会への負債なんて、最初から一円も存在してないんだ!」
「……は?」
彼女は完全に言葉を失い、ぽかんと口を開けた。信じられないものを見るように目を丸くし、自分のこれまでの苦悩と計算がただの空回りだったことを突きつけられて、顔を真っ赤にしていく。彼女は悔しそうに唇を尖らせ、僕を睨み返して叫んだ。
「そ、そういう先輩だって相当痛いじゃないですか!! 何なんですか、『他人の破滅を最前列で眺めるのが最高のエンタメ』って! 人を殺した過去を抱えたまま、聖人君子の顔して有名なカウンセラーになる? 馬鹿じゃないの!? 中二病にも程がありますよ!」
「なにが!?」
「事実でしょうが! 悪趣味で、冷酷ぶって、中身はただの格好つけのガキですよ!」
吐き捨てるように言い返され、僕たちの視線が交錯する。
一瞬の静寂の後、どちらからともなく吹き出し、路地に二人の笑い声が重なり合って響いた。
遠くから、夜気を切り裂くパトカーのけたたましいサイレンが近づいてくる。
初老の男性が玄関から顔を出し、「大丈夫か! もうすぐ警察が来るからな!」と大声で手招きした。
「……面倒な事情聴取になりそうだな」
苦笑いしながら息を吐き出す。これから警察に事情を聞かれ、くだらない嘘と本当の間を取り繕う長い夜が始まるのだ。
ふと、僕は思い出したように隣の彼女へ視線を向けた。
「そういえばさ……僕、君の名前を知らないや。なんていうの?」
僕の間の抜けた問いかけに、彼女は心底呆れたように目を細めて、溜め息をついた。
「ひどい人ですね。私、最初にちゃんと名乗りましたよ。覚えてなかったんですか?」
「……悪かったよ。僕はずっと、他人を自分を楽しませるための『記号』としてしか見てこなかったから」
観念して白状すると、彼女は「本当に痛い人」と呆れ返ったように笑い、それから胸を張って言った。
「サトナカサトコです。聡明な子でサトコ――里中聡子。覚えましたか、長野達也先輩?」
街灯の青白い光の下で、聡子は屈託のない眩しい笑顔を浮かべた。その笑顔を、僕は心の底から、美しいと思った。
(了)



