土曜日の昼下がり、模擬店班の主要メンバーである三人がマツヲのアパートに集まっていた。大学の正門と直結している駅から各駅停車で十数分、周囲は小綺麗な戸建てが建ち並ぶ閑静な住宅街だ。
「しかし、貴重な秋休みの、しかも週末を、こうして男三人で料理に費やすことになろうとは思わなかったな」
コンロのそばに立っているイケが、腰に手を当てながらマツヲの作業を見守る。弱火にかけた大鍋からはふつふつと湯気が立ち昇っている。頃合いを見て溜まった灰汁を掬い、減った分の水を足すのだ。もう三十分以上、マツヲはこれを繰り返している。
「そろそろできたかな」
白濁したスープをお玉で掬うと、マツヲはそれを小皿に取り分けた。軽く匂いを嗅いでから、イケとケチョンがスープを口に含む。
「臭みは思ったほどないね」
「だが、味もないぞ。これ、ほんとに豚骨なのか?」
「まだ何も調味料を入れてないからね」
そう言ってマツヲも小皿を手に取る。飲むというより舐めるといった動作だ。
「確かにケチョンの言う通りだね。いくらなんでも味がなさすぎる。うーん、煮込み時間が足りないのかな?」
「火力の問題ってことは? それとも、もっとデカい寸胴で大量にやらないといけないのか?」
「テレビで見るラーメン屋だと、ドラム缶みたいなやつでぐらぐらやってるもんな」
「入れる骨もデカいし」
「しかし、限度ってもんがあるぞ。一般家庭じゃ、これ以上はなかなか難しいだろ」
三人とも、腕組みをしてコンロの前に仁王立つ。
「いずれにせよ研究の余地が大ありだな。まだ時間があるとはいえ、思ったよりも道のりは遠そうだ」
イケの言葉に同意するかのように、ケチョンの腹がぐうと鳴った。
演劇班は一日のスケジュールがほぼパターン化しつつあった。
午前はパートごとに分かれての自主練タイム。同じ場面に登場する役者同士が相談して集まる時間や場所を決める。空き教室を利用することが多いが、天気の良い日は気分転換を兼ねて外でやることもあった。
反省会がてらの昼食を挟んで、午後はいつもの教室に集まっての全体練習となる。ここも基本はパートごとで、ユヅの演出に基づいて台詞の言い回しや動きを確認していくが、他のパートの役者も気がついたことがあれば遠慮なくその場で意見を言う。ユヅが実際に手本を演じてみせることもあり、そんな時は全員から「さすが」と感嘆の声が上がった。
最初は脚本が手放せなかった彼らも、日を追うごとにそらで台詞を言えるようになってきて、口調にも表情が現れてくる。恐る恐るだった動きは次第に大胆になり、アドリブのアクションを入れる者も出てくる。演劇が身体芸術であることを、誰もが改めて実感していた。
全体練習はいったん始まるとどうしても熱を帯び、気がつくと外が暗くなっていることも多かった。そんな日は自然と南館の食堂に足が向き、そこで再び反省会が始まるのだ。
その日も、全体練習が終わったのは日がほとんど暮れかかる頃だった。
打ち合わせがあるというツヤカと別れ、アジポンは帰途につくべく正門へと向かった。イチョウ並木にはギンナンの匂いが漂い始めている。
一号館の脇を抜けて広場に出ると、遠目に人影を認めた。石造りの門柱を背にして片手でスマホをいじっている。最初は気にも留めなかったが、やがて、それが見たことのある人物であることに気づいた。
「あれ?」
観劇に行った折に寺社のテントで隣に居合わせた女子高校生が、アジポンに気づいて顔を上げた。アジポンは往年のドリフターズのリーダーのように手を上げて応える。
「おう」
「お兄さん、ここの大学だったんだ」
「まあな」
「じゃあ、学園祭で演劇やるって言ってたの、あれって銀杏祭の文科劇場?」
まるで旧知の仲であるかのような口ぶりで女子高校生は話しかけてきた。前回が初対面だったとは思えないほど遠慮がない。
「よく知ってるね」
「だって、有名だもの。小劇場界隈で活躍する人材を何人も輩出している、伝統の演劇祭でしょ? 銀杏祭最大の呼び物じゃない?」
「そうなの? 俺たちはただ、クラスの慣例に従ってるだけなんだけど」
女子高校生は今日も制服だった。学校帰りなのだろう。平べったく潰したカバンを足元に置いている。
「で、お兄さんは何やるの? 主役? 脇役?」
先日もそうだったが、演劇のこととなるとぐいぐい来る娘だ。可愛い見た目ながら独特の圧がある。アジポンはまたしても押され気味だ。
「いや、俺は音楽担当なんだけど」
「なんだ、つまんない。じゃあ、作品は?」
「ああ、それなら、こういうやつなんだけど」
プリントアウトした紙の束をバッグから取り出して渡す。それを見た瞬間、女子高校生の目の色が変わった。
「凄い。これ、まだどこの劇団も演ってないやつじゃない? 本邦初公演かも」
「そういや、演出担当の奴がそんなこと言ってたな」
