あの子、まだ処女だって(笑)

「あたし、緒方先生とヤったんだよね」

「えっ…………」

 ユイからの思いも寄らない告白に、私の頭は一瞬で真っ白になった。
 顔面にペンキを思い切りぶちまけられたみたい。衝撃で視界がぐらついて、景色がぼやけていく。チョークを持つ指先に、ビリリと小さな電撃が走った。

 ユイは何事もなかったかのように、スマホの画面をスクロールしている。
 ピンと弾く人差し指は日常そのもので、動揺する私との差に唖然とする。

「それは……」

 ぐちゃぐちゃとこんがらがった頭の中に漂う『言葉』というものを引っ張り出して、私はやっとの思いで口を開いた。

「どういう……こと…………?」

 自分で口にして、あまりにも間抜けな質問に顔が熱くなった。
 どういうことって、そういうことだろう。私だって『ヤッた』の意味くらい分かる。
 でも、「バーベキューをやった」だってあり得るし、「マンツーマンの授業をやった」もあるかもしれない。
 私が言葉に詰まってフラフラしていると、ユイはいじっていたスマホから視線を上げてふっと微笑んでみせた。

(あ……)

 その顔を見た瞬間、さっきまで暴れていた心臓が今度はきゅっと締め付けられた。
 これまで見たこともないユイの笑顔だった。口元は笑みをたたえているのだけど、瞳はガラス玉みたいに温度を感じない。
 幼馴染の初めて向けた表情に、得体の知らない恐怖を覚えた。
 ユイはその嫌な視線のまま、今度は小さく鼻で笑う。

「ま、アミには分からないか。まだ(・・)処女だもんね?」

「え…………」

 またもやユイの言葉で頭を殴られる。重過ぎる二発目のパンチに、いよいよ頭が破裂しそうだった。一番聞きたくなかった『ヤッた』の意味に、いろんな疑問がぐにゃぐにゃと思考の中を泳いでいる。

 たしかに私はまだ処女だけど、その言い方だとユイはもう処女ではないということなのだろうか。
 私たちまだ高校生なのに?
 いつ、そういうことをしたの?
 なんで、これまで教えてくれなかったの?
 それに、あの(・・)緒方先生とだなんて――……。

 緒方先生。27歳の、私たちの担任の先生。そして、私の憧れの人。
 英語を担当していて、ニューヨーク育ちの帰国子女で、超名門のK大学出身で、背が高くて、大河ドラマ主演の超人気俳優似ですっごくかっこよくて、英語も超上手くて、優しくて、いつも相談に乗ってくれて、本当にすっごくすっごく素敵な人。
 女子たちにものすごく人気で、よく取り合いが起こるほどだった。
 私は先生の彼女になりたいだなんておこがましいことじゃなくて、ただお近付きになりたいだけで……。

 頭の中に、緒方先生の映像がぐるぐると巡る。
 爽やかな笑顔、綺麗な発音で英語の教科書を朗読する姿、顧問のサッカー部でかっこよくプレイする姿、生徒のためを思って真剣に怒ってくれる姿。
 それは、どれもこれも輝いて見えて、本当に素敵で……。

 ――ヤったんだよね。

 美しい思い出の中に生々しいユイの言葉が割り込んできて、脳内のモヤが一気に晴れて現実が押し寄せてくる。卒然とSNSで見た言葉が浮かんできて、私は無意識にそれを口にした。

「そ、そんなの、犯罪じゃん!」

「はぁ?」

 にわかにユイは眉間に皺を寄せ、オレンジ色のリップで彩られた唇を尖らせた。
 これは不機嫌のサインだ。ユイは怒ったら結構怖い。このままだと面倒なことになるって分かっているのに、私の口は止まらなかった。

「じ……児童ポルノ、ってやつじゃないの?」

「あぁ」

 ユイは呆れたように半笑いした。

「あれは親告罪だよ。それに証拠も残してないし、バレないっしょ」

「で、でも――」

「あー、ごめーん。今日はカナコたちと帰るから。お先〜」

 ユイはもう私の顔も見ずに、ただスマホだけを見つめながら教室から出ていった。

「ちょっ……」

 放課後の教室に、私だけが取り残される。いやに赤く照らす夕日が、眩しかった。



「日直……。やらなきゃ」

 私は黒板ふきクリーナーのスイッチを入れて、白く染まった黒板消しを吸引口に押し当てた。ウィーンウィーンと連続的な機械音が聞こえる。チョークの粉と一緒に、さっきの会話も吸い込んでくれればいいのに。

 ――ヤッたんだよね。

 でも、ユイの一言は強い粘着力を持って私の鼓膜に張り付いたままだった。

「カナコたちと約束だってさ……。私たち、いつも一緒に帰っていたのに……」

 私とユイは幼馴染だ。同じ月に同じ病院で生まれて、同じマンションで育った。
 親同士の仲が良いこともあって、私たちはいつも一緒だった。
 私たちには記憶がないけれど、赤ちゃんの頃から双子みたいに息ぴったりだったらしい。

 私たちは幼稚園の時、同じ男の子を好きになった。
 かっこよくて優しくて面白くて、ひまわり組女子全員の憧れの的だった。でも、その男の子は別の女の子と両思いになって、二人一緒に振られてしまった。

 私たちは小学生の時、たまに喧嘩をするようになった。
 でも本当にくだらないことで、どのアイドルグループの誰々のほうがかっこいいとかそういうことだ。
 喧嘩をした日は絶対に口をきかないけど、翌日には普通に「おはよう」って挨拶して一緒に登校していた。下校時は毎日交互に互いの家に帰って、一緒におやつを食べて宿題をした。

