クラゲみたいな男の子


 どんなきっかけでそう思ったかは忘れてしまったが、俺、 江尾日向(えのおひなた)は、幼なじみの 玉城優栄(たましろゆうえい) のことをクラゲに似ていると思っている。




「優栄ってクラゲみたいだと思わない?」


 夏の眩しい光が窓に差し込む放課後。それは、キラキラとした青春を楽しむ高校生達が部活や、あるいは甘酸っぱい恋愛を楽しんでいる時間。……そんな中、薄暗い教室で暇を持て余している俺は、目の前にいるゲームに夢中な友人にそう話しかけた。


 すると、友人の明木善仁(あけぎよしひと)は、プリン髪をおもむろにかきあげたと思えば、とても面倒くさそうに、

「……くらげぇ?」

 と少しだけ顔を上げ、俺を睨みつけながらそう言った。

「そうなんだよ、明木にも意見を聞きたくて」
「まじでなんの話だよ……あ!きたきた!」

 俺がそのまま話を続けようとするも、明木はまたスマホに夢中になってしまう。あーあ、こいつはこうなるともう何も話が入っていかない。

 こらこら、ゲームも良いが友人も大切にしてくれよな!という思いを込めてスマホの前で手をプラプラちょっかいをかけると、ゲームのちゅどーんという爆発音と明木の「ああああああ!」という叫び声が響いた。

「あっ、えへへ」
「オイ、お前!俺に何か言うことないか?あ?」

 どうやらレアキャラがチリとなって消えてしまったらしく、明木を怒らせてしまったようだ。俺としてもそこまでしたかった訳では無いので、申し訳ない気持ちになる。

「ごめんね。飴ちゃんいる?」

 謝罪として、すかさず綺麗な包装紙に包まれている色とりどりの飴を差し出すと、明木は「しょうがねーな!」と言いながら、パイン味をご機嫌でひったくる。どうやら許されたようだ。

「で、優栄のことだっけ?クラゲに似てるって?」
「そうそう。どう思う?」

 そう言うと、明木は肘を机について飴を転がしながら考え始めた。
 彼は見た目こそ近寄り難いが、なんだかんだで俺のしょうもない話に付き合ってくれるような優しい男なのである、良い友人を持ったものだ。

 明木が考えている間、手持ち無沙汰なので俺も適当に飴を一つ口にほおりこむ。ぶどう味だった。うん、美味しい。

 カラコロと口の中で転がして楽しんでいると、明木がなんだか心配してるような、怪訝そうな顔で俺を見ていることに気がついた。

「え、なに?その顔?」
「……お前、アイツのことクラゲに見えてんの?どう考えても人間だろ、大丈夫か?」
「比喩表現に決まってるでしょ!この鈍感!」

 俺がツッコミを入れると、ほぉ……と、明木は生暖かい目をこちらに向けた。

「お前って比喩表現とか使えたんだな」

 コ、コイツ!!
 馬鹿にされた腹いせにチョップを喰らわそうとすると、ケタケタと笑いながら避けられた。
 明木は無駄に運動神経が良いのだ、ぐぬぬと歯を食いしばると口の中で飴が割れる。

「俺そんなバカじゃないし!」
「悪い悪い、冗談だよ、冗談……それにしてもクラゲか、なんでそう思うんだよ」

 明木は愉快そうな顔で、行儀悪く椅子をユラユラと揺らしている。余裕綽々の顔、誠に許し難いが、話が進まないので一度飲み込むことにする。忘れた頃に仕返しをしようと、そう心に誓って。

「いや、まぁ、それが思い出せないんだよね」
「……はぁ?」
「いや、ね、俺あいつのことずっとクラゲみたいだなって思ってるんだけど、きっかけも理由も思い出せなくて……」
「とりあえず俺に意見を聞いてみようって?」
「うん」

 お前なぁ……
 心底呆れたように明木が頭を搔く。俺だって無茶苦茶なこと言ってるのは分かっているが、思い出せないものは思い出せないんだからしょうがない。悲しいことに、俺の脳みその容量はそんなに大きくないのだ。

「そもそも、ずっとクラゲみたいだって思ってるって、いつから?」
「えっと、三歳くらいの時からかな」
「お前らそんな昔からの付き合いなの?」
「そうだよ。保育園の時からクラスまでずっと同じ」
「……だからお前ら一日中ベッタリなのか」

 納得したとばかりにはん、と鼻で笑われる。別に優栄と俺は言われるほどベッタリだとは思わないけど……。

「別にずっとって程じゃ無いでしょ」
「いーや、ずっとだよずっと、朝の登校から放課後まで」

 まったく、明木は少々大袈裟な所があるのだ。一日中は言い過ぎだろう。早速試しに今日一日を振り返ってみる。

 朝は、家から出ると優栄が待っているから一緒に登校して、休み時間は優栄が席まで来るから一緒に話して、いつものように昼ご飯も優栄と一緒に食べた。当たり前のように移動教室も一緒に行って、体育のペアも優栄が組みたがるから一緒に組んで……あれ?

