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「自殺をしたい……? 何か高校生活で悩みでもあるのかな。僕一人じゃ力不足かもしれないけれど、話を聞くくらいならできるよ」
僕は平静を取り繕い、とってつけたような慈愛の言葉を並べ立てた。
しかし、彼女は、値踏みするように僕の反応を面白そうに眺めるだけだった。
「あ、そういうの、もう結構です。先輩って周りからは聖人君子みたいに持ち上げられてますけど、性格、普通に終わってますよね? それどころか痛いところもあるというか」
あまりにも無造作に、彼女は言い放った。
鬱陶しそうに前髪をかき上げたその下から、抜けるように白い肌と、澄んだ大きな瞳が覗く。図書館で見かけていたときは陰気に沈んで見えたのに、こうして堂々と振る舞う姿を前にすると、息を呑むほど整った顔立ちであることに気づかされる。
「確かに僕は、偽善者だとか格好をつけているだけだとか……そう言われることもあるよ。でも、同じ高校に通うことになったのも何かの縁だ。放っておけないんだよ」
必死に繕う僕を遮るように、彼女はクスリと声もなく笑った。
「先輩。 私、先輩と同じ中学出身なんです」
楽しげに細められた瞳が、僕を射抜く。どんな表情を返すべきか分からず、僕は引き攣りそうになる唇をわずかに持ち上げ、曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だった。
「中学の頃から、先輩って『面倒見のいい人』として有名でしたよね。人権作文で立派な賞を取ったりして、うちの父も先輩のことを褒めてました。だから私、ずっと先輩に興味があったんです。普通の人よりもしつこいくらい先輩のことを見ていて……それで気づいちゃったんです。『あ、この人、嘘ついてるな』って」
彼女は哀れむような表情を浮かべて、長い髪の毛を指でくるくると弄ぶ。
「本屋で割とハードで惨たらしい本を買ってたりしたじゃないですか。それに、あの作文の文章も、どこか上滑りしていて空々しかったというか」
彼女は少し眉尻を下げ、本当に困ったような顔で言った。胸の奥に、じわじわと不快な澱が広がっていく。泥のように捉えどころのない疑念と苛立ちが、僕の頭の中でないまぜになっていく。
「安心してください! 別に責めてるわけじゃないんです。……というか、少し場所を変えませんか?」
彼女に促されるまま、僕たちは図書館棟の脇にあるベンチに腰を下ろした。自販機のコンプレッサーが、低くじぃじぃと唸りを上げている。
「それで……僕の性格が終わっているとして、君に何か迷惑をかけたか?」
ベンチへ移動するまでの間に、僕はなんとか平静を取り戻していた。同じ中学の出身だったらしいが、まるで記憶にない。
大勢の中の一人。せいぜいスクールカーストの真ん中あたりにいた地味な生徒だろう。そんな相手に本性を知られたところで、痛くも痒くもない。
「まさか。むしろ助かるなって思ってます。私、自殺したいんですけど――そのためには、どうしても人を一人、殺さなきゃいけないんですよ」
そう口にした瞬間、彼女の瞳が特別な光を帯びて煌めいた。淡々としたその声は、耳に心地よい雨音の囁きによく似ている。
「……人殺し?」
眉を寄せる僕に、彼女は満足そうに小さく頷いてみせると、スクールバッグから一冊の大学ノートを取り出した。開かれたページには、丁寧な文字が並んでいた。
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・出産育児一時金などの母子保健……約100万円
・児童手当等の総額……約240万円
・就学前の保育・幼児教育費……約350万円
・小・中・高校の公費支出……毎年約100万円×11年=1100万円
・その他インフラ・社会維持費……約700万円
合計金額:約2500万円
