睡魚のテラリウム



夢を見た。
 群青をこぼしたような空に、蝉として飛び回る夢を。
風が体を撫で付ける感覚、小蠅(コバエ)にぶつかったような些細な衝撃。大きな鳥に怯えて体をすくめる感覚。それら全てが現実のものとなんら変わらないほど生々しい。
 透明で細かな筋の入った模様の羽をうるさいぐらいに羽ばたかせる。高く舞い上がり自由を得た孤独ではない夢。
 自由さを気に入り、濃緑の木の葉に隠れて好きな時に枝で休み、気ままに空と木の周りを飛び回った。
 きっと現実があまりに辛いから、こんな夢を見るんだ。
先月、僕の母が死んだ。まだ五十代と若く、その死を多くの人が惜しんだ。僕以外は。
彼女に対しての記憶はあまりない。父にも僕にも無関心だったのか、思い出らしいことは何一つとしてない。
 家事は外注。家族とは最低限の会話しかしない。父も僕も知らない掃除のおばさんの方が家族としての実感があった。母と親子としての接触や会話をしたことがなかった。
 父も母に逆らうことができずに、食事の時間もずられていた。同じ家に住んでいるのに、まるで母だけが疎外されたような家族だった。
 葬儀に参列してくれた母の上司と部下の方一人一人に頭を下げ、彼らの嘆きに耳を傾ける。
「この度はご愁傷様です。本当に残念です」
鼻を鳴らし、白いハンカチで目元を隠して話す部下の女性は、悲しみを耐えきれないのか、母の名前を小声で呼び続けていた。
「ゆりこさん」
 そういえば、母の名前はゆりこだった。そんな当たり前のことにすら驚きを覚え、喪主である父に困ったように視線を向けると、いたたまれないのか眉間に皺を寄せて困ったように僕を見つめ返してきた。
 僕らは、母ゆりこにとってどういった存在だったのだろう。
 ヘビースモーカーだった母が、肺がんを患った。それからの僕らがどれだけ寄り添おうとも、母が心を開いてくれることはなく、死ぬ間際でさえ僕ら家族になんの言葉も残さなかった。
「俺が悪いんだ。母として家事をしてくれなんて言ったから」
 僕には父の嘆きと母の反発が理解できなかった。家族としての関わりを断ちながら、世間体のためだけに形だけの家族でい続けた。そんな母は誰よりも僕らを利用していたんじゃないのか。
いたたたまれなさを抱えた誰よりも家族の僕ら、父は困ったように眉間に深い皺を寄せ、それらしく悲しそうな表情を作っていたけれど、どう見たってそれは偽装した表情に過ぎなかった。
 お焼香をあげる際に、母ゆりこの会社関係の人たちの、目を真っ赤に腫らして泣き声を抑えるその姿を何度も見かけ、悲しくなった。どうしてそれだけの時間を、僕たちに使ってくれなかったのかと。
 まだ幼ければ、泣くことはできたかもしれない。けれど母を恋しく思うには、大人になりすぎた。
 母は確かに育児に積極的ではなかった。けれど、学校も行かせてもらえたし、食うものに困ることもなかった。それだけのことをしてもらっておいて、僕には母の死を悼むことができない薄情者だった。
 黒い喪服は、僕ら家族の居た堪れなさと罪悪感を吸い込んだのか、息苦しいものになっていた。
お焼香の順番が回ってくると、頭の端が白んでぼんやりとしてしまい、お坊さんの前で立ち上る線香の煙を眺めていた。
緩やかな白い煙はだんだんとぼやけて空気に混じってしまう。経を上げて眠気を誘うような低い声をあげる坊さんと僕はあまり立場が変わらない気さえした。その場にいる関係者でありながら、一番の他人であること。
握りしめた数珠の球が擦れる。前の人を真似てお焼香を済ませると、思わせぶりな深い礼をして、喪主の父に場を任せた。
 過去を思い出していたら、日が暮れていた。夜の闇は澄んでいる。近くの闇を手で掬ってもどこまでも透明で、それなのに遠くを見れば暗く濁って見えない不思議さを纏うのが夜なのだ。