 私たちは中学に入って、おしゃれに興味を持つようになった。
 同じタイミングで買ってもらったスマホで、ファッションやメイク動画を見て、学校とは違うキラキラした世界に胸が踊った。
 小学生の頃は無色の薬用リップしか持っていなかったけど、初めてドラストコスメの色付きリップを買った。
 自分の唇がピンク色に鮮やかに彩られた時のことは、昨日のことみたいに記憶に新しい。鏡に映る私たちはちょっと大人っぽく見えて、二人とも最高だって思った。

 私たちは、同じ高校を受験した。
 二人にとっては少し偏差値の高い学校だったけど、チェックのスカートの可愛い制服を着たくて一緒に頑張って勉強した。毎日毎日同じ問題集を解いて、分からないところは互いに教え合った。
 晴れて第一志望校に合格した日は、泣きながら抱き合った。「頑張ったね」って互いを褒め称えた。
 その日はユイの家族と私の家族でパーティーをして、二人して大好きなグラタンを死ぬほど食べた。私たちは「太るよ〜」って文句ぶーぶーだったけど、「卒業から入学までの間にダイエットをすればいいよね」って話に落ち着いた。
「可愛い制服を着るからには、もっと痩せなくちゃ!」と、私たちは中学最後の春休みにネットのダイエット動画やメイク動画を見様見真似で実践し、これから始まるキラキラ高校生活を夢見た。

 私たちは高校生になった。
 お揃いの鞄に、お揃いのウサギのキャラクターのチャームを付けた。「あなたたち、本当に双子みたいね」ってお母さんに笑われた。私たちはその言葉を嬉しく思って、「高校生になったしホビ活しよ」って約束した。

 高校一年目。私たちは別のクラスになった。
 これまでもそういうことがあったから別に平気だったけど、高校という新しい環境で一人きりになるのはちょっと心細かった。
 でも幸いにもクラスメイトの皆は良い人ばかりで、入学からひと月経つ頃にはすっかり打ち解けることができた。
 それはユイも同じで、クラスの友達と仲良くしている話を聞いて安心した。違うクラスになったことによって、忘れ物の貸し借りができたり、それぞれが仕入れた校内のいろんな情報交換ができた。

 私は入学式の時に緒方先生に一目惚れをして、ユイの担任だったと分かってとても羨ましがった。毎日「いいなぁー、いいなぁー」って言って、ユイから「うざい」って怒られていた。

 ユイは一年の時はカナコのグループにいたようだった。
 私はこのカナコに苦手意識を持っていた。言葉では上手く言い表せないけど、私たちとは違う雰囲気を纏っている子。まるで別の世界に生きているみたいな。
 カナコはクラスの中心的人物だったけど騒がしいタイプじゃなくて、ひと睨みで相手を黙らせることのできるような、不思議なカリスマ性を持っている子だった。

 そして高校二年目の今。私たちは同じクラスになった。
 ユイはこれまで通りに私と一緒にいてくれるけど、同じクラスになったカナコのグループとも仲が良かった。他の子とお喋りしている時のユイは、ときどき大人っぽい表情をするようになって、意外な一面に驚いた。
 それでもユイは幼馴染の私を最優先してくれるし、私もユイの一番の親友だし、私たちの間にはなんの溝もなかったはずだ。
 私たちは互いのことを包み隠さず話していたし、お互いの嬉しいことも悲しいことも悩みも愚痴も、全部知っていた。
 だから、ユイの突然の変化に私は戸惑った。



「あれ〜、アミ? まだ残っていたのか?」

 聞き慣れた声に、ビクリと肩が跳ねる。あんなに心地よかった声なのに、今はトゲトゲした塊が耳に押し込まれてくるみたいだ。

「お、緒方先生……」

 強張る表情筋を無理矢理持ち上げ、ぎこちなく口角を上げる。教室の扉には、ついさっきまで(・・・・・・・)憧れていた緒方先生が立っていた。先生は相変わらず背が高くて、スラッとしてスタイルが良くて、超人気俳優似の最高のビジュだった。
 でも。

 ――ヤったんだよね。

 ユイの言葉がまたしても生々しさを帯びて身体中に反響し、頭がぐらつく。先生は今朝と何も変わっていないのに、私の目には〝気持ち悪い〟〝大人の男の人〟にしか見えなくなっていた。
 先生はゆったりとした足取りで、こっちに近寄って来る。その様子は、映画みたいにスローモーションに見えた。

「日直の仕事、終わった?」

 気持ち悪い。

「どうした? 顔色悪いぞ」

 気持ち悪い。

「体調が悪いのか?」

 気持ち悪い。
 気持ち悪い。

「……何かあったのか?」

 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 …………。
 …………。

「わ、私、家の用事があるので! 失礼しますっ!」

 先生と顔が近づくのが恐怖で、私は慌てて教室を飛び出した。ガタンッと大きく椅子を蹴り、太腿を強く打ったけど、痛みを堪えてそのまま廊下を駆け抜ける。

「こらー! 廊下を走るな〜」

 遠くから緒方先生の叫び声が聞こえる。いつもなら「先生に叱られちゃった」って喜んでいるのに、今はもう獣みたいな嫌らしい声にしか聞こえなくて、吐き気がした。

 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 高校生に手を出す大人って気持ち悪い。
 親友とヤったなんて気持ち悪い。
 大体、異性の生徒のことを名前呼びっておかしいんじゃないの?
 教師になったのも、きっと女子高生を狙っていたんだ!

