記憶を失った元婚約者が後宮の最高権力者になっていた件~「下がれ」と冷たく突き放されたのに、なぜか専属にされて毎朝溺愛されています~

 劉麗華の一件を経て、新月宮における采葉の立場は不動のものとなった。
 誰もが恐れる冷徹な軍師・黎烽が、一介の女官のために右大臣の娘を容赦なく幽閉したのだ。
 後宮の者たちは一様に震え上がり、二度と采葉に不敬を働く者はいなくなった。
 しかし、外の世界が静まり返るのとは裏腹に、黎烽の内面では、激しい嵐が吹き荒れ始めていた。

「……う、ん……。あ、は……」 
 深夜。新月宮の寝室で、黎烽は浅い眠りの中で幾度も寝返りを打っていた。
 彼の額にはべっとりと冷や汗が滲み、美しい眉は痛ましげに寄せられている。
 夢を見ていた。
 今の彼が暮らす、冷たい金や玻璃で飾られた宮殿ではない。
 もっと土の匂いがして、緑が豊かで、どこか懐かしい、暖かい光に満ちた場所。
 そこで自分は、今よりもずっと穏やかな顔で笑っている。その視線の先には、一人の少女がいた。
『――烽、春になったら、本当に夫婦になれるの?』
 鈴を転がすような、愛おしい声。だが、夢の中の少女の顔だけは、深い靄に包まれていて見えない。夢の中の自分が、少女の艶やかな黒髪に、鈍く煌めく緑色の何かを挿し込む。
『ああ、約束だ。この命を救ってくれた君を、一生大切にする。……春になったら、夫婦になろう』
 その瞬間、胸を掻きむしりたくなるほどの愛おしさが込み上げる。だが同時に、それを引き裂くような漆黒の影が迫り、夢は強制的に闇へと突き落とされた。
「――っ、采、葉……!」 
 黎烽は、自身の叫び声で目を覚ました。
 勢いよく上半身を起こすと、寝衣はぐっしょりと汗で濡れている。呼吸は荒く、心臓が早鐘のように打っていた。
「大人!? どうなさいましたか!」
 隣の控えの間にいた采葉が、ただ事ではない気配を察して、灯火を手に慌てて駆け込んできた。
「……あ、は……采、葉……」
 黎烽は、入ってきた采葉の姿を見るなり、縋るように彼女の細い腰に両腕を回し、その胸元に顔を埋めた。
 突然のことに采葉は驚き、手に持っていた燭台を近くの机に急いで置いた。
「また、あの頭痛ですか? 今、薬香を――」
「違う。頭は……痛まない。だが、胸が、引き裂かれそうだ」 
 黎烽の声は、見たこともないほどに震えていた。
 いつもなら「私の許可なく動くな」と傲慢に命令する彼が、今はまるで、暗闇に取り残された迷子の子どものように、采葉の体温を求めてしがみついている。
 采葉は、彼の濡れた黒髪を優しく撫で、その背中をトントンと一定の刻みで叩いた。かつて里で、彼がうなされた時にいつもしていたように。
「怖い夢を、見られたのですね」
「……お前には、わかるのか」
「分かりますよ。大人の身体は、今とても強張っています。深く息を吸って、吐いてください」 
 采葉の胸に顔を寄せたまま、黎烽は彼女から立ち上る、あのほろ苦くも清涼感のある香りを深く吸い込んだ。
 不思議と、それだけで脈拍が落ち着いていく。
「夢を、見た。……私が、知らない場所で、知らない女と笑っている夢だ。私は、その女を酷く愛していた。失うことが、狂うほどに恐ろしいほどに……」
 黎烽は、采葉の腰を抱きしめる腕に、さらにギュッと力を込めた。
「目覚めた瞬間、酷い喪失感に襲われた。……だが、お前の顔を見たら、その痛みが少し和らいだ。なぜだ。なぜ私は、お前にこれほど執着する? お前は一体、何者なんだ……」
 その問いに、采葉は胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
 彼は、確実に思い出し始めている。