 当てもなく飛ぶのに疲れた。なので僕は近くにあった家に入り込むことにした。どうせ夢だし、今の僕は蝉なのだから。
 その屋敷の白亜の壁は年季が入り、くすんだ色に変わっていた。窓はどこだろうと周りを飛んでいると瞬間、雷が落ちた。
その雷光は暗くなった家を照らし、キラリと反射した窓ガラスに気づいた。近づいてよく見ればガラスはステンドグラスで、聖母マリアがベールを被った立ち姿のまま祈りを捧げていた。
光に遅れて低い地響きのような音が、低空から這いよりドンと響く。
 思わず、体をすくめた。まだ遠雷が響いて、どこかで雲が唸り声をあげているようだ。恐怖のあまり急いで空いていた窓から中に入り込んだ。
 雷のせいだろうか? 暗いせいか? ステンドガラスの聖母マリアがどこか気味が悪く感じるのは。
 廊下を出て磨りガラスが嵌め込まれた白い扉の部屋に立ち入る。照明の灯りは見えず、暗闇の中に溶け込んで自分の姿が見えなくなる。部屋の中はやはり暗がりで、自分が黒の絵の具に混じって、存在を消されたような錯覚に陥った。
怖い、本能的に入ってはいけないところだと察し、引き返そうとすら思ったが、好奇心に勝てず、せめて中を見ようと目を凝らした。
闇に目が慣れると、白いパイプベッドが目に入った。つるりとした丸いフォルムのカーブを描いている角にそっと止まり、羽を休める。
 繰り返される稲光により、その部屋が照らし出された。一瞬だけど、見えた。ベッドには全身に包帯を巻かれた少女が、横たわっている。
無意識に、包帯から見える長い髪に触れたくて、宙を飛んだ。羽ばたきは、何故か音を無くしていた。
静かにベッド脇のパイプに止まると、少女の顔を覗き込む。
「見ない方がいいよ、その怪我、火傷だから」
 そう言われ振り向いたが、闇が深く視認することができない。構わず、僕はそのまま覗こうとする。
「ねぇ、お願い。見ないで」
 その声が震えていることに気づいて、僕はそっとまた宙に飛んでその場を離れた。
「誰かいるの?」
「ここ、壁際のテラリウムの中」
「テラリウム? ってなに?」
僕の声に応答して、答えるその声はまだ幼く甲高い少女だった。
「ガラスの中に水が入ってるでしょ? その中にいる魚だよ。私は」
 そう言われて部屋を見渡した。白い壁にかかる小さな絵、小さな女の子がひまわりを抱いて笑っている。テラリウムとは違う。
ブラウンの木の机にはたくさんの資料が置かれている。でもテラリウムはない。
その時だ。また雷鳴が響いた。部屋が一瞬照らされる。ぽたぽたと小雨だった雨は瞬く間に、土砂降りの雷雨へと変わり、その雷光で気づいた。
枯れた花瓶の置かれたすぐ隣に、その想像よりも大きなテラリウムは砂時計のような形をして置かれていたのだ。
すぐさまそこまで飛んでいき、その中に魚を探す。
けれど、そこに居たのは水の中を泳ぎ回る青い目をした黒髪の少女だった。
薄いブルーの青い瞳と鼻筋の通った顔の作りからして、彼女は外国の血が入ったハーフなのかもしれない。
「……息、苦しくないの?」
「魚だもの、エラがあるわ」
彼女は自分が魚だと信じて疑わないみたいに、黒いワンピースのフリフリと揺らしてエラをアピールしている。
「……エラなんてないよ。君は人間だもの」
 そう行った瞬間、彼女は目を見開いて笑った。
「もう、違うわ。私はもう、死んでいるもの」
 伏せた目から、雫が流れてくるかと思った。鼻を鳴らしてぐずる小さな女の子の赤ら顔を見ている気がするのに、一向にその悩ましげな瞼から、涙が溢れることはない。
「君が、そういうならそうなんだろうね」
 否定も肯定もしなかった。僕も自分が蝉だと信じていても、きっと違うのは確信を持っているし。きっとここは夢の中。本当じゃないのなら、誰かに優しくしてもいいんだろうって思ったんだ。