 頭が沸騰して弾け飛びそうだった。これまでの先生の一挙手一投足が気味の悪い何かに思えて仕方なかった。
 私は、こんな最低な男の人に憧れていたんだって思うと、悔しかった。


◆


 翌朝、ユイは約束の時間に来なかった。

『ごめーん 遅刻しそうだから先にいってて!』

 スマホにメッセージが来て、あぁ私と一緒に登校したくないんだなって思って、私は一人で学校へ向かった。

「ふわぁぁぁ……」

 大きなあくびが何度も出る。ふらふらと振り子みたいに頭が揺れていた。
 昨晩はほとんど眠れなかった。ユイと、緒方先生……二人の顔が頭から離れなくて、睡魔なんか吹き飛んでしまった。
 正直、ショックは大きかった。
 ユイがもう経験済みだってこと、緒方先生とそういう関係だってこと。
 ……でも、一番は、それを私にずっと黙っていたことかもしれない。

 私は、処女だ。
 そういうことは、今まで考えてみたこともなかった。
 もちろん、これまで好きな人だっていたし、恋愛ドラマや少女漫画だって大好きだし、男の子と付き合うことに興味はある。
 でも、それは私の外の世界の話で、どこか別のもののように感じていた。

 中学の頃、同じクラスの不良グループの子たちがそういう話をしていた。自分の身近にいる女の子なのに、とても遠くの存在に感じてなんだか不思議な気分になったのを覚えている。
 あの時はユイと「まだ中学生なのにあり得ないよねー」なんて話しながら下校した。
 でも、二人とも興奮していた。初めて触れる、同年代の子の〝大人〟な話だったからだ。一足先に向こう側に行かれた気がして、純粋にすごいって思った。

 高校に入ってから、そういう話をポツポツ聞いた。
 でもあくまで噂程度で、「誰々はもう経験済みみたい」とか、そんな程度だ。実際の行為の話とか生々しいものは聞いたことがない。
 それでも、なんとなく経験している子は〝大人〟で、未経験の子は〝子供〟。そんな区別が出来上がっている気がする。
 私はもちろん子供の方で、まだ高校生なんだしそれでいいと思っているし、行為に対して嫌悪感みたいな感情を抱いているのも事実だ。
 でも、『未経験は恥ずかしい』って思っている気持ちもあって、『早く捨てたほうがいいのかも』……と、考える時もある。
 そんな風に色々と葛藤はあるけれど、それでもやっぱり自分とは違う世界の話という感覚なのだった。

 もう、ユイが違う生物(いきもの)に思える。
 ユイの話しぶりだと、昨日今日の出来事ではない感じがした。きっと、もっと前から経験済みで、緒方先生とも一度きりの関係ではないのかもしれない。
 私は、ユイには何でも話していた。悩みや、好きな人とか、他の子には言えないこともユイには全部言えた。だって幼馴染だし、親友だし、信頼していたから。
 でも、ユイはそうじゃなかったみたい……。

「……!」

 またもやあの顔(・・・・)が蘇り、すっと背筋が冷たくなる。
 ユイの、蔑んだ、冷たい目線。あんな風に見られたことは初めてだったから、思い出すだけで心臓がぎゅっと縮こまる。
 それは昨日だけじゃなくて、もしかしたらユイはずっと私に対してそんな感情を持っていたのかもしれない。
 そう想像すると、ますます胸が苦しくなった。



「おはよう」

「アミ、おはよう〜」

「あれ? 今日は一人なんだ」

 教室に入ると、いつものメンバーが既に席に着いていた。
 サナとリサだ。二人は朝活をしていて、毎日4時には起きるらしい。

 サナは、全てにおいてきっちりしっかりしている。学級委員長で、弓道部では全国大会にも出場して、もう次期部長に内定しているらしい。
 艶のある黒髪のポニーテールで、常にピンとした姿勢できりりとしている。何事にも全力で、勉強も全国模試で上位をキープしているすごい子だ。

 リサは、お母さんがアメリカ人で、背が高くてものすごく美人だ。
 雑誌モデルをしていて、美貌を保つために早寝早起き、筋トレを日課にしている。
 ウェーブがかった金髪が神秘的に見えるけど、ざっくばらんで自由人で掴みどころがない子だ。カナコに似た大人びた空気を纏っているが、湿っぽさがない。
 一見正反対の二人だけど、私とユイみたいに幼馴染で親友らしい。

「ユイは寝坊したみたい」

 私は無理矢理笑顔を作って、辛い気持ちを誤魔化した。

「へぇ〜。珍しいね」

 サナが興味津々に言う。私は無言で頷いて、席に着いてノートを広げた。
 今日は英語の小テストがある。私は英単語を繰り返し書きまくった。
 同じ単語を何度も綴る。書いて、書いて、書いて……。
 何か手を動かしていたかったし、何かに没頭していたかった。でないと、頭の中がすぐにユイと緒方先生で埋まってしまいそうだったから。
 正直、今日から二人とどう接すればいいか分からない。昨日までのように振る舞えないかもしれない。
 だから、なるべく二人に関わらなくていいように、心も身体も忙しくしていたかった。

 その日、ユイはカナコとミカコと一緒に登校してきた。
 三人揃った姿を見ると、ちょっと落胆したような安堵したような複雑な気分になった。ユイを取られた気がしたし、でもあっちの世界へ行ってしまったユイと、このまま距離を置いたほうがいいとも思った。
 自分が平静を装えるか不安だったけど、意外に普通に接することができた。ユイも、昨日のことなんてまるでなかったみたいに普通だった。