 ずっと一緒かも、俺と優栄。

「確かにそうかも?」
「……気がついてなかったのかよ」

 明木が呆れたような声を出した。
 思い返してみると、確かに優栄は昔から「俺と一緒」に拘ってる部分がある。今日だけの話ではなくて、何年もそう。
 毎日一緒に登校もしているのだが、以前、俺が世紀の朝寝坊をかました時も、ドアの前でずっと待ち続けていたんだから驚いたものだ。
 ボサボサ頭でパンを咥えながらドアを開けた俺は、欠伸をしながら壁に寄りかかる優栄に、ドン!と少女漫画のようにぶつかると、

「なんでいるの!?」

 と目を丸くしたものだ。それなのに、当の本人は

「やっと来たねひーちゃん、おはよぉ」

 なんて呑気に挨拶をしてきたものだ。

 ちなみに、ひーちゃんと言うのは、俺のことである。可愛い響きではあるので、高校生の俺としては少々恥ずかしさがあるのだが、優栄が気に入っているので、まあ良いやと許してしまっている。俺は優栄に甘いのだ。

 それより、普通、友人であれど、寝坊していると気がついた時点で先に行くものだろ?
 だが、優栄は違うのだ。自分がどんなに遅刻しようが、俺を待ち続ける。

 それも全て、俺と一緒に登校するために。

 俺としては、家の前までいるのなら、時間になっても来ない時点でインターホンを押すなりして欲しいと思うし、実際言ってみた。

「優栄?寝坊した俺が悪いけど、家の前で待ってるなら起こして欲しいなぁ〜なんて……」

 すると、優栄はなんて答えたと思う?

「うーん、でもさぁ、ひーちゃんよく寝てるだろうから、起こすのは可哀想だよ」

 だそうだ。優栄は人を甘やかしてダメにするタイプだ。きっとそうに違いない。
 今回の起こさなかったことは優栄なりの優しさなので、それ以上は強く出られない俺は「そっかぁ……」しか言えなかった。元々俺が悪いので……。


 結局この日は、そのまま関係の無い優栄まで遅刻になってしまった為、それ以降の俺は寝坊をしないように毎日心がけている。とても偉い!



「逆に、お前と優栄が今一緒に居ないことが不思議なくらいだけどな」


 明木が耳元のピアスをいじくりながらそう聞いてきた。

「まあ、そりゃあ今は優栄のこと待ってる状態だからね」
「待ってる?」
「うん、先生に呼び出されたけど、俺と一緒に帰りたいから待ってて欲しいってさ」
「なるほど。お前もよく付き合うよな」
「うん、約束したから」

 約束は守れって、おばあちゃんが言ってたんで!
 そう思って胸を張る俺を見ると、明木はなんだコイツという顔を隠さずに出した。
 ふふ、自分の気持ちに正直なのは良いことだね、だけどそれを隠す優しさもあるんだよ、明木!

 まあ、そんなこんなで優栄のことばかり考えていたからか、ふと昔のできごとが頭をよぎった。

「そういえばさ……五歳くらいの時かな、俺と他の子が二人きりで遊んでるの見て、優栄が癇癪起こしたことがあったんだよね」
「へぇ、癇癪……玉城とは程遠い単語に思えるけど」
「そうだよね、優栄は穏やかだもんね」

 そう、優栄は穏やかな人である。
 ……まあ、ぽやっとしてると言われればそうだし、何も考えて無さそうと言われればそれもそう。ある意味掴みどころの無い奴なのである、彼は。
 そんな彼が、他の子と遊んでる俺を見て、とんでもなく怒って駄々を捏ねたのだから当時の俺も大変驚いた。
 だって、普段、優栄が自分の意見を通そうだなんてこと、一度だって無かったのだから。
 あの後はどうなったんだっけ?優栄の様子が強烈過ぎて、なんなら怖いくらいだったから、そこのシーン以外はあまり覚えてない。……まあ、きっと先生が何とかしたのかもしれない。
 それ以降は優栄の怒った姿は見たことがない。優しくて、穏やか、それが優栄。


「確かに、そう考えてみれば似てるのかもな」

 明木の一言で過去から現実に引き戻される。
 はて、似てる?似てるって何が?

