記憶を失った元婚約者が後宮の最高権力者になっていた件~「下がれ」と冷たく突き放されたのに、なぜか専属にされて毎朝溺愛されています~

「……大人、朝の仕度のお時間です。あまり動かれると、帯が結べません」
 新月宮の広々とした寝室に、采葉の困ったような声が響く。
 専属薬師女官となって三日。采葉の朝は、黎烽の着替えを手伝うことから始まる。
 いま、采葉は黎烽の目の前に立ち、彼の細い腰に、深紫色の官服の帯を巻き付けているところだった。
 至近距離。
 采葉が少しでも顔を上げれば、彼の滑らかな顎に触れてしまいそうな距離だ。
「私が動いているのではない。お前が小さすぎるのが悪い」
 黎烽はそっぽを向きながらも、采葉が作業しやすいように、自ら少し屈んでやっている。
 かつて里にいた頃の彼は、粗末な木綿の服を自分でさっさと着るような無頓着な男だった。
 しかし今の彼は、一国の命運を握る軍師。身に纏うのは、最高級の絹に精緻な刺繍が施された重厚な官服だ。
 そのギャップに未だに慣れない采葉だったが、ふと、黎烽の耳の付け根が微かに赤くなっていることに気がついた。
(あ……黎烽、照れてる?)
 それは、里にいた頃、采葉に不意に手を握られた時に彼が見せていた「癖」そのものだった。
 冷徹な氷の軍師として振る舞いながらも、采葉が体に触れるたびに、彼の身体は純情だったあの頃のように反応してしまうらしい。
「大人、できました。……そんなに睨まないでください」
「睨んでなどいない。……お前が、他の男にもこうして服を着せているのかと考えていただけだ」 黎烽は眉間を険しくしたまま、采葉の手首をそっと掴み、己の胸元へと引き寄せた。
「言ったはずだ。お前は私の専属だ。私の前以外で、その瑞々しい香りを振りまくことは許さん」 
 記憶を失くしてからの彼は、とにかく強引で独占欲が強い。けれど、その底にあるのは、いつ自分が崩れるかわからないという深い孤独だ。
 采葉は、彼の胸にそっと手を当て、優しく微笑んだ。
「私は大人の薬師です。どこへも行きませんよ」
「……ならば良い。日中は大人しくここで私の帰りを待て」 
 黎烽は満足したように采葉の髪を一撫ですると、圧倒的な覇気を纏って執務室へと向かっていった。