 でも、緒方先生はもう無理だった。気持ち悪い大人として見れなくなっていた。
 あれだけ恋い焦がれていたのに、すっかり消え去ってしまったようだ。今は軽蔑する気持ちしか持っていない。だから、生徒と教師としての常識的な距離を保つように心がけた。


◆


 ユイは私よりカナコやミカコと行動を共にすることが多くなった。
 サナとリサは何かを察してくれたのか、一人ぼっちの私にたくさん声をかけてくれて嬉しかった。他の子も気さくに話しかけてくれて、ひとまず孤立しなかったのは幸いだった。

「っでさぁ〜、そいつゴム持っていなくて〜」

「あり得な〜い」

 ユイはサナコやミキコと一緒になって、人目をはばからずに行為に関する話題を喋るようになっていた。少しは声を落としてはいたけれど、狭い教室では丸聞こえだった。
 私はその度になぜか恥ずかしさが浮かび上がってきた。幼い頃から知っているユイの、そんな話を耳にしたくなかった。
 それに、ユイたちはまるで自慢するように喋っていて、未経験の自分が〝遅れている〟ように思えたのだ。

「あなたたち、公共の場でそんな下品な会話はやめなさいよ!」

 ある時、行為の話で盛り上がるユイたちに見かねたサナが注意をした。

「は?」

「あんたになんか関係あるの?」

 カナコとミカコが、ギロリとサナを睨み付ける。同年代なのに大人っぽい二人が同時に凄むと迫力があって、遠くで見ている私がたじろいだ。

「関係はないわ。でも、公(おおやけ)の場で話していいことじゃないと思うの」

 サナは、少しもひるまなかった。

「は? うざ」

「っていうか、サナってまだ処女なんでしょ? 処女には難しいお話かもね〜」

 くすくすと、カナコたちが馬鹿にして笑う。その中にはユイも混じっていて、私は自分が笑われているような惨めな気分になった。

「そうよ」

 しかし、サナは恥じることなく、堂々とした態度を崩さなかった。

「私は処女よ。私はそういうことは結婚してからって考えてる。それは笑われるようなことじゃないわ。だからといって、あなたたちの考えを否定する気はない。でも、女子が自らの尊厳を傷つけるようなことを大声で喋ることのは良くないと思うわ」

「は……?」

「こいつ、マジでうっざ」

「もう帰ろ」

 まっすぐに前を見て、力強い口調で断言するサナに、カナコたちは何も言い返せなかった。白けた様子で教室をあとにする。
 私は自分の意見をはっきりと言うサナがかっこいいと思った。私には、カナコにそんなこと言えない。

 その時。

「っ……!」

 ふと、ユイと目が合った。またあの時と同じ視線に、ドキリと脈が跳ねる。
 底冷えするような色のない瞳。ユイのほうが身長が低いのに、まるで遥か上から見下されているみたいだった。
 なんて嫌な目線……。

「なんなの、あの子たち。なんて品がないのかしら」

 カナコたちが帰ったあとも、しばらくサナはぷりぷりと怒っていた。もうずっと我慢していたらしい。
 最初は個人の自由だからと放置していたけど、最近の周囲に押し付けるような話しぶりが不愉快極まりなかったそうだ。

「サナは自分が処女だって皆に言って恥ずかしくないの?」

 私は思い切って聞いてみた。私はユイから『まだ処女なんだ』って言われたとき、不思議と羞恥心がこみ上げてきたのだ。
 自分だけが置いていかれているみたいで。経験した子たちより、〝下〟にいる気がして……。
 そんな自分の話を思い切って打ち明けると、サナは馬鹿にすることなく真剣な顔で向き合ってくれた。

「私は恥ずかしいとは思わないわ。きっかけは人それぞれだからよ。ほら、海外旅行に幼稚園で行く人もいるし、大人になって初めて行く人もいるでしょう? あと、一生行かない人も。そういう意味と本質は変わらないわ。だから、経験があるから偉いとか、そんなのは間違ってる」