「何の話?」
「……クラゲだよ、お前が言い出したんだろ」

 あぁ!そうだった!俺は最初クラゲと優栄の話をしていたんだった!

「どこがどこが!?どこがそう思う!?」

 俺が身を乗り出して聞くと、明木は少し引きながらも、もにょもにょと口を開いた。

「ほら、今言ってた穏やかな所?クラゲってなんか、ふわふわしてて穏やかな感じするから」
「うんうん、そうだな。後は?」
「……」
「…………」

 えっ?それだけ?

「えっ?それだけ?」

 つい口に出てしまった。だって、こう、もっとあっても良いでしょ!?

 明木はちょっと困ったように眉をひそめて口を尖らせた。
「何だよ、不満か?」
「いや……言いたいことはわかるし、俺もそう思うんだけど、何となく腑に落ちないというか……違う理由、もっと思いつかない?」
「一つあれば充分だろ、それに俺、アイツの事よく知らないし」
「俺達全員二年間同じクラスなのに……」
「あんまり話したこと無い!ギブアップ!」
 明木が降参して両手を上げる。

 えーーと、残念がってみるも、それ以上意見は出なさそうだった。

 ちえーと俺が拗ねた顔を作っていると、明木の目線が俺の後ろに行ったと同時に、突然俺の顔に影がかかる。

「……ねぇ、何の話してるの?」
「うわっ!」

 少し暗めの、心地の良いテノールの声。そして銀色の髪の毛が視界に入る。
 髪の毛は光をピカピカと反射していて、とても綺麗だ。眩しくて思わず瞬きをしてしまう。
 ……もちろん、俺はこの特徴的な髪の毛に覚えがあった。

「優栄、おかえり」

 俺が顔を上げて髪の毛の持ち主の名前を言うと、俺のことを上から覗き込んでいた優栄はゆっくりと顔を上げた。
 そして、優栄は右側だけ長く伸ばしている髪の毛をゆっくりと耳にかけたと思うと、

「ひーちゃん、おまたせ」

 と、とろけるような笑顔でそう言った。

 綺麗な銀髪、緩やかな雰囲気を生み出すタレ目、涙ボクロ……右目を隠している前髪。何度観てもミステリアスで色っぽい雰囲気を醸し出している。
 全世界の女子が黄色い声を上げるくらいの美形。
 顔を合わせると、深い海のように綺麗な優栄の瞳に、平凡な俺の姿が反射して見える、そのチグハグさになんだか少し笑いそうになって目を逸らした。

「お、やっと来たな」

 明木が優栄に声をかけた。
 やっととはなんだ全く、そう思いつつも優栄の様子を見ていると、彼はなんだかぽやっとした顔をしていた。
 ぽやっとと言うか、なんだか不思議そう?
 ……優栄、まさか。

「ねぇ、ひーちゃん、この人、誰?」


 まさかだった。こいつ、クラスメイトの明木のこと、覚えてない。……いや、そもそも知らない?
 明木も絶句している。二年も一緒にいるクラスメイトに名前すら覚えられていないとなると、流石にショックを受けるだろう。

「嘘でしょ優栄、コイツ明木だよ、明木善仁!二年間同じクラスの!」
「……ふぅん」
「この間グループワークで一緒になってたよね?」
「そうなんだ。それよりひーちゃん、この人と何の話してたの?」
「なんなら修学旅行の班も一緒だよ?」
「ねえ、……何の話してたの?」

 俺の全力の明木紹介も、優栄の頭には全然入っていかないようで……流石に明木が可哀想だ。俺だったら三日は引きずるだろう。
 でも、当の本人である明木は、そこまで気にしてる様子は無いのか、はぁ、とため息をつくと、

「……安心しろよ、コイツ、ずっとお前の話してたぜ」
 と、俺を指さしてそう言った。
「僕の話?」
「そうそう、お前がクラゲに似てるって話、それだけだよ」
「……ふうん。そっか、ひーちゃん、僕の話してたんだ」
 優栄がふにゃりと笑う。
 なんだか改めて言われると恥ずかしい気がしてきた。
「いやぁ、まあ?それだけじゃないよ?ちゃんとニュースとかそういう話とかもしてたし……」
 俺は照れ隠しにインテリな嘘を挟む。だってただでさえずっと一緒にいるのに、いない時にまで優栄の話をしてるなんて、なんだか恥ずかしいじゃないか。