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箇条書きされた項目と「自殺」の結びつきが理解できず、僕はノートと彼女の顔を交互に見比べた。当の本人は、こちらの困惑など意に介さず飄々としている。
「先輩。私、高校に入ってからずっと死にたくてたまらないんです。でも、世間じゃ『自殺はダメだ』って言うじゃないですか。なんでダメなんだろうってずっと考えてたんです。命は大事だとか言われてもピンとこないし、死んで悲しむ友達なんて私にはいませんから」
彼女はどこか寂しげに笑い、「親も悲しみませんよ。私よりずっと優秀な兄がいるし。世間体くらいは気にするかな」と付け加えた。
「それで毎日考え続けて、ふと気づいたんです。私、これまで生きてきただけで、とんでもない額の税金を使っちゃってるなって。約2500万円の公金が私の身体に投資されてるんです」
トントン、と彼女の人差し指が「2500万円」の数字を叩く。
「私が生まれた瞬間、国家は『こいつは将来働いて税金を納めるだろう』と見込んで、2500万円も前払いしてくれたんですよ? それなのに、一円も稼がないまま勝手に死んだら、社会に大損害を与えちゃうじゃないですか」
「……馬鹿馬鹿しい。じゃあ君は、病気や事故で夭折した子どもたちは全員社会の害悪だったとでも言いたいの?」
「どうしてそうなるんですか? 病気や事故で亡くなった子たちは、十分すぎるほど社会に貢献してますよ。病気なら貴重な臨床データを提供して医学の進歩に寄与したし、事故なら安全基準を見直すための有益な契機になった。立派な貢献です」
僕は小さく息を吐き出した。冗談の類かと思ったが、彼女は大真面目なのだ。自分という存在に投じられた投資に見合う対価を支払わずに死ぬのは、許されない「借金踏み倒し」なのだと心底思い込んでいる。
「健康なまま、ぬくぬくと与えられたものを貪って、漫然と生きてきちゃったんです。私は投じられた税金に見合う社会貢献を何ひとつしていない。だから――まだ自殺するわけにはいかないんです」
「その理屈はおかしいよ。政府だって、生まれた子ども全員から投資分を一律回収できるなんて期待していない。高二なら数学で期待値くらい習っただろう。一定の割合でドロップアウトが出ることも織り込み済みで予算を組んでる。死にたいなら勝手に今すぐ死ねばいい」
くだらなさに呆れ返り、僕はベンチから腰を浮かせた。だが、彼女は慌てて立ち上がり、僕の制服の裾を掴んで引き留めた。
「でも、それじゃすっきり死ねないんです! 社会に莫大な借りを作ったまま、個人的な我が儘で死ぬなんて。そんなの……そう、マナー違反です! このままじゃマナー違反だから死ねない! 死にたいのに、行儀が悪くて死ねないんですよ!!」
必死な形相で訴えかけてくる彼女を見下ろしながら、僕の口元がわずかに引き攣った。あまりにも律儀で、狂気じみた「お行儀の良さ」だ。普通、死のうとする人間が社会の損益分岐点など気にするものか。
「……じゃあどうしろって言うんだ。僕に2500万円工面して、募金箱にでも投げ入れてこいと?」
苛立ちを隠さずに吐き捨てると、彼女は真剣な眼差しで僕を見据え、首を横に振った。
「だから、人を殺すんです」
「……は?」
「私、すぐにでも死にたいんです。でも、2500万円をまともに返済しようとしたら、何年も働かなきゃいけないじゃないですか。そんなの待てない。だから思いついたんです」
彼女の表情から翳りが消え、ある種の全能感に満ちた、傲岸な笑みが浮かんだ。
「先輩、知ってますか? 受刑者を刑務所で一年間養うために、税金が一人あたり約300万円も使われてるんですって。ニュースでその数字を知ったとき、私、ちょうどいいと思ったんです」
嬉々として、彼女は語る。
「懲役10年くらいになりそうな凶悪犯を見つけて、警察に捕まる前に、私の手で殺すんです。そうすれば、国が刑務所で使うはずだった3000万円が浮く。私の手で社会に3000万円の利益を生み出せば、2500万円の負債を綺麗に清算できるんです」