「栗栖 奏多って言うんだ。僕の名前」
 そう告げた瞬間、彼女は堰を切ったように笑い出す。腫れた目元から、笑いの涙が少しだけ溢れた。水中にいるはずの彼女の涙は、分離したように溢れて粒となり、空気のように水面に上がっていく。
「なんで笑うのさ」
「なんでって、蝉さんのくせに人のような名前なんだもん。それにリスなんて。可愛い名前なのね」
「リスじゃない! 栗栖だ。栗って漢字と」
「リスくん、変な名前!」
 まだ話している僕を遮って彼女はバカにしたように笑った。
 彼女の黒髪が、水中でふわりと浮かんだ。鼻と目の間隔が短い。笑顔がまだあどけない。大人びた仕草と口調で誤魔化されていたけど、まだ幼いんだ。
「……君って人間だった時、何歳だったの?」
 彼女は一瞬、目を丸くしてから困った顔をして「そんなの覚えてないよ」と笑って誤魔化していた。
「君はどうやって死んだの?」
すかさず聞き返すと、彼女の表情は凍りついた。
「余計なことかもしれないけど。君はもしかして、かなり幼い頃に死んだんじゃないの?」
 彼女が表情を曇らせたまま、違う話をしようよとポツリと呟いた。
「じゃ、君は何が好きなんだい?」
「好き……?」
 彼女は表情を凍らせたまま、曇ったガラス板に手のひらを沿わせた。
「好きな色は、青色。好きな食べ物はオムライス。好きなことは絵を描くこと」
 確かに彼女はそう言ったのに、曇った窓ガラスのような瞳のまま僕に笑いかけた。
「お父さんからは、そう教えてもらったよ」
「教えてもらった?」
「そう、教えてもらったの。私が私の好きなものを決める権利は、私にはないから」
 その言葉で確信がついた。彼女の親は、ろくな親ではない。でも否定しても仕方ない。僕にはその答えがわかっていた。
「そう、君は殺されたんだね。お父さんに」
 彼女は死んだ魚のように水面に浮かんだ。水面に途端に焼け爛れた匂いが立ち込める。食油と肌が焼け爛(ただ)れたような、唇がベタつく胸が悪くなる匂い。
「ここがまともな場所ではないのは、わかっていた。君もそうだろう。ここでは君は魚で僕は蝉。それなのに、僕らは自身が本当は人間だということを知っている。そうだな。魚と蝉でもなければ、僕らは出会えなかった。でも、まだ間に合うんだろう? なぁ、母さん」
 そう言った瞬間、僕は目を覚ました。パジャマがぐっしょりと汗で湿り、冷や汗が止まらず、首筋から肩に流れていくほどだ。
 服ごと思わず胸を押さえる。心臓が痛い。気がついた涙が流れていた。
 彼女は、彼女だけは、まだ間に合う。

※※※
 
 母、ゆりこが一度だけ教えてくれたことがある。
 母は一度だけ、過去を変えたことがあること。そしてそれをすると、一つ大切なものを差し出さなければならないこと。
「奏多。あんたはね、本当はお母さんの不注意で死ぬはずだったの。何度もそれを夢で見たんだ。不思議な夢だった。私は蝉になって赤ちゃんのお前にずっと話しているの。赤ちゃんのお前はね、私がこぼしたやかんのお湯で痛い痛いって泣いてるの。それなのに蝉になっている私は助けることができなくて。その時目に入ったのが、カレンダー。バツがついていたのが十月十日。時計は十時十二分を指していた。何度も繰り返し見た夢でいつしか私は祈るようになる。何を犠牲にしていいから、奏多を助けて。もう二度と奏多を失いたくない。神様お願いしますって。そしたら、同じことが起こって、私は奏多を助けられたの」
 そういった母の頬が引きつっていたのに気づいていた。母の俺を見る目は、焦点が定まっていなかった。
「でも、その代償としてあんただけが見えなくなった」
