あの切なくも甘い夜から数ヶ月。
後宮を包んでいた冷たい冬の空気は去り、翡翠宮には柔らかな陽光と、咲き誇る薄紅色の桜が舞い散る「春」が訪れていた。
新帝の治世が安定し、宮廷が祝賀ムードに包まれるなか、大極殿にて、国を揺るがす重大な発表が行われようとしていた。
「これより、夜黎烽大人が正式に妻を迎える儀を執り行う!」
儀礼官の高らかな声が響き渡る。
居並ぶ高官たちや、美しく着飾った妃たちの間に、ざわめきが広がった。
誰もが、あの冷徹無比で「人の心を持たない」と言われた天才軍師が、一体どこの名門貴族の娘を妻に選ぶのかと息をのんでいた。
劉麗華の失脚以降、彼の隣を狙う者は絶えなかったが、黎烽は誰一人として一瞥もくれなかったからだ。
大きな扉が開き、一人の女性が入場してくる。
その姿を見た瞬間、会場全体が水を打ったように静まり返った。
現れたのは、身寄りのない元毒見女官であり、現在は彼の専属薬師を務めている紅采葉だった。
しかし、今の彼女の姿には、かつての地味な女官の面影はどこにもない。
目の覚めるような極上の白と深紫の豪華な婚礼衣装を纏い、髪にはあの鈍くきらめく「翡翠の髪飾り」が誇らしげに挿されている。
その佇まいは、どんな名門の令嬢よりも気高く、凛として美しかった。
「な、なぜあのような身分の低い女が……!」
「夜大人を妖術で惑わせたに違いないわ!」
周囲から容赦ない非難の囁きが漏れ聞こえる。
采葉はほんの一瞬、緊張で足が止まりそうになった。
だがその時、上座から大股で歩み寄ってきた黎烽が、躊躇うことなく采葉の前に跪き、彼女の白く柔らかな手を両手で包み込んだ。
「――静粛にせよ」
黎烽が低く冷徹な声を響かせると、騒然としていた大極殿が一瞬で静まり返った。彼は立ち上がり、采葉の肩を抱き寄せながら、並み居る高官たちを鋭い眼光で射抜いた。
「私の妻となるのは、この紅采葉ただ一人だ。彼女の出自を侮辱する者は、この私、夜黎烽に対する反逆とみなし、即座にその地位を剥奪する」
圧倒的な権力による完全な庇護。皇帝すらも黎烽の智謀に深く依存しているこの国で、彼の言葉に逆らえる者など、もはや誰一人として存在しなかった。
盛大な儀式が終わり、騒がしい祝宴を抜け出した二人は、新月宮の奥にある、桜が満開に咲き誇る静かな庭園へと戻ってきた。
春の夜風が、采葉の婚礼衣装の袖を優しく揺らす。
黎烽は長い官服の袖を払うと、采葉の前に立ち、彼女の髪に挿された翡翠の髪飾りにそっと触れた。
「……結局、私の頭の霧は、完全には晴れなかったな」
黎烽は少し寂しげに、自嘲気味な笑みを浮かべた。
かつて彼を縛った呪術的な封印は強固で、二年前の里での細かい記憶の映像や、采葉と過ごした日々の正確な景色は、未だに完全には戻っていない。
「謝らないでください、黎烽。私は、今のあなたがここにいてくれるだけで、本当に幸せなんです」
采葉は首を振り、彼の広い胸にそっと顔を寄せた。
薬師として、彼の命が脅かされるような無理な記憶の覚醒は望まない。
何より、記憶が完全に戻らなくとも、彼は「今の采葉」を誰よりも深く、激しく愛してくれた。それだけで、満足だった。
しかし、黎烽は采葉を強く抱きしめると、彼女の耳元で愛おしそうに囁いた。
「記憶など、もう不要だ。過去の私がどれほどお前を愛していたかなど関係ない。今の私は、過去の私以上に、お前なしでは生きていけない身体になっているのだから」
黎烽の独占欲に満ちた、けれどどこまでも優しい言葉に、采葉の胸は熱い涙で満たされる。
冷徹だった彼の心を溶かし、再びこの腕の中に帰ってきてくれた。形は変わっても、彼は間違いなく、采葉が一生を捧げると誓ったあの優しい恋人だった。
「采葉。二年前、私はお前に『春になったら、夫婦になろう』と言ったのだろう?」
「……はい。覚えていなくても、その言葉通り、あなたは私を妻にしてくれました」
黎烽はふっと目を細め、采葉の顎を優しく持ち上げた。
月光に照らされた彼の瞳には、かつて「氷の軍師」と呼ばれた冷酷さは微塵もなく、ただ一人の女性への甘い情熱だけが満ちている。
「ならば、新しい約束をしよう」
黎烽は采葉の額に、自身の額をこつんと預けた。
「これから毎年、春が来るたびに、私はお前に新しい髪飾りを贈る。お前の黒髪を、私の愛の色で満たしてやる。……過去の記憶がなくても、これから死ぬまでの新しい記憶を、お前との愛で全て埋め尽くせばいい」
あまりにも強引で、けれどこれ以上ないほど甘い誓いの言葉。
采葉は涙を流しながら、満面の笑みで頷いた。
「はい……。喜んで、あなたと新しい記憶を紡ぎます、黎烽」
舞い散る桜の吹雪のなか、二人の唇が静かに重なり合った。
それは、過去の切ない別れを完全に乗り越え、未来への永遠の愛を誓う、深く、甘い、至高の口づけだった。
身寄りのない毒見女官から、国最高峰の軍師の唯一無二の正妻へ。
記憶を失ったヒーローとの、ゼロから始まった後宮シンデレラストーリーは、満開の春の光のなかで、永遠に解けない幸福の魔法となったのだった。
