記憶を失った元婚約者が後宮の最高権力者になっていた件~「下がれ」と冷たく突き放されたのに、なぜか専属にされて毎朝溺愛されています~

 兵士に導かれ、采葉が足を踏み入れたのは、後宮の一画に佇む「新月宮」の奥座敷だった。
 主である黎烽の性格を映したかのように、贅沢な調度品は最小限に抑えられ、どこか張り詰めた空気が漂っている。
「……う、あ……っ」
 豪奢な天蓋付きの寝台の帳の奥から、苦しげな呻き声が漏れていた。
 官服を崩し、白い寝衣姿になった黎烽が、寝台の上で激しく身悶えしている。
 額には大粒の汗が浮かび、美しい顔(かんばせ)は苦痛に歪んでいた。
「黎烽大人!」
「近寄るな、女官……!」
 入ってきた采葉を鋭い眼光で睨みつけようとするが、それさえも激痛のせいで視線が定まらない。傍らでは、高価な漢方を差し出した御医たちが「万策尽きた」と青い顔で立ち尽くしていた。
「大人、失礼いたします。お命を縮めるような真似はいたしません」
 采葉は周囲の制止を振り切り、黎烽の枕元に膝を突いた。
 彼が記憶を呼び戻そうとする時、脳裏の封印が暴れて起こるこの劇症の頭痛。里にいた頃、采葉はいつも特製の薬香を焚き、彼の頭を膝に乗せて痛みを和らげていた。
(今の私には、彼の頭を抱きしめる資格はないけれど……これなら!)
 采葉は懐から、調膳所から急いで持参した小さな巾着袋を取り出した。中に入っているのは、白檀に、数種類の薬草の根を独自の配合で混ぜ合わせた特製の乾燥薬草だ。
 それを寝台の脇にある香炉に放り込み、素早く火を点ける。
 ゆらりと立ち上る煙とともに、ほろ苦くもどこか清涼感のある、独特の薫香が寝室に満ちていった。
「……っ、この、香りは……?」 
 黎烽の瞳が、驚愕に揺れた。
 それは、彼が先ほど宴の席で、采葉から微かに感じ取ったあの香り。そして、失われた記憶の底から、いつも彼を呼び戻そうとする「何か」の香りだった。

「大人、呼吸を深く。私の声に合わせて、吸って、吐いてください」
 采葉は迷うことなく、自身の白く柔らかな両手を、黎烽の熱い額とこめかみにそっと当てた。
 普通なら、最高権力者への不敬罪で即座に首が飛びかねない行為だ。しかし、采葉の手のひらが触れた瞬間、黎烽の身体の強張りが、目に見えて解けていく。
「……は、あ……っ」
 采葉は、かつて里で彼に施したのと同じように、優しく、けれど確かな力加減でツボを押していく。そして、小さな声で、二人の間だけの「呪言(おまじない)」を呟いた。
「『いたいの、いたいの、遠くの山へ飛んでいけ。お日様の光に溶けて、消えてしまえ』……」 
 それは、薬師の家に伝わる、痛みを和らげるための素朴な子守唄のようなものだ。
 その声を聞いた瞬間、黎烽の動きが完全に止まった。
「君、は……」
 黎烽の切れ長の瞳が、至近距離で采葉を見つめる。
 激痛が引き潮のように去っていく中で、彼の心臓が別の理由で激しく脈打ち始めていた。
 頭の痛みは消えた。しかし代わりに、胸の奥が焼け付くように熱い。目の前にいる地味な女官を、どうしようもなく「抱きしめたい」という衝動が、理性を突き破って湧き上がってくる。
「……信じられん。大人の顔に、赤みが戻られた……!」
 御医たちが奇跡を見るかのような声を上げる。
 采葉はホッと胸をなでおろし、手を離そうとした。
「痛みが引いたようで良かったです。では、私はこれで――」
 不意に、強い力で手首を掴まれた。
 見上げると、黎烽が寝台に起き上がり、昏い情熱を孕んだ瞳で采葉を凝視していた。
「待て。誰が下がることを許した」
「大人……?」
「お前たち、全員下がれ。この女官だけを残して、部屋から出ろ」 
 黎烽の絶対的な命令に、御医や兵士たちは戸惑いながらも、一礼して一斉に退室していった。
 広い寝室に、二人きり。
 香炉から昇る懐かしい香りが、密室の甘い空気をさらに濃密にしていく。
「あの、手首が痛いのですが……」
