流星群II

 その劇場は高層ビルが林立する街区の一角にあった。エレベーターで四階に上がると、目の前がエントランスホールになっている。チケット売り場の横に「リア王」と書かれた立て看板が出ていた。

「ここか」
「さっそく行ってみるか」

 光量を抑えた間接照明が木目調の壁を照らす、シックな空間だ。宵の口という時間帯もあり、仕事帰りと思しきスーツ姿の男女が連れ立って中に入っていく。演劇班の有志に、なぜかイケも加わった一団も、キョロキョロといささか挙動不審な振る舞いを見せながら後に続いた。

 意外なことに、舞台には何もセットが組まれていなかった。いかにもヨーロッパ貴族という衣装に身を包んだ役者たちが、口から唾を飛ばしながら台詞を喋り、舞台の袖から袖までを大仰に動き回る。途中に休憩を挟んでの二幕構成は、終わってみると二時間を優に超えていた。

 鑑賞後は夕食がてらに近くのファストフード店で反省会が開かれた。隣り合った席から椅子を持ち寄って一つのテーブルを囲む。

「正統派なんだろうけど、いまいち印象に残らなかったな」
「どこか学芸会的っていうか」
「俺、途中で寝てた」
「よく知ってる脚本だからってのもあるかも。演出もオーソドックスだったし」

 正直な感想をぶつけ合う。テーブルの上にはハンバーカーやポテトが所狭しと置かれ、誰がどれを食べているのかわからない。

「まあ、これはこれで基準にはなるね」

 そう言って、ツヤカはエビマヨバーガーを手に取った。確か、これを注文したのは自分だけだ。それに、違っていたとしても誰にもわかるまい。



 湾岸エリアに新設された劇場は、コンクリートの壁がダムのように聳える壮麗な外観をしていた。シェイクスピア劇の記憶が薄れないうちにと、その翌日、今度は海外でも著名な劇団が主宰するミュージカルを見に来たのだ。ここでは長期間にわたって、昼夜二部制で一つの作品を上演している。

「おばさんが多いな」
「昼間だからな。それに、金と暇を持て余してるんだろう」

 エントランスでは中高年女性のグループが喧しくお喋りをしていた。みな、見るからによそ行きの服装と化粧をしている。

 常設の専用劇場だけあって、舞台には豪華なセットが組まれていた。登場人物も多く、派手な装飾が施された衣装が七色の照明を受けてきらびやかに輝く。音響も素晴らしく、その迫力は圧倒的だった。

 今回も鑑賞後は恒例の反省会となった。場所は少し歩いたところにあるラーメン屋だ。長いカウンターに一列に並んで、思い思いにラーメンを啜る。

「でも、学生料金であの値段はないだろ」
「今月の仕送り、だいぶ持ってかれてしまった」
「ていうか、イケくん、模擬店班なのに、なんで今日も来てるの?」
「いいじゃん。何事も経験ってことで。店の飾りつけに生かせるかもしれないし」
「アラビアンナイトがコンセプトの店なの?」
「いや、まだ何をやるか、決めてないけど」

 イケと女性陣の掛け合いが続く中、一番端の席にいたカトーが食べ終わって箸を置く。

「確かに懐には痛かったけど、比較対象としては意味あったと思うよ。大道具も衣装も、自分たちにできるレベルではないことがわかったし。それに、本命は最初から次だから」
「劇場じゃなく、お寺でやるんだろう? 楽しみだなあ」
「全然想像つかない」
「アングラってことだろ?」
「いいねえ、怪しげで」

 相次ぐ期待の声を受け、カトーは満足そうに目を細める。

「脚本もオリジナルだしね。俺も初めてだから、行ってみてのお楽しみってところだな」



 朱に塗られた柱が鮮やかな山門をくぐり、本堂へと至る石段ではなく、その脇の小道を登っていく。木々を抜けた先に空き地があり、白い大きなテントが設営されていた。中に入ると正面に一段高くなった舞台がある。手前の地面にはござが敷いてあった。