「これ、いくつか難しい役があるのよね」
そう言うと、女子高校生は脚本を手に持ったまま何かを考え始めた。正門付近は門柱脇にある警備員の詰所くらいしか照明がなく薄暗い。アジポンの角度からだと彼女の横顔は陰になり、表情がよくわからない。
「ちなみに、ミルク役の子って、美人?」
そこか、興味は。何となく腑に落ちる気がして、アジポンは頷いた。しかし、おそらく回答は彼女の期待の斜め上を行くものだろう。
「美人っていうか、男なんだけど」
「はあ?」
女子高校生変顔グランプリがあったら、きっと入賞間違いなしだろう。それほどわかりやすく彼女は顔をしかめた。
「でも、まあ、下手な女よりはよっぽど美人だな。腰も細いし、身のこなしも、女にしか見えないような演技をするし」
「イケメンってこと?」
「まあ、そうとも言える」
「絶対見に来る」
きっぱりと宣言し、女子高校生は脚本をアジポンの胸に押しつけた。怪訝だった表情が好奇心丸出しに変わっている。
「あ、あ、ありがと。当日の時間と場所は」
「大丈夫。わかってるから。わかってなくても調べるから」
どっちなのかよくわからないが、とりあえず一人は観客を確保できたらしい。演劇班にとっては喜ばしいことだ。彼女が友だちを連れて来てくれるなら、なお望ましい。やはりツヤカの女役は看板になりそうだ。
「そういえば、今日はまたどうしてここに?」
「待ち合わせなの。一緒に帰るって約束してるから」
「男?」
「そうだけど、何か?」
「いや、特に意味はない」
一瞬とはいえ淡い期待を抱いたことを後悔する。女子高校生に大学生の彼氏がいても何の不思議もない。自分は知り合ってまだ二回目だ。彼女の何を知っているというのか。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったね。あたし、マユ。お兄さんは?」
マユは自然体で話しかけてきた。幸いなことに動揺は気づかれていないようだ。努めて顔には出さないように、アジポンはわざと芝居がかった重厚さで告げた。
「人は俺をアジポンと呼ぶ」
「アジポンね。わかった」
「わかるんかい。変ね、とか、あだ名なの? とか、普通、何かリアクション取るだろ」
「あ、そこ、もしかしてツッコミどころだった? ゴメンね、気が回らなくて」
出会って初めて、マユは口に手を当てて楽しそうに笑った。
「じゃあ、アジポンさん、これからもよろしく。文科劇場、楽しみにしてるね」
「しかし、貴重な秋休みの、しかも週末を、こうして男三人で料理に費やすことになろうとは思わなかったな」
コンロのそばに立っているイケが、腰に手を当てながらマツヲの作業を見守る。弱火にかけた大鍋からはふつふつと湯気が立ち昇っている。頃合いを見て溜まった灰汁を掬い、減った分の水を足すのだ。もう三十分以上、マツヲはこれを繰り返している。
「そろそろできたかな」
白濁したスープをお玉で掬うと、マツヲはそれを小皿に取り分けた。軽く匂いを嗅いでから、イケとケチョンがスープを口に含む。
「臭みは思ったほどないね」
「だが、味もないぞ。これ、ほんとに豚骨なのか?」
「まだ何も調味料を入れてないからね」
そう言ってマツヲも小皿を手に取る。飲むというより舐めるといった動作だ。
「確かにケチョンの言う通りだね。いくらなんでも味がなさすぎる。うーん、煮込み時間が足りないのかな?」
「火力の問題ってことは? それとも、もっとデカい寸胴で大量にやらないといけないのか?」
「テレビで見るラーメン屋だと、ドラム缶みたいなやつでぐらぐらやってるもんな」
「入れる骨もデカいし」
「しかし、限度ってもんがあるぞ。一般家庭じゃ、これ以上はなかなか難しいだろ」
三人とも、腕組みをしてコンロの前に仁王立つ。
「いずれにせよ研究の余地が大ありだな。まだ時間があるとはいえ、思ったよりも道のりは遠そうだ」
イケの言葉に同意するかのように、ケチョンの腹がぐうと鳴った。
演劇班は一日のスケジュールがほぼパターン化しつつあった。
午前はパートごとに分かれての自主練タイム。同じ場面に登場する役者同士が相談して集まる時間や場所を決める。空き教室を利用することが多いが、天気の良い日は気分転換を兼ねて外でやることもあった。
反省会がてらの昼食を挟んで、午後はいつもの教室に集まっての全体練習となる。ここも基本はパートごとで、ユヅの演出に基づいて台詞の言い回しや動きを確認していくが、他のパートの役者も気がついたことがあれば遠慮なくその場で意見を言う。ユヅが実際に手本を演じてみせることもあり、そんな時は全員から「さすが」と感嘆の声が上がった。