「嘘。ひーちゃんそもそもあんましニュース見てないでしょ」
「なんですぐ分かる嘘つくかね、バカだな」

 コイツらボロくそ言うじゃん。

「貶すな、泣くぞ!」
「貶してないよ。ひーちゃんはちょっとだけ頭が可愛いだけで、可愛いから良いんだよ、むしろ褒めてるよ」
「んんん?褒め……褒められてる?これ褒め言葉?今俺褒められた?」
「おい馬鹿!騙されてるぞ!」

 明木の一言でハッとなる。危うく騙されるところだった!
 じろりと優栄を睨むと、優栄はくふくふと口を手に当てて笑ってるものだから、気が抜けて項垂れる。
 ……優栄が楽しそうだからいいか。うん。

 さあ優栄も来たしと、時計を見るともうすぐ一八時をさそうとしていた。学校自体は一九時まで居ることができるが、あまり遅くなっても家族に心配を掛けてしまうだろう。

「そろそろ帰るよ」

 スクールバッグを肩にかけ、俺がそう切り出す。
「おう、また明日」
「うん、明木もあまり遅くならないようにね、気をつけて帰るんだよ。優栄も帰ろ?」

 母ちゃんみてえだな……と後ろで呟く明木をスルーしてゆっくりと歩き始めようとした時、優栄が俺の半袖をグイと引っ張った。

「ひーちゃん。何か食べてる?」
 優栄が首を傾げる。どうやら俺の食べている飴ちゃんが気になったらしい。
「ん?飴ちゃんだよ、飴ちゃん。いっぱいあるからあげようか、明木にもあげたしね」

 いちごと、みかんと、メロン、パイン。
 カラフルな飴ちゃん達を手に広げて優栄に見せる。沢山あるからなんでも取り放題だ。ほーらどうぞと顔をあげると、優栄の様子がなにかおかしい。

「へぇ……この人にもあげたんだ」
 優栄の目がスッと細くなり、影を宿す。あれ?なんか不機嫌?

「この人って……明木ね。待ってる間にあげたんだ。もしかして、優栄は飴ちゃんいらなかった?」

「ううん。そういう訳じゃないけど……」

 そう言うと、ふいっと顔を逸らされた。こんな顔をするなんて珍しい。もしかして、呼び出しで疲れているのかな?
 そう思っていると、口を尖らせた優栄がボソリと

「じゃあ、ひーちゃんと一緒の味が良い」
 と言った。

「ん?」
「ひーちゃんと一緒の」
 どうやら、優栄は俺が食べてたぶどう味が食べたかったらしい。
 確かに、人が食べてるのって美味しく見えるよね、わかる。でも、残念ながら、ぶどう味は俺の口にあるもので最後だ。

「ごめん、もうぶどう味は無いよ、売り切れ。俺が最後の食べちゃったんだ」

 そう言うと優栄はより不機嫌そうな顔になる。うーん、困った。

「あっ、ほら、明木と一緒のパインならあるよ」
「はぁ?……やだよ」

 優栄はキュ、と眉を顰めると睨むようにして俺を見た。
 代替案もダメときたか……。でも、ないものは無いのだ。困って明木を見るが、「なんでもいいけど巻き込むなよ」と呟いて、スマホを見始めてしまった。さて、どうしたものかと考えていると、優栄が何かを思いついたような顔でコッチを見ていた。

「ひーちゃん、あーん」
「?あーん」

 突然の優栄の言葉に俺はつい反射で口を開いた。
 あーんって、子どもみたいじゃないか。
 そう言おうとしたが、優栄が真っ直ぐに俺の口に人差し指を差し込んだせいで、何も言うことができなかった。

 まて、俺の口に人差し指を差し込んだだと?

「……!?!?」

 何やってるのこの人!?
 驚いている俺とは対照的に、優栄はゆるりと微笑みながら人差し指を動かし始める。

 ぴちゃりと音が立った。
 咄嗟に舌を使って指を押し出そうとすると、指の腹がゆっくり舌に触れて背中がぞわりとした。
 目の前の優栄に対して止めるように目線を送るも、楽しそうに目を三日月のように細めるだけで、指はそのまま。どうやら止めるつもりはないらしい。
 仕方が無いのでされるがままにしていると、人差し指はそのまま何かを探しているような動きで右へ左へ動き回る。
 視界の端では明木がドン引きしている顔が見えた。
 明木、こんなの見せてごめん。別に俺も見せたい訳じゃないんだけど。

 そして、人差し指は、半分になった飴の欠片を見つけるやいなや、俺の口から引っ張り出して、そのままひょいと自分の口の中に入れた。

 優栄の口の中でカラリと飴玉の音がした。

「うん、美味しいね」

 ……優栄は大変ご満悦だった。
 対して俺は呆然として何も言えないままポカンと口を開けていた。

 シンと静まり返る教室は、とても気まずい空気で溢れていた。

 そんな中、明木がボソッと、


「あ、何考えてるかわかんねぇ所、クラゲっぽい」


 と呟いた。
 明木、それに関しては俺も同感だ!