「地面に座るってこと?」

 ユツキが甲高い声を上げる。

「雰囲気あるねえ。もう、最初っからアンダーグラウンドって感じ」
「席はオンザグラウンドだけど」

 英文科志望のアーチャンがツヤカの発言を皮肉る。

 ミュージカルから一日置いて、今日が最後の観劇だ。これまでのような劇場ではなく、寺社の境内を会場にしている。まだ開演まで時間があるせいか、人影はさほど多くない。演劇班の面々は前方中央に固まって席を占めることにした。

 だが、アジポンだけは彼らと離れて最後方の左隅に陣取った。ここからだと、舞台だけでなく観客席も含めたテント内の空間すべてが見渡せる。劇もさることながら、鑑賞する人々の反応も併せて見たいと思ったのだ。

 テント越しに感じられた残照が宵闇に変わる頃、オンザグラウンドはほぼ満席となっていた。ゆっくりと照明が落ちていく。

 効果音が流れる中、舞台中央に忽然と老婆が現れた。スポットライトに照らし出された彼女は、地面に落ちている何かを見つけたのか、手にした箒を振り回しながらそれを追いかける。続いて、右手の袖から自動車ほどもある大きな靴が運ばれてきた。背広姿の男がその背に張り付くように乗っている。靴を押しているのは小汚い服装をした大勢の男たちだ。この街の住人という設定らしい。口々に何かをわめき立てている。

 冒頭からの思いもよらない怒涛の展開に、アジポンは呆然と口を開けていた。

「ここ、いいですか?」

 耳元で声がして、驚いて振り返る。サイドテールを肩口に垂らした制服姿の女子高校生が、アジポンの隣の空いているスペースを指差していた。

「ん? ああ、どうぞ」
「ありがとうございます」

 女子高校生は慣れた素振りで体育座りになると、すぐに一心不乱な表情で正面を見つめ始めた。つられてアジポンも舞台に向き直る。

 背広の男の独唱に続いて、男と住人たちとのマシンガントークが炸裂する。その最中の要所要所で、哀切を帯びた印象的なメロディーが響き渡る。

 畳みかけるような展開が暗転し、テントに突然の静寂が訪れる。再びのスポットライトに照らし出されたのは車椅子を押す赤いベレー帽の男だ。車椅子には等身大の女の人形が乗せられている。左袖から背広の男が現れ、ベレー帽の男に「扉さん」と呼びかける。

 ベレー帽の男は答えない。背広の男が何度も呼び続けていると、舞台はまたも暗転し、ジュラルミンの盾のような扉が何枚も現れる。それが去ると、先ほどとは反転してベレー帽の男が車椅子に乗っている。車椅子を押しているのは人形の姿をした生身の女だ。

「なるほど。早着替えみたいなものね。だから扉という名前なのか。メタファーになってるんだ」

 女子高校生が独り言を呟く。アジポンはぎょっとして、思わず彼女の横顔をまじまじと見てしまった。なんだ、この娘は?

 背広の男が独白していると、突然、先ほどの印象的なメロディーが流れ、明後日の方向にスポットライトが当たる。そこにいたのは男装の女。パナマ帽を目深に被り、袖を捲り上げたワイシャツとベージュのスラックス。細身の黒いネクタイを緩く締めている。

「ヒロイン登場。大事な場面では常に同じ音楽を使う。シンプルだけど洒落たテクニックね。繰り返されることで、ポイントがどこかが体感的にわかってくる」

 アジポンは再び独り言ちる女子高校生に目をやるが、彼女はそんな視線に気づくこともなく舞台を見つめている。

 劇は目まぐるしく展開していく。小気味よいテンポで台詞が飛び交い、過剰なくらいに大げさなアクションで俳優たちが動き回る。観客はみな魅入られたように舞台に釘付けになっている。

 インターンたちを従えた医者が、眼帯で右目を隠した男と言い争っている。どうやら、奪われた眼を返せと訴えているらしい。白衣に包まれた医者の体は異常に膨らんでいる。

 言い争いがピークに達したのか、医者がガバッと白衣を脱ぎ棄てると、彼の裸の体にはホースが幾重にも巻き付いていた。それにつながるようにポリタンクや金属製の湯たんぽがぶら下がっている。一目、異形の姿であり、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる。