 しかし、平和な時間は長くは続かなかった。

 身寄りのない一介の毒見女官が、あの「氷の軍師」の寵愛を一身に受け、彼の寝宮に召し抱えられたのだ。これが、嫉妬に狂う後宮の女たちの耳に入らないはずがなかった。

 昼下がり、采葉が黎烽の夜用の薬草を干すために新月宮の庭へ出たときのことだ。
「――まあ、ずいぶんと分不相応な身分に出世した、薄汚い小娘がいることですわね」
 甲高い、刺すような声が響いた。
 振り返ると、派手な刺繍の施された衣服を纏った美女が、数人の女官を従えて立っていた。
 現皇帝の寵妃の一人であり、後宮内で大きな権力を持つ右大臣の娘、劉麗華(リュウ・レイカ)だった。
「夜黎烽大人を、妖しい術でたぶらかしたというのは、お前のことですわね?」
「……麗華様、そのような事実はございません。私はただの薬師として、大人の体調を管理しているだけでございます」
 采葉は冷静に一礼し、弁明した。しかし、麗華の目は嫉妬と悪意で濁っている。
 麗華はかねてより、美貌と権力を兼ね備えた黎烽を自分の陣営、ひいては自分の殿方に引き込もうと画策していたのだ。
 それを、どこの馬の骨とも知れぬ女官に遮られたのだから、腹の虫が収まるはずがない。
「黙りなさい!大人のお側に侍る薬師なら、宮廷の御医たちで足りています! お前のような不審な女、後宮の秩序を乱す害悪でしかありませんわ!」
 麗華が扇を振ると、背後に控えていた大柄な女官たちが、一斉に采葉を取り囲んだ。
「その生意気な顔、少し冷やして差し上げなさい。連れて行きなさい!」
「お待ちください!ここは新月宮、黎烽大人の領地です!」
 采葉が抵抗する間もなく、彼女たちは采葉の両腕を掴み、新月宮のすぐ外にある「お仕置きの池」へと引きずっていった。
「さあ、冷たい水の中で、自分の身の程を知るがよろしいですわ!」
 麗華の命令で、女官たちが采葉を濁った池の淵へと突き飛ばそうとした。
 その時。
「――そこで何をしている」
 地を這うような、極寒の、しかし圧倒的な威厳に満ちた声が響き渡った。
 その場にいた全員の動きが凍りつく。
 池の回廊の向こうから歩いてきたのは、鳳凰の刺繍が施された黒い長衣を翻す、夜黎烽その人だった。彼の背後には、抜き身の刃を持った数十人の近衛兵が控えている。
 その瞳は、まさに「氷の軍師」そのもの。一切の容赦を捨て去った、狂気すら孕んだ冷徹な眼差しだった。
「れ、黎烽大人……!?」
 麗華の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
 黎烽は、怯える麗華たちには目もくれず、真っ直ぐに采葉の元へと歩み寄った。そして、采葉を乱暴に、しかし壊れ物を扱うかのように愛おしく、自身の広い胸の中へと抱き寄せた。
「采葉。怪我はないか」
「……はい、大人。私は大丈夫です」
 腕の中で震える采葉の体温を確かめると、黎烽の周囲の空気が、さらに一段と冷え切った。
 彼はゆっくりと、麗華の方を振り返る。
「劉麗華。私の新月宮に無断で立ち入り、私の『私物』に手を上げようとしたな」
「大、大人! 誤解ですわ!私はただ、この女官の素性を疑って、後宮のために……!」
「黙れ」
 黎烽の一言で、麗華の声が恐怖で途切れた。
「お前が午前中、右大臣家の女官を三人、新月宮の周囲に送り込んだことは把握している」
  麗華の顔が強張った。
「采葉が一人になる時刻を調べさせ、庭へ出たところを狙った。違うか」
  黎烽は感情を荒らげることなく言った。
 麗華は答えられず、青ざめた唇を震わせた。
「私の宮で策を弄するなら、せめて私に気づかれぬ程度の策を使え。そもそも、お前たちのくだらない嫉妬など、どうでもいい。だが、この采葉に指一本でも触れる者は、たとえ右大臣の娘であろうと、即座に大逆罪として一族もろとも処刑する」 
 その言葉は、決して脅しではなかった。
 黎烽の持つ、皇帝すら動かす絶対的な権力が、それを可能にすることをその場の全員が知っていた。
「近衛兵。劉麗華とその女官たちを今すぐ捕らえろ。劉麗華は幽閉処分としろ。右大臣には、娘が私の庭を荒らした、と伝えよ。二度と私の視界に入るな」
「そんな……!お待ちになって、大人! 黎烽大人――!!」
 麗華たちの悲鳴は、近衛兵たちによって無慈悲にかき消され、彼女たちは引きずられて行った。

 嵐のような騒動が去り、新月宮に夜の帳が下りる。
 寝室の長椅子で、采葉は温かいお茶を飲みながら、ようやく一息ついていた。
「驚かせてすまなかった」 
 黎烽が、いつの間にか采葉の隣に腰掛けていた。彼の表情からは先ほどの凶悪な冷徹さは消え、どこか気まずそうな、捨てられた子犬のような顔をしている。
「……大人が、あんなに怒るなんて思いませんでした」
「当然だ。お前がいなくなったら……私は、またあの孤独な暗闇に戻ってしまう」
 黎烽はそう言うと、采葉の膝の上に、そっと自分の頭を乗せてきた。
 里にいた頃、頭痛がしていなくても、彼はこうして采葉の膝を枕にして甘えていた。
「大人……」
「黎烽、と呼べ。二人きりの時は、そう呼べと命じたはずだ」
 少しへそを曲げたような彼の声に、采葉の胸が温かさで満たされる。
 すべてを忘れて冷徹になった彼の中に、確かに、かつての愛しい婚約者の魂が生きている。
「……黎烽」
 采葉がその名を呼ぶと、黎烽は嬉しそうに目を細め、彼女の手を掴んで自身の唇に寄せた。
 指先に落とされる、熱く、甘い口づけ。
「私はお前を忘れない。たとえ私の頭が全てを忘れても、この胸がお前を求めている。
 だから、ずっと私の側にいろ、采葉」
 記憶は戻らなくとも、二人の新しい恋は、後宮の悪意を乗り越えて、より深く、より甘く刻まれていくのだった。