 玉城優栄は昔から掴みどころの無い人間だった。
 世間一般的には天然と言うのだろうか。明木の言う通り、幼なじみの俺であっても何を考えているかわからないことだって多い。
 昔、夜に優栄が泣きながら電話を掛けてきたことがあった。
「ひーちゃん、どうしよう」
 と、震えた声だけを流し、電話はすぐに切れてしまう。
「優栄!優栄!?」
 大変焦った俺は、それはもう急いで隣に住んでいる優栄の家に向かった。
 インターホンを押すが、反応は無い。試しにドアの取っ手を引くとカチャリとドアが開いた。鍵が掛かっていないことに血の気が引く。
 緊急事態かもしれない、勝手に人の家に入るのは気が引けるが、今は仕方がないだろう。そう思った俺は家に入ることにした。

 さて、急いで家の中に入ったは良いものの、優栄はどこにいるのかがわからない。なので、まずは玄関に近い所からと、真っ先にリビングを覗くことにする。

 ……すると、なんということでしょう。
 そこにはボロボロになった焼き魚が乗ったお皿を前にして、えぐえぐとしゃくりを上げる優栄の姿があった。

 いや、どういうこと?

 はて、この子はなんで魚を前にして泣いているんだろうか?まあ、泣いてるんだから余程の理由があるに違いない。

「どっ、どうしたの?優栄」

 俺が混乱しつつも優栄に話しかけると、優栄は、ひーちゃん……と呟いて、涙を流しながら話し始める。

「焼き魚をレンジでチンしてね、熱すぎたから冷やそうと思ってね」
「うんうん」
「しばらく庭に置いておいたの」
「うん、……うん?」
「そしたらハクビシンに食べられちゃったぁ」


 いや、どういうこと?


 俺が頭の中が宇宙に侵食され始めているように感じたが、そんな最中にも優栄はえぐえぐと泣いている。
 焼き魚なら熱かったら冷めるまで置いておくか、冷蔵庫に入れるとかあっただろうに。なぜ庭に出したのか?まぁ色々思うことはあった。

 でも、そんなことはどうでも良いのだ。大事なのは目の前の優栄が悲しんでいるという事実だし……。

「まぁ、そういうこともあるよね……」
 とりあえず、背中をポンポンしてあげた。
 まあ、そういうこともあるよね、……あるんだよ!

 その後、俺は優栄に簡単な野菜炒めを作ってやった。優栄のお母様は所謂シングルマザーで、昔から家に帰る時間がとても遅く、夕飯はいつも机の上に置いてある。
 優栄はいつもそれを食べているのだが、今回メインのオカズが無くなってしまったのだ。流石に白米だけでは物足りないだろう。
 なら優栄が自分で作れば良いだろうと思うだろうが、そうもいかない。
 簡単な話、優栄の生活力は壊滅的なのだ。
 料理をすればまな板を血塗れにし、洗い物をすれば皿とコップを割り、掃除をすれば逆に汚し、アイロンをすればボヤ騒ぎを起こす。
 そんな彼のことを優栄のお母様は非常に心配しており、当時の小学生だった俺に

「何かあったら、優栄のこと、お願いね」

 と俺の肩がめり込むくらいの力で手を置きながら血走った目でお願いする始末。

 おいおい、小学生に頼むには些か責任が重すぎないか?

 今ならそう思うが、あまりの迫力に当時の俺は「ひゃぃぃ……」と情けない声で返事をすることしかできなかったのだ。
 ……それに、なんだかんだ言っても、俺自身だって優栄のことを心配してるのだ。泣いてる顔なんか見たくない。なぜなら胸がキュッとなるから。
 そんなこんなで俺はこの幼馴染の世話を焼き続けている。
 ちなみに野菜炒めはとても好評で、
「えへ、ひーちゃんの味がする」
 と、とても喜んでいた。
 作っている間に味見はしたが、塩コショウと醤油と鶏がらスープの素の味しかせず、勿論俺の味なんてものはしなかった。きっと優栄の舌はぶっ壊れてるのかもしれない。

 昔からこんな調子だから、今更口の中に指を突っ込まれたところで、まあ、優栄だし……で済ませてしまう辺り、俺も彼に適応し過ぎてしまっているような気もする。
 まあ、時には流されることも大事だよね、きっと、多分、うん……。


 そんな生活力皆無かつ、天然男子の優栄の摩訶不思議なエピソードはもっと沢山あるが……勿論、そんな彼にだって得意なことや、凄いところもある。

 では、それは何か?