「そうだよ」

 リサが呆れたようにため息をつきながら頷いた。

「セックスなんて、スタバでお茶飲むのと変わらないのに大袈裟なんだよ。あの子ら、自分たちだけが大人になったつもりで調子に乗ってんの。はず」

「性交渉はそんな軽いノリで行ってはいけないわ」

 すかさずサナが真面目くさった顔で否定する。

「出た出た。カタブツめ」

 リサがはんっと鼻で笑ってみせた。

「私は一般的な見解を述べているのよ」

 サナはムッとした顔で再び反論する。
 リサはおどけるように肩を竦めた。

「個人の自由じゃないんですか〜? さっき言ってたじゃん」

「不特定多数との性行為は病気のリスクがあるわ。傷つくのは必ず女性側よ」

「あたしは恋人同士だったら、パートナーか変わっても毎回経験しておいて損はないと思うけどね」

「ちょ、ちょっと! 喧嘩はやめて!」

 たちまち二人に不穏な雰囲気が漂ってきて、慌てて私はあいだに入った。

「え? 喧嘩?」

「大丈夫、大丈夫。別に怒ってなんかないから」

 次の瞬間、サナはきょとんと目を丸くして、リサはおかしそうに声を上げて笑った。

「喧嘩じゃないの?」

「違うわよ。私たちはただ議論をしているの」

「そう。ただの意見交換」

 二人は何事もなかったかのように、目を合わせて笑い合う。一触即発の言い争いが始まりそうに見えたのに、打って変わって今は穏やかな空気が流れていた。

「友人でも、別の価値観を持っていることはおかしなことじゃないし、それについて話し合うことは大事なことだわ。結論が出ないことも多いけどね」

「そうだよ。誰もが同じ考えじゃないんだからさ。遠慮して何も言わないほうが相手に不誠実」

「でも……相手が怒るんじゃ……?」

「議論と人格否定はイコールじゃないわ。ただし、相手を尊重する気持ちは忘れないけどね」

「そゆこと」

「そう、なんだ……」

 私は思わず二人から視線をそらし、俯いた。自分なんかよりずっと大人に見えて、ひどく眩しかったのだ。
 それは、処女とか経験済みとかそんなのじゃなくて、もっと心の内の部分。サナもリサも互いの個性を認め合って、意見は言い合うけど相手の価値観を尊重している。感情が優先になってしまいがちな私たちには、なかなか出来ないことだ。

 対して、私とユイはこんな風に意見を言い合うなんてことは全くなかった。
 好きなものや嫌いなものについてはよく話したけど、どちらかというと〝共感〟を前提にした会話だったかもしれない。私たちのあいだには〝否定〟なんて存在しなかった。それを口にしたら、嫌われるかもって思ったから。
 だから、ユイの嫌な部分には見ないふりをしていたし、逆にユイも私の嫌なところを我慢していたのかもしれない。現に今、私たちの関係はユイのたった一言で崩れようとしている。

 私たちは、幼馴染で、親友。
 ところで、〝親友〟ってなんだろう……。



「はっ!? ユイがオガセンと!?」

 リサは目を剥いて、

「嘘でしょ……あり得ない……」

 サナは青い顔してぶつぶつと呟いた。

 私はサナとリサと一緒にスタバでお茶をすることになった。二人はやはり最近の私とユイのぎくしゃくした関係に気付いていて、話を聞いてくれると言ってくれたのだ。
 サナは抹茶ティーラテ、リサはソイラテ、私はキャラメルフラペチーノを頼んで、皆「らしいね」って笑ってしまった。
 ユイは「スタバでフラペチーノ以外頼むなんてあり得ない」ってよく言っていて、私も強く同意していた。その時はスタバはプラペチーノを飲むものだと思っていた。でも、スタバっていろいろな飲み物がメニューにあるんだなって改めて思った。

「そうなの……」

 私は浮かない顔で静かにこくりと頷く。ついに喋ってしまったという罪悪感と、達成感みたいなものがないまぜになって胸に巣食っていた。
 ユイと緒方先生のことは、誰にも言わないでおこうと思っていた。
 でも、日を追うごとにモヤモヤが胸を圧迫するように膨らんできて、このままだと破裂して頭がどうにかなりそうだったのだ。そこで、信用できそうな二人に相談することに決めたのだ。

「それって犯罪じゃない! あり得ない!」

 興奮したサナがドンと机を叩いて大声を上げるが、周囲からの注目の的になってしまい、すぐに恥ずかしそうに縮こまった。

「これはアウトだねぇ……」

 リサは手入れされた綺麗な眉根を寄せている。

「でも、ユイは児童ポルノは親告罪だから問題ないって……」

「あれ? 法律が変わったって昔ニュースで見たことあるけど?」

 と、サナが目を丸くすると、

「未成年猥褻罪は非親告罪だねぇ〜」

 リサがスマホを見ながら答えた。

「ユイは証拠を残していないから大丈夫だって言ってる」

「たしか証拠がなくても良いんじゃないかしら? 前に、娘から大人との行為を告白されて母親が警察に通報した事件を見たことあるわ」

 サナは記憶を掘り起こすように首を傾げる。

「通報しちゃえば?」

 リサがそそのかすように小声で囁く。

「それは……」

 私は口ごもり、ストローでフラペチーノのクリームをつついた。いきなり話が大きくなってしまい、恐怖と戸惑いが急上昇してきた。
 だって、通報って警察にバラすってことでしょう?
 そうなると取り調べとかあるだろうし、ユイのママやパパだって困ると思う。自分のせいで、ユイの家族がバラバラになる可能性もあるのだ。だから、あまり大事(おおごと)にしたくない。

 茶色いフラペチーノが、クリームと混じってだんだんと白く濁っていく。モヤモヤした今の心を反映しているみたいだった。

「ま、嘘か本当かも分からないし、まだ保留にしといたほうがいいか」

「えっ……。どういうこと?」

 手を止めて顔を上げると、リサが眉を下げてこっちを見ていた。

「ユイって、アミにマウントを取る癖があるじゃん。今回もそれじゃない?」

「マ、マウント……?」

 思いがけない言葉に、私は目をぱちくりさせる。
 その様子を見て、今度はリサとサナが目をしばたたいた。

「まさか、気づいていなかったの?」

「えっと……いつ……?」

 心当たりが皆無で首を傾げる私に、二人とも開いた口が塞がらないようだった。

「ほら、思い出せない? ユイは、いつもアミより上に立とうとしてるじゃん」

「うーん……。ユイは負けず嫌いなとこあるし、今更というか……」

「信じられない……」

「天然、ってやつ?」

 二人は少しだけ顔を見合わせるが、気を取り直して再び私に向き合った。

「ひとまず、それは置いておきましょうか」

「そうだね……。で、あたしが何を言いたいのかというと、ユイはアミがオガセンに憧れているのを知ってるから、意地悪で『ヤった』って嘘をついてマウント取ろうとした可能性もあり得る」