 二人の過去を。
 彼が自分に贈ってくれた、あの髪飾りの約束を。
「大人……私は、ただの薬師です」 
 采葉は、溢れそうになる涙を堪えながら、嘘を重ねた。
 今、自分が元婚約者だと名乗れば、彼の脳裏にある強固な記憶の封印が拒絶反応を起こし、それこそ命に関わる劇症の頭痛を引き起こすかもしれない。
 それは薬師として、何より彼を愛する者として、絶対に避けたかった。
「……その夢の中で、あなたは彼女に、何かを贈っていませんでしたか?」
 采葉が静かに尋ねると、黎烽はハッとしたように顔を上げた。その美しい瞳が、微かに見開かれる。
「なぜ、それを知っている」
「……薬師の勘、ですよ。大切な約束の記憶は、形を変えて心に残るものですから」
 采葉はそっと微笑むと、衣服の合わせ目の奥から、いつも肌身離さず持っていた「それ」を取り出した。
 月光と、微かな蝋燭の光を浴びて、鈍く、しかし深くきらめく、一本の翡翠の髪飾り。
 それを見た瞬間、黎烽の瞳が激しく揺るがされた。
「それは……!」
 黎烽は、奪い取るようにして采葉の手から髪飾りを取った。
 指先で、その滑らかな翡翠の質感をなぞる。彼の脳裏に、先ほどの夢の断片が、より鮮烈な色彩を持ってフラッシュバックした。
 夢の中で、自分が少女の黒髪に挿した、まさにそのものだった。
「なぜ、お前がこれを持っている。これは、私の夢の中の――」
「これは、故郷の里で、大切な人から授かったものです」
 采葉は、真っ直ぐに黎烽の瞳を見つめた。
「『春になったら、夫婦になろう』……そう言って、私にこれをくれた人がいました。その人は、ある日突然、私の前からいなくなってしまったけれど……私は今でも、その約束を、その人の優しさを、信じています」
 采葉の言葉を聞いた黎烽は、言葉を失った。
「……待て」
 黎烽の表情から、先ほどまでの動揺が消えた。軍議で無数の情報を組み合わせる時と同じ、冷静な光が瞳に戻る。
「私の発作を知っていた。私が忘れている香りを知っていた。そして、夢の中の髪飾りをお前が持っている」
 一つずつ、確かめるように言葉を並べていく。
「偶然が三つ重なることはない。……夢の女は、お前なのだな」
 黎烽は、ぽつりと呟いた。
 記憶の明確な映像や、当時の感情が完全に蘇ったわけではない。頭の奥には、未だに冷たい鎖のような封印が厳然と存在している。
 けれど、そんな呪術的な封印など、今の彼の「魂」の前には無意味だった。
「黎、烽……?」 
 黎烽は、手にした翡翠の髪飾りを、そっと采葉の黒髪へと挿し込んだ。
 二年前と、全く同じ位置に。完璧な手つきで。
「大人……?」
「私はまだ、すべてを思い出したわけではない。お前の言う、その『大切な人』が、本当に過去の私なのかも、証明はできない」
 黎烽は、采葉の頬を両手で包み込み、引き寄せた。
 二人の唇が触れ合うほどの至近距離で、彼の瞳には、かつてないほどの熱い情熱と、あの頃の優しい光が混ざり合っていた。
「だが、私の魂は、最初からお前だけを覚えている。過去の私が、お前に春の約束をしたのなら……今の私は、それを今ここで、上書きしてやる」
 黎烽は、采葉の濡れた瞳を見つめ、低く、甘く囁いた。
「過去の記憶など、なくてもいい。私はもう一度、お前に恋をした。今度の春は、この後宮で、私がお前を本当の妻にする」
 その瞬間、黎烽の唇が、采葉の唇へと重なった。
 それは、失われた過去を惜しむような切なさと、決して彼女を離さないという独占欲が入り混じった、深く、濃厚な口づけだった。
 記憶を失った軍師と、毒見の女官。
 二人の止まっていた時間がいま、新たな愛の誓いとともに激しく動き出そうとしていた。