睡魚のテラリウム

プロローグ

瞼に水滴がぽたりと、落ちた。
頬の輪郭を伝ってすっとこぼれた水滴に驚いて、水面に浮かんでいた私は目を覚ました。体を起こして、ガラスに指は這わせる。皮膚の温もりを吸い、代わりにガラスの冷たさが侵食していく。息は凍り、霞となって空気に溶けた。
ここは水を張られ、水中でふわふわと藻(も)が揺れるテラリウム。締め切られたはずの、ガラス張りの世界。それなのに、ここには雨が降る。
テラリウムの天井に雲があるわけでもないのに。
水嵩(みずだか)は球体全体の半分より少し上ぐらい。水面に浮かんでいた私はそのまま身を翻(ひるがえ)し、水の中に深く潜った。大きく息を吸い込んだりはしない。なぜだか、呼吸しなくてもここは苦しくないのだ。
ガラスに映りこんだ私の、黒い瞳と目が合うと、思わず微笑んだ。
「頑張らなくていい」
ひざを折り、水の中に浮かぶと小さく息を漏らした。銀に光る空気の球が、水面から逃げようとゆらゆらと左右に動き、その泡の動きと水銀のような境界を見て、その美しさにため息が漏れる。
水中に生い茂るふわふわの藻が、私の動きに合わせて揺らぎ、視界を遮る。水晶の細石(さざれいし)を敷き詰められた水底、私は水着でもなければ、裸でもなく、衣服のままその中にいた。
体を覆うのは、黒のロングワンピース。
「眠っているんだね」
 ガラスの向こうにいる誰かの声が聞こえる。鬱蒼とした稲光に照らされた向こうに、誰かがいた。黒い人影に怯えているのか私は思わず、生唾を飲むこんだ。
知っている。知っているのに、決して思い出してはいけない。
「起きているよ」
 男は口を閉ざしたまま、人差し指を口に当てた。
「しっ、声を出さないで」
「どうして?」
「誘拐犯がいるから」
「……またそうやって、私の言葉から耳を背けるんだね」
男は黙ったまま、窓を開けた。暗い部屋に差し込む月明かりが、黒い画用紙に鋏を入れた切れ目に見えた。部屋の全貌が見える。月明かりが照らし出すそこは、病室。白いパイプベッドが月の光を反射して、白く透明に輝いていた。白いシーツに包まれているのは、包帯だらけの誰か。
私はこれが誰か知っていた。
「死んじゃうの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。こんな話を知ってる? 人質として捕まえられた女性が犯人に怯えながらも、犯人に恋をしてしまうっていうお話」

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