記憶を失った元婚約者が後宮の最高権力者になっていた件~「下がれ」と冷たく突き放されたのに、なぜか専属にされて毎朝溺愛されています~

 天を衝くような朱塗りの柱と、陽光を浴びて金色に煌めく瓦。
 ここ、大陽帝国の奥深くに鎮座する「翡翠宮」は、選りすぐりの美女たちが競い合う、絢爛豪華にして底知れぬ欲望が渦巻く後宮であった。
 しかし、その華やかさの裏には常に、嫉妬と権謀術数が潜んでいる。
「――よし。異常なし、です」 
 後宮の片隅にある調膳所で、紅采葉(コウ・サイハ)は自身の舌に残る味覚を確かめ、小さく息を吐いた。
 采葉の前に置かれているのは、翡翠の器に盛られた美しい羹だ。彼女の役目は「毒見女官」。妃たちや高官に供される食事に、不穏な毒物が混入されていないかを、文字通り命懸けで確かめる仕事である。
「手際が良いな、采葉。お前が来てから、調膳所の仕事が格段にスムーズになったよ」
 年配の料理長が、感心したように声をかけてくる。
 采葉がこの後宮に身を投じてから、ちょうど三ヶ月が経とうとしていた。地方の山深い里で薬師の娘として育った采葉は、草木の毒や薬効を見分ける鋭い五感を持っている。その能力を買われ、身寄りのない娘として、自らの素性を隠して後宮へと上がったのだ。だが、采葉がこの命の危険を伴う場所にいる理由は、出世のためでも、衣食住に困ったからでもない。
 ただ一人の男を探すため。それだけが、彼女を動かす唯一の原動力だった。
(黎烽(レイホウ)……あなたは本当に、この宮のどこかにいるの?)
 胸元にそっと手を当てる。衣服の合わせ目の奥には、古びた、けれど大切に磨かれた翡翠の髪飾りが隠されていた。
 二年前。采葉の故郷の里に、大怪我を負って行き倒れていた青年がいた。それが黎烽だった。名前以外のすべての記憶を失っていた彼を、采葉の家族は温かく迎え入れ、看病した。
 やがて傷が癒えた黎烽は、干ばつに苦しむ里で水路を引く策を考えるなど、驚くべき聡明さで人々を救い、いつしか采葉と深く愛し合うようになった。
『この命を救ってくれた君を、一生大切にする。春になったら、夫婦になろう』 
 そう言って、采葉の髪に翡翠の飾りを挿してくれた、あの優しい眼差し。
 しかし、約束の春が来る前に、悲劇は起きた。
 当時の帝位を巡る政変の波が地方にまで押し寄せ、黎烽の「本当の素性」を知る者たちが、彼を連れ去ってしまったのだ。抗う術のなかった采葉に残されたのは、彼が宮都の、それも後宮の最高権力者に引き取られたという僅かな噂だけだった。
「采葉、手を止めるな。今夜は新帝の即位を祝う、大宴の夜だ。後宮の重鎮たちが皆、大極殿に集まる。絶対に手落ちは許されんぞ」
「はい、承知しております」
 料理長の声に、采葉は思考を現実に戻した。
 今夜の大宴。それは、後宮の奥深くに隠された「彼」が、表舞台に姿を現すかもしれない唯一の好機でもあった。

 夜が訪れると、翡翠宮は昼間以上の熱気に包まれた。
 無数の提灯が夜空を赤く染め、宮廷音楽が艶やかに響き渡る。
 大宴の会場となった広大な庭園には、色鮮やかな絹の衣を纏った妃たちや、威厳ある高官たちが居並んでいた。
 采葉は地味な女官服の袖を整え、給仕の列に紛れて会場の隅に控えていた。手元のお盆には、先ほど毒見を終えたばかりの極上の名酒が載っている。
 彼女の視線は、自然と上座――皇帝のすぐ傍らに配された、一際格式高い席へと向いていた。
「……あの方こそが、今や我が国の命運を握る若き天才軍師、夜黎烽(ヤ・レイホウ)大人(たいじん)だ」 
 近くにいた女官たちの囁き声が、采葉の鼓膜を激しく叩いた。
 心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。
「夜の姓を賜り、先の政変を瞬く間に鎮めたお方。その智謀は神懸かっているけれど、人の心を持たない『氷の軍師』としても恐れられているわ」
 別の女官が、さらに声を潜めた。
「お顔は息を呑むほど美しいのに、一度も微笑まれたことがないのよね……」
 采葉は、震える視線をその席へと向けた。
 そこに、座っていた。
 漆黒の髪を完璧に結い上げ、深紫色の豪奢な官服に身を包んだ、一人の青年。
 端正な輪郭、切れ長の涼やかな目元、薄い唇。それは紛れもなく、采葉が二年間、一刻たりとも忘れたことのなかった恋人――黎烽の姿だった。
(黎烽……!)
 叫び出しそうになる喉を、必死で片手で抑える。涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
 生きていた。本当に、ここにいたのだ。
 しかし、すぐに采葉は、胸を締め付けられるような違和感に襲われた。
 彼の纏う雰囲気が、あまりにも違いすぎる。
 かつて里にいた頃の彼は、不器用ながらもいつも穏やかな笑みを浮かべ、采葉を労わる温かさを持っていた。
 だが、今そこに座る彼は、まるで精巧に作られた氷の彫刻のようだった。周囲の喧騒を一切拒絶し、冷徹で硝子のような瞳で、ただ冷然と空間を見つめている。
 その瞳には、誰も映っていない。深い孤独と、他者への絶対的な拒絶だけが満ちていた。
(どうして……そんな目で世界を見ているの……?)
 その時、上座の傍らにいた高官が、黎烽に向かって声をかけた。
「黎烽大人、今宵の宴のために、南方を経由して手に入れた極上の銘酒がございます。ぜひ、ご賞味を」 
 給仕の頭が、采葉の背中を小突いた。
「ほら、采葉。出番だ。粗相のないようにな」
「――っ、はい」
 采葉は深く息を吸い込み、表情を女官のそれに固定すると、彼の方へと歩み進めた。一歩近づくたびに、胸の鼓動が早くなる。