「ええっ!?」

 あまりの驚きに、ガタリと音を立てて仰け反ってしまう。フラペチーノのストローが衝撃で軽く跳ねてしまった。

「ユイに限って……そんなことって……」

 私はぎこちなく動いて姿勢を戻した。まだ目は動揺で焦点が定まっていない。
 ユイは、気が強いけど、人が嫌がることをわざとするような子ではない。小学生の頃に、悪口を言った子に対してその子が一番傷付く言葉を投げかけたりしたことはあるけど、それは単に仕返しで……。

「ま、あたしの勝手な想像だけどね」

「アミには申し訳ないけど、私たちから見たユイは、そういうたちが悪い冗談を言いかねないと思うのよ」

「そ、う……」

 頼りない私の心は、まだグラグラ揺れ動いている。今の自分には、何が事実で、何が正解なのか判断できない。
 でも、サナもリサも私を心配してくれている様子がひしひしと伝わるのは分かる。

「ごめん。ちょっと、まだ頭が混乱していて……」

 再びフラペチーノに視線を落とす。もう全てが溶け合って、ドロドロになっていた。私もこのまま記憶をどろどろに溶かして日常に戻りたい気持ちでいっぱいだけど、残念ながらそうはいかなそうだ。

 サナとリサがユイのことをそんな風に見ていたのは正直びっくりした。二人の言うことが本当なら、私はユイからずっと見下されたってこと?
 ……考えたくもないけれど、私はユイからずっと嫌われていた……?
 私は、ユイの何を見ていたのだろう。

「……ちなみにだけど、二人はもし親友が先生とそういう関係があるって気付いたらどうする?」

 恐る恐る尋ねると、サナもリサも真顔になって同時に答えた。

「「通報一択」」

 あまりに息がぴったりで、思わずプッと吹き出してしまう。二人もまさか一言一句同じセリフを言うとは思わなかったらしく、ケラケラと笑っていた。

「笑ってごめんね。でもね、私は親友が間違った道へ進もうとしていたら、たとえお節介だとしても恨まれても絶対に止めに入るわ。それが友達だもの」

「Me Too」

「うん……。そうだね……!」

 どこまでもポジティブな二人が、先の見えない暗い道に光を差してくれる。なんとなく答えに辿り着けそうで、胸にかかっていたモヤが薄くなってきた感じだった。二人のおかげで、少しだけ前向きな気持ちを取り戻した気がした。

 その後も話が盛り上がって、場所を移動して喋り続け、すっかり遅くなってしまった。辺りは薄暗くなって、道路を照らすのはもう太陽から街灯へ移り変わっている。

「あっ!」

 駅に向かう途中、卒然とサナが声を上げた。

「どうしたの?」

 難しい顔をして一点を見つめているサナの視線を追うと、カナコとミカコと……ユイがいた。薄暗い高架下で、スーツを着た大人の男の人たちと楽しそうに話しながら暗闇の奥へと消えていった。

「……」

 ブレザーの制服とスーツの集団の対比があまりにも違和感を放って、私は愕然とそれを見つめる。

「あの噂、本当なのかね?」

 数拍して、リサが口を開いた。

「あぁ、〝パパ活〟ね」

 サナも当然知っているとばかりに相槌を打つ。

「えぇっ!?」

 何も知らない私だけが、驚きの声を上げた。

「前々からカナコのグループはパパ活をしてるって噂があったの。おじさんと腕を組んで歩いているのを見た子がいて」

 サナが嫌悪感をあらわに顔をしかめた。

「そうなんだ……」

「ユイは聞いたことなかったけど、あれはお仲間に入ったっぽいね」

「そう……」

「アミは意外にユイのこと何も知らないんだね」

 リサが同情するような顔で私を見た。

「うん……そうみたい……」

 私は押し黙り、ただ地面のアスファルトを見つめるだけだった。胃の奥から酸っぱいものが押し上がってくる。
 私はユイの親友で、ユイのことなら何でも知ってるって思ってた。
 でも、それは思い込みだったみたい……。

「ま、親友だからって全てをさらけ出す必要はないと思うけどさ。あたしたちだって、互いに言ってないこともあるし」

「そうよ。いくら親友でも、相手を尊重するために線引きは必要だわ」

 ひどく落ち込む私に二人が励ましてくれたが、上の空の私の耳には全く届かなかった。


◆


「あっ、そのリップ懐かしい〜。小学生の頃に使ってたやつだ」

「えっ……」

 休み時間にトイレでドラストで買ったリップを塗っていると、珍しくカナコから話しかけられた。
 カナコには苦手意識を持っていたので一瞬だけフリーズしてしまったが、無視するのも感じ悪いと思ったので話に応じる。

「そうなんだ。私は中学の時から使ってるよ。新色が出たから買ってみたの」

「へぇ〜。パケ可愛いよね、これ」

「うん。気に入ってずっとリピしてる」

 意外にもカナコと話が弾んで、思わず口角が上がる。愛用のメーカーのリップは、中学の時にユイと一緒に初めて買ったもので、以来ずっとヘビロテをしていた。
 ドラックストアの化粧品コーナーは大人の象徴そのもので、可愛いパッケージの化粧品がキラキラして眩しくて胸がときめく場所だった。その空間にいるだけで自分も大人になった気分で、ちょっと特別な時間だったのだ。