狂っている。論理の前提も結論も破綻している。だが、その狂熱の熱量に、僕は気圧されていた。
「……馬鹿を言うな。相手が犯罪者だろうと、殺せば君が殺人犯だ。今度は君自身を養うために、毎年300万円の税金が垂れ流されることになる」
「そこもちゃんと計算済みです。対策は完璧ですよ」
「対策?」
「『急迫不正の侵害に対し、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない』」
刑法の文言を、彼女は淀みなく暗唱した。
「正当防衛です。凶悪犯に自分を襲わせて、反撃の過失で殺してしまったことにする。未成年の女子高生がパニックになって抵抗した結果なら、情状酌量の余地しかない。それに、私は未成年だし。逮捕もされません!」
「正当防衛を偽装して、合法的に殺す……?」
「ええ。でも、私一人じゃ力負けして返り討ちに遭うかもしれない。だから先輩に手伝ってほしいんです。……先輩だって好きでしょう? 残酷でむごたらしいものが大好物じゃないですか。人を合法的に殺害できるんですよ? やってみたくないですか?」
「バカバカしい」
僕はそう言って、立ち上がった。しかし、口ではそういいつつも、心の中では激しく彼女の言葉に動かされていた。人を殺す……自分の手で誰かを苦しめる。
「明日の放課後。図書館で待っています。もしも、私の自殺を手伝ってもいいなと思ってくれたなら、明日も声をかけてください」
彼女は今度は引き留めなかった。僕の出す答えをわかりきっているとでもいうかのように。
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「昨日の話だけど……そもそも、君の条件に都合よく当てはまるような人を見つけること自体、難しいんじゃないか?」
翌日の放課後、結局のところ僕は自ら図書館で彼女に声をかけていた。
驚かされたのは、彼女の変貌ぶりだった。昨日までの陰気でくたびれた佇まいはどこへやら、制服には皺ひとつなく、長く伸びた黒髪も艶やかに整えられている。こうして背筋を伸ばされると、息を呑むほど凛とした美少女だった。要するに、これまでの惨めな姿は、僕を釣り上げるための入念な「撒き餌」にすぎなかったわけだ。
「実は、ずいぶん前から目星をつけてる人がいるんです!」
彼女は堂々と答えた。さすがに図書館内で続ける話ではないと察したのか、僕を手招きして図書館近くの東屋へと誘う。
東屋の周囲は、鮮やかな初夏の花々に囲まれていた。六月上旬の湿り気を含んだ大気の中、紫陽花が静かに青を深め、早くも花菖蒲が凛と咲き誇り、夾竹桃が今にも蕾を綻ばせようとしている。
「最近、この近隣で若い女性を狙っている連続通り魔がでてるんです! ちょうどよすぎる犯罪者です!」
「連続通り魔?」
彼女の口から転がり出る言葉を聞いて、僕は周囲を見渡す。
周囲を見渡しても、僕たち以外に人影はない。普通科棟から離れたこの東屋は、手入れの行き届いた景観ゆえにパンフレットの表紙を飾ることはあっても、生徒たちにとってはただの無駄な遠回りスポットにすぎない。私立校特有の、見栄えのためだけに作られた贅沢な死角だった。
「知りませんか? 今年の三月頃、満員電車で女性の髪やスカート、ブランドのバッグが切り裂かれる事件が相次いだんです。それに四月には、帰宅途中のOLが知らない男に刃物で顔を切りつけられる事件が二件も起きてる」
言われてみれば、僕もネットの片隅で目にした記憶があった。最近、僕たちの住む街では、女性が傷つけられる事件が多発していた。標的となったのが清潔感のある会社員や華やかな女性ばかりだったことから、歪んだミソジニーをこじらせた通り魔の同一の犯行ではないかと警察が警戒を強めていたはずだ。
「あの犯人、まだ捕まってなかったのか」
「捕まってないよ。このあたりの女性はみんな怯えてるんだから」
義憤を滲ませるように彼女は言うが、僕にとってはどうでもいい話だった。持ち物や顔を少し傷つけられた程度で、誰も死んでなどいないのだから。
「で、この男を釣ろうと思うの。通り魔が私を切りつけようとした瞬間に、パニックになって過失で殺しちゃった……っていう筋書きにしようと思って」
「まぁ、それはいいとして。どうやってその男を釣るの? 相手が現れるまで、この辺りを徘徊しようとでもいうの?」
「そんな非効率なこと、するわけないじゃないですか」
彼女は心外だと言わんばかりに小さく吹き出すと、スマートフォンを取り出した。迷いのない手つきで画面を数度タップし、僕の目の前へ突き出してくる。
ディスプレイに映し出されていたのは、あるSNSのタイムラインだった。公開設定のアカウントで、フォロワー数は数千を超えている。なかなかの影響力を持つ人気アカウントのようだった。
『今日はお父さんとディナー。少し味が濃かったけれど美味しかったです』
『模試を頑張ったご褒美に買ってもらいました』
『生まれて初めてのマクドナルド! 意外と美味しいんですね!!』
高級フレンチやブランド品の煌びやかな写真とともに、鼻につくほど世間知らずで薄っぺらな投稿が並んでいる。絵に描いたような無邪気なお嬢様アカウントだ。僕は呆れ半分で指を滑らせていたが、ある写真の前でぴたりとスクロールを止めた。
画面の端に、見覚えのある僕たちの高校の制服が写り込んでいたのだ。
「……これ、君のアカウントなのか?」
「そう。あの連続通り魔事件のニュースを見た直後に立ち上げてみたの。裕福で、何不自由なく恵まれていて、見てるだけでイライラするくらい能天気な女子高生のアカウント。たまに男の人を遠回しに煽るような投稿も、混ぜたりしてます!定期的にプチ炎上してるんですよ」
悪意の結晶を誇るように、彼女の唇に無邪気で冷酷な笑みが深まった。
「ミソジニーをこじらせた通り魔の男が見たら、“こいつを標的にしたい”と思うようなアカウントにしたんだ。今は、正当防衛で殺せる自信がないから試験運用の段階だけど……先輩も助けてくれるし、そろそろ標的になれるように本格的に動かしてみようかなって。写真の端っこにさりげなく住所とか私のスケジュールがわかる情報を写り込ませたりしてね」
「……だけど、住所まで割れて放火でもされたらどうする。君の両親にまで火の粉が及ぶかもしれないんだぞ」
問い詰める僕を、彼女は心底意外なものを見るように見つめ返した。長い睫毛が何度か瞬き、一拍の空白を置いてから、拍子抜けするような声が返ってくる。
「いないよ、家族なんて」
「……いない?」
「いないっていうか、一緒に暮らしてないんだよね。私には優秀なお兄ちゃんがいて、国立の医学部を目指して浪人中なの。ピリピリしてて、能天気に生きてる妹が目障りなんだって。だから私、一人暮らし用のマンションで別居してるの」
あっけらかんと、彼女は語る。
「その代わりお小遣いをたくさんもらえてるから、こうやって裕福なアカウントを偽装する軍資金には困らないんだけどね」
まるで他人事のように肩をすくめてみせた。
「……君が死にたがっている理由はそれか? 両親に冷遇されているから、当てつけに死にたいの?」
安易な同情を向けられたのが気に障ったのか、彼女は微かに眉根を寄せた。
「まさか。もう高校二年生だよ? 『親の愛がほしい』なんて、赤ん坊みたいに駄々をこねる歳じゃないでしょ。単純に、面白くないから死にたいの」
スマートフォンを鞄の奥へ滑り込ませながら、彼女は淡々と言葉を継いだ。
「面白くない?」
「先輩は、小説とか漫画とかよく読むほうでしょ?」
彼女はそう言って、図書館のほうへ視線を向けた。薄いカーテンの向こうに、談笑している生徒たちの人影が透けて見える。
「小説や漫画って、大人が描いているのに高校を舞台にしたものばかりじゃない? 主人公も、せいぜい大学生くらいまでが多い気がする」
彼女の指摘に、僕は内心で同意する。商業的にヒットしている作品の多くは、十代からせいぜい二十代前半の若者を主人公に据えている。
「きっと、今がピークなんだと思う。人生で一番輝いていて、物語になる瞬間って、この時期なんだよ」
彼女は少し寂しげに笑った。血色の薄い横顔はどこか儚げで、体温すら感じさせない。
「今がピークで楽しいから、満足して死にたいってこと?」
「違うよ。人生のピークとされるこの高校時代ですら、ちっとも楽しくないから。……だったら、ここから先の人生はもっと退屈で辛いんだろうなって思えてきちゃったの」
遠くのグラウンドから、運動部の掛け声と乾いたホイッスルの音が風に乗って届く。その生命力あふれる響きに当てられたのか、彼女はわずかに疲れたように目を伏せた。
「私、根本的に生きることが向いてないんだと思う。人生を人並みに器用にこなす自信がない。将来やりたい仕事なんて何ひとつないし、かといって誰かと家庭を持って良い母親になれる気もしない。適当に選んだ職場で、毎日『つらいな』って思いながら……生きているというより、ただ存在しているだけの日々を過ごすことになるんだと思う」
「そこまで悲観するなら、いっそ型破りなことでも始めればいい。何かが変わるかもしれないだろ」
「どうかな。それすら億劫で……。死にたいというより、呼吸して身体を維持することそのものが面倒なの。この身体を持て余している感じがするんだよね」
彼女は手のひらをゆっくりと開閉させながら、青空の奥を仰ぎ見るように目を細めた。
「きっと私はこれからの人生でも……これまでがそうだったように、『つらいな』と感じることばかりなんだと思う」
深く、底から吐き出すようなため息。僕の目には、彼女のその悲観がひどく愚かしいものに映った。実家は裕福で、顔立ちだってよい。楽しいことを見つけようと思えば、いくらでも選べる立場にいるはずだった。
けれど同時に、彼女の言い分にどこか共感を抱いてしまう自分もいた。この歳になれば、嫌でも思い知らされる。僕たちは世界の特権的な主人公などではなく、所詮は社会の歯車に合わせて器用に立ち回ることを求められている存在に過ぎないのだと。
「イチ、ニー、サン、ヨン!」
思考に沈みかけていた僕の鼓膜を、唐突に弾んだ高い声が叩いた。意図が掴めず、僕は怪訝な眼差しで彼女を見つめ返す。
「イチ、ニー、サン、ヨン……?」
思わずオウム返しに呟いた僕を、彼女は楽しげに細めた瞳で見つめていた。
「私、死に方を決めてるの。飛び降りることにしたんだ」
僕の疑問には取り合わず、彼女は平然と告げた。飛び降り。以前、興味本位で調べた記憶がよぎる。確か、苦痛の度合いが比較的少ないと語られがちな自殺方法だ。
「知ってる? 人間って、ビルの十階くらいの高さから落ちたら、まず助からないんだって」
彼女はその場にすっと立ち上がり、両手を伸ばして気だるげに背伸びをした。
「計算してみたの。十階から地面に到達するまで、どれくらい時間がかかるか。せいぜい四秒。イチ、ニー、サン、ヨン……たった四秒後には、もう息絶えてる」
「イチ、ニー、サン、ヨン……」
「そう。直前には色んな感情が渦巻くと思うよ。『怖い』とか『嫌だ』とか、理屈じゃない本能の抵抗とかね。でも、所詮はたったの四秒間だよ? その四秒の間に、人間が味わえる苦痛の総量なんて、一体どれっぽっちだと思う?」
僕は無言のまま、頭の中で秒針を刻んでみる。イチ、ニー、サン、ヨン――確かに、その一瞬に脳が知覚できる苦悩の幅など、知れているのかもしれない。
「平均寿命まで生き延びるとしたら、あと六十年はある。その六十年間でだらだらと積み重なる苦痛の総量と、たった四秒間に凝縮された苦痛……比べたら、後者のほうが圧倒的に楽だと思わない?」
彼女は指を一本ずつ折りながら、淡々と損得勘定を弾き出すように言葉を重ねた。
「私にとっては死ぬほうがずっとコスパがいいの。だから、早く、終わらせたいんだよ」