 それは……生活する上で必要な事以外の全てのことだ。

 運動神経は抜群、大抵のことは見ただけで簡単に真似できる。

 歌を歌えば音楽教師は涙を流しながら拍手し、

 絵を描かせれば美術教師が絶望し筆を折る。

 ちなみに、これは比喩では無く、実際に起こったことである。
 随分なことだが、当の本人は何でもないような顔で「大袈裟だね」と言ってのけていたのだから、まぁなんとも罪作りな男である。
 それだけ器用なのに、なぜ家事ができないのだろうか?ナスカの地上絵と同じくらいの謎だと思う。解明できた人には是非何かしらの賞を与えて欲しい。
 俺には分からなかった。誰かよろしく頼むぜ。

 ここまで来れば察するだろうが、勿論、優栄は頭だって悪くない。むしろ……

「全教科95点以上ってお前……」
「いえーい」

 飛び抜けて良いんだこれが!
 五段階評価の通信簿が全て五で埋まる男。それが目の前にいる玉城優栄なのである!

 ……帰り道の何気ない会話なのに、自分の平均点スレスレのテストと比べたことで予期せぬダメージを負ってしまった。
 そりゃあ、頭の違いというのをこうも突きつけられると、いつもポジティブシンキングの俺も多少はヘコむものだ。

 俺だって勉強してるんだけどなぁ……
 げんなりした顔で優栄を見上げると、ほっぺを人差し指と親指で押された。
 ぶにゅ、とタコチューになった俺を見て、優栄は指をむにむにと動かしながら
「あは、ひーちゃんかあいいねぇ」
 とくふくふ笑っている。

 なんだかからかわれているような気もするが、俺は優栄の笑っている顔が好きなのでそのままにしておいてやる。俺の心の広さに感謝して欲しい。

「ひーちゃんは今回数学は赤点?」
「ぐっ……」

 悪気が無いとはいえ、随分ズバッと言うじゃないかこの男は!
 痛いところを突かれた。優栄の言う通り数学は赤点である。
 公式を覚えるだけと言う人がいるが、覚えて尚且つ計算することへのハードルが高いんじゃないか。だから数学は苦手なんだ。
 まあ、かと言って数学以外の教科の点数が良いかと聞かれれば、そんなことは無いんだけどね、悲しいことに。
 テスト期間は毎回優栄に勉強を教えて貰っているのだが、いつもこんな結果だ。
 俺の得意教科は家庭科だけ、お願いです。ずっと調理実習だけさせてください。先生、俺できます、やらせてください……。

「落ち込まないでひーちゃん、大丈夫だよ。また一緒に勉強しよね」
 優栄は嬉しそうにふにゃりと笑う。

 そうは言うけど、そりゃあ俺にだって申し訳ないという気持ちはある訳で……。
 そして絶賛ネガティブシンキングに陥っている俺は、ふとこう思った。
 どうしてこんな完璧な彼が、面白みのない平凡な俺と一緒にいたがるのだろう?

 俺はこれといった特技も無いし、別に性格も尖っている訳でもない。自分で言うのもなんだが、平凡の擬人化、それが俺なのだ。

 今までの俺は、優栄が俺と一緒にいたがることが当たり前のように思っていて、なぜそうなのかというこに疑問を持たなかった。……だって、出会った時からそうだったから。

 彼は俺以外の友達がいない。
 ……いや、作ろうとしていないというのが正しいのかもしれない。

 保育園から小学校に上がりたての時はまだ分かる。新しい環境の中で不安の中、顔見知りで仲の良い幼なじみと一緒に過ごしたいというのはよくあることだと思う。だが、優栄はもう高校生だ。
 ……ますます優栄のことが分からなくなる。
 まあ、考えたところで仕方がない。

「ねぇ優栄?」
「んー、なぁに?ひーちゃん」
「優栄ってさ、なんで俺と一緒にいたがるの?」

 分からないならさっさと聞けばいい。
 ちなみに、これはばあちゃんの教訓である。この教訓のおかげで、江尾家は人間関係の悩みを家に持ち込む人が少ない。みんなポジティブ、素晴らしい!

