「恋人になって欲しい」とライバルに頼まれたので




 小学校三年生のとき、俺は父親に近所の剣道教室へつれていかれた。

 いま思い返せば、このころの俺はかなりやんちゃなガキだった。
 上級生と喧嘩したり、授業中、悪ふざけしたり、校庭の遊具で無茶をして怪我したりと、一日平均三回は先生に叱られていた。
 両親はそんな俺を正さなくては、と思って、剣道を習わせようとしたようだ。
 俺は剣道を習う気なんてさらさらなかった。
 竹刀を手に戦う姿はかっこよかったが、厳しい指南が待っているのは目に見えている。口うるさく言われながらなにかをやるなんて真っ平だった。

「ここにいる子たちを見てごらん。みんな、まだ小学生だ。遥人、おまえよりも年下の子だっているんだ。みんな礼節正しく、身体と心を鍛えている。おまえは身体は同い年の子たちより強いかもしれないが、心はどうだろう。遥人はもっと心を鍛えるべきだと思うよ」

 心なんて形のないものをどうやって鍛えろっていうんだ。
 このときの俺は、父さんの話を聞きながら、そんなひねくれたことを考えていた。
 剣道場の一角で、小学生らしい生徒たちが竹刀を振っている。
 決められたことを決められたとおりにやって、なにが楽しいんだろう。
 やっぱりひねくれたことを考えながら、面白くない気持ちを隠そうともせずに、口を尖らせて練習風景をながめていた。
 いくら練習風景を見せられたところで、剣道教室に入ろうなんて絶対に思わない。さっさと家に帰ってゲームをやりたい、と考えていたときだった。

 俺と似たような背格好の生徒の動きに、視線が囚われた。

 無駄のないしなやかな動き。剣道なんてまともに見た経験のない俺でも、他の生徒とは一線を画しているのがわかる。
 思わず見つめてしまった。
 あいつ、すげえ……。なにがちがうのかよくわかんないけど、見てるとなんだかドキドキしてくる。
 その生徒の動きを見ているだけで、血の温度が上がる。わくわくして、自分でも竹刀を振りたくなってくる。

「面――!」

 鋭い掛け声が響いた。
 振り上げられた竹刀は、小気味のいい音を立てて相手の面を打った。
 俺はたぶん呆けた顔で、一連の動きを見つめていたと思う。
 なんだろう、この感覚は。
 拳をぎゅっと握りしめる。
 血が騒いでいる。こいつと戦ってみたいと、神経がうずうずしている。

「よし、そろそろ休憩しようか。みんな、水分補給をしてください」

 指導者らしい男が声をかけると、小学生の生徒たちは壁際へ退いた。
 俺の視線を奪った生徒は、面を外して脇に抱えた。中から出てきたのは、手拭いを頭に巻いた、まだ幼さの残る顔だった。
 頬は上気し、汗が浮かんでいたが、その目は静かだった。先ほどの動きを見せた剣士と同一人物とはとても思えない。

「遥人?」

 父親の声は俺の耳を素通りした。
 無意識に足が向かっていた。
 俺がすぐ傍で立ち止まると、その男子はゆっくり俺に視線を向けた。静かな目だ。竹刀を振っているときは、この目に熱が宿るんだろうか。
 見てみたい。この目に闘志が滾るところを。

「俺になにか用?」

 その男子は水筒に手を伸ばしながら、俺に訊ねた。

「俺、この剣道教室に入る。入ったら、俺と勝負しろ!」

 人さし指を突きつけると、周囲はざわっと揺れた。
 なにを言ってるんだ、こいつは、という視線があちこちから飛んできたが、俺は気にしなかった。
 周囲の反応とは裏腹に、その男子のまなざしは静かなままだった。

「ここに入れば、嫌でも稽古で手合わせをすることになるよ。君、剣道の経験は?」

 まなざしと同じように、声も淡々としていた。冷ややかさも温かみもない、平坦な声。

「まったくない」

 きっぱり言うと、周囲から呆れたような声が洩れた。

「じゃあ、俺と打ち合いの稽古ができるのは、一年は先だね」
「おい、こら、遥人!」

 慌てて追いかけてきた父親に、頭をぺしんと叩かれた。

「いきなりなにを言い出すんだ、おまえは。この教室に入るのなら、彼はおまえの先輩だぞ。いっておくが、剣道は礼儀に厳しい。礼にはじまり、礼に終わるというくらいだ。いくらおまえがやる気を見せたところで、礼儀を欠いたら追い出されるぞ」

 父親は、大変失礼しましたと周囲に頭を下げながら、俺を引きずって剣道教室から出ていった。


 次の日、俺はさっそく剣道教室に入会届を出した。
 きのうの態度が態度だったので父親は不安そうだったが、俺がやる気を見せたので、とりあえずやらせてみることにしたようだ。
 先生がたや他の生徒に失礼のないように。喧嘩や勝負をふっかけたりしないように、としつこいくらい言い聞かせられたが。

 入会したからといって、すぐに竹刀を持って打ち合いができるわけじゃない。
 剣道における礼法を学ぶところから、稽古ははじまった。お辞儀ひとつとっても複雑で、立礼に座礼があり、また頭を下げる角度まで決まっている。

 これまでの俺だったら、つまらなくなってすぐにやめてしまっただろう。
 俺は自分自身でも驚くくらい、剣道にのめりこんでいった。きっかけは、あの男子と勝負がしたいという思いだったが、剣道そのものが好きになるのにたいして時間はかからなかった。
 あの男子――宮原柊哉とはじめて打ち合いの稽古ができたのは、宮原が言ったとおり、俺が入会してから一年以上経ったあとだった。