(了)
後宮を包んでいた冷たい冬の空気は去り、翡翠宮には柔らかな陽光と、咲き誇る薄紅色の桜が舞い散る「春」が訪れていた。
新帝の治世が安定し、宮廷が祝賀ムードに包まれるなか、大極殿にて、国を揺るがす重大な発表が行われようとしていた。
「これより、夜黎烽大人が正式に妻を迎える儀を執り行う!」
儀礼官の高らかな声が響き渡る。
居並ぶ高官たちや、美しく着飾った妃たちの間に、ざわめきが広がった。
誰もが、あの冷徹無比で「人の心を持たない」と言われた天才軍師が、一体どこの名門貴族の娘を妻に選ぶのかと息をのんでいた。
劉麗華の失脚以降、彼の隣を狙う者は絶えなかったが、黎烽は誰一人として一瞥もくれなかったからだ。
大きな扉が開き、一人の女性が入場してくる。
その姿を見た瞬間、会場全体が水を打ったように静まり返った。
現れたのは、身寄りのない元毒見女官であり、現在は彼の専属薬師を務めている紅采葉だった。
しかし、今の彼女の姿には、かつての地味な女官の面影はどこにもない。
目の覚めるような極上の白と深紫の豪華な婚礼衣装を纏い、髪にはあの鈍くきらめく「翡翠の髪飾り」が誇らしげに挿されている。
その佇まいは、どんな名門の令嬢よりも気高く、凛として美しかった。
「な、なぜあのような身分の低い女が……!」
「夜大人を妖術で惑わせたに違いないわ!」
周囲から容赦ない非難の囁きが漏れ聞こえる。
采葉はほんの一瞬、緊張で足が止まりそうになった。
だがその時、上座から大股で歩み寄ってきた黎烽が、躊躇うことなく采葉の前に跪き、彼女の白く柔らかな手を両手で包み込んだ。
「――静粛にせよ」
黎烽が低く冷徹な声を響かせると、騒然としていた大極殿が一瞬で静まり返った。彼は立ち上がり、采葉の肩を抱き寄せながら、並み居る高官たちを鋭い眼光で射抜いた。
「私の妻となるのは、この紅采葉ただ一人だ。彼女の出自を侮辱する者は、この私、夜黎烽に対する反逆とみなし、即座にその地位を剥奪する」
圧倒的な権力による完全な庇護。皇帝すらも黎烽の智謀に深く依存しているこの国で、彼の言葉に逆らえる者など、もはや誰一人として存在しなかった。
盛大な儀式が終わり、騒がしい祝宴を抜け出した二人は、新月宮の奥にある、桜が満開に咲き誇る静かな庭園へと戻ってきた。
春の夜風が、采葉の婚礼衣装の袖を優しく揺らす。
黎烽は長い官服の袖を払うと、采葉の前に立ち、彼女の髪に挿された翡翠の髪飾りにそっと触れた。
「……結局、私の頭の霧は、完全には晴れなかったな」
黎烽は少し寂しげに、自嘲気味な笑みを浮かべた。
かつて彼を縛った呪術的な封印は強固で、二年前の里での細かい記憶の映像や、采葉と過ごした日々の正確な景色は、未だに完全には戻っていない。
「謝らないでください、黎烽。私は、今のあなたがここにいてくれるだけで、本当に幸せなんです」
采葉は首を振り、彼の広い胸にそっと顔を寄せた。
薬師として、彼の命が脅かされるような無理な記憶の覚醒は望まない。
何より、記憶が完全に戻らなくとも、彼は「今の采葉」を誰よりも深く、激しく愛してくれた。それだけで、満足だった。
しかし、黎烽は采葉を強く抱きしめると、彼女の耳元で愛おしそうに囁いた。
「記憶など、もう不要だ。過去の私がどれほどお前を愛していたかなど関係ない。今の私は、過去の私以上に、お前なしでは生きていけない身体になっているのだから」
黎烽の独占欲に満ちた、けれどどこまでも優しい言葉に、采葉の胸は熱い涙で満たされる。
冷徹だった彼の心を溶かし、再びこの腕の中に帰ってきてくれた。形は変わっても、彼は間違いなく、采葉が一生を捧げると誓ったあの優しい恋人だった。
「采葉。二年前、私はお前に『春になったら、夫婦になろう』と言ったのだろう?」
「……はい。覚えていなくても、その言葉通り、あなたは私を妻にしてくれました」
黎烽はふっと目を細め、采葉の顎を優しく持ち上げた。
月光に照らされた彼の瞳には、かつて「氷の軍師」と呼ばれた冷酷さは微塵もなく、ただ一人の女性への甘い情熱だけが満ちている。
「ならば、新しい約束をしよう」
黎烽は采葉の額に、自身の額をこつんと預けた。
「これから毎年、春が来るたびに、私はお前に新しい髪飾りを贈る。お前の黒髪を、私の愛の色で満たしてやる。……過去の記憶がなくても、これから死ぬまでの新しい記憶を、お前との愛で全て埋め尽くせばいい」
あまりにも強引で、けれどこれ以上ないほど甘い誓いの言葉。
采葉は涙を流しながら、満面の笑みで頷いた。
「はい……。喜んで、あなたと新しい記憶を紡ぎます、黎烽」
舞い散る桜の吹雪のなか、二人の唇が静かに重なり合った。
それは、過去の切ない別れを完全に乗り越え、未来への永遠の愛を誓う、深く、甘い、至高の口づけだった。
身寄りのない毒見女官から、国最高峰の軍師の唯一無二の正妻へ。
記憶を失ったヒーローとの、ゼロから始まった後宮シンデレラストーリーは、満開の春の光のなかで、永遠に解けない幸福の魔法となったのだった。
(了)