 采葉が控えめに訴えると、黎烽はハッとしたように力を緩めた。しかし、決して離そうとはせず、むしろ引き寄せるようにして、采葉を寝台の端に座らせた。
 二人の距離は、互いの吐息がかかるほどに近い。
「お前の名前は」
「……紅(コウ)、采葉と申します」 
 采葉が名を名乗ると、黎烽の胸がトクンと跳ねた。その名に聞き覚えはない。だが、言葉にできない愛おしさが、涙となって溢れそうになるのを必死で堪える。
「采葉……。お前は、私に何をした。あの香りは何だ。なぜ私の痛みが、お前の手ひとつで消え去る?」
「それは……私が、地方の薬師の娘だからです。大人のような頭痛には、あの薬草が最も効くのです」 
 采葉は、自分が元婚約者であることは伏せた。
 今の彼は、一国の命運を握る軍師だ。過去の記憶を取り戻すことが、必ずしも彼のためになるとは限らない。それに、記憶のない彼に「私はあなたの恋人でした」と言ったところで、信じてもらえるはずがないと思ったからだ。
 しかし、黎烽の鋭い知性は、采葉の嘘を見逃さなかった。
「嘘を言うな。御医たちが集めたあらゆる秘薬が効かなかったのだぞ。薬師だから知っていた、では説明にならん」
 黎烽の目が細くなる。
「御医たちは私の症状を初めて診た。だがお前は部屋へ入った瞬間、何を使えばよいか迷わなかった。つまり――お前は以前にも、同じ症状の私を見ている。最初から私の発作の正体を知っていた。……そして、私の身体も、お前を知っている」
 黎烽は空いた方の手で、采葉の頬をそっと包み込んだ。
 冷徹で、誰も寄せ付けない「氷の軍師」と呼ばれた男の指先が、微かに震えている。
「お前の前にいると、私の理性が壊れそうになる。私は、誰も信用しないと誓った。この後宮の狐どもも、権力に群がる群狼も、全て私の敵だ。だが……」
 黎烽は、采葉の額に、自身の額をこつんと預けた。
「お前だけは、手放してはならないと、私の魂が叫んでいる。……おい、采葉。
 私を惑わせた責任を取れ」
 その言葉は、かつて里で彼が采葉にプロポーズした時の不器用な口調に、驚くほど酷似していた。
(黎烽……。記憶はなくても、やっぱりあなたは、私の好きな黎烽なんだね……) 
 采葉の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「泣くな。私のせいで泣いたのではない、と言え」
 黎烽は慌てたように、親指で彼女の涙を拭った。その仕草の優しさに、昔の彼の面影が強く重なる。
「……驚いただけです。大人が、そんなに不器用な方だとは思わなかったので」
「不器用だと? 私に向かってそんな口を利くのは、お前が初めてだ」
 黎烽は少しへそを曲げたように唇を尖らせたが、その表情には、先ほどまでの冷酷さは微塵もなかった。ただ、独占欲に満ちた熱い視線が、采葉を射抜いている。
「決めた。采葉、お前を私の『専属薬師女官』に任命する」
「えっ!? ですが、私はただの毒見役で……」
「私の命令は、皇帝の勅命に等しい。明日から、お前は調膳所を出て、この新月宮で私の身の回りの世話をしろ。私の許可なく、他の男と一言も話すな。他の奴のために薬を調合することも許さん」 
 采葉は目を丸くした。かつての大人しくて優しかった彼からは、想像もつかないギャップだ。
「……私の体調を管理するのは、お前の役目だ。二度と、あの激痛に怯えたくない」 
 黎烽はそう言うと、甘えるように采葉の肩に頭を預けてきた。
 強引な態度の裏にある、彼の本当の孤独。記憶を失い、敵だらけの後宮で、たった一人で戦ってきた彼の恐怖を、采葉は痛いほどに理解した。
「――わかりました、大人。これからは、私がずっとお側にいます」
 采葉は優しく微笑み、彼の背中にそっと手を添えた。
 記憶を失った恋人との、あまりにも急速に距離が縮まる、後宮での新生活。
 しかし、二人の再会を面白く思わない影が暗闇から彼らを見つめていることを、この時の二人はまだ知る由もなかった。