最初は脚本が手放せなかった彼らも、日を追うごとにそらで台詞を言えるようになってきて、口調にも表情が現れてくる。恐る恐るだった動きは次第に大胆になり、アドリブのアクションを入れる者も出てくる。演劇が身体芸術であることを、誰もが改めて実感していた。
全体練習はいったん始まるとどうしても熱を帯び、気がつくと外が暗くなっていることも多かった。そんな日は自然と南館の食堂に足が向き、そこで再び反省会が始まるのだ。
その日も、全体練習が終わったのは日がほとんど暮れかかる頃だった。
打ち合わせがあるというツヤカと別れ、アジポンは帰途につくべく正門へと向かった。イチョウ並木にはギンナンの匂いが漂い始めている。
一号館の脇を抜けて広場に出ると、遠目に人影を認めた。石造りの門柱を背にして片手でスマホをいじっている。最初は気にも留めなかったが、やがて、それが見たことのある人物であることに気づいた。
「あれ?」
観劇に行った折に寺社のテントで隣に居合わせた女子高校生が、アジポンに気づいて顔を上げた。アジポンは往年のドリフターズのリーダーのように手を上げて応える。
「おう」
「お兄さん、ここの大学だったんだ」
「まあな」
「じゃあ、学園祭で演劇やるって言ってたの、あれって銀杏祭の文科劇場?」
まるで旧知の仲であるかのような口ぶりで女子高校生は話しかけてきた。前回が初対面だったとは思えないほど遠慮がない。
「よく知ってるね」
「だって、有名だもの。小劇場界隈で活躍する人材を何人も輩出している、伝統の演劇祭でしょ? 銀杏祭最大の呼び物じゃない?」
「そうなの? 俺たちはただ、クラスの慣例に従ってるだけなんだけど」
女子高校生は今日も制服だった。学校帰りなのだろう。平べったく潰したカバンを足元に置いている。
「で、お兄さんは何やるの? 主役? 脇役?」
先日もそうだったが、演劇のこととなるとぐいぐい来る娘だ。可愛い見た目ながら独特の圧がある。アジポンはまたしても押され気味だ。
「いや、俺は音楽担当なんだけど」
「なんだ、つまんない。じゃあ、作品は?」
「ああ、それなら、こういうやつなんだけど」
プリントアウトした紙の束をバッグから取り出して渡す。それを見た瞬間、女子高校生の目の色が変わった。
「凄い。これ、まだどこの劇団も演ってないやつじゃない? 本邦初公演かも」
「そういや、演出担当の奴がそんなこと言ってたな」
「これ、いくつか難しい役があるのよね」
そう言うと、女子高校生は脚本を手に持ったまま何かを考え始めた。正門付近は門柱脇にある警備員の詰所くらいしか照明がなく薄暗い。アジポンの角度からだと彼女の横顔は陰になり、表情がよくわからない。
「ちなみに、ミルク役の子って、美人?」
そこか、興味は。何となく腑に落ちる気がして、アジポンは頷いた。しかし、おそらく回答は彼女の期待の斜め上を行くものだろう。
「美人っていうか、男なんだけど」
「はあ?」
女子高校生変顔グランプリがあったら、きっと入賞間違いなしだろう。それほどわかりやすく彼女は顔をしかめた。
「でも、まあ、下手な女よりはよっぽど美人だな。腰も細いし、身のこなしも、女にしか見えないような演技をするし」
「イケメンってこと?」
「まあ、そうとも言える」
「絶対見に来る」
きっぱりと宣言し、女子高校生は脚本をアジポンの胸に押しつけた。怪訝だった表情が好奇心丸出しに変わっている。
「あ、あ、ありがと。当日の時間と場所は」
「大丈夫。わかってるから。わかってなくても調べるから」
どっちなのかよくわからないが、とりあえず一人は観客を確保できたらしい。演劇班にとっては喜ばしいことだ。彼女が友だちを連れて来てくれるなら、なお望ましい。やはりツヤカの女役は看板になりそうだ。
「そういえば、今日はまたどうしてここに?」
「待ち合わせなの。一緒に帰るって約束してるから」
「男?」
「そうだけど、何か?」
「いや、特に意味はない」
一瞬とはいえ淡い期待を抱いたことを後悔する。女子高校生に大学生の彼氏がいても何の不思議もない。自分は知り合ってまだ二回目だ。彼女の何を知っているというのか。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったね。あたし、マユ。お兄さんは?」
マユは自然体で話しかけてきた。幸いなことに動揺は気づかれていないようだ。努めて顔には出さないように、アジポンはわざと芝居がかった重厚さで告げた。
「人は俺をアジポンと呼ぶ」
「アジポンね。わかった」
「わかるんかい。変ね、とか、あだ名なの? とか、普通、何かリアクション取るだろ」
「あ、そこ、もしかしてツッコミどころだった? ゴメンね、気が回らなくて」
出会って初めて、マユは口に手を当てて楽しそうに笑った。
「じゃあ、アジポンさん、これからもよろしく。文科劇場、楽しみにしてるね」