「うわっ、まだ使っていたんだそれ」

 ガチャリと扉の開く音がして、同時にユイの抑揚のない声が聞こえた。
 ユイとミカコは鏡の前に立って、洗面台にポーチを置く。

「私も小学生の時に持ってたよ」

 ミカコがポーチの中から高級感溢れるデパコスのリップを出しながら言う。

「さっき話してた。なつかしー」

 カナコはデバコスの重厚なパッケージのパウダーをパフで顔にはたいている。

「アミは変わんないね〜。もっと良いの使えばいいのに」

 ユイは、鏡越しにあの時の瞳で私を見た。
 呆れたような小馬鹿にするような、嫌な視線。この双眸を向けられると、胸がぎゅっと苦しくなる。

「あはは。気に入ってるんだ、これ」

 つららのような冷たく尖ったもので瞳を射抜かれた気がして、じわりと涙が出そうになったけどなんとか笑って誤魔化した。

「ふぅん」

 一言だけ返事をすると、ユイは若い女性に人気のブランドのポーチからおもむろにリップを一本取り出した。

「っ……!」

 それを目に入れた瞬間、脈が一気に跳ねる。
 それは、ミカコと同じ、デバコスの赤リップだったのだ。
 大人っぽい赤い色が、べっとりとユイの唇を華やかに彩っていく。少し曇った鏡の前には、私とは完全に違う世界に生きる〝女の人〟がいた。艶めかしく、たおやかな女性。

 つい数ヶ月前まで健康的なオレンジ色を好んで塗っていたユイは、間違いなく太陽の下に生きていた。
 でも今は、夕日を飛び越えたような、別のどこかに行ってしまった気がした。

 三人はデパコスを顔に塗りたくっていく。ドラックストアとは異なる高級感溢れる香りに、くらくらと眩暈がした。

 ――友人でも、別の価値観を持っていることはおかしなことじゃないし、それについて話し合うことは大事なことだわ。

 ――誰もが同じ考えじゃないんだからさ。遠慮して何も言わないほうが相手に不誠実。

 ぼんやりと眺めていると不意に頭がクリアになって、サナとリサの言葉が頭を過ぎった。 
 私とユイのお小遣いは同額だ。毎月の些細な金額では、デパコスなんてとても買えない。仮に特別な日に買ってもらったとしても、一つや二つくらいで、今のユイみたいにポーチの中身が全部デパコスなんてあり得ない。ユイのお母さんからは、ユイがバイトを始めたなんて聞いていない。

 だとすれば。

 ――私は親友が間違った道へ進もうとしていたら、たとえお節介だとしても恨まれても絶対に止めに入るわ。それが友達だもの。

「ユイ。待って」

 自然と身体が動いた。出口に向かうカナコとミカコの後に続くユイの腕を、私はしっかりと掴んだ。

「何?」

 ユイは怪訝そうに眉をひそめる。

「は、話があるの……」

「先行くね〜」

 カナコとミカコはトイレを出て、パタリと扉が閉まった。途端に寒気を帯びた沈黙が、私たちの間をすり抜けていく。

「だる……」

 ユイが小さく呟いて、洗面台に寄りかかる。明らかに迷惑そうにため息をついた。
 でも、今言わないといけないと思った。

「で、何?」

「そのメイク道具、どうしたの?」

「はぁ?」

 私が尋ねると、ユイは警戒するように少し姿勢を動かした。

「お小遣いで買ったの? おばさんに買ってもら――」

「アミには関係ないでしょう?」

 ユイは強い口調で私の話を打ち切った。

「この前、駅前でユイたちがサラリーマン風の男の人たちと一緒にいるところを見たの」

 私はユイの放つ尖った空気に呑まれないように、一気に捲し立てる。親友として、ちゃんと言わないといけないと思ったのだ。

「パパ活は……いけないことだと思う。だって、私たちまだ高校生で――」

「うるっさいっ!!」

 一層大きなユイの声が、部屋中のタイルに響いた。初めて聞く太い声音に、恐ろしくてビクリと身体が固まる。

「……!」

 次の瞬間、ひやりと背筋が凍った。ユイが目を吊り上げて、憎々しげに私の顔を睨みつけていたのだ。

「あんたさぁ」

 ユイの恐ろしいほど冷えた声が、私を向かって来る。

「何様のつもりなの? そうやって昔からいっつもウエメセだけど、あたしのほうが世の中のことをあんたなんかより色々知ってるし、あんたよりずっと経験豊富なんだから。まだ処女のくせに!!」

「……」

 動けなかった。
 身体も心も時間が止まったかのように、トイレの床に張り付いたままだ。

 バタンッ!! ――と、鼓膜に響く大きな音を立てて扉が閉まる。
 一人残された私は、ただ茫然と虚空を見つめていた。



 どれくらい時間が経ったのか分からない。外が赤く染まりかけていたので、私は「帰らないと」とおもむろに立ち上がりふらつく足取りで教室に戻った。

「えっ!? ちょっ、アミ、どうしたの!?」

 教室に入るなり、サナとリサが血相を変えて飛んでくる。私は麻痺している手足をぎこちなく動かしながら自分の席に着いた。視界にはモザイクがかかっているみたいに、周囲の景色がカクカクと四角く見えた。

「大丈夫? 顔が真っ白だよ」

「体調が悪ければ、一度保健室に……」

 ――ぽろ、ぽろ。
 その時、さっきまで乾いていた瞳から、ぽろりぽろりと涙が溢れ出した。涙はすぐに束になって堰を切ったように流れてくる。
 二人はぎょっとした顔をして私を見ていた。