「失礼いたします」 
 采葉は黎烽の前に膝をつき、恭しく頭を下げた。お盆から、美しい白磁の杯に酒を注ぐ。
 彼のすぐ近くに寄った瞬間、采葉の鼻腔を、微かな香りが掠めた。
(あ……)
 それは、白檀(びゃくだん)に、ほんの少しの苦味を混ぜたような独特の薫香。
 それはかつて、黎烽が里にいた頃、采葉が彼の怪我を治すために処方した薬草の香りと、全く同じものだった。彼は、無意識のうちにその香りを今も身に纏っているのだろうか。
 その事実に胸が熱くなり、采葉は思わず、顔を上げて彼の瞳を真っ直ぐに見つめてしまった。
 黎烽の硝子のような瞳が、ゆっくりと動き、采葉を捉える。
 采葉は、息をすることさえ忘れて彼を見つめた。
『黎烽、私よ。采葉よ』 
 声にならない叫びを、瞳に込めて彼に投げかける。
 しかし――。黎烽の瞳には、何の感慨も、驚きも、灯らなかった。
 彼はただ、不審な女官を見るかのような、極めて冷淡な視線を采葉に返しただけだった。
「……下がれ」
 低く、冷え切った声が、黎烽の唇から放たれた。
 それは、采葉がかつて一度も聞いたことのない、他者を突き放すための声だった。
「あ、の……」
「耳が聞こえないのか。私の前に、無駄に長く留まるな。不愉快だ」 
 冷酷な言葉が、采葉の胸を深く抉る。
 隣にいた高官が慌てて「これ、無礼者め! 大人に睨まれたくなくば、早く下がれ!」と采葉を叱責した。
「……失礼いたしました」 
 采葉はそれ以上、何も言うことができなかった。
 ただ頭を下げ、這うようにしてその場から退散するしかなかった。
 彼には、采葉の姿が全く見えていなかった。
 かつて愛を誓い合い、互いの体温を確かめ合った記憶など、彼の脳裏には微塵も存在していない。それは、彼が二人の過去をすべて失い、采葉の知らない冷徹な権力者となってしまったことを、残酷に証明していた。
 
 宴が終わり、深夜の静寂が後宮を包み込む頃。
 采葉は、調膳所の裏手にある小さな庭園で、一人ぽつねんと夜空を見上げていた。
 涙は、不思議と出なかった。ただ、胸の奥がじんわりと凍りついていくような、圧倒的な喪失感だけがあった。
 彼が生きていたことは、この上ない喜びだ。しかし、あの冷徹な「夜黎烽」は、自分の知っている優しかった彼ではない。まるで見知らぬ他人に、彼の器だけが乗っ取られてしまったかのような錯覚さえ覚える。
(全てを忘れて、あんなに寂しい目で生きていくなんて……)
 采葉は、胸元から翡翠の髪飾りを取り出し、月光に透かした。
 あの時、彼は確かに采葉を愛していた。
 その記憶が消えてしまったとしても、彼が生きた事実は消えない。
「――だったら、もう一度、始めればいい」 采葉は、髪飾りを強く握りしめた。
 彼が全ての愛を忘れ、孤独な軍師として生きているのなら。
 この後宮の冷たい悪意の中で、彼が誰のことも信用できずにいるのなら。
 今度は自分が、彼の頑なな心を溶かす存在になればいい。薬師としての知識を使い、女官としての立場を使い、彼の傍へと近づいてみせる。
「私は諦めないよ、黎烽。あなたが私を忘れても、私はあなたを覚えているから」
 その決意を固めた時、調膳所の入り口の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「大変だ!誰か、薬の知識がある者はいないか!?」 
 夜番の兵士が、血相を変えて飛び込んできたのだ。
「黎烽大人が、宴の後に突然、激しい頭痛を訴えて倒れられた!御医の薬も効かん! 誰か、大人の痛みを和らげられる者はいないか!」
 采葉の目が見開かれた。
 黎烽の頭痛。それは、彼が里にいた頃、記憶を取り戻そうと深く思い悩む時に、必ず発症していた「あの発作」ではないか。
「――私が行きます」 
 采葉は立ち上がり、兵士の前に進み出た。
「私は元、地方の薬師の娘です。大人の頭痛を抑える方法を、知っているかもしれません」   
 運命の歯車が、再び激しく回り始める。
 記憶を失った孤独な軍師と、彼を救いたいと願う毒見の女官。
 二人の新たな関係の幕が、今まさに上がろうとしていた。