 優栄は俺の急な質問に驚いているようで、ぽやんと口を開けていた。
 そして、ぱち、ぱちと瞬きをしたと思うと、ゆっくりと話し始める。


「……僕が初めて保育園に行った時」
「うん」
「寂しくて泣いちゃって」
「うん」
「そしたら、ひーちゃんが話しかけてくれたでしょ?」
「……そうだったっけ?」

 保育園児の時の記憶は、正直あやふやな所が多い。優栄は逆によく覚えているなと少し感心する。

「……酷い、忘れてる」

 優栄が頬を膨らませながら俺のおデコにデコピンをした。
 ギャ!痛い!
 いててと言いながら、ヒリヒリするおデコをさすっていると、優栄が至近距離で顔を覗き込んできた。

「……ひーちゃんだけ」
「うん?」

「ひーちゃんだけが、僕に話しかけてくれたんだよ」
「……あぁ、そう、だったっけな」

 ……そうだ、思い出してきた。
 三歳の時、俺が生まれて初めて優栄と出会ったのは、雲ひとつない真っ青な夏の日だった。
 周りに木が多い保育園だったから、蝉時雨がよく聞こえていた。

[newpage]

 優栄は、転園してきた子だった。

 後から知ったことだが、親の離婚がきっかけだったそうだ。

 今思えば、優栄は自分の心の整理もつかないまま知らない環境に飛び込んできた訳だから、すっかり萎縮してしまって、誰にも話しかけることができなかったのかと思う。
 転園初日、園児達が各々の友だちとキャイキャイと遊んでいる中、優栄はポツンと一人で園庭の隅の日陰で小石をつついていた。
 俺のいたおひさま組は、どうにもヤンチャな子が多く、先生たちは喧嘩をして大泣きをしている子どもたちの仲裁や、場所を選ばずに走り回る子どもたちの対応で精一杯だったのか、大人しい優栄は後回しにされてしまっていたように思う。
 俺は、その優栄の丸っこい背中がどうにも凄く寂しそうで、友達としていた砂遊びをやめて、声をかけることにしたのだ。

「きみ、ゆーえいくんだよね?」
「!」

 声をかけられた優栄はとても驚いて、肩をビクッとさせた。
 後ろから見た時には気が付かなかったのだが、真正面から顔を見たことで、まん丸の目から大粒の涙がぽろぽろと落ちているのが見えた。
「ないてるの?」
 指摘されたのが恥ずかしかったのか、何も言わずに鼻をすすって、ぷい、と顔を背けてしまった。
「おめめ、とけちゃうよ」
 これは俺がお母さんによく言われていた言葉だ。
 昔は何かあって泣く度に、お母さんが笑いながらハンカチで涙を拭いてくれていた。
 この時の俺も同じようにしてあげたかったのだが、生憎ハンカチを忘れてしまっていたので自分の袖で豪快に優栄の涙を拭ってやる。
 ゴシゴシと強い力で擦ったと思うのだが、優栄は何も言わずされるがままだった。

「あれ?涙、止まらないね」
「……寂しくて、かなしいから」
 優栄がボソッと呟いた。

「寂しくて、かなしいの?」
「……うん。みんな僕なんか、いらなくって、だからいなくなっちゃって、だから、だけどっ……」

 一度話し出すと、いよいよ我慢ができなくなったようだった。コップから溢れ出た水のように、優栄の口からは、次々に悲しい言葉が出てくる。

 だけど、俺はバカだから、なんて言っていいか分からなかった。だから、隣に座ることしかできなかった。

「……」

 やがて、優栄は鼻水をすすりながら下を向いてしまった。せっかく拭ったのに、また大粒の涙がポロポロと優栄の頬を伝って地面に溶けていく。
 優栄は、ひぐ、ひぐとくぐもった声を出しながら、自分を守るようにギュ、と震えながら縮こまってしまった。
 俺はその姿を見た時、胸がギュウ、と締め付けられるような気がして、どうにかして彼に笑って欲しいと思ったのだ。