 大人になるにつれ、嘘だと思い込んでいたことだった。
 俺だけが見えないなんて。そんなことあるはずがない。そんなの心の病か脳の病気だろってずっと思っていた。
 汗で重くなったパジャマが気持ち悪い。額をぬぐっただけでパジャマの袖が湿った。
 俺はシャツを着替えると空気を入れ替えるために、ベランダに出た。輪郭を光の筋がなぞるような鋭く光る三日月と、オリオン座が見えた。
「なぁ、奏多。どうしてオリオン座って砂時計座じゃないんだろうな」
 突然話しかけられて、俺は思わず悲鳴をあげた。
「……うわっ! びっくりした! 父さんいたの?」
「眠れなくてな」
 父さんはベランダでメビウスに火をつけて深く煙を吐いていた。煙に巻かれる父さんが霞んで見えなくなった。ベランダに置かれたベンチに腰をかけた父の頭には白髪が混じっている。
 俺が突然見えなくなった母に代わり、本当に父は苦労をしたんだと今ならわかる。
「なぁそれよりオリオン座って、英雄オリオン、いや、人間に見えるか?」
「はぁ? どっちでもいいよ! そんなこと」
 俺はそう言って怒るのに、父さんは俺と視線を合わせることなく、オリオン座だけをまっすぐ見据えてこう言った。
「俺には見えない。――なぁ、お前、蝉になる夢見たんだろ」
 途端に冷たい汗が首筋を通ってシャツに染みた。その肌に浸食して心臓を氷で撫でられたような感覚に言葉が詰まった。
「……な、んで?」
「あの日の母さん、と同じ顔をしてんだもんな。本当にお前たちは、親子だなぁ」
 父は切なそうに目を細めたまま、ガラステーブルに置いてある灰皿にタバコを押し付けた。
「……母さんの戯言。信じてるの?」
 噛み潰した自分の声が耳に届いた時、自覚した。
 ああ、そうか。嘘だって信じたかっただけかって。
 父さんはそんな俺の顔を見て、頬を思いっきりつねった。
「信じてるも何も、あれから本当にゆりこはお前が見えなくなったしなぁ。それでも、ゆりこはお前を愛してたよ」
「嘘だ、だったらなんで俺に無関心になった。家族を蔑ろにしてたんだよ。家事が嫌いだからって家に寄り付かなくなったんだよ」
 言葉にするたび、罪悪感が首を締めた。一雫、真っ黒な汚水が心を汚して後戻りさせなくなるような恐怖心と罪悪感ばかりになった。
 父は悪くない。言いたい相手はもういない。どうしようもない感情だって見ないようにすれば、日にち薬でわ擦れることができたのに。今更どうしてと。
「父さんがお前たちの架け橋になるべきだった。ずっと後悔してるよ。母さんは家事をするのが嫌で、仕事がしたくて家庭から逃げたわけじゃない。ずっと見えない誰かがいることが怖くなって、気が狂いそうで。お前が本当は死んでいて自分だけが見えないお前をいると信じている狂人なんじゃないかって、怖かっただけなんだ。そしてそれは、それだけお前を愛していた自覚があるということだろ」
 そう言われた瞬間、堰(せき)を切ったように溢れ出した。うまく飲み込めない感情の洪水に父にいった。
「家族として愛してるからって、それを免罪符にしたら、ダメだろ、そんなの、全部許さなくちゃいけなくなるじゃん」
 とめどなく溢れる涙が、上手くと止めることができない。悲しい涙は甘いと聞いた。それなら、俺も悲しいんだと思う。この嫌な甘みが家族への情からくるモノなのかと。感情のほつれがどんどんと大きくなって、抱えきれなくなっていく。
「だって母さん俺をずっと見たいって、いつか、抱きしめてくれるって言ったんだ。……言ってたんだよ」
 父さんは何も言わず、立ち上がって俺の肩を抱いた。
「お前も母さんも、俺も。ほんとバカだよなぁ」
 お互いがお互いのことを信じられず、噛み合わなかったのに、この夢を見てお互い確信に変わったのは、嘘じゃなかったってこと。