 アジポンは反射的に顔をしかめた。しかし、すぐ隣で嬉々とした声が響く。

「出たっ。エロ、グロ、ナンセンス。やっぱりこれでなくっちゃ」

 女子高校生はひときわ瞳を輝かせる。周囲はみな気持ち悪そうな顔をしているが、彼女だけはウキウキと楽しそうだ。

 医者と眼帯の男とのやりとりが一段落すると、全員がその場から立ち去る。誰もいなくなった舞台がゆっくりと暗転する。

 この先どうなるのかと不安になってきた頃、テントの外で声がした。と同時に、観客席の最後方右隅から眼帯の男が飛び出してきた。花柄のワンピースに着替えた元男装の女の手を引いている。

 それを見て女子高校生が舌を打つ。

「右だったか。読み間違えた。せっかく最後方の隅を確保できたと思ったのに」

 残念そうな女子高校生の視線の先で、眼帯の男とワンピースの女は観客席を縦断すると舞台に駆け上がった。そこに、左手の袖から別の女が現れる。手には鋭利なナイフ。目は血走り、ほとばしる狂気が感じられる迫真の演技だ。

「いいよ、その表情。もう思い切りグサッとやっちゃって」

 女子高校生を見るアジポンは、もう呆れ顔だ。

 叫び声とともにナイフの女が眼帯の男に突進すると、赤い逆光が観客席に向けられる。それを合図に、舞台には医者や老婆、住人たちなどが登場し、全員入り乱れての大騒ぎとなっていく。

 その時、頭の上で大きな声がした。驚いて振り返ると、アジポンたちのすぐ後ろに背広の男が立っている。その右目は眼帯で塞がれていた。

「きゃっ」

 女子高校生が両手を胸の前で合わせ、満面の笑みを浮かべた。瞳に星が宿るかの如く、うっとりとした表情で背広の男を見上げる。背広の男が台詞を言うたびに唾が降りかかるが、女子高校生はものともしない。

 ひとしきり喋り終えた背広の男は観客席の真ん中を駆け抜けて舞台に上がる。そして、中央に置かれた大きな靴を押す。劇の冒頭、登場した際に男が乗っていたものだ。眼帯の男とワンピースの女もそれに加担し、三人で押す。

 雷のような効果音がとどろき、舞台の背景になっていた壁が次々と崩れていく。テントの後方が開け放たれると、そこには漆黒の森が広がっていた。気がつくと、背広の男たちは押している靴とともにトラックの荷台に乗り込んでいる。そして、そのままゆっくりと暗闇に吸い込まれるように去って行った。観客席から万雷の拍手が沸き起こった。



 カーテンコールが終わってもアジポンは席を立つことができなかった。凄いものを見たという感覚が全身を貫いている。

 観客の大半が退出しスカスカになったテントの中で、しかしもう一人、余韻に浸るように舞台を眺めている者がいた。

「詳しいんだね」
「え?」

 アジポンの呼びかけに、初めてその存在に気づいたとでも言わんばかりに、女子高校生は振り返った。

「いや、いろいろと解説してくれたんで。初心者の自分にもよくわかったから」
「まあ、好きだから」
「よく来るの?」
「ここは初めてです。でも、来て良かった。特に最後の、あの舞台ごと車で走り去ってくシーン。お寺の境内っていうロケーションを存分に生かしてて」
「ああ、あれは衝撃的だったな。度肝抜かれた」

 舞台の先は今も吹き抜けのままだ。森の奥にトラックが停まっているのが見える。

「お兄さんも演劇、やってるんですか?」
「今度、学園祭でやるんだ。だから、勉強にと思って」

 テントの出口でアジポンを呼ぶ声がした。手を上げて応えると、アジポンは改めて女子高校生に向き直った。

「じゃあ、今日はありがと」
「いえ、こちらこそ」

 女子高校生は敬礼のように片手を上げた。今更だが、なかなか可愛い。サイドテールの髪形も制服によく似合っている。ちょっとヲタクなのはどうかと思うが、それを気にしなければ充分に合格点だ。

 背を向けて出口に向かいながら、一人だけ別の席にしたのは正解だったかもしれないとアジポンは思った。