「うっ……うぅ……。私、たち、は……」

 言葉を吐き出そうとしても、嗚咽するほどの涙が邪魔をしてしゃくり上げるだけだ。息をするのが苦しくて、ぜぇぜぇと浅い呼吸を繰り返す。
 それでも、今の気持ちを全て吐き出さないと、心が壊れてしまいそうだった。

「大丈夫よ。ゆっくりでいいわ」

 少しして、優しさを帯びたサナの言葉が、すっと胸に入ってきて気持ちを落ち着かせてくれた。

「……ユイと、何かあったのね?」

「ユイと……喧嘩しちゃった。いっつもウエメセで、何様のつもりなの?、って」

「うん」

 リサがそっと手を握ってくれる。ひんやりとして保冷剤みたいに私の乱れた気持ちを冷やしてくれる。

「まだ処女のくせに、だって……」

 でも、私の言葉は止まらない。
 全部吐いて、全部流さないといけない気がした。

「私たちは、幼馴染で……生まれた病院の時からずっと一緒で……。私たちは、幼稚園も小学校も中学も……同じ学校だったの。私たちは、制服が可愛いからここを受験しようって受験勉強を頑張って……鞄に同じキャラのチャームを付けて……。私たちは……ドラストで同じ色のリップを買って……私たちは、グラタンが好きで、いつもバカみたいにチーズをいっぱいかけて……。私たちは……高校になったらホビ活しようって、イロチのワンピースを買って……。私たちは、緒方先生似の俳優のドラマが好きで、一緒に映画も見に行って……。私たちは……私、たちは……」

「ちょ、ちょっと待って!」

「ストップ、ストップ」

「えっ……?」

 勢いよく話を止められて我に返った私は、弾かれるように正面の二人の顔を見た。二人ともさっきまでの心配した様子とは打って変わって、困惑したようにこちらを見つめている。

「な、なに……?」

 さすがに身勝手に喋り過ぎたと思わず口を手で塞ぐ。少しの沈黙のあと、サナが一度リサに目配せしてから、おずおずと口を開いた。

「さっきから〝私たち〟って言っているけど、アミとユイは違うのよ?」

「そうだよ。いくら幼馴染でも、親友でも、アミはアミ。ユイはユイだよ」

「あ……っ……!?」

 頬を思い切り強く殴られたような衝撃が、見えない圧となって私を襲った。
 ずっと曇天だった頭の中に、一筋の太陽の光が一気に差し込む。
 そうだった。
 私はサナとリサという二人を通してさんざん見てきたのだ。
 二人の意見が違って、議論して、それでも相手の考えは尊重する。何度も見て、話も聞いていたのに、私はなんで自分たちのことには気付かなかったのだろうか。

 サナとリサは親友。
 でも、それぞれの考えを持っている。

 私は(・・)アミ。
 彼女は(・・・)ユイ。

 なのに。


◆


 私は、屋上へと向かって駆けていた。ユイに謝らないといけないと思ったのだ。
 スマホにメッセージを送っても返事はなし。でも靴箱にはまだスニーカーがあったから、学校中を探し回った。自販機の前のベンチに座っていたカナコとミカコに居場所を聞いて、今、そこへ向かっている。

 私は思い違いをしていたのだ。
 幼い頃から姉妹みたいにずっと一緒だったから、いつしか錯覚してしまって、自分と彼女を混同していたのかもしれない。
 きっとそれが、彼女にとって重荷だった。なのに私は気付かずに、自分の理想を押し付けて、さぞかし迷惑だったことだろう。

 私は、今のユイの価値観や生活態度は理解できない。
 でも、それは私の考えで。
 彼女には、彼女の意思があるのだ。

「……だから……」
「……ね」

 階段の上のほうから声が聞こえる。くぐもってよく聞こえないけど、間違いなくユイの声だと確信できた。

「ユイ――」

「あいつ、ほんっとウザっ」

 次にはっきりと聞こえたのは、悪態をつくユイだった。
 ただならぬ気配に思わず息を止め、手すりの陰に隠れる。

「まぁまぁ。アミって、真面目すぎるというか、まだおこちゃまだろ?」

 そして、緒方先生のなだめるような声もはっきりと聞こえてきた。

「パパ活のことも見てたみたい。最悪」

 ユイが緒方先生にしなだれかかり、先生は彼女の髪をそっと撫でた。

「証拠がないなら大丈夫だろ?」

「あたしたちみたいに?」

 ユイが挑発的に緒方先生を見上げると、先生はふっと皮肉めいた笑みを浮かべてユイを抱きしめ、前より短くなった彼女のスカートの下に手を伸ばした。

「そうだな」

 二人はくねくねと抱き合って、見つめ合う。
 そして、互いの唇を重ね合った。

 ドクン――と、私の心臓は跳ねない。
 不思議と心は乱れなかった。眼前の出来事を、ただ冷静に見つめていただけだった。
 二人の舌が絡み合う。
 不意に、彼女との懐かしい思い出が走馬灯のように蘇った。

 私たちは、同じ年の同じ月に同じ病院で生まれた。
 私たちは、幼稚園の時に同じ男の子を好きになった。
 私たちは、小学生の時に好きなアイドルのことで言い合いになった。
 私たちは、中学生の時に初めてお揃いのリップを買った。
 私たちは、可愛い制服に憧れて同じ高校を受験した。
 私たちは、同じ高校に合格した。

 私たちは、

 私たちは、

 私たちは、

 私たちは、

 私たちは、










 ――――私は。







 私は、手に持つスマホを強く握りしめた。
 強く。