「じゃあ……いっしょにあそぼ!」

 俺がそう言うと、目の前の優栄はバッと顔を上げた。
「……僕と?」
「うん!おれがいっしょにいるよ。それならさみしくない?」


 優栄の目が見開かれる。涙でキラキラと輝いていて、まるで夏の海のように綺麗だと思った。

「うん……うん!」

「なら良かった!……ねえ、ここ、暗いから、こっちのおひさまのとこ行こ!ほら!」

 少し強引に手を引っ張ると、優栄は抵抗することなく立ち上がる。

 俺はまず、園庭で綺麗に咲いているひまわりを見せたくて、優栄の腕を引いて花壇にまで連れていこうとするも、ピタリと足を止めて動かなくなってしまった。
 あれ?と振り返ると、優栄は何かを言いたげに下を向いて、モジモジと指を動かしていたので、どうしたのかな?と首を傾げつつ、言葉が出てくるのを待つことにした。
 すると、優栄は俺の袖を遠慮がちにキュッと掴んで、

「……ありがとう」

 と、顔を真っ赤にしながら笑っていた。
 笑っている顔が見れたのに、何故か俺の胸はキュッと締め付けられるような気がしたんだ。





「よく、覚えてたなぁ……」
「うん。ひーちゃんが一緒にいてくれるって言ってくれたのが凄く、嬉しかったから」
 優栄が頬を掻きながら照れくさそうに言う。
 優栄……お前……お前……!
「可愛い奴だなぁ!」
「わ」
 感動した!俺は!凄く感動したぞ!そんな昔のことを覚えていてくれたなんて!
 わしゃわしゃわしゃわしゃと優栄の髪の毛を撫でると、優栄は、くすぐったいよぉなんて言いながらも、されるがままになっている。

 優栄はよく思ったことを素直に口に出す。
 勿論、状況によっては場の空気を乱すこともあるが、今みたいに、照れてしまうようなこともストレートに言うので、言われた方はとても嬉しい気持ちになる。優栄の良いところだ。

「そうかそうか、だから俺なんかと……」

 俺がうんうんと頷きながら言った瞬間、にこにこと撫でられていた優栄が急にギュルンと真顔になった。
 その変わり様に俺はギョッとする。

「ゆ、優栄?何?どうした!?」
「ひーちゃん、今、俺なんかって言った?」
「え?う、うん。言った」

 俺がそう言うと、優栄はギュウ、と俺の肩を痛いくらいに掴んだ。痛みと驚きで思わず身体が強ばってしまう。

「それ、誰かに言われたの?」

 聞いたことのないような、地を這うような声。隠す気もない怒りの感情が俺を刺しているようだった、
 夏のはずなのに、汗が背中を通ってぞわりと震えた。
 普段怒らない人が怒るとめちゃくちゃ怖いのは有名な話である。
 それは普段温厚な優栄にも当てはまることで……これは急いで訂正しなければいけない。

「だ、誰にも言われてない!俺が勝手に思ってただけで……」

 俺が手をブンブン振りながら慌てて弁解をすると、優栄は「ふうん……」と言ってから、じっとりと俺を睨みつけた。

「ねえ、二度と俺なんかって言わないで」
「え?……う、うん」
「僕は、ひーちゃんだから一緒にいたいんだよ」
「ご、ごめん……?」

 正直、何をそんなに怒っているのか分からなかったが、気を悪くさせたからと謝った。
 すると、優栄は睨みつけるのを止めて、目を伏せたので、少しホッとする。
 ただ、いつもの笑顔には戻ってはいなくて、俺はどうしたら良いか分からず、気まずい空気が流れる。だって、こんなこと普段は無いんだ。だから、どうしたら良いか分からない。

 優栄も無理に何かを話そうとはせず、しばらく二人してゆっくりと無言で歩いた。
 俺は気を逸らすように、その辺に落ちていた小石を適当に蹴飛ばしながら進んでいたが、優栄が急に歩くのをやめたので、俺も慌てて立ち止まる。

「ねえ、ひーちゃん」

 俺を呼ぶ優栄の声に、どうしたんだろうと顔を上げると、刺すような光が目に入り、目の前がチカチカした。
 昼間のどこまでも青く広がる空は、気が付けば夕焼け色に変わっていたらしい。
 オレンジ色をした太陽が優栄を照らし、髪の毛に光が反射して煌めいていた。


「……僕は、あの日からね」


 ふと、優栄が話し始めた時、ぴゅうと冷たい風が吹いた。
 前髪がふわりと上がって、優栄の普段は隠れている右目が顕になり、バチリと視線が合った。




「ずっと、ひーちゃんのことが大好きなんだよ」



 俺の前にいる優栄は、少しずつ沈みゆく太陽を背にしながら、この世の全ての幸せを詰め込んだような顔で笑っていた。





 俺は、その優栄の姿を見て、ゾッとするくらい